第5章~第8章
第5章 話
雨上がりの路上は、朝ということもあって、空気はひんやりとして澄んでいた。
箒を右手で持ったテイは、辺りを見渡したが、掃除が必要な様子はない。雨と風で、すっかり洗われてしまったようだ。
物足りなさを感じてぼんやりと立っていると、隣の菓子店の戸が開いた。
出て来たクァンと目が合った。
テイが挨拶するより早く、クァンが、黙ったままテイに歩み寄ったかと思うと、その手にしていた箒を取りあげた。
「こういう事は、弟さんにやらせなさい」
そのよく通る声で、いつになく鋭い口調で言った。
それから、少し柔らかい調子になり、
「怪我を負ったと聞きましたが、具合はいかがですか?」
と、訊いてきた。
その視線の先には、テイの左腕があった。薄手だが黒い長袖のシャツを着ているので、外から怪我があるとは分からない。おそらく、キューレーターである彼には、警察からの連絡が伝わったのだろう。
「たいしたことはありません。大丈夫です」
テイが答えた。
そこへ。
「テイ、掃除なら俺が…」
灰色と白のボーダーTシャツ、黒いデニム姿のネイが、慌てた様子で店から出て来た。
そしてクァンがいるのを見て、反射的に立ち止まったが、すぐに近付いた。
クァンが箒をネイに突き返した。
「当たり前だ。怪我人を働かせるな」
「…すみません」
「警察から概要は聞いたが、我々も話を聞きたい。店が終わるのは何時だ?」
「今日なら、うちは何時でも構いません」
「では午前にしよう。十一時でどうだ」
「わかりました」
ネイが頷くと、クァンはテイの方に向き直り、いつもの挨拶の口調で言った。
「くれぐれも、無理はなさらないようにして下さい」
「は、はい」
テイが返事をすると、クァンは軽く頷き、いつものように駅へ向かって立ち去った。クァンの姿が小さくなると、ネイが溜息をついた。
「キューレーターが動くって、あいつかー」
「ネイは本当に、クァンさんが苦手だよねえ」
「だっていつも偉そうだし。俺にはなんか、冷たいし」
「そんなことないよ」
「いやある」
ネイが箒を持ち直し、地面に打ちつけた。「今日の掃除はなし! 朝食食べに行こう」
十一時ちょうどに、クァンと、もう一人のキューレーターが店に姿を現した。
店は臨時休業にした。
朝食を摂りに行った店先で、事件が近所中に広まっていることを知り、騒ぎを大きくしないようにと決めたのだった。
店の奥のソファに通す。その脇の、作業台や棚は、余計な詮索をされないよう、きれいに片付けておいた。クァンは一瞥しただけで、何も言わなかった。
手前の二人がけにキューレーター二人、奥の一人がけの一つにテイが座ると、ネイが、烏龍茶と小鉢を運んできた。
「ジェラートですか。美味しそうだ」
クァンが言った。
「お隣のお菓子屋さんのジェラートで、マンゴー味とココナツミルク味です。前に、ジェラートはさすがに職場には持って行けない、とおっしゃっていたので」
テイが答えた。
「覚えていてくださったとは。お気遣い感謝します」
「買って来たのは俺ですよ。テイには何もやらせていないですからね」
横からネイが口を挟んだ。
「当然だ。わざわざ言うことではない」
「言わないと、あんた勝手に誤解しそうだから」
「この器がまた合っていますね」
もう一人のキューレーターが、言い合いを止めるように、ネイに向かって口を開いた。「朱塗りとは。お好きなんですか?」
クァンより十ほど年上だろうか。一見、柔和なビジネスマンといった風体だが、目の鋭さはクァンとよく似ている。
「はい。とはいっても、高いものではありませんが」
「いや実に美しい」
言いながら、彼はスーツの懐から名刺を出し、ネイとテイの間に置いた。「クァンの同僚の、シンといいます」
一呼吸おき、彼は続けた。「警察にお話ししたことと重なるでしょうが、もう一度、我々にも話してください」
双子は、昨日と同じ話を彼らに聞かせた。
「その少女ですが」
シンが言った。「確かに、生花店の店主の孫であると、名乗ったのですね?」
「そうです」
ネイが答える。
クァンが、手のひら大の端末を出し、操作のあとテーブルに置いた。端末の上に、人の首から上のホログラフィーが現れた。
シンは写真を印刷した紙も数枚出した。
「この人物ですか?」
シンが訊いたので、二人はそれらを見、頷いた。そしてネイが、一枚の紙を指差し、訊いた。
「これ、花屋に飾ってあった写真ですよね」
「そうだ。他の写真も、生花店から提供されたものだ」
「でも、本当は、お孫さんは留学中なのでしょう?」
テイの言葉に、クァンとシンが一瞬黙って目を合わせた。だが、クァンが、
「話してもいいのではないでしょうか。彼らは被害者だし、いずれは知ることになる」
そう言い、シンも、双子の方に向き直って口を開いた。
「孫は、留学などしていないのです。それどころか、学校を無断で抜け出して、今は行方不明なんですよ」
今度はネイとテイが顔を見合わせる番だった。
「留学中というのは祖父母の嘘で、ま、自慢話が高じての見栄だったのでしょう。確かに地元の学校では優秀で、難関のハイスクールにも入学出来た。だがその中での成績は伸びなかったようだ。そのうち素行面で問題を起こすようになった。他の生徒や教師に対して暴言、暴力があったことが確認されています」
「よって、こちらのコンゴウインコを襲おうとし、テイさんに怪我をさせたのは、孫…イーファン本人であると、我々も警察も考えています」
クァンが、シンの話に繋げて言い、それから冷めた茶を一気に飲み干した。
ネイが、不意に言った。
「あの、他にも教えてほしい事があるのですが」
「何でしょう?」
「うちのコンゴウインコ…アポロンが、エイリアンと思われたから、襲われそうになったんでしょう? でも、それだけでキューレーターが動くのも、なんだか納得できないのですが」
「エイリアンに関することなら、我々は動きますよ」
「ですがあなた方の仕事は、エイリアンに関するあらゆる文化財の保護、のはず。エイリアン自体の保護は、また別の話なのだと思うのですが…。動物を襲った彼らは、それがエイリアンだったら、どうしていたのでしょう。猫やカラスの死骸は放って置いたのに、エイリアンの死骸が残されていたという噂は聞かない」
「それは、今までエイリアンに出会わなかっただけでしょう」
「出会っているらしいですよ、な、テイ」
「イーファンは見たことないけれど、彼女の仲間は見たって言ってたって…ごめんなさい、言わなくて」
「他にも、まだ話していない事があります、勿論警察にも。僕の疑問の答えと、とりかえっこしませんか?」
「貴様」
クァンが呻くように言った。「取引のつもりか」
「商売と同じです。どちらにも利益があるようにしたい」
「その『とりかえっこ』は、同等の価値での交換なんでしょうかね?」
シンが言いながら、身を乗り出し、ネイの顔を凝視した。「こちらはかなり貴重な話をせねばならない。そちらはどうかな」
「必ずお役に立つ話です」
ネイは怯むことなく答えた。
「いいだろう」
シンがソファに深く掛け直した。
クァンは黙っていた。
「擬態型のエイリアンは、死ぬと必ず本来の姿に戻ってしまう。その死骸を買い取る業者というのがある。業者は死骸を買い取り、高額で転売しているのだ。そんな噂を聞いたことはないか?」
「いいえ」
双子が口を揃えて言った。
「そうか。近年は、『排斥運動家』なんて名乗る連中は、たいてい遺体か遺品が目当てだ。これが、キューレーターが、今回の件に関わる理由だ。そちらの話は?」
「実は、昨日の午前中、駅の近くでイーファンに会いました。約束していたわけではなく、向こうから声を掛けてきました」
「それで?」
「祖父母と仲直りしたか訊いたら、関係ないと言われました。あと、君は本当にイーファンなのか、と訊いたら、逃げるようにいなくなってしまったんです。話したことはこれくらいですが…」
「本当にそれだけか?」
クァンが訊いた。「まだ何か隠していないだろうな」
「あ、あと、ネイはおしゃれだねと言われました」
「そんな事はどうでもいい!」
「クァンさんが訊いたんでしょうが」
「ネイ、ふざけすぎ」
テイまでが眉をひそめた。
「だって本当に」
「それで」
シンが遮るように言った。「役に立つ話とは?」
「イーファンの服のポケットに、こっそり僕のピアス型イヤホンを片方、入れました。追跡機能が入っています。シリアルナンバーはもう片方に書いてあります。パスワードは…」
ネイは、写真のコピーの裏に、パスワードを書き付けた。それからイヤホンのもう片方をその上に載せた。
「ただ、テイが襲われる前なので、もう着替えている可能性もあるかと」
「充分だ。ありがとう」
シンが紙とイヤホンを手に取り、言った。「しかし、君、こんな事をして、自分でイーファンを追うつもりだったのか?」
「いやいや。僕はテイほど腕っ節がよくはないので。そんなつもりは」
「そうか。なにかまたいい話があったら連絡してくれ。それと、念の為だが」
シンが言った。「君たちの鳥は、本物か?」
「かかりつけの動物病院があります。そちらで確認できると思います」
ネイが答えた。
シンとクァンはその名前を聞き、帰っていった。
「若いくせに、なかなか油断ならないな」
愉快そうに、シンは笑った。「まるで物語のスパイか、探偵のようだ」
「だからあいつは苦手です」
クァンは顔をしかめていた。
「なんだ、友人ではないのか。そう見えたが」
「とんでもない。テイさんの方とは話しますが、ネイは人を小馬鹿にするし、真面目な話ははぐらかすし、手に負えませんよ」
「年下だ、などとは思わない方がいい。ああいうタイプは上手く使うんだよ。こちらが使われることもあるだろうが、そこは共存共栄だ。今の所、お前が言う程、悪い仕事には手を出してはいないようじゃないか」
「そうですかね?」
「さて。次はこれをどう使うか、だが…」
シンはピアスを入れた内ポケットを上から叩いた。「さてどうしようか」
「事務所に戻りますか?」
「先に昼飯にしよう。食いながら使い道を考えようじゃないか」
二人は、大通りを、駅の方へ歩いて行った。
キューレーター達がいなくなると、店内の緊張した空気も消えていた。
「テイ、お茶のおかわりは?」
ネイが立ち上がった。
「もらう」
「あー、緊張したー」
大声を上げながら、ネイはキッチンへ向かった。
「ネイ」
「何?」
「ピアス型イヤホン、使っていたの?」
「い、いや? …小さく、音小さくしてね」
「ふうーん」
「テイさん、ジェラートもっと食べますか?」
「食べます」
やがてネイが運んできたジェラートのおかわりを、テイはあっというまに、美味しそうに平らげた。
そして、ふと言った。
「イーファン、着替えたかな」
「どうして?」
「仲間の三人組も、あまりきれいな恰好してなかったから」
「テイの血とか、付いたんじゃないの?」
「そこまで覚えてないや」
「着替えていないんだとしたら、すぐに捕まるからいいじゃないか」
ネイも、自分の分を頬張った。
「そうだね」
テイが何か考え込んでいるように、ネイには思えた。
「どうしたの?」
「おじいさん、おばあさんにしてみたら、孫は留学中だって言いふらしていたのに、突然本人が現れたら、きっと焦ったよね、嘘がばれちゃう、って」
「そうだね」
「なんか、イーファンにしてみたら、そういうのってどんな気持ちなんだろう」
「同情してる?」
「うーん、同情とは違うような気がする…」
「俺には、それは同情に思えるけど」
ネイの口調が厳しくなった。「随分のんきにしているけど、あなた殺されていたかもしれないんだからね? もしあなたが喧嘩のできない人だったら、アポロンを差し出すか自分が刺されるか、あるいは両方だったかもしれない。そんな目にあっても、同じ事が言える?」
「でも死んでないし…」
「相手は、テイが死んでもいいと思っていた。むしろ、殺す気で来た。そうでしょ?」
「そ、そこまで考えていたかは分からないよ」
「ナイフで襲われたってのに? だからどうしてそんなにのんきなんだよ!」
ネイの声が大きくなった。「テイがその程度の怪我で済んだのは、たまたま!相手がテイより弱かったからってだけだからね? そして相手が一人だったのは幸運以外の何物でもない。仲間全員で来たらどうなっていたと思う? テイもアポロンも殺されていたんじゃないの? そんな相手になんでテイが同情なんかするんだよ。服のこととか家族の嘘のこととか、テイには…俺達には関係のない話だ!」
裏口のアラームが鳴った。リーシャの設定音だ。
ネイが立ち上がり、キッチンへゆき、扉を開けた。
「テイの具合はどう?」
仕事着姿のリーシャが、昨夜の電話よりは落ち着いた様子で訊いてきた。
「ゆうべと変わらないよ」
少し笑って答えたネイだったが、すぐに黙り、身振りでリーシャを室内へと促した。
「テイ! 聞いたよー。大変だったね」
テイを見つけたリーシャが駆け寄った。
「うん。でも大した怪我じゃないから」
「何言ってるの。すっごい心配したんだから!」
「ごめんね。実はけっこう痛いんだ」
言いながら、テイはそっとネイの方を見た。
ネイは視線をそらし、キッチンに立っていた。
「でしょう? 傷も大きそう」
「この辺から…」
ネイは二人のやりとりをそれとなく聞いてはいたが、そこに入る気にはなれず、なんとなくコーヒーを淹れ始めた。
「そうそう、うちのお母さんがお昼にパエリア作るんだけど、二人も一緒に食べない?」
リーシャが、テイとネイを交互に見ながら言った。
「テイ、行けよ」
手元に目を遣ったままのネイの口調は、いつもより乱暴になっていた。「どうせ店は休みにするんだから。俺はいいや、修理が遅れて溜まっているし」
軽く湯をかけたコーヒー豆から、ほろ苦い香りが上がる。
「…行ってくる」
テイが答えた。
「ネイはいいの?」
リーシャが再び聞いた。
「いい。腹減ってないから」
「そう」
テイとリーシャは、裏口から外へ出た。
あの夜はごく細い上弦の月が上がっていた。雲はなく、風も穏やかな、静かな夜だった。
テイが寝た後、ネイは一階の作業台に向かったまま、ひたすら、鳴らないオルゴールを調べていた。どのくらい時間がたったかを意識することもなく。
裏口のアラームが鳴った。設定していない者の音。
ネイは、オルゴールを引き出しに隠し、裏口の前に立った。が、開けずに様子をうかがった。
アラームがもう一度鳴った。
「誰?」
ネイが尋ねた。
「通りの向こうで花屋をやっているリャンの孫の、イーファンです」
聞き取るのがやっとの、小さな声がした。「ごめんなさい、こんな時間に」
ネイはドアを少し開けた。小柄な十六、七くらいの少女が、伏し目がちにこちらを見ながら立っていた。
「あの、ごめんなさい。できたら」
ネイが問うより先に、少女が話し出した。「朝まで居させてもらえませんか? 家族と喧嘩して、出てきてしまったんです」
ネイは一呼吸考え、言った。
「顔を上げてみて」
少し上げられた少女の顔を見、ネイは、ドアを大きく開けた。
「君の写真を見たことがある。どうぞ」
少女、イーファンはおずおずと入ってきた。
「キッチンで悪いけど、顔を洗ったらいいよ、落ち着くから」
言いながら、ネイはキッチンの明かりをつけて、洗濯したばかりのタオルを出し、イーファンに渡した。
「ごめんなさい」
「それと、『ごめんなさい』はもういいよ」
「ごめ、ありがとう」
イーファンが顔を洗っているうちに、ネイは、カウンター越しの作業台に戻った。
そして、言った。
「俺の後ろのソファを使っていいよ。毛布もある。トイレはキッチンの奥ね。俺は仕事だから、静かにしていてね」
「仕事? こんな時間に?」
「細かい作業なんで、集中できるように、周りが静かな時間がいいくらいなんだ」
ネイは答えると、先刻とは違う、直しかけのオルゴールを出した。
それからしばらくの間、ネイは修理に集中した。
その間、イーファンは、ソファに座ったままほとんど物音を立てることがなかった。
やがて、ネイが疲れて大きな伸びをした。頬杖をついてみた。それでも感じる疲労が変わらないので、ソファの二人掛けの方、イーファンの向かいに腰を下ろした。
毛布を肩にかけたイーファンと目が合った。
「寝たのかと思った。静かだったから」
「『静かにして』って言ったから」
「そうだっけね」
ネイは少し笑った。「俺の身近な女の子達は、それ三回は言わないと静かにならないんだ。妹とか、友達とか」
「私も前はそうだったかも。今は…そうでもない」
ネイは無意識に目を瞑っていた。だがすぐに目を開けた。
イーファンが訊いた。
「妹がいるの? 親は?」
「わからない。何処かで生きているとは思うけれど。もうずいぶん会っていない」
しばしの沈黙。「君の方は?」
「私が小さい頃に死んだ」
「そう。それは悲しかったろうね」
「うん」
再び沈黙が訪れた。
ネイがまた目を瞑る。
「あなたのベッドはどこ?」
イーファンが訊ねた。
「二階」
「じゃあそこへ行きなよ。私は夜が明けたら適当に帰る」
「大丈夫だよ。眠くない」
「嘘だ」
「嘘じゃない。それにうちの裏口は、家族以外は開閉できない。旧式だからね。君の所は違うの?」
「うちは改装しているから違う」
「ふうん。まあそういう訳だから」
ネイは立ち上がった。「コーヒー飲める?」
薄めに淹れられたコーヒーに、イーファンは砂糖と牛乳をたっぷり入れた。
ネイは何も入れずにすぐに飲み干すと、再び作業台に向かった。
イーファンは甘いコーヒーをゆっくり飲みながら、ネイの様子を見ているようだった。
少しすると、イーファンが店の商品を見せてほしいと言った。
ネイは店の明かりを点けてやり、一緒に店を回り、いくつかの商品を選んで、ソファの前のテーブルに置いた。
その後しばらく経った。
「ねえ」
イーファンの声に、ネイははっと我に返った。
「名前、なんていうの?」
「ネイ」
答え、それから訊いた。「俺、寝てた?」
「寝そうになってた」
「そうかー」
ネイは大きく伸びをした。
「仕事いっぱいあるの?」
「おかげさまで」
「ふうん。大変だね」
「でも楽しいから」
「そう、楽しいなら…いいね。私、今楽しいこと全然ないよ」
「学校は? 楽しくないの?」
「楽しくない」
イーファンは早口で言い切った。
「俺は、普通に学校行ってた事あまりないから、全寮制の学校なんて、楽しそうで羨ましいけどな」
「行ってないの?」
「そう。八歳くらいから、面倒見てくれていた人と一緒に、いろんな所を転々としていた。外国もね。その時は、今の仕事の修行をしながら勉強していて、学校には通っていなかったんだ」
「その方が楽しそう」
「まあ、それなりには楽しかったし、いい経験をしたとは思うけれど」
「いいなあ」
「もしかして、学校、やめたくて帰って来たの?」
「うん」
イーファンは毛布を被り直した。「ネイはどう思う?」
「どう思うかって言われても。自分が殆ど行ってないからなあ」
「そう、そうだよね」
「ただ…先を見て、必要な選択をすればいいような気がする」
「みんなそう言うけれど、先って結局のところ、卒業して進学して、っていうルート前提だもの。要はやめるなってことだよね」
「じゃあ、そこから考え直せば?」
「うん…そうしてみる」
イーファンがしおらしく答え、その後黙った。
だがまたしばらくして、ネイが修理に迷って手が止まった。
「ネイ?」
「起きてるよ」
今度は冷静に、ネイは答えた。
「やっぱり部屋で寝なよ」
「大丈夫」
「どうせ作業進んでないじゃない」
「そんなことないよ。ちゃんと進んでる」
「手が動いてない…」
「そんなことありません。君こそ寝たらいい」
「じゃあ、ベッド私に貸して」
「だめ」
「貸して」
「長い方のソファなら、横になれるでしょ」
「ベッドじゃないと寝られない」
ネイは答えるのをやめて、黙ったまま作業を始めた。
しばらくして振り返ると、イーファンは寝息を立てていた。
「ネイを怒らせた…」
テイは、リーシャの家の丸テーブルに突っ伏して、もう何回目かの同じ言葉を繰り返した。「どうしよう…」
「謝れば?」
さらりとリーシャが言う。これも何度目かの返事だ。
リーシャの家のキッチンには、 食べ終わったパエリアの匂いがまだ残っている。テイの家のキッチンより狭いが、大きな格子窓から日差しが入って来ていて、明るい。カーテンの向こうの隣室からは、リーシャの母がかけるミシンの音が聞こえてくる。
リーシャはテイの向かいに座り、手で縫う作業をしながら話をしている。
「なんか帰りにくい…アポロンにもご飯あげなきゃならないのに」
「じゃあ電話とかメールで謝りなよ」
「それもなあ…」
「じゃあどうするの」
「どうしよう」
また戻った。
呆れ顔でリーシャが言った。「ネイはもう怒ってないんじゃない?」
「そんなの分からないよ」
「じゃあ帰って確認したら」
「帰りにくい…」
「そんなに、いつまでも怒っている人じゃないと思うけれど」
リーシャは言い、少し考えてから言い足した。「テイに怒ること自体、珍しいんじゃないの?」
「うん。めったにない」
「だから、テイはどうしていいか分からないんだね?」
「そうかも」
テイは素直に頷いた。「それに、私、ネイに見捨てられたら生きていけない」
「そんな大げさな話じゃないでしょ。それにテイは、それくらいじゃ死なないよ」
「ううん。昨日、マウリッツ先生に連絡するのも、タクシーを呼ぶのも、ネイがやってくれたんだよ。私は混乱しちゃって何も出来なかった。お店だってネイが修理ができるから成り立っているんだし、私がやっているようなことは、人を雇ったって出来ることばかりだよ」
「何言ってるの。お金のことをテイに任せられるから、ネイが修理業に専念できるんでしょう。例えばネイが会計管理するなんてことになったら、私まで心配になっちゃうよ」
「ネイなら、それはそれでやっていけると思うよ」
「どうしたのテイ」
あなたらしくもない。そう言いたげに、リーシャがテイの顔を見た。
「私、子供の頃はずっと病院にいた、って話したよね?」
「うん。覚えているよ」
「出てこられてからは、…ううん。病院にいるときからずっと、私はネイを頼りにしてきたんだ。他にどうしようもなくて。私の方ばかり頼ってるんだよね」
「ネイが頑張っているのは、大事な家族のためでしょう?」
「え」
「大事な家族」
リーシャはもう一度言い、テイの事を指差した。「頼られているから、じゃなくて、ネイにだってテイが大事だから、ネイが怒っているんじゃない? 分かってる?」
テイが黙った。そして、立ち上がった。
「…帰る」
「うん」
リーシャが頷く。
テイが裏口から出てゆくと、同時に、隣室からのミシンの音が止んだ。
カーテンが僅かに開いて、リーシャの母が姿を現した。
「テイは帰ったよ」
リーシャが声を掛けた。
「ね、今の話、まるでカップルみたいじゃなかった?」
母が内緒話でもしているような口調で言った。
「そうかな? よく聞こえたね。さすがの地獄耳」
「やっぱり双子といっても、大きくなってから一緒に暮らし始めるのと、ずっと一緒のきょうだいとは違うのかねえ。幾つだっけ? テイが病院を出てきたのは」
「十二歳の時だよ。八年前」
「ってことは、まだ離れて暮らしていた期間の方が長いんだね。お互いまだ遠慮があるのかも」
「今のは、遠慮というより喧嘩でしょ?」
「喧嘩のうちに入らないよ」
母は笑いながら言うと、仕事に戻って行った。
ネイはいつもそうしているように作業台に向かっていて、手元を見ているために、キッチンにいるテイからは表情が見えない。
「ネイ、さっきはごめんなさい」
テイは恐る恐る言った。
「いいよ。別に、テイに怒っている訳じゃない」
ネイは手元を見たまま答えた。
「あ、あと、心配してくれてありがとうございます」
ネイがテイの方を見た。少し驚いたような表情で。
「どういたしまして」
そのままの顔でネイは言い、その後ふっと表情を崩した。「テイは心配のし甲斐があるよ。次々に何かしらやってくれるから」
「…それ、笑って言うこと?」
テイは言いながらも、自分も頬が緩んでくるのを感じていた。「パエリア、ネイの分も貰って来たよ。食べなよ?」
「別に、今は食べなくていいよ」
「まあ、そう言わずに」
テイは、リーシャの家から持ってきた蓋つきの皿と、キッチンの棚から取ったスプーンを、ネイの後ろのテーブルに置き、自分はソファに座った。
「…じゃあ」
ネイはその向かいに座り、スプーンを手に取った。
一口食べる。と、急に食欲が湧いてきた。スプーンを口に運ぶ手が止まらない。
「お腹空いてたんじゃない」
テイが目を丸くした。
「さっきまでは空いてなかった」
ネイは、話す間も惜しいほどパエリアをかき込み、あっという間に平らげてしまった。
それから数時間、ネイは作業を続けていた。
階段を下りる足音が聞こえた。テイの、早くてしっかりと床を踏む音だ。リーシャの家から帰ったのち、ずっと二階にいたのだった。
「二階は蒸し暑いよ。雨が急に降ったからね」
現れたテイは、キッチンからネイに声を掛けた。「冷たいお茶を仕込んでおいたんだ。ネイも飲む?」
「飲む」
ネイはそう答えてから、慌てて言った。「テイ、だからそういうのは俺がやるって」
「作るのは平気。洗い物よろしく」
階段の窓からは、夕刻の光が差し込んでいた。
ネイは作業で全く気が付かなかったが、午後に降雨があったがすぐに止み、日が傾きつつある時刻だった。
テイは、右手で大きめのグラスを二つ出し、氷を勢いよく落とした。それから、ガラスのポットで作られた茶を、同じように流し込む。薄茶色の液体は大きく跳ね上がったが、零れることはなくグラス内に落ち、うねりながらじき平らな水面になった。
ネイはキッチンのスツールに移動した。
キッチンのテーブルには、テイが持ち込んだのか、トレイに乗った、小さな天然石の入った紙箱がいくつも置かれている。
「頼まれていたブレスレットの石、選んでみたんだ。大きさとか色みで分けてみたけれど、どんなのがいい?」
テイが言いながら、グラスをネイのそばに置いた。
「作るのは怪我が治ってからにしろよ」
「わかってるって」
返事しつつ、テイは自分のグラスを手にして立ったまま一杯を飲み干し、二杯目をついでスツールに座った。
「じゃあ…これ」
ネイは、箱の一つをつまみ、トレイの外に出した。
テイは、デニムのポケットからペンを出し、ネイに差し出す。
「箱に名前書いといて。…沢山あるから自分の分も作ろうかな」
「双子でお揃いかよ」
「リーシャにも頼まれたから、三人お揃い! …にはしないよ。色も形も変えるもの」
「そうしてください」
ネイは茶を数口飲み、箱を手にしてさっと名前を書いた。そしてペンを持ったまま尋ねた。「テイとリーシャのはどれ?」
「待って、考え中」
テイは箱の乗ったトレイに視線を落としたまま答えた。そして考え込みながら、ふと思いついたように言った。
「そういえば、喜多見さんのオルゴールは、いつ頃治る?」
「今夜か明日には。リーシャの方はどうだろう」
「リーシャの方も、今夜中には出来上がるって」
「じゃあ早ければ、明日には引き渡しだな」
「私、やっぱり昨日のことが気になって。ほら、駅前広場で会った、って言ったじゃない」
テイは視線を落したまま言った。「あれって、あの不審者たちを庇ったのかな、って思えるんだけど…でもね、それだけじゃない気もするんだ」
「と、いうと?」
「私のことも助けてくれた、って感じもする」
「そりゃあ、普通、女の子が一人で怪しい風体の奴らを尾行していたら、危ないからやめろって言うんじゃないの? ま、普通の女の子ならね」
「うるさいな」
「テイが不審者を尾行していた、そのことを喜多見さんは理解した、そしてやめさせた。…俺も、喜多見さんと不審者には何かしら関係があるんだと思うよ。ただそれが、俺達にとっていいことなのか悪いことなのか、は分からないけれど」
「そういえば…これも気のせいかもしれないけれど…」
テイが顔を上げた。
「あの時、喜多見さんから、煙のような匂いがした気がする」
「煙ならお香? それとも焚火とか?」
「お香でも焚火でもないと思う。でも、何かまではよくわからないんだ…嗅いだことがあるような気がするけれど、いつどこでかは思い出せなくて」
「だったら、硝煙?」
「ううん」
「じゃあ、何だろう」
テイが、考え込んで黙った。
ネイはペンをテーブルに置き、茶を口に運んだ。グラスはすでに汗をかいている。
「小さい頃だ」
テイが不意に言った。「病院で…たまに外来に遊びに行ったとき…同じ匂いの人が何人もいた。ええとそこは確か…」
「心療内科?」
「そう。心療内科」
「じゃあそれは煙草だ」
ネイが息をついて、そして続けた。「今は一般人には禁止されているけれど、心療内科では鎮静剤として処方されているって聞いたことがある。とはいっても、外国じゃ誰でも買える所もあるけれど…」
ネイが茶の残ったグラスを揺らした。中の氷が涼やかな音を立てた。
「実は俺からも、喜多見さんについて話があって」
「何?」
「喜多見さんのオルゴールを分解したら、あれと、同じものが入っていたんだ」
「あれ、って?」
「メルボルンで預かったオルゴールの、電子回路の方」
喜多見に連絡がついたのは、何度か電話しては繋がらなかった末のことで、日が暮れてからだいぶ経ってからのことだった。
「オルゴールの件で、大事な話があります」
ネイが言った。「直接会って、お話ししたいのです」
喜多見は、今日は会うことはできないと言い、後日彼から連絡すると提案した。
できれば今日、短時間でいいから話したい、とネイは返した。
それは無理だと喜多見は言い、電話を切った。
「テイ、出掛けよう」
ネイは言いながら、カウンターに置かれていた、半袖の黒いパーカーを羽織った。
「喜多見さんに会うの?」
「そう。走るよ」
「まかせて」
テイも立ち上がり、木のサンダルから布の靴に履き替えた。
第六章 近いところ
建ち並ぶ店の灯りが夜の街を照らす。まるで昼間のように混みあう大通りを、人々をすり抜けるようにネイとテイは走り、目標の後ろ姿を見付けた。その両脇に並んだ。
「見つけた」
少し息を切らしながら、ネイが言った。「ご一緒させてください」
喜多見は双子の姿を見て、少し驚いたようだった。
「よく見つけられたね」
「電話の音に、ちょっとだけ周りの音が聞こえたので。うちの近所のようでしたので、そこから大通りに出て、きっと駅の方へ向かうだろうと踏んで来てみました。当たってよかった」
「よかったかどうかは分からないよ」
喜多見は静かに言った。「しばらくは店には行けないかもしれないと言ったよね?」
「はい。だからこちらから会いに来ました」
「余計なことはするな、とも言った」
「ご忠告ありがとうございます。邪魔はしません」
「邪魔かどうかは俺が決めることだ」
三人は駅前広場へのエスカレーターに乗った。
そして広場から駅に入ることなく、通路を抜けて駅の反対口に出た。そのまま歩き、狭い路地に入り、さらに進む。
やがて、古く寂れた建物ばかりが並ぶ界隈の、廃墟のようなビルの前で、喜多見が足を止めた。
「せっかくだから、君たちに頼もうかな」
双子も立ち止まり、振り返った。
尾行されていることは気付いていた。
「ついてこられないようにして」
喜多見の声がした時、二人の人影が、双子に向かって棒状の武器を振り下ろした。
ネイはそれを右にかわし、相手に飛びかかりながら両拳を組んで相手の眉間を叩くと間髪入れずに左拳を相手の鳩尾に打ち込んだ。
テイは武器を下がってかわし、距離を取った。二度目、三度目と攻撃を避けてゆくうち、焦った相手の振りが大きく雑になってきた。四度目の空振りが地面を叩いたとき、テイは体を回転させ、左足の踵で相手の左の側頭を蹴った。そして相手がうずくまった次の瞬間その襟足を蹴り、相手は倒れた。
「二人とも強いね」
喜多見の声が、少し楽しそうに響いた。「女の子が強いと聞いてはいたけれど、男の子の方だって中々やるじゃないか」
「誰に聞いたんですか?」
ネイは訊きながら、両手にはめていたグローブを外した。合成皮革の内側に金属が仕込まれている。テイの靴にも同じような仕掛けがしてある。
「まあ、ちょっとした噂話だよ」
「この人達は…?」
テイは訊ねながら右手で髪を整えた。
「俺に用があったんだろう。君たちは気にしなくていい」
言うと、喜多見は、通ってきた道を戻りはじめた。
双子も、そのあとを付いて行った。
少し戻ったところで角を逆に折れ、またしばらく歩くと角を曲がる。それを何度も繰り返しているうち、ネイもテイも、全く足を踏み入れたことのない地区に入り、土地勘も全く利かず、方角すらも分からなくなってきた。
いつの間にか、古い建物ばかりが立ち並び、観光客を呼び込むためのネオンも、看板さえもなくなった。ただ、室内の薄暗い照明がわずかにだけ道に漏れてくる。その照明さえもない建物も多い。しかし、不思議と多くの人の気配はあり、目で見る暗さと、雰囲気の賑やかさがおかしなバランスをとっているように感じられた。
喜多見はその街の、ある一軒の店に入った。
双子もついてゆく。
そこは料理店だった。奥に細長い店内には、左の壁際に四人掛けの席が五つ、並んでいる。右には厨房があり、奥にカーテンが掛かっているが、その先にも席がありそうだ。
喜多見は二つ目の席の、奥の椅子に座った。双子はその向かいに座る。
五つ目のテーブルでは、四人の客がいて、双子の方を一瞥し、その後小声で話し始めた。他に客は見当たらない。
「君たちの一番好きなものを注文しな。ただし中華で、一品だけだ」
喜多見が言った。
「お品書きはないんですか?」
テイが辺りを見回した。
「ないよ。だから『好きなもの』を頼むんだ」
厨房から前掛けを付けた老人が出てくると、彼らの席に近付いてきた。
「ほら、どうする?」
喜多見が急かすように言った口調は、少し楽し気に聞こえた。
「えーと」
テイが言った。「好きなのは、海老団子と韮と麺の入った白スープ、だけど、今食べたいのはもっと辛くて…」
「では白湯を」
喜多見が、老人の方を見て言った。
「俺も、同じで」
ネイが言った。
老人は黙って頷くと、厨房に戻って行った。
「喜多見さんは食べないんですか?」
双子が同時に尋ねた。
喜多見が一瞬だけ笑った。
「食べるさ。俺は注文がいらないんだ。というか」
喜多見は右手で頬杖をつき、双子を交互に見た。「この店は、なぜか同じ者には同じ料理しか出さないんだよ。つまり、初めて来たときに注文したものが、次からは黙っていても出てくるというわけだ。それで飽きの来ない、一番の好物を頼ませたんだが…」
そして目を細めてもう一度笑った。「さすが双子だね。好物も同じなら、質問までぴったり一緒とは」
「僕たちの事を聞いている、とさっき言いましたよね」
ネイが立ち上がり、厨房の出入口に置かれた鉄製の水差しと磁器のカップを三つ、テーブルに移した。そして、水差しの中のぬるい茶を注ぎつつ、口を開いた。「他にも知っていることがあるのではないですか?」
「『奇跡の双子』」
喜多見が言った。「おそらく人類史上唯一、どちらも健常の異性の一卵性双生児…だったね? でも、女の子の方は、長く検査入院していた。何かしら異常があると疑われていたけれど、十二年も調べた挙句何も出てこなかった。…店に行く前から知っていたよ」
「そうでしたか…他には?」
「と、いうと?」
「ちょっと特殊なものを直せる、とか」
「特殊というと」
「あなたから預かったオルゴール、あれを『完璧に』直せます。人が聞くことの出来る音も、聞けない音も。あえて、僕たちの所に持ち込んだんですよね?」
「やはり、君たちはあれが何か知っているのか」
喜多見が頬杖のまま、視線を、ネイが差し出したカップに遣る。「そう。『完璧に』直したかった。だがまっとうな修理屋では無理だし、下手に知識のある業者では、キューレーターに通報されてしまう恐れがあった。やっと得た情報で、君たちに行き着いた」
そこまで言うと、喜多見は茶を一口飲んだ。
テイが口を開いた。「あなたを信頼してもいいのでしょうか? 私たちも、あなたに通報される危険があります。あるいは、今回の件は囮捜査であなた自身がキューレーターではないか、と」
テイは言葉を切って、喜多見の様子を見た。彼は視線を落したままで、その表情からは何も読めない。
テイが続けた。「信頼できる証はありますか?」
「そうだな。まず」
喜多見が顔を上げ、テイを見た。
ネイは椅子に掛け、黙っていた。
「昨日、駅前広場で君を止めたのは、君に危険なことをさせないためだった。俺はずっと彼らを監視していてね。でも、あの少女の行動は予想外で、追跡していなかった。済まなかった。
俺は、君が言った通り、キューレーターだ」
言いながら、喜多見がボトムのポケットから出したのは、ネイがクァンとシンに渡したピアスだった。
ただし、と喜多見は続けた。「ミスター・クァンやミスター・シンとは業務が違う。オルゴール一つで検挙なんてしないよ。それに、君たちに預けたオルゴールは、本当に俺のものだ。名前はD 。俺が生まれる前から家にあった。家は古くて、親が引っ越してきた時、古い家財がたくさん残されていたそうだ。それらは処分したものもあるし、残したものもある。Dはそのうちのひとつだった」
特技があるんだ、と、喜多見は言った。
そして、立ち上がり、厨房脇の飾り棚から木製の箱を持ち出し、双子の前に置くと蓋を開いた。
二人は中を覗き込んだ。見覚えのある電子回路が入っている。
「これ…喜多見さんのオルゴールに入っていたのと同じです」
ネイが声を上げ、喜多見を見た。
「やっぱりそうか。スイッチを入れて」
ネイは言われたままにしたが、何も聞こえてこない。
「俺にはこの音が聞こえるんだ」
喜多見が言った。「多分生まれつきなんだろうな、皆が聞こえる音と、聞こえない音の両方が混ざって耳に入ってくる。本当は、こういうふうに片方しか聞こえない方がゆっくり聞いていられるんだ。これは俺の知らない曲だ。Dの、人に聞こえる音は『グリーンスリーブス』、聞こえない方は『レット・イット・ビー』」
「その通りでした。俺は機械で変換した音で確認したのですが」
ネイが言った。
一匹の白猫が現れ、テーブルの足元で一声啼いた。ネイと目が合うと、軽やかなジャンプでネイの膝に乗った。店の奥から来たようだ。他にも、白黒の猫が二匹、奥のカーテンの下から姿を見せた。
「そいつ、このオルゴールが好きなんだ」
白猫はオルゴールに顔を近づけ、まるで熱心に聞いているように見えた。
「この音が聞こえるんでしょうか」
ネイが喜多見に訊ねた。
「わからない」
喜多見が答えた。「この音に反応する個体は他にもいるから、聞こえているのかもしれない。でも、俺や、機械を通した君が聞いているものと同じとは限らないし、そのことを彼らに訊ねることはできないからね」
白黒の猫たちも、三人のテーブルに近付くと、こちらを見ながら床に寝転んだ。
テイが訊いた。「あのう、この子たちって、もしかして…」
「エイリアンもいるし、本物の猫もいるよ。奥にはもっとたくさんいる」
「喜多見さんには、見分けがつくんですか?」
「一見しただけでは分からないよ。でも、何回もここに来て、彼らとオルゴールを聞いているうちに、何となく分かるようになった」
やがて、厨房から先刻の老人が現れた。両手に大きな器を一つずつ持っている。床にいた猫たちが飛び起き、テーブルの下に隠れた。老人は、手にした器をネイとテイの前に置き、再び厨房を行き来して、今度は喜多見の分の器を運んで来た。
「こうしていると、実は俺は、人間よりもこいつらに近い生き物なのではないかと思う時がある」
喜多見がその様子を眺めながら言った。「俺は間違いなく人間なのに」
「猫は熱いものも、麺類も食べませんよ」
ネイが言いながら、膝の上の猫、あるいはエイリアンを床に下ろした。「エイリアンのことは知りませんが」
「ここのエイリアンたちも食べないな」
「ってことは、喜多見さんはやっぱり人間なんですよ」
「そんな決め方でいいのかな」
食べようか、手を止めさせてしまったね、と喜多見が言い、三人は食事を始めた。
オルゴールはそのスイッチを入れたままで、喜多見と、テーブルの下の生き物たちには、きっと心地よい音楽が届いているのだろう。聞こえない、聞くことの出来ないネイとテイにも、彼らの雰囲気でそれが分かった。
機械越しで聞くのとは違うんだろうな、と、ネイは考えていた。
アポロンにも分かるだろうか、と、テイは考えていた。
「エイリアン排斥運動を知っているか?」
三人の器が空になる頃、不意に喜多見が訊ねた。
「知っています」
テイが答えた。
「夢に見るんだ」
喜多見は箸を器の上に置くと、一息つき、続けた。「薄暗い家の中で、大勢の声が聞こえて、動く影が見える。そのうち影が一人ずついなくなる。影たちが怯えているのが分かるから、俺も不安になった。最後に、小さな影が、Dを抱きしめた後棚の中に置き、いなくなる。
…いつのころからか、全く同じこの夢を繰り返し見ている。俺が育った家は、人間に紛れて暮らしていたエイリアンの住処だったらしいと後で知ったよ。
でも、どうして俺がそんな夢を見るんだろうね。それが知りたくて、キューレーターになったんだけれど、いまだに分からないんだ」
「このオルゴールの音が聞こえることと、関係があるのでしょうか?」
ネイが訊ねた。
「さあ、どうなんだろうね。ただ、俺は人間の中では、だいぶエイリアンに近いところにいるみたいだ」
君たちはどうなんだい、と、喜多見が訊ねた。
ネイが口を開いた。「俺たちは、エイリアンに関する物の修理をしたり、売買をしたりしています。実際にエイリアンに会ったのも、今日が初めてではありません。でも…」
テイが言葉を継いだ。「喜多見さんのように、同じ何かを共有するような経験はありません。私たちは彼らに寄り添いたいと思っていますが、同じ気持ちにはなれない。それを、いつも思い知らされます。正直言って、今、喜多見さんがとても羨ましい」
「そう、なんだ」
喜多見が下を向いた。「そんなふうに言われるとは思わなかった」
言ってすぐ、彼は顔を上げた。
「今、俺の同僚たちが、テイさんを襲った奴らの潜伏先に踏み込んでいるはずだ。俺はあの少女を検挙する役割だったが、少女は昼間、潜伏先を抜け出している。君たちに会いに来るつもりかもしれないね。もし会いに来たらどうする?」
「拘束してあなたに知らせます」
ネイが即答した。
「そうしてもらえると俺は助かるけれど、それでいいの? 報復とかは考えない?」
「どうでしょうね。俺としては、しない、と言い切るつもりはありませんが…」
話すネイを、テイはじっと見ていた。それをネイは一瞬見て、喜多見の方に向き直った。
「テイが望まないなら、しないのでしょうね」
「なるほど」
喜多見は、シャツの胸ポケットからライターと紙の包みを取り出すと、包みから一本の煙草を出して咥えて火をつけた。
「俺はもう少しゆっくりしていくよ。君達は帰るといい」
「喜多見さんは…?」
テイが訊いた。視線は先を赤く点らせた煙草に向いている。
「俺はまだオルゴールを聞いていたい。…こいつが気になる? 一本あげようか?」
「いえ、いいです」
テイがぱっと立ち上がり、それに従うようにネイも腰を上げた。
「Dはもうすぐ直ります。明日以降、いつでも店に来て下さい」
ネイが喜多見に言った。
喜多見は静かに頷いた。
帰宅後、テイはすぐ二階に上がり、ネイは店の戸締りを確認してからその後を追った。
テイはロッキングチェアに座り、大きな本を広げている。アポロンは出掛けた時のまま、ケージの中でじっとしていた。
「寝ないの?」
ネイが訊ねた。
「少し調べ物をしてからにするよ。ネイは?」
「俺もまだ」
ネイは靴を脱ぐと床に敷かれた空色のラグの上に腰を下ろした。
「この前イーファンが下で寝ていた時、私、ネイの新しい彼女かと思ったんだ」
不意にテイが言った。
「まあ、そう思うよな」
「違うの?」
「違うよ。っていうか、俺のことより、自分はどうなの?」
ネイは言いながら、近くのクッションを引き寄せた。「例えば…クァンさんとか。仲良さそうじゃない」
「クァンさんとは、お菓子の話をするくらいだよ。あの人、キューレーターだし」
テイは軽く床を蹴った。ロッキングチェアが軋み、揺れ始めた。
「それに、ネイとは気が合わないみたいじゃない? その双子である私とも、合わないよ」
「俺たち双子だけど、性格は違うじゃないか」
「それでもね。…」
「じゃあテイは、俺と気が合う人と付き合うわけだ」
「いや、別にそういうわけでも」
「なんだよ、はっきりしないな」
ネイはいつの間にか、クッションを抱えて寝転がっている。
「そもそも今は、付き合いたい人がいないの。それだけのことだよ」
「ふうん」
「それよりネイ、今夜も作業するの?」
「うん。やっぱり今夜中に終わらせようと思う。喜多見さんにもああ言っちゃったし」
「そうだね、早く渡してあげたいね」
「…喜多見さんもキューレーターなんだよなあ」
「うん、びっくりしたよね」
「いや、そういうことじゃなくて」
「何?」
「いや何でもない」
ネイは素早く起き上がった。「シャワー浴びて、仕事する」
翌朝には、リーシャが、作り直したぬいぐるみ部分を持ってきた。それらを合わせ、依頼のすべてが完了した。
昼過ぎに喜多見は店にやってきた。
奥に通された彼は、出来上がった熊のオルゴールを手に取り、少し驚いた表情を見せた。
「同じ顔だ。ちゃんと再現されている」
言いながら、彼は手の中で熊を回し、じっと見た。「形も、前のものと同じだ」
それから喜多見は、熊の背中のレバーを回した。
『グリーンスリーブス』の、柔らかな旋律が淀みなく流れた。
「ありがとう。よく聞こえています」
喜多見が言ったのは、『レット・イット・ビー』の旋律のことでもある。
「こちらこそ」
喜多見の向かいに座ったネイが、笑顔で言った。「喜んで頂けて、こちらも嬉しいです」
「いつか直してやりたいと思っていたんだ。本当によかった」
「皆さん、本当に大事にしていたものが直って再会した時、格別に嬉しそうな顔をするんです」
テイが言った。「今の喜多見さんの顔を見て、ああ絶対そうだな、って思いました」
「そんなに顔に出ていましたか?」
喜多見は、困ったように顔に手を当てた。
テイがそれに応えて言う。
「それでいいんですよ」
リーシャが、テイの代わりに茶を運んできた。
「リーシャさんも、ありがとうございました。こんなにそっくりにできるなんて、失礼ながら思っていませんでした」
「いえ。仕事ですから。喜多見さんに喜んで頂けてよかったです」
リーシャは答えながら、緊張した顔から、ほっとした様子に変わっていった。
「喜多見さんに、お菓子を頂いたよ」
喜多見を出迎えたネイが、後から姿を見せていたテイとリーシャに包みを差し出した。
「苺のお礼です」
喜多見が言った。
それをリーシャが受け取り、キッチンで包みを開け、声を上げた。「月餅! 私大好きです」
「ネイさんやテイさんの好きなものも、今度買ってきますよ」
喜多見が静かに笑って言った。「今日以降、いつでも来ていいんですよね?」
「ええ、ぜひ!」
双子が同時に答えた。
「お皿、どれにしよう?」
リーシャの問いに、ネイがキッチンへ向かう。ソファに座っているのは、テイと喜多見だけになった。
「喜多見さん。お願いがあります」
テイが小声で言った。
「リーシャには、私達がエイリアンのオルゴールを直していることは言わないで下さい。 あの子は大事な友達なので、迷惑かけたくないから」
「分かった」
彼もテイにだけ聞こえるように答えた。
「お願いします。…あのう、それと質問なんですが、これからもここに来るっていうのは、イーファンを見つけるためですか?」
「いや。純粋に、遊びに来たいという気持ちからだよ。迷惑だろうか」
「そんなことありません。来てくれたら私も嬉しいです」
言った後、テイは急に動揺してきたので慌てて言い加えた。「ネイも、リーシャも、喜ぶと思います」
「それにしても、随分と思い切ったね」
「え?」
「君の髪。だいぶ短くなったから、別人かと思った」
「ああ…」
テイは耳のすぐ下に掛かった自分の髪を撫で、少し気恥ずかしい思いになった。
昼前に美容院に行ってきたのだ。胸まで届いていた髪が、今は襟足までのボブヘアになっている。「怪我しちゃって、自分でケアできなくなったから」
「似合うよ。…うん、君の性格にはその方が合っているんじゃないか?」
「ネイにも言われました。あと、戦う時に邪魔にならないね、とも」
テイが照れ隠しに笑うと、喜多見も一緒に笑った。
喜多見が帰るというので、ネイは買い物をするという理由を付けて一緒に『鸚鵡』を出た。喜多見は長袖のコットンシャツを着ていたが、ネイは寒くはならないだろうと半袖のTシャツのままだ。
曇り空が見え、重く暑い空気に包まれる。まだ雨季に入ったというニュースは聞かない。
しばしオルゴールに使われる楽曲の話をし、それが途切れると、ネイは出したかった質問を口にした。
「わざとイーファンを捕まえずにいるのではないですか?」
「どうしてそう思う」
喜多見は他の話題の時と同じように、さらりとした口調で質問を返した。
「昨日喜多見さんは、イーファンを見張っていたって言いました。実は今もそうで、他の仲間と合流するのを待って、まとめて検挙するつもりなのではないですか」
「それは言えない。悪いね」
「それでうちに来るんですか?」
喜多見は足を止め、それからネイの方をじっと見た。ネイも気が付いて止まる。
「その質問は君のお姉さんからも受けたから、答えは彼女に聞いてくれ」
そう言うと前を向き、また歩き出した。「しかし、よく似ていると思っていたけれど、彼女の方が素直だな」
「ええ、俺の方がひねくれています」
ネイもさらりと言い、喜多見の後を追う。
「『鸚鵡』を見張る必要はないはずだろう、イーファンが現れたら、君が半殺しにして縛り上げて俺に引き渡してくれるのだから」
「そんなことしないって言ったじゃないですか」
「そうだっけ」
駅前広場に着く前に、喜多見は裏通りに消えて行った。
ネイは、今日は広場を通らずに駅の反対側に出ると、仕事に使う道具などを買い、ついでに街をぶらついた。
久しぶりに、何も考えない時間を過ごした。
声を掛けられるまでは。
「ネイ! 久しぶり!」
甲高い女の声がした方を向くと、ビルの狭い階段の途中に四、五人の若い女が立っていた。服も化粧も派手で、すぐに夜の仕事の女たちだと分かる。声を掛けてきたのは一番手前にいる、その中では年長らしき女で、ネイの顔見知りだった。ここは彼女たちが勤める店の入口で、たまにここを通ると、客引きをしているところに出喰わす。
「ダイアナさん。久しぶりです」
愛想よく応えたネイに彼女は、
「ちょうど良かった、仕事があるの」
言うと、自分の後ろにいた仲間に言った。「あれ、持って来なさいよ」
その仲間の女がイーファンに見えた。
ネイは一舜息を呑んだ。
でも別人だった。髪はこの女の方が少し長く、顔もよく見れば違った。背もイーファンより高い。
女は店内へ駆けてゆくと、すぐに戻って来た。手に何か握っていて、それをネイに見せながら言った。「これ、直せる?」
ネイはそれをつまみ上げた。大ぶりのブレスレットだ。たくさんの輝く石が繋がっている。金色の鎖が一か所切れていた。
「すぐ直る。明日持って来るよ」
笑顔で答えると、自分の掌に載せた。
第七章 メッキ
昨日より少し早い時間に、ネイは直したブレスレットを持ってその店を訪れた。
まだ開店前だったようで、照明はかなり明るく灯され、店内の雰囲気は接客中のものとは違っていた。白シャツに黒いスラックス姿のボーイたちが忙しそうに動き回る一方、身支度を整えた女たちはリラックスした様子で談笑している。知った顔がいくつかあり、集まってきてネイをからかうので相手をするうち、ブレスレットの持ち主が現れた。
直したものを付けてみてもらい、確認する。問題なく引き渡すことができた。
「他にも頼みたいものがあるの」
彼女は高級ブランドのロゴが入った布の袋を開け、中身を手に取った。幾つもの壊れたアクセサリーが絡まって入っていた。
「いいよ。でも先に…」
修理代金について切り出そうとしたときだ。昨日ネイに声を掛けた女、ダイアナがいつの間にかそばにいて、言った。
「代金は店で立て替えるわ。ポーラ、あなたはもう行っていいよ」
ポーラは袋をネイに渡すと、店の奥へ行ってしまった。
ダイアナはネイを、店の片隅にある誰もいないカウンターへ案内した。そして自分もネイの隣に座った。
カウンターのすぐ横に、太い枝をつけた観葉植物がある。その枝に白い鳥が止まっていた。キバタンという種類で、ネイの方を向いたとき頭上の黄色く長い羽根が揺れた。
「こんにちは、パイタオ」
ネイが笑いかけると、応えるように首を伸ばしながら翼をばたつかせた。
「まず今日の分」
ダイアナが銀色のマニキュアをした手で、紙幣を一枚カウンターに載せた。
「こんなに受け取れません」
ネイはその額面を見て言った。「だって、あれは…」
「やっぱり分かるよね。安物だって」
ダイアナが息を吐きつつ言い、金色に染めて大きく巻いた髪をかき上げた。
ネイはポーラから渡された袋の中身をカウンターの上に広げ、ひとつひとつ手に取って見てみた。石はガラスか樹脂製、鎖は樹脂か柔らかい合金にメッキをかけたもの。
「すぐに分かります。安物というより子供のおもちゃだ」
「仕方がないのよ。質の悪い彼氏がいてね、みんな持って行かれちゃったらしいの」
だがポーラ自身がそれでいいと言うので、周囲も何も出来ずにいるのだとダイアナは言った。
「その彼氏って何者なんです?」
ネイが訊いた。
「最近目立って来たチンピラグループの、幹部らしいわ。喧嘩の仕方も女の子に対してもえげつないって噂。ほんとその通り。あの子を見ていると、まるで洗脳されちゃったみたいなのよ、彼氏の言うことしか聞けなくなってる」
溜め息交じりにダイアナはこぼした。そしてネイに向き直る。
「ね、あの子を助けるいい方法ない?」
「え、俺ですか?」
急に訊かれてネイはさすがに戸惑った。
「だって私も、店のみんなも頭悪いからさ、どうしたらいいか分からないのよ、あなた賢そうだし。どうしたらいいと思う?」
「そ、そう急に言われても」
「今日は、店長にお給料の前借りをお願いしたみたい。どうせその男の懐に行くんでしょう、分かってて渡すのもね…そういう子を何人も見てきたけれど、ポーラは同郷だし気が合う、かわいい後輩だからさ…」
何とかしてやりたい、とダイアナは言った。
「考えてみます」
ネイはそう言うしかなかった。「でもあまり期待しないで下さい、俺にはよく分からないことだし」
「そうねえ、ネイは優しそうだもん」
「そうでもないですよ」
「あ、そうそう」
ダイアナが急に明るい口調になった。「店長がね、最近新しい茶器を買ったって自慢してるのよ。ネイにも見せたいって言ってたから、お相手してあげて」
「いいですよ」
「ほら、やっぱり優しい」
言いながらダイアナは立ち上がった。「待ってて」
ダイアナが奥に行ってしまった後、ネイは、カウンターに飛び移って来たパイタオを撫でたり、話しかけたりして遊んだ。パイタオは人懐こく、誰が教えたのか話したり歌ったりもする。しばらくそうしているうちに、店内の照明が変わった。開店だ。
店長は現れないし、出直そうかとネイが立ち上がりかけた時、カウンターに人影が近付いてくるのが見えた。
「おまたせ」
カウンターにトレイを置くと、籠ったような声で言った。
それが店長だった。
紫色のイブニングドレスに身を包み、長い漆黒の髪をし、本物のジュエリーをふんだんに身に着けた姿に、なぜか、リアルな豹の面をつけている。
それがいつもの姿なのでネイも店員たちも慣れて平然としている。
「茶器って聞いたから、てっきり台湾風のものかと」
トレイに載っているのは紅茶のセットだった。ネイでも知っている老舗メーカーの品であった。
「あら、ヨーロッパの磁器のルーツは中国からの輸入品なんでしょ。ならこれは、広い意味では中国風ね」
店長は言った。「先月ヨーロッパ旅行に行ったとき、思い切って買っちゃったの」
店長から値段を聞き、ネイは唸った。
「でも買ってよかった。これでお茶を淹れて頂くのが、今一番の楽しみ」
店長は弾んだ口調で楽し気にポットを持ち上げ、紅茶をカップに注ぎ、再び座ったネイと、その向かいに立つ自分の前に置いた。
ネイは、カップを手に取った。
「店長。照明が暗くてよく見えません」
正直に言った。
「あら残念」
店長は軽く答えた。「じゃあ明日もいらっしゃいな。何ならここでボーイさんになってもいいのよ」
「またそれですか。やりませんよ」
「週一でもいいのよ。あなたが来ると、女の子たちの雰囲気が華やぐんですもの」
「そうですかね」
そっけなくネイは言い、話題を変えた。「さっき、ダイアナさんから相談を受けました」
「ポーラのことね」
店長は、豹の口の僅かに開いた部分から、慣れた様子で紅茶を飲んだ。「私も話は聞いているわ。でもダイアナに任せているの、そろそろこの店、あの子に任せようと思ってて。ネイに相談したのは意外だったけれど」
「俺じゃ全く役に立てませんよ」
「そうでもないわよ。私たちは似たような人間の集まりだから、他の世界に生きている人の意見が必要な時もあると思う。…ネイだったら、ポーラに、どんな言葉を掛ける?」
「そうですね。もし自分の友人だったら」
ネイは少し考え、言った。「お前がどんどん不幸になってしまう。だからやめろって言うかな」
「本人は不幸だと思ってないのよ」
「うーん。思ってくれるまで言い続けますかね。あんなアクセサリーで接客することとか、給料前借りとか、幸せな人がしていることじゃない」
「店で着ている服はダイアナが貸しているそうよ。あげちゃうと、取りあげられるから」
「ひどいな」
「美容院代も彼女が一緒に行って出しているし、食事も奢っているみたい」
「そんな目に遭って、気付かない方が信じられない」
「案外そういうものなの」
静かに店長は言い、紅茶を飲み干した。「あなたの意見、ダイアナに伝えておくわね」
「はい。でも、役に立つでしょうか」
言ったネイに、店長が顔を向けた。表情はもちろん分からない。
「あなたは意外と自信のない人ね。褒めれば否定するし、相談を持ち掛ければ役に立たないと言うし。自分への理想が高すぎるのかしら? 自分にももう少し優しくしてあげなさいな。今日は助かったわ、役に立ったのよ。
さ、紅茶を飲んでしまいなさい。二杯目はミルクティーにするから、あなたの近況も聞かせて頂戴」
「なるほど。ひどい話だね」
テイが渋い顔をして、ネイの話に頷いた。
ふたりはネイの帰宅後、夕食をとりに出掛けていた。様々な料理を売る店が並ぶ界隈で、夜なのに照明で周囲は明るく、人々の往来が多くて賑やかだ。道端には食べるための席も置かれている。彼らはその中のひとつに陣取り、テーブル一杯に肉料理や揚げ物、スープやフルーツの皿を広げていた。
「テイだったら、そんな友達に何て言う?」
「私の友達だったら、…その男を殴る」
「そうじゃなくてさ」
「いやあ、まず、何か言う前に殴っちゃうなあ」
「そうね、あなたはね」
ネイは呆れながら、揚げ物のひとつに齧りついた。「これおいしい」
「どれどれ」
テイも同じものをとり、口に入れた。「ほんとだ。ね、彼女たちはまだ店にいるよね」
「まだ仕事中なんじゃないか?」
「終わる頃、行ってみよう。イーファンに似ているその子に会ってみたいし、帰りは護衛してあげよう」
「帰りの護衛なんて、別に要らないだろ」
「気持ちの問題だよ。…そうそう、パイタオにも会えるし」
「パイタオ、かわいいよな。どっかの赤い頭のやつとは大違い」
「アポロンだってかわいいよ!」
「はいはいかわいいね。まあ俺も気になるし。行くか」
双子は一度帰宅し、時間を見計らってまた出掛けた。
入口にいたボーイに訳を話すと、先刻のカウンターで待つように言われ、しばしパイタオと遊んで過ごした。
ダイアナも、ポーラ本人も、ふたりが来たことに驚いていた。ポーラは、今夜はダイアナの部屋に泊まるとのことで、近くなので歩いて行くという。これにはダイアナの説得があったのかもしれない。双子はもちろんついて行き、部屋に入るのを見届けた。
翌日も、出勤時間を聞いていたので、双子は彼女達を迎えに行った。
まだ外は明るい。とはいえ、今日も相変わらず曇り空だ。
このところ着替えやすいワンピースばかり着ていたテイが、今日はネイと同じように、Tシャツにジーンズという服装にしていた。
「その方がいいような気がする」
と言って。
四人が、もうすぐ店に着くという、その路上でのことだった。
目の前に若い男が現れた。髪は整えられ、白いYシャツと紺のスラックスをきれいに身に着けている。一見裕福な家庭の子息ふうだった。彼は穏やかな口調でポーラを見て別の名を呼んだ。ポーラの本名だろうか。
「あれが例の?」
ポーラの横にいたテイが小声で訊いた。彼女の代わりに、その向こうにいたダイアナが頷いた。
そのうちに男は話し始めていた。
「ゆうべ帰って来なかったから心配したよ。友達の所に泊まるなら連絡してよ。ほら、俺、すごく心配しちゃったから店まで行こうとしてたんだ。ここで会えてよかったよ」
男はポーラに近付き、手を取った。「今日は連れて行きたい所があるんだ。店は休みに…」
ネイが男の目の前に割って入った。
「こんにちは。あなたがポーラの彼氏さんですね?」
過剰なくらいにこやかに言った。「今日は彼女、他の予定があるから行けませんよう。明日も明後日もずーっと行けません」
行かせたら、もう二度とポーラに会うことはないような予感がする。
「なんだよ、あんた」
男の目つきが鋭くなり、ネイ、そしてテイ、ダイアナと目を移した。
「そうか、あんたら店の人達か。辞められると困るから見張っていたわけか。そういうのよくないですよ、彼女がかわいそうじゃないですか」
「ちょっと…」
ダイアナが口を開いたのをネイが制止し、言った。「あなたのお話は色々聞いています。彼女、かなりあなたに金品を奪われているようですね。こちらのお姉さんが食事などの面倒を…」
「行こう」
男がポーラの手を引いた。ポーラは動かなかった。男は強く引っ張った。
「こいつは店を辞めたいって言ってるんです。給料は安いし、同僚のことだって愚痴ってましたよ、たぶんあんたらのこともね。そうだったよな?」
ポーラは下を向いて黙っていた。
「なんなら俺が言ってやろうか? お前がこいつらをどう思っているか」
「必要ない」
テイの声だった。大きくはないが、重く響いた。
いつの間にかテイは右手で男の腕を掴んでいて、力を込めると、男がそれを振り解こうとポーラの手を離した。それでもテイは力を緩めなかった。男が大きく腕を振ったので、そこで手が離れた。
「何をするんだ」
男が大声を上げた。「暴力を振るう気か」
通行人が彼らに目を向けた。
「あなたと同じことをしただけ」
テイが口調を変えずに言った。
「ふん。庇うのは結構だけれど、俺が何者か聞いているの? そいつを渡さないと後悔するよ?」
道端に停まっていた車から、若い男がふたり出て来ていた。
「『いい人作戦』は終わりにしちゃうの?」
ネイが興ざめしたように言った。「この子の味方になった振りをして全て毟り取ろうという作戦は終わりか、と訊いているんだ。次は脅迫と暴力の『悪い人作戦』って所かな。俺、口喧嘩の方が得意…」
ふたりのうち一人がネイの前に出、ネイの腹を殴った。が、ネイはそれを軽やかに横にかわした。
「じゃあ私にやらせてよ」
テイが前に進み出た。細身の若い女、しかも片腕には包帯。
テイの爪痕が残った腕で、『ポーラの彼氏』がテイに殴りかかった。左の頬を狙った拳を、テイは避けずにまともに当たった。だが微動だにせず、すぐにテイは男に向き直った。
「なにこれ。弱い」
言い、小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、相手が僅かに後ろに引いた。
「でもこないだと同じところか。あまり目立つとマウリッツ先生に叱られる。…ま、しょうがないな」
テイは更に一歩進み出た。
時間にしたら僅か1分足らずの出来事だった。
男たちは車で去ってゆき、テイは大きく息を吐いた。始めの一撃の後は何も受けず、男たち3人を逃げるのがやっとの状態にしてしまった。あまりに短時間、しかも演武のような鮮やかさだったので、大きな騒ぎにもならなかった。
「ま、相手が意外と喧嘩下手だったね」
見ていただけのネイが微笑んだ。
「少しは加勢してくれるかと思ったのに」
「見事すぎて手が出せなかった。俺の動きはあんなに綺麗じゃないもん」
茫然としていたダイアナとポーラが、我に返ったのか、しきりに双子に礼を述べた。
そしてテイの手当てのためにも、四人は店へと向かった。
「テイは強いね」
ポーラが言った。「殴られたのに、相手に向かっていくなんて」
「あれはわざと避けなかったんだ」
テイはこともなげに言った。
「どうして?」
「攻撃したって私には効かない、という姿を見せるためだよ。実際弱かったし」
「私は怖かった。自分の時も、テイの時も」
ポーラの言葉に、三人が驚いた。
「殴られていたの?」
三人が同時に訊いた。ポーラが頷く。
「そんな。私が前に訊いたときは」
ダイアナが言うと、
「ごめん。…誰にも言うなって言われていて」
「そうだったんだ」
「そういえば」
ネイが、今思い出したかのように訊いた。「店の人達に対する愚痴って、どんなの?」
「ネイ…」
テイが気まずそうに、ネイを肘で突いた。
人に対する愚痴とは、ほぼ悪口と言っていい。
「いいじゃないか、こうなったらついでだ、全部喋っちゃえ。言わなかったら却って気になるさ、ね、ダイアナ」
ネイの言う通り、ダイアナはポーラが男に何を言っていたのか気になっていたし、逆にポーラの方は知られたくないだろう。まして、ダイアナには今回のことでかなり世話になったのだから。
「なんて言ったの?」
ダイアナが訊いた。が、視線は街の風景のどこかを向いている。「怒らないから教えてよ」
「…髪型が似合ってないとか、態度が偉そう、とか…」
「そっか。私は」
一息ついてから、ダイアナが言った。「あんたのこと、どんくさいとか、訛りが直らないとか、言ってたなあ。あと男の趣味悪過ぎ」
「最初はすごく優しかったんだよ、品も良さそうで。でも…」
「ま、仕方がないよ」
ふたりの口調は穏やかで、わだかまりはなさそうに感じられた。双子もほっとしてそのやり取りを聞いていた。そのうちに店の前まで来ていた。今日は双子も、店員のように裏口から店内へ入る。
「何かあったら相談してよね。あ、それが偉そうなのか」
「ううん、いいの。ありがとう。でももう大丈夫」
ポーラが言うと、テイの右腕を取り、自分の腕を絡ませた。「今度はテイみたいな人にする! 本当はテイが男だったらよかったのに」
「そっくりなのがそこにいるじゃない」
ダイアナがネイの方を見て言う。
「テイがいいの。ネイは…なんだか意地悪なんだもん」
「何言ってるの、ネイはすっごく優しんだから。分かってないわね」
「あのう。喧嘩はしないで」
双子が同時に言っていた。
第8章 幸せとやら
その後二日ほどは、双子、特にテイは大した外出もせず、店番に徹して安静に過ごした。と、テイは言い訳していた。
マウリッツの診療所にて、傷の経過を診てもらっている。
傷を一目見たとき、というより最初に目が合ったときから、その前の日々を安静にしていなかったことがマウリッツに見抜かれているように感じた。
彼は苦々しい顔を隠しもしない。
助手のカナタも、助け船は出しませんよとばかりに黙っている。
「状態を見ればすぐ分かるんだ。君は嘘をつかないのはいいが」
マウリッツは表情を変えずに言った。「きちんと治す気があるのか?」
「あります…」
テイは下を向いて小さな声で答える。
その様子を隣で見ているネイは、まるで燕が鷹に睨まれているようだなどとと考えていた。
ネイに言わせれば、テイは気持ちが態度に出過ぎるのだ、マウリッツと目が合っても平然としていればいいのに、動揺したからあっさりばれるのだ…といったところか。
(ま、ポーカーフェイスで通したって、どうせ傷を見せたらばれちゃうだろうけれど)
勿論ネイは思ったことは言わず、なりゆきを見守っている。
「こちらが幾ら早く完治するように、痕が残らないようにと治療しても、患者本人にその気持ちがなければどうにもならない。そして俺は、そんな奴の治療を続ける気はない。他の医者に行ったらどうだ!」
「ごめんなさい。もうしませんから。安静にして、ちゃんと治るようにします」
「それにネイ、何テイに無理をさせているんだ」
急に名を呼ばれ、ネイはドキリとした。
「こんな時くらい何もさせないことが出来ないのか。お前何のために一緒にいるんだ、兄と言い張るのは威張るためだけか? そもそもお前今、自分がテイなら上手く誤魔化せるのになどと考えていたろう」
「えっ…ええと…ごめんなさい!」
黙っていたカナタが、そっと声を上げた。「りっちゃん、そろそろ許してあげなよ。二人ともこうして反省しているようだし」
「カナタ…」
マウリッツがカナタの顔を見、言った。「何を笑っている?」
「だって三人の様子が、獅子が子猫を叱っているみたいに見えたから可笑しくて」
「全く。君たちが本当に反省しているならうちで治療を続けるが?」
「反省してます」
子猫たちが揃って言った。
マウリッツはまだ叱り足りないといった顔だったが、双子の言葉に頷いて手を動かし始めた。
カナタが双子に訊いた。
「そういえば、テイちゃんを傷つけた犯人はまだ捕まらないの?」
「はい」
テイが答えた。
「そう。なんだか心配だね。アポロンも自由に放せないでいるんでしょ? 最近見ないんでちょっと寂しいよ」
「アポロンもつまらないみたい。窓の外をぼーっと見ているときがある」
「人間みたい」
「うん。アポロンは賢いよ」
そこへネイが口を挟んだ。「アポロンだけじゃなく、オウムはみんな賢いだろ」
「いいなあ、飼ってみたら楽しそうだな」
「カナさんも飼ったら?」
「ここで飼わない? ね、りっちゃん」
「病院で飼える訳がないだろう。オウムが保有したり媒介したりする菌やウイルスがいることを忘れたのか?」
「そっか…」
「じきに犯人は捕まるだろうし、そうすればアポロンも見かけるようになるだろうさ」
話しているうちに処置は終わった。
「今日からは大人しくしているんだぞ」
マウリッツに最後、釘を刺され、双子は「はい」と言うしかなかった。
医院を出て、双子は帰路についた。あの日はタクシーを使ったが、今日は歩いて来ている。
「俺、ちょっとダイアナさんたちの様子見てくるよ」
大きな交差点の近くまで来たとき、ネイが言った。
「うん。私は帰るね、気にかけているってことは伝えておいて」
叱られた矢先に寄り道はできない。
「気を付けて」
「うん」
交差点で双子は別れた。
ネイが家のそばまで帰って来た頃には既に空は暗くなりかけており、街の灯りの輝きが目に留まりはじめていた。
裏口の扉を前にして、ネイは振り返った。
テイが傷を負ってからは、家に出入りするときは必ず周囲を確認している。イーファンが、或いはその仲間が、またアポロンを狙ってくると思っているからだ。ここは戸締りがしっかりしているから、狙われるなら自分たちが扉を開けたときだ、と、ネイは考えていた。
裏口の前の小道から大通りに出る角で、人影が動いた。
「イーファン?」
ネイが声を掛けた。「イーファンなら話をしようじゃないか。というか、逃げても攻撃してもキューレーターを呼ぶ」
人影が近付いてきた。やはりイーファンだった。黒いTシャツに膝上のスカート姿だった。
「テイは君の心配をしていたよ。怪我させられたっていうのに」
ネイが言った。
イーファンが小声で何か言った。
「何?」
「そういうのがむかつく」
「あら、気は合わなさそうね」
イーファンは隠し持っていたナイフをネイの胸に向けた。「扉を開けて」
「これを言ったらまた君はむかつくかと思うけれど」
ネイの口調は変わらず、落ち着いていた。「テイは明らかに手加減していたね、見ていなくても分かる」
言い終えた瞬間、ネイの右手が素早くイーファンの手を払った。ナイフは飛び、地面に落ちて跳ねた。
「ここに泊まったのは、始めからアポロンを狙ってのことだったの?」
ネイの声が冷淡になった。
「最初にここへ来たのは、本当に、行く所に困っていたからだよ。学校の寮を抜け出して、でも家に帰れなくて。その時ここの灯りが見えたから。…鳥の事は後から聞いたんだ。嘘じゃないよ」
「一人になってもこうして来るなんて、君、よほどエイリアンが嫌いなんだね。でも、アポロンはエイリアンじゃないよ」
「排斥運動家の人達も違うんじゃないかって言ってた。でも私には関係ないの。ただ、大事にされているから。あんたたちに愛されているその鳥が、私より幸せに見えるから、だから憎い。」
「アポロンとテイなら、その幸せとやら、少しは分けてくれたかもしれないよ。…勿論君の出方次第だけれど」
「あなたは?」
「どうだろうね」
言った後、ネイは質問を変えた。「もしアポロンがエイリアンだったら、どうしていた?」
ネイの問いに、イーファンはすんなり答えた。「袋に入れて、持ち帰るように言われてた」
「その後、エイリアンの死骸はどうするのか、君は知っている?」
「知らない。どうしてそんなこと訊くの?」
「俺達にとって、エイリアンは大事な存在だからね。何故だと思う?」
「それは…この街に観光客を呼びたいからでしょ。それとも、ここの鳥は本当にエイリアンなの?」
「違うよ。残念でした」
足音がしたのでそちらの方を見ると、喜多見だった。ネイはイーファンに向き直り言った。「時間切れだ」
喜多見はネイとイーファンに近付いた。「拘束してから通報するはずじゃなかったっけ」
「すみません」
「あんた、皆に襲い掛かった人でしょ」
イーファンが喜多見を見て言った。声が震えていた。「声が似ている」
「さあ、何のことかな」
喜多見はイーファンの腕を後ろから引き上げ、手錠を掛けた。イーファンが痛がって大声を上げた。喜多見はイーファンの脚を蹴り、
「騒ぐな。この辺りは知り合いが多いんだろう、その姿を見せたいのか?」
小さく早口で言った。
それからネイの方に向き直った。
「ご協力感謝する」
いつもの穏やかな声だった。
「どこに連れて行くのよ」
イーファンが訊ねた。喜多見はまた彼女を蹴った。
「君、自分が犯罪者って分かってないの?」
「あんた警察でもキューレーターでもないでしょ! 私たちを襲って来たじゃない。捕まえようとしてなかった、ただ襲っただけで」
「それは私ではない。ネイ、私はキューレーターだよな?」
「…はい」
「行くぞ」
喜多見は手錠に繋がったロープを強く引き、イーファンを伴って来た方へ歩き出した。角にはいつの間にか車が停まっていた。車が二人を乗せて走り出すまで、ネイは見送った。
それから家に入ったが、一階にはテイはおらず、二階からの光が漏れていた。ネイも二階に上がる。テイはいつものロッキングチェアに腰掛けてアポロンを膝に乗せていた。
「イーファン、来たんだね」
「気が付いた?」
「うん。声が聞こえたよ、窓から見た。イーファンがどこまで私達のことを知っているのか、訊いたの?」
テイの問いに、ネイは頷いた。
「彼女は何も知らなかったみたいだ」
「そう」
「あと、きょうだいと気が合うかどうかっていうの、結構大事だと分かった」
「? 何の話?」
「分からないならいいや。それから、喜多見さんが少し怖かった」
「うん」
「あれっ、別に意外じゃない?」
「私は前からそんな感じがしてた。きっと、うちに来たときの喜多見さんとそれ以外の喜多見さんは、少し違うんだよ」
言いながら、テイはアポロンの頭を掻いた。アポロンが気持ちよさそうにテイにすり寄る。
テイはアポロンに言い聞かせるように呟いた。「明日からは自由に飛べるね」
その日最後の患者の治療を終え、マウリッツは窓枠に腰掛けていた。
頭上には灰色の空が広がり、雲間から日の光がやや差し込む。風はぬるく、湿気を帯びている。雨季の始まりはもう近い。
ポケットからオレンジ色の飴玉を出し、ふと窓の外を見た。
そして助手を呼んだ。
その声に、カナタも片付けの手を止め、窓際にやって来た。
医院に沿う道の、その向こうに立つ街路樹の上に、赤、黄、青と三色の羽の大きな鳥が、のんびりとした様子で佇んでいるのが見えた。
開け放した二階の窓からアポロンが帰り、階下のキッチンに飛んで来た。
「お帰り、アポロン」
スツールに掛け、調べ物をしていたテイが、嬉しそうにアポロンを迎えた。
ネイは作業台に向かったまま、その様子を見ている。
アポロンはキッチン内を旋回し、降下する。その時、アポロンがテイの頭を軽く蹴った。
「え」
テイは、アポロンの方を見、茫然としてしまった。
アポロンは「しまった」という風に、慌てた様子でテーブルから止まり木に移った。
「間違えた!」
ネイが大声を上げた。「俺とテイを間違えたでしょ、アポロン!」
アポロンは、聞いていない素振りで毛づくろいを始めた。
「アポロン、おいで。怒ってないよ」
テイが言っても、アポロンはやめようとしない。
「プライドが許さないんだよ。な? アポロン?」
ネイがにやにやしながら言う。
「ネイは黙ってて」
テイが軽く睨んだ。
「テイこそ分かってないんだ。全く鈍感だよなあ」
「ネイこそその言い方、生意気」
二人はしばしの間、黙った。
やがて、テイが言った。「月餅の残り、食べる?」
「食べる。俺がお茶淹れる」
ネイは立ち上がり、キッチンにやって来た。
アポロンは毛づくろいをやめていて、二人の様子を見ている。
「ところで…ネイ。こないだの、偽の琥珀なんだけど」
テイがネイに向き直った。「中の虫、調べているんだけれど見つからない」
「向こうの固有種なんじゃないの」
ネイはポットの電源を入れると、振り向き、テーブルの上のその偽物を掌に取った。
「その線でも探した。でも、ない。つまり」
テイが改まった口調で言った。「それ、新種かも」
「そんな」
ネイは手の中を見、言った。「う、売ったら幾らになるだろう」
「売れないでしょ。琥珀が偽物だもん。詐欺になっちゃうよ。それに」
テイは立ち上がり、ネイの手からそれを取った。
「私にくれたんでしょ」
(完)