第1章~第4章
第一章 メルボルン
黒く厚い雲に覆われた空の下、南からの風が、まるで真冬の風のように冷たく感じる。
空気は乾いていて、息を吸い込むたびに土埃の匂いがする。
同じ五月の初旬でも、夏を迎える彼が住む街と、冬に向かうこことはかなり違っていた。ジャケットを着てきてよかった、と彼は考えていた。
飛行機も列車も殆ど遅れず、つまり彼は思っていたよりかなり早い到着となった。
約束の時間までまだだいぶある。
小ぶりのトランクを持ち直して今たどり着いたばかりの駅舎を出ると、道の向こうに公園があった。一見小さな空間に見えるが、奥行きはありそうで、入口からだと、公園の歩道はそのまま森の中に続く小道のように見えた。
方角は、彼の行き先とほぼ同じ。
彼はその歩道を歩き始めた。
彼の他に人影はない。空気は駅前よりずっと澄んでいる。しばらくゆくと、街の景色は、植え込みの木々にすっかり隠れてしまい、本当に森の中にいる気すらしてきた。
さりげなく置かれたベンチの一つ、その上に、小さな黒いものが見えた。彼はそっと近付いた。一匹の黒猫が眠っているようだ。
と、彼の眼前で、その長い尾と四肢が、ゆっくりと細く短くなっていった。
「おい」
彼は声を上げた。猫が目を覚まし、一瞬でその尾が長くなり、四肢に指が現れた。そしてベンチから飛び降りると、素早く植え込みの中に消えていった。
「油断しすぎだよ」
彼は独り言のように呟いた。「…がんばれ」
「東洋系の若い男が来なかったか?」
埃っぽい風が吹く通りから一歩中に入ると、すぐ左手に簡素なカウンターがある。壁には公開中の映画のポスターが貼られているが、あまり新しいものではなさそうだ。
くすんだスカーレットの絨毯に立つのは、大柄な60歳前後に見受けられる男だった。頭髪は剃り落とされているが、眉は金色で、目は青い。グレーのブルゾンに黒いスラックス、恰好は地味だが、立ち姿に体格以上の貫禄を漂わせている。
「あの黒髪の坊やね。前にもあんたと待ち合わせていたよねえ」
男より少し若そうな、化粧の濃い女がカウンターの中にいた。細身な方だが、さらに小さなサイズの花柄のスリップドレスを纏っている。
「あの子、見た目はちょっと可愛いかも知んないけど、腹ん中では何考えているのかわかんないタイプって感じよね。まああんた、女でもそういう子好きだもんね」
男が紙幣を出すと、女は素早くそれをレジスターに押し込んだ。
「何番だ?」
「2番だよ」
歩き出した男に、女の声が追いかけた。
重い手動ドアを開けると、50席ほどのシートが手前、奥に小さなスクリーンがある。すでに上映中で、明るい色彩が少し眩しい。
客席の一番後ろに、一人、座る者があった。
「ネイ」
男が先に声を掛けた。「早かったじゃないか」
「今日は珍しく、飛行機も列車も時間通りだったんですよ、アストンさん」
「じゃあ行くか」
「あーちょっと待って。もうすぐこれ終わるんで」
ネイ、と呼ばれた若い男は、頬杖をついていた手から顔を上げて、言った。
アストンの方は、仕方がないなという風に、ネイの席の、通路を挟んだ隣に腰掛けた。
「ずいぶん古そうな作品だな」
「これでもリメイクらしいです」
スクリーンの中では、広い草原の中で一人の女が歌っていた。明るく、笑っているような歌声に、やがてその周囲の子供達が加わって、合唱になった。
「いいでしょ? なんか牧歌的で」
「ああ、結構なことだな」
「今そういうのに癒されたい気分なんです。気分はまるで、ここメルボルンの曇り空ですよ」
「お前の所の台北だって、五月は大体曇りばかりじゃねえか」
アストンは言い、思いついたように続けた。「…カウンターの女主人と何かあったのか? むこうも不機嫌だったが?」
「あの人マダムでしたか」
ネイはスクリーンを見たまま言った。「さっき料金払おうとしたら、出した手を握られそうになりまして、ついつい思いっきり睨みつけちゃいました」
「次からは別の場所で落ち合おう」
アストンは言いながら立ち上がり、ドアを開けて通路に出た。ネイも荷物を手にしてそのあとに続いた。
「先方との約束までまだ時間がある。飯でも奢ろう」
「やった! アストンさん大好き!」
「ここでそういうことを言うんじゃねえ」アストンは思わず、カウンターの方を見た。マダムは彼らに背を向け、テレビでも見ているようだったが、ネイの声はおそらく聞こえたろう。
「俺に変な噂が立つ日も近いな」
「? 何か言いました?」
「何も。裏口から出よう」
煉瓦作りの洋館が並ぶ街の中に乾いた秋風が通り抜ける。風は先刻までよりも強く、冷たかった。
ネイはアストンの後ろを歩きながら、片手に抱えていた上着を素早く羽織った。淡い灰色のシャツと紺色のリネンのベストが隠れ、ベストと揃いの、膝まである上着のスーツ姿になった。水色の慣れないネクタイに手をやると、同じ色の天然石でできたカフスが、一瞬差し込んだ太陽光に反射し、キラキラ光った。
街で食事をした後、彼らはちょっとした買い物をしてから無人タクシーを拾い、1時間ほど揺られて郊外の住宅街に入った。
他の町とは明らかに異なる、大きな家屋敷ばかりが建ち並ぶ界隈だったが、アストンの指示でタクシーが止まったのは、その中でもひときわ広い敷地がありそうな屋敷の門前だった。
二人が降車してタクシーが走り去ると、どこからともなく、柔和な表情をした中年とおぼしき男女が現れた。本当の人間ではない、ホログラフィーだ。
「アストン様、ようこそいらっしゃいました」
男女の声が同時に語りかけてきた。「すぐにご案内いたします。こちらの車にお乗りください」
同時に門が開き、中に停められていた車のドアが開いた。向かい合わせの豪奢なシートが六人分あったが、運転席はなかった。
庭園の中の道を抜けるうちに煉瓦造りの大きな洋館が見え、スロープを車のまま上っていくと、大きな両開きの玄関の前で、車は停止した。
玄関は開け放たれていた。その奥で、小柄で柔らかな出で立ちの老婦人が、二人を見て微笑んだ。
「いらっしゃい。遠い所をありがとうね」
「お久しぶりです、ママ」
アストンはそう言いながら、街で買った大きな花束を老婦人に差し出した。
「あら。とてもきれい」
「こいつの見立てなんです」
アストンが、親指で後ろに立つネイを差した。
「はじめまして。古物商のネイ・岩崎と申します」
幾分緊張して、ネイが言った。
「はじめまして。ローズマリーです。聞いてはいたけれど、ほんとうにお若い方なのね」
「待って下さい」ミセス・ローズマリーが握手の手を出そうとしたところを、アストンが制止した。「まずこいつの身元を確認してやってくれませんか」
「ああ、営業許可ね。扉のリーダーを使ってちょうだい」
二人は振り返り、ネイが、左の袖を少しつまんで上げた。
「これで警報なんか鳴っちゃったら、俺どうなるんでしょうか」
小声でたずねるネイに、アストンはまじめな顔でこう答えた。
「今お前に照準が合っている無人ライフルの弾が、一瞬で30発程、飛んでくるだろうな。お前からは見えていないだろうが」
「こんな大物の客だなんて聞いてないです。ママってあれでしょ、母親じゃないんでしょ」
「早くしろ」
ネイが左の掌をリーダーに付けた。軽い調子のメロディが鳴った。認識した合図だった。
「そうそう。これをやっとかないと、皆に怒られちゃう。さあ、今度こそ奥へどうぞ」
「皆って」
「ファミリーの皆、だ」
アストンが、ミセス・ローズマリーについて歩きながら囁いた。「お前はいつも通りの仕事をすればいい。それだけだ」
「…はい」
ネイはしおらしく返事し、その後思いついたように言った。「それで『スーツを着て来い』って言ったんですね?」
「そうだ」
「勉強になりました」
「はは。なかなか似合っているぞ」
通されたのは、セピアカラーで揃えられた応接間だった。広い室内の中央に厚い絨毯が敷かれ、革張りの大ぶりなソファが天然木のテーブルを囲む。
三人がソファに掛けると、すぐに灰色のワンピース姿の女が黒い箱を抱えて入ってきて、テーブルの上に置いた。これはホログラフィーではなく、本当の人間だった。
ミセス・ローズマリーが箱から何かを取り出し、ネイの前に置いた。
「あなたなら、これを幾らで買い取る?」
ネイは既に上着を脱いでいて、鞄から出した手袋をはめ、眼鏡型のルーペを掛けていた。
手に取るとそれは、琥珀のようだった。中に小さな羽虫が閉じ込められている。ネイは丹念に調べたが、やがて言った。
「これは偽物です。よく作られていますが、人工で、本物ではありません。うちでは買い取れません」
「では、これは?」
ミセス・ローズマリーが次に取り出したのは、小さな木の箱の上に、有名なキャラクターが載ったものだった。下はオルゴールだった。見た目に損傷はなく、音もきれいに出た。
「これは西暦二一〇〇年の記念に出た、数量限定のオルゴール…の、偽造品です。これも、うちでは引き取れません。それより」
ネイは、オルゴールをそっとテーブルに置き、黒い箱を手で差した。「そちらの箱の方をぜひ買い取りたい。見せて頂けませんか」
ミセス・ローズマリーから笑顔が消えていた。
「そこから見て、幾らになります? 損傷はほぼないとして」
「2キロリバー出しましょう」
「そんなに? ただの箱ですよ」
「本物の日本の漆器とお見受けしたもので。今ではとても希少ですよね。蓋の梅の花は、人気のモチーフで、つくりが繊細でかつ華やかです。箱の下に敷いたクロスが、中身のものよりずっと上等で、箱の底にも敷いてある。だから本当は、貴女もその価値はよくご存知のはずです」
「その通り」
ミセス・ローズマリーが、肩にのった薄桃色のストールを掛けなおした。「でも、これは私の宝物だから簡単には譲れない。これからのお話次第かもね」
彼女は、顔はネイに向けたまま、視線だけをアストンに向け、言った。「マーティー、エマに、お茶を持ってくるよう言って来て」
アストンは黙って立ち上がり、ネイの方を見ることすらなく部屋を出て行った。
ドアが閉まる音が、静かな屋敷の中にやたらと大きく響いた。
「さっきのこれ、琥珀の偽物だけど、よく出来ているでしょう。あなたは1分で見破ってしまったけれど、他の人ならそうはいかないと思うの。例えば、…あなたの街に来た観光客とか?」
ミセス・ローズマリーの手の中には、ネイが「買い取れない」と言った琥珀の偽造品があり、彼女はそれを眺めてみたり、光にかざしたりしつつ、さっきまでよりずっと張りのある声で喋り続けた。
「これを作るコストは、本物の販売価格の約20分の1。20リバー売れば19リバー、1キロシー売れば950シーの利益が出る。でも私達にはできない。理由は簡単。分かるでしょう? 営業許可証がないからよ」
その声は熱の篭った演説のようであり、または厳しい叱責のようでもあった。
ネイは急に、自分の全身がこわばり、動けなくなっている感覚に襲われた。
「それで…ネイ。あなたに『ちょっとだけ』協力してほしいの。マフィアになれなんて言わないし、今のご商売の邪魔にならない範囲で結構。あなたは、自分が持っている権利をほんの少しだけ、困っている私達にも使わせてくれる。そうしたら私達は、あなたに謝礼を用意する。難しく考える必要ないのよ、あなたが既に持っている物の、使い方を変えてみるだけ」
ネイはうまく断るタイミングを計っていた。そのことは相手にも伝わっていた。それもまた、ネイにもよく分かっていた。
「あなた、『奇跡の双子』の一人なのですってね?」
不意にミセス・ローズマリーが言った。
「アストンさんに聞いたんですか?」
ネイの言葉に彼女は答えず、喋り続けた。
「私たちに協力してくれれば、今の店よりもっといい立地に、大きな店を構えることが出来る。お姉さんだってきっと喜ぶでしょう。ちょっとした贅沢だってさせてあげられるでしょうよ」
そうきたか…ネイはしかめた顔を、下を向いて隠した。今の生活や家族のことを盾に取ろうということか。
だがその盾はネイの側に立つものだった。
ネイは顔を上げ、にこりとした。
「そのお話はお断りさせてください。あいつは贅沢にはあまり興味ないし、狭い所好きだし、偽物を売ったりしたら、誰よりも早く僕の左手を潰してしまうに違いない。怖い奴なんで、ほんと、すみません」
「では独立してはどう? 今のお店はお姉さんに任せて、あなたはあなたで自由になればいいじゃない」
「…言い方が悪かったですね。あいつを言い訳に使うなんて。僕がやりたくありません。お断りします」
「断らない方がいいわよ、ネイ・岩崎。どうなるかは想像がつくでしょう」
「今はそれをどう切り抜けるかで頭が一杯です、ローズマリーさん」
「そんなことは不可能。そもそも選択肢なんてない」
彼女の手にはいつの間にか拳銃があり、銃口は当然のようにネイに向けられていた。
「時間の無駄ね。さようなら」
「まだ終わりではないですよ」
ネイの掌にも小さな銃が握られていた。
二人とも黙ったまま、少しの時間が流れた。
「ここまでにしましょう!」
ミセス・ローズマリーが急に大声を上げたので、ネイはびくりとし、その後の彼女の笑顔を呆然と見ていた。
「あなた、なかなかいいわ! 本当にうちの子にしたいくらいよ。ごめんなさいね、今の話は嘘なの。あなたを試させて頂いたの」
「え」
ネイが絶句しているうちに、ドアがノックされ、アストンとエマが入ってきた。
「ちなみにこの偽の琥珀ね、作るより本物を買った方が安いんですって。うちの庭でつまらないこと企んだ奴らがいてね。結局うまくいかないうちに、うちの子たちに見つかったんだけど。勿論これ以外は全て処分させたから、ご安心を、真面目な古物商さん」
ネイはやっとのことで大きな息を吐いた。今頃になって心臓の鼓動が荒くなってきた。
「今日はもしかして、このために僕を…?」
「まさか。本題はこれからよ。でも疲れたでしょう。部屋を用意させたから、少し休んでから話しましょう。今日は泊まっていきなさい。このお詫びに、夕食は何でも好きなものを用意させるから。エマ、ご案内を」
「またなにか、僕を試すような事があったりは…」
「もうないわ。これは本当」
「じゃあ、僕からひとつだけ」
ネイは言った。「…僕の家族、双子のもう一人は、姉ではなく妹です」
「あらそう。ではこれからはそう呼びましょう」
ミセス・ローズマリーが笑った。「ところであなた、そんな手で荷物持てる?」
はっとネイが気付くと、その両手は大きく震え、止めようにも自分ではどうにもならなくなっていた。
「よくあの場で、妹だの姉だのと言えたものだな」
「僕にとっては大事なことです」
「まだ手が震えているくせに」
ネイの荷物はエマが案内しながら運んでくれ、客間のベッド脇に置かれた。
ネイと、彼らについてきたアストンは今、その部屋のソファに座っている。ネイは手の震えに苦心しながらもやっと眼鏡を外し、背もたれに体を沈めるように寄り掛かっていた。
視界に入る照明は、水仙の花束のような形で、部屋の隅で優しげなオレンジ色の光を放っていた。
「しかし、悪かったな。お前なら大丈夫だと思ったんだ」
「こちらこそすみません。アストンさんのご紹介なのに、お恥ずかしい所を見せてしまって」
「いや上出来だ。ママは随分、お前を気に入ったようだ」
「だといいのですが」
「で、今夜は何が食いたい?」
「…天然の生の寿司」
「大きく出たな。今世界で最も手に入りにくいメニューのひとつじゃないか。この国の名物といえば牛だって知らないのか?」
「オージー・ビーフは昼に頂いたので、今度はマグロとか、ウニとか、が食べたいです」
アストンは立ち上がり、にっと笑った。「たぶん飯の前にママに呼ばれるだろうから、さっさとその震えを止めておくんだな」
「努力します」
アストンが部屋を出て行くと、ネイは大きく息を吐き、天井を見上げた。
だらんとしていた両腕を伸ばした。動くようになったかな。外した眼鏡がテーブルから落ちそうだ、ちゃんと置き直さなきゃ。それから着替えよう、変な汗をたくさんかいてしまった。喉がカラカラだ、案内の人が淹れてくれたお茶を飲もう。…駄目だな、我ながら情けない。
目を瞑った。
少しの間眠ってしまったようだった。
エマが呼びに来たときには、ネイはすでに着替えを済ませ、眼鏡は白いシャツのポケットに収まっており、ティーカップは空になっていた。
案内されたのはまた別の部屋で、やはり広かったが、柔らかい布張りの椅子に掛けると奥のダイニングが見え、その先はバルコニーになっていて開かれたカーテンの先が風になびいていた。外には闇が広がっていた。
後からやってきたミセス・ローズマリーが差し出したのは、掌に載るくらいの木製のオルゴールだった。
大量生産品というよりも、小さな部品までを丁寧に組んで仕上げた手作りの品、というようなものだった。ネイは受け取り、外観を確かめた後、蓋をそっと開けた。
外のレバーを回してみたが、何も聞こえない。
底板の四隅に小さな螺子が付いていた。回して更に奥を伺うと、狭い空間にごく小さな電子回路と円盤型の蓄電池が、隠れるように納められていた。
「少なくても、『上』の方は壊れているのね。そして、『下』の方、一応電池は換えてみたけれど、壊れているかそうでないかは分からないの。確認のしようがなくて」
「僕達の耳では確認できない音、ということですね」
ネイの言葉に、ミセス・ローズマリーは無言で頷いた。
「では確認して査定するまでの間預からせて頂いて…」
「いえ、査定は結構。それはただでお譲りしたいの、その音が分かる方に…お願いできるかしら」
「代金はいらない、ということですか?」
「要りません。訳あって、今までは私が持っていたけれど、いつかはお返ししなければいけないと思っていたんです。といっても、元の持ち主は分からないから、その音が分かる上で欲しいと言って下さる方に。修理代は私が持ちます」
「すぐには見つからないかもしれませんが」
「構いません」
「承知しました。ではお預かりします」
「ありがとう、よろしく頼みます」
ネイがここに呼ばれた用件とはこのことだったようで、ミセス・ローズマリーがほっとした表情になり、この瞬間から急に、部屋の空気が穏やかに、暖かくなったような気がしてきた。
「話は終わりましたか?」
いつのまにか、アストンがダイニングのテーブルに寄り掛かり、こちらの様子を見ていたようだった。「だったら寿司を食いましょう。ヘリで一時間かけて運ばせました」
「いいわね。今夜はうんと美味しいものを頂きたい気分だわ」
「一緒に日本酒も調達しましたよ。…ネイは飲めないんだったな、残念だったな」
「お気遣いなく」
「そうなの?」
「日本人も台湾人も、酒に弱い奴が多いんですが、ネイは両方の血が混ざっているもんな。せっかく美味い酒を造れるのに」
アストンがにやにやしながら言った。
「別にいいです、残念じゃないです」
ネイの口調が少し拗ねたような響きになった。
「まだお若いからじゃないの? そのうちご一緒できるといいわね」
三人がダイニングテーブルにつくと、給仕の男女が現れ、あっという間に食卓が整えられた。
そのわずかな間、ネイは、バルコンの先の闇に目を遣った。
大きく欠けた月が、雲間から鮮やかに輝いていた。
翌日も風は強かったが、飛行機が欠航するほどの荒天にはならず、ネイは無事に自分の国に到着した。
空港から列車に乗る。すでに日は暮れているが、戸外は暑かった。ネイは白シャツと黒いボトムという姿だ。上着はいらない。
列車のシートに座って発車を待つ。シャツの袖をまくり上げ、息をついた。疲れと、帰国した安心感で、ややぼんやりとしていた。
視線を落としていたネイの前で、数人の足音が止まった。
ネイが見上げるのとほぼ同時に、ひんやりと響く男の声がした。
「今日もエイリアン絡みで荒稼ぎか? 骨董屋」
細く長身、眼鏡をかけた男と、その後ろに男女が一人ずつ、ネイを睨みつけている。皆黒いスーツ、濃い灰色のネクタイ姿である。
「とんでもない。相変わらず、その日暮らしの自転車操業ですよう」
ネイは笑顔で言った。が、目の奥では笑えなかった。「あなたも出張ですか? キューレーター・クァン」
「そのふざけた態度こそ相変わらずだな。鞄に何を入れている」
「大したものは入っていませんよ。ま、令状さえあれば、鞄の裏地の裏までお見せしますよ。令状さえあ、れ、ば!」
男の細い目が、更に細くなってネイを睨んだ。
その時、発車のサイレンが鳴りだした。
「検挙される前に足を洗ったらどうなんだ。それとも実刑を食らわないと分からないか」
「僕は捕まるような事なんかしていません」
三人が列車を降りるとすぐ、ドアが閉まり、走り出した。
ネイは大きく溜め息を吐いた。
ミセス・ローズマリーから預かったオルゴールは、エイリアンのために作られたものだ。
隠すように付けられた電子回路は、エイリアンが聞きとれる周波数が出るようになっている。エイリアンには様々な種類がいるため、電子回路もその数だけあり、今回のものはネイが見たことのないものだった。上面の、人間用の部分は、フェイクなのか、同じ曲を聞くために付けたのか。
だが、現在、エイリアンに関する物品を扱うのは違法である。
それを取り締まるのが『キューレーター』だ。
彼らにオルゴールを見られていたら、面倒な事態になっていたところだった。
「あんな法律、なきゃいいのに」
独り言がつい出てしまう。「はー。早く家に着かないかな」
第二章 台北
閉じたカーテンの隙間がやたらと眩しいので、テイは枕元の時計を見た。
店の開店時刻を少し過ぎている。はっとしたが、今日が定休日だと思い出した。
時計の機能で、メッセージの確認をする。唯一人の家族の声がはいっており、帰宅は夜になると告げていた。
体はけだるい。
もう少し眠った方がよさそうだ。テイは目を閉じた。
ベッドの上と夢の中を行きつ戻りつしていたテイだったが、階段を上ってくる静かな足音で、今度ははっきりと目が覚めた。
「テイ…?」
声がした。テイは起き上がり、いつもの癖で目を擦った。
「熱はどう?」
開けたままのドアの向こうから近寄ってきた友人の姿に、テイは笑いかけた。「もういいみたいだよ、リーシャ」
それでも、リーシャは心配そうに、テイの額に自分の手を当てた。「うん。今朝より下がってる」
「今朝?」
「今朝も来たんだけど、テイ、よく眠っていたから起こさなかったの。湯冷ましを作って置いといたんだよ、ほら」
リーシャが指差したテーブルの上には、合成樹脂製の白い水差しとグラスが置かれている。
「ありがとう。飲むよ」
リーシャが注いで渡してくれた湯冷ましを、テイは一度に飲み干した。
「もっと飲む?」
「うん」
「もうすぐお昼だけど、食べられそう?」
テイはその問いに、二杯目の湯冷ましを飲みながら考え、答えた。「かんな橋のおにぎりだったら、食べたい」
「じゃあ買ってくるね」
「私も行く。行って選びたい」
「大丈夫?」
「大丈夫。でもシャワー浴びてから」
「わかった。下で待ってる」
リーシャが、肩までの髪を留めていたピンを外し、煉瓦色のスカートの長い裾を翻して部屋を出た。階下へ降りていく足音。途中で止まった。
「アポロンにもごはんあげてもいいー?」
「お願いー」
足音の続きが聞こえ、その後物音とリーシャの声が聞こえた。
テイはその間に、長い黒髪をまとめて結い、着替えを出して浴室へ向かった。
身支度を終えたテイが一階に下りて行くと、それを待ち構えていたように、大きな鳥がテイの頭の上で旋回し、キッチンの隅の止まり木に降り立った。羽を思い切りばたつかせたので、キッチン中に赤と黄と青の羽が落ちてしまった。
「アポロンも心配していたんだよねー?」
リーシャの声に反応するように、コンゴウインコのアポロンが首を傾げた。
リーシャはキッチンのスツールに腰掛けている。テーブルにはいつものランチョンマットが敷かれ、アポロンが食べた木の実のかけらや殻がまだ残っていた。
「ありがとうアポロン」
「あと、今ネイから電話があったよ。家に着くのは夜になるって」
言いながら、リーシャは素早くテーブルの上を片付けた。
「メッセージも入っていたのに。二回も電話してくるなんて珍しい」
「心配しているんだよ、お兄様としては」
「私が姉だもん、あっちは弟!」
「はいはい」
テイが藍色のTシャツ、白いショートパンツの上にシャツと同じ色をした膝丈のパーカーを纏うと、アポロンが再び飛立ってその肩に止まった。
二人と一羽は、キッチンにある裏口から外に出た。
自宅兼店舗の建物の裏手には、住人が使う通路があり、向かいには一本奥の通りに面した建物の裏側が接している。そこに出るには、裏口を出て左に数歩行けばいい。
やや暗い裏通りを、駅の方に向かって2分ほど行き、隣の通りに出て横断してさらに次の通りに出る。すると目の前は大きな川が流れていて、左手方向に石作りの橋が架かっている。
それがかんな橋だ。
その袂に平日のみ出ている軽食の露店がある。
土日に観光客相手の食堂を開いている店主が、平日は四輪の荷車に陳列棚を設え、おにぎりや惣菜を積んでバイクで牽いてくる。駅の近くとはいえ平日は観光客がそう多くはない地域だが、今日は天気もよく、地元の人間達が仕事や日常の買い物で行き来していて、露店もなかなか繁盛している。
テイとリーシャは台車の隅で今日の昼食を選ぶ。アポロンはテイの肩の上でじっとしていた。
すると突然、棚のひとつが音を立てて崩れた。同時に走り出す人影。
「待て!」
店の主人が叫んだ。
棚のピンを抜いて崩し、その騒ぎの隙に商品を持ち去る窃盗が、以前あった。
だが今日はそれとは違った。
テイは人影が走り去るとき、何も手にしていないことに気付いた。
商品が目的ではないとしたら…
テイはすぐ、店主が売上金を入れている、大きな菓子箱を目で探した。
その瞬間、箱に手を伸ばした者がいた。別な客だった。見かけない顔。おそらく逃げた奴の仲間…
テイはとっさに、箱を抱えた男の進路に立ち塞がった。
アポロンが肩から飛び去る。
男は進路を変えずテイに体当たりしようとした。テイはそれをかわすと同時に男の膝の裏を蹴った。男がバランスを崩して倒れそうになる。すかさず背後から背中を掴んで倒して…と動こうとしたテイだったが、その瞬間急に眩暈がした。
それで手を伸ばしきれず、やっと掴んだのは男のTシャツだった。男はふらつきながらも倒れず、テイの手を振りほどいて走り去ろうとした。
そのとき、男の前にすらりとした人影が立ったかと思うと、男が急に背中からどんと倒れ込んだ。
その人影が泥棒の腕と肩を押さえている。他の客や通行人たちがそれに続き、場が騒然とし始めた。
テイは立ったまま、下を向いた。眩暈が治まってきた。
「テイ、大丈夫?」
リーシャの問いに頷きながら、声のした方を見ると、リーシャは落ちてばら撒かれた小銭を拾い、菓子箱の中へ戻していた。
「大丈夫…」
テイもしゃがみこみ、足元のコインを箱に投げ入れた。
「まだ具合悪いんでしょ。休んでいなよ」
「もう大した事ないよ。リーシャは偉いね」
「何が?」
「いろいろ」
「テイの方こそ、よく泥棒に気が付いたね。私も他の人も全然気付かなかった」
「たまたまだよ」
集め終わった小銭の箱は、リーシャが、近寄ってきた店主に渡した。テイは少し離れた木陰に入り、幹に寄り掛かった。
リーシャが誰かと話している。それは最初に犯人を取り押さえた人だ。知らない若い男だった。あれは一瞬のことだったが、おそらく武道の技のようなものだった。
その割には線の細い人物だった。リーシャが気に入っている俳優に少し似ているように見える。彼女は随分にこにこしていた。
誰かが呼んだのだろう、警察が到着した。
テイは上空を見上げた。少し曇ってきていた。アポロンの姿を探す。
アポロンはかんな橋の欄干の上で、こちらの様子を伺っていた。
橋を渡る子ども達が彼を見て歓声を上げた。動物園以外ではめったに見ることのない種類の鳥だ。だが彼は騒ぎや大きな音が苦手なので、騒がれるのはごめんだとばかりに、大きな羽をいっぱいに伸ばして飛び立ち、テイからも見えなくなってしまった。
警察官がテイの元へやって来たので、状況を話した。途中からリーシャが脇に来ていた。それが終わると、店主が来て、お礼にと、まだ店頭に出していなかったというおにぎりや惣菜が入れられた袋を二人に渡した。
一度は断ったが、結局貰うことにした。
テイとリーシャは、来たときと同じ道を、帰路についた。
「あの、泥棒を倒した人は?」
テイが訊ねた。
「急ぎの用があるって、行っちゃった」
「どうやって倒したのか聞きたかったな」
テイにはその動きはよく見えなかったが、無駄のないきれいな投げ技だったのは分かっていた。
「私聞いたけれど、長い名前でよく分からなかったんだよね。日本の護身術って言ってた。あの人も日系なんだって」
「詳しく聞いたんだね…」
「そんなことないよ。あ、名前は喜多見さん。公務員だって。この辺に住んでいるわけじゃないみたい。仕事で来ているとか」
「充分詳しく聞いたんだね」テイはなんだか可笑しく思えてきた。「で? 連絡先なんかは訊けたの?」
「ううん」
「あら、リーシャさんともあろうお方が」
「やめてよ。別に、誰にでも聞いている訳じゃないからね」
リーシャは少しむきになったような口調になった。「でもね、私達が北の商店街に住んでいるって言ったら、そちらにも後日仕事で行くから会えるといいですね、だって!」
「見かけたら教えるよ」
「よろしくね!」
また始まったな、暫くは喜多見さん喜多見さんと騒がしいだろうな…リーシャの言葉にそう思いつつ、その笑顔にテイもつられて笑顔になった。
リーシャが母と営む洋裁店の裏口まで来た。ここはテイの家と違い、裏通りに面して勝手口がある。よく見ると、えんじ色のドアと花台との隙間に植えられた草の上に、アポロンが丁度良く収まっていた。橋の欄干から飛び立った後、先に帰ってきていたという訳だ。
「アポロン!」
テイが呼ぶより早く、アポロンがテイの肩に乗った。
そこから三軒分行った所の向かいが、テイの店だ。裏通りから見上げると、階段の大きな窓がステンドグラス風に装飾されている。テイとネイの作だ。
角を折れてすぐにあるドアは群青色。各戸で色が違っていて、これは、同じ形の建物が連なる長屋ふうの商店街ゆえに、裏口からでもどこの店か分かりやすくするという、大家の工夫らしい。町名とドアの色だけで郵便が届くと聞いた。まだ試してはいないけれど。
「夕方、また来るね」
昼食を食べ、飲んだお茶の後片付けを終えたリーシャが言った。
「もう大丈夫だよ。夕食はこれがあるし、ネイも帰って来るし」
テイが、袋をガサガサと振る。貰った惣菜はまだだいぶ残っている。
「分かった。でもちゃんと寝てなよ。さっき眩暈したばかりなんだから」
「はーい、ママ」
リーシャが笑いながら帰っていくと、テイは二階へ上がった。アポロンもついてきた。
階段を上がりきった所で外履きを脱いで裸足になる。
そこは小さなホールのようなスペースになっていて、テイのお気に入りの白いロッキングチェアを置いている。丸みを帯びた形で、木目を楽しむためなのか塗装はごく薄い。大きなつくりで、テイの体は包み込まれたように収まってしまう。
座ると、背後にテイの部屋とアポロン用の大きなケージ、左はネイの部屋と作業部屋、右に窓と本棚、前方に階段と浴室がある。
目を閉じて体の力を抜くと、忘れていた倦怠感が蘇ってきた。
次に目を覚ましたときには窓の外はすっかり暗くなっていて、自動で点く照明がなければ、足元で眠るアポロンにも気付かなかったかも知れない。
立ち上がると、ロッキングチェアが音をたてて軋んだ。その音のせいか、アポロンも目を覚ました。
テイの体はすっかり軽くなっていた。
階段を降りる。アポロンもついてきた。まだネイは帰っていない。
好きな音楽をかけ、冷蔵庫の野菜とソーセージでスープを作った。
スツールに腰を下ろし、一息ついた時。
外で、小さく鋭い鳴き声がした。
猫の声か。
おとなしくしていたアポロンが、バサバサと翼を振った。
「大丈夫だよ」
テイは声をかけた。このあたりは夜には野良猫が多く現れる。
とはいっても、アポロンが猫の鳴き声に反応するのは珍しいので、テイは裏口を少し開けて外を覗いた。
変わった様子は見られなかった。
裏口を閉め、背を向けた。
その時そっと裏口が開いた。
テイが振り向くと、ネイが、裏口から顔を半分出していた。
「ただいま」
ネイが言った。
「おかえり」
テイが返す。
ネイは扉を大きく開いて入ってきた。
「何かあった? 今外を見てたでしょ」
「猫の悲鳴みたいな声が聞こえたから」
「へえ。俺は聞こえなかったけど…」
「アポロンが反応したから、気になって」
テイはスツールに座って言った。「でも、何でもなかったみたい」
「具合はどう」
「もうだいぶ良くなった」
ネイはテーブルに鞄を静かに置き、手にしていた上着を隣室との間のカウンターに投げ、鞄を開けた。
「これあげる」
ネイが軽く投げたものを、テイが片手で受け、見ると、虫が入った琥珀のようだった。テイはそれをキッチンの灯りにかざし、じっと見た。
「一応言っておくと、偽物だから」
ネイの声が追いかけてきた。
「騙されて買っちゃった?」
明るくテイが問う。
「そんなわけないでしょ」
「中の虫も偽物なの?」
「さあ? 虫は本物じゃない? ただし現代の」
ネイは答えながら、鞄から大事そうに包みを取り出し、テイの向かいに座った。
「詳しい話は後にして、まずこれを見てよ」
ネイが言いながら、包みのクロスを外した。
「オルゴール? 触っていい?」
テイはネイが頷くのを見て、その木の箱を手に取った。
形は直方体、色はオーク、模様のない、ごくシンプルな外観だった。磨いて塗装をかけた時の僅かなムラが、手作業で作られたことを示していた。
テイは、オルゴールを手の中で一周させた。それから蓋を開けた。
ネイが差し出した細いドライバーをテイは受け取り、底板を外した。
「電子回路か…」
「一見地味な昔風の玩具なのによく見ると、中にはなぜか本体が二つあって、電子回路の方は使っている部品が一般的なオルゴールと違う。前に一度だけ見た、エイリアン向けのオルゴールと似ている」
テイはレバーを回した。
「どっちの音も聞こえないね、私達には」
「その点はこれから確認だな。少なくても、俺たちが聞ける方は、壊れていて動かないんだろうな。もう一つは…これは確認だけでも時間がかかるかもしれない」
「でも、メルボルンまで行った甲斐があったね」
テイが笑った。「いいな、私も行きたかった」
「熱が出たんだ、仕方ないさ。それに、来ない方がよかったよ、大変だったんだから」
「? 飛行機の乗り継ぎが?」
「違う違う。そいつの持ち主が、だよ」
ネイはそう言うと、大きく息を吐いた。「アストンさんが『ママ』って呼んでた」
「え、それって」
「もう死ぬかと思ったー」
「じゃあその辺の話は、ごはん食べながら聞かせてよ。こっちも話したいことあるんだ」
「了解。でもシャワー浴びてから」
ネイは立ち上がると、二階へ上がって行った。足取りは軽い。
テイは、ネイの帰宅にほっとしつつ、明日は店を開けたいと考えていた。
第三章 誰
翌日は、朝から薄く雲がかった天気だった。
早く起きるのはいつもテイの方だ。特に、昨夜は夕食後ネイがオルゴールを診ると言っていた。テイは店を開けたかったので早々に寝床に入ったが、ネイは徹夜したかもしれない。
テイは、今日はさらさらの長い髪を結ばずに櫛を通しただけで、ふんわりとした淡い紫色のニットと、象牙色の細身の長いスカートを着て部屋を出た。アポロンが部屋にいるので、ドアは開けておいた。
自動点灯を切った薄暗い階下に、ネイの姿は見当たらない。ただ、表通りに面した出窓からの朝日で、キッチンと小物店の間にある、骨董店としてのスペース、特に壁際の作業台が雑然としているのがわかった。
そこを通り過ぎて小物店スペースも横切り、大通りに面したシャッターと大きな扉を開けた。
それから、店内に戻って箒と塵取りを手に取り、外へ出た。
早朝だが、まばらに人の通りがあり、車もバイクも走ってゆく。
壁越しの隣は台湾菓子の店で、いつものようにもう暖簾がかかっていた。反対隣は小道の向こうで、まだ開いていないが、絵葉書や文房具を売る店だ。
テイが店先を掃いていると、菓子店の扉が開き、黒いスーツ姿の背筋のまっすぐ伸びた男が出てきた。
「おはようございます、テイさん」
よく響く声で、彼は毎朝挨拶する。彼は菓子店の常連で、休業日以外の平日はほぼ来ている。必ず出勤前のこの時間に、掃除に出るテイと顔を合わせるのだった。
「おはようございます、クァンさん。今日は何を買ったんですか?」
テイは、いつものように、細長い体躯のクァンを見上げるようにして、訊いた。
「今日は胡麻団子です」
大事そうに両手に持った包みを見下ろし、クァンは、眼鏡越しでも判る程ほころんだ顔で答える。「今日は胡桃餡も作るそうなのですが、この時間には間に合わなかったのだとか」
「じゃあ私は後で買いに行こうかな」
「それがいい。では」
「行ってらっしゃい」
クァンが駅の方へ歩いてゆくと、テイは掃除を済ませ、店内に戻った。
さっきとは逆に奥へ進みつつ、掃除用具を片付け、灯りを点け、窓を開けた。それから、幾つも置いた鉢植えに水をやった。
その時、テイの横のソファで、上の毛布がごそごそ動いた。
「ネイ、そこで寝てたんだ。朝だよ」
テイは声を掛けつつ、部屋を移動してすべての植物に水をやった。
ネイの返事がない。テイはソファに顔を向けた。
ソファに掛かったグレーの毛布から、知らない女が起き上がっていた。
目が合った。一瞬、沈黙があった。
「あんた、誰?」
女が言った。双子より少し若いように見える。まだ少女と呼ぶ方が合いそうだ。茶色いショートヘアで、瞳はブルネットだ。
「それはこっちの質問でしょ」
言いながら、テイは、ネイが向かいのソファで横になっているのを確認した。「あなたこそ誰?」
「ネイの彼女?」
少女がネイの方を振り返り、訊ねる。
「いやいや、まさか」
テイが答えた。
「じゃあ妹か。なあんだ、どうりで似ていると思った」
少女が立ち上がった。小柄で細い体を、カーキグリーンの短いワンピースで包んでいる。
少女はテイの横をすり抜けようと、体を滑り込ませた。
そこへテイが、少女の腕を掴んだ。
「で、あなたは何?」
「えー。気になる? 誰だと思う? 二人で何してたと思う?」
テイが無言で少女の首筋に顔を近付けた。少女が驚いて後ずさりした。テイはさらに踏み込む。
顔が触れる寸前のところで、息を吸い込んだ。
「ネイの匂いがしない」
呟くように言った。「そうね、モノポリーでもしていたのかな?」
少女が、思い切りテイの手を振りほどいた。
「また来るかも。そう言っといて」
言いながら、裸足で出てゆく。
ソファの足元にヒールの高い、黒いサンダルが転がっていた。テイはそれを拾うと少女に向かって、
「忘れ物」
言いながら投げた。
少女は振り向きざまにそれを掴み、そのまま歩いて行き、先刻テイが開けた店の扉から出て行った。
テイはそれを見送りながら、彼女に見覚えがないか思い出そうとした。でも出てこない。おそらく今が初対面だった。
振り返るとネイは起きていて、ソファに座り込んでいる。
「『また来るかも』って言っといて、って言ってたよ」
「あー…はい」
ネイは寝惚けているのか、その振りなのか。
「…いつも言っているけれど」
テイは落ち着いた口調で言った。「私は、十二歳の夏から、ネイさんの恋愛問題には一切関わらないと決めています。私からは何も訊かないし、言わなくてもいいし、巻き込まれたくもありません。でも、ここは私の家でもありますので、さすがに共用スペースにお連れになるのは」
「ま、待って下さい」
ネイがテイの話を止めるように言った。「そういうのじゃ、ない」
テイが黙ったので、ネイは急いで言った。「あの子は花屋の孫で…名前はイーファン。全寮制の学校に行っているけど、今は休暇で帰ってきていて、祖父母と喧嘩して行く所がないって言うんでうちに泊めた…」
「よく知り合っていたねー。私は今のが初対面だけど」
「いや、俺も、ゆうべが初対面…待って怒らないで」
「怒っていると思う?」
「知らない人を勝手に家に泊めたので…」
「ふうん。どうして知らない人を泊めると怒るんだっけ」
「商売柄、他人に見られたり知られたりしちゃいけないものが多いからです」
「うん」
「前に花屋で見た写真と似ていたから、とりあえず信用して泊めた。けど、俺ちゃんと寝ないで様子見ていたよ。彼女に怪しい所はなかった」
「そう。とりあえずゆうべはね。でも、また来るって言ってたけど?」
「本当に来るか分からないし、そのうち休暇も終わるだろ」
「ネイがいないときは入れないけど、それはいい?」
「いい」
ネイの体がゆっくり横に倒れた。
「昼まで寝かせて」
ネイが消えそうな声で言った。「寝た振りしていたけれど、実は寝ないで彼女の見張りしていたし、前の晩だってろくに寝られなかったから、さすがに辛い」
「じゃあ自分の部屋へ行ってくださいな」
「うん…」
ネイは重そうに体を起こし、二階の自室に向かった。
「それは、右のレバーを手前の方に回すんですよ。ええどうぞ、試してみてください。2、3回転巻いたら手を離していいですよ。…ね、電池ではなく、人の力を使って動くんです」
テイは一人で、店の接客をしている。
街の人出は多い方だった。
店の客はというと、テイ一人でも充分に対応できる程度で、売り上げとしてはあまりよくはない。だが、テイとしては、休日に混んだ中での接客より、程よく会話の出来る、こんな日が理想だと思っている。
アポロンは、午前中は二階や、キッチンと店にある止まり木を好きに行き来している。今日のように客足があまりない日は店によくいるが、混みあう日には二階に篭ってしまうことが多い。派手な見た目だが、性格は人見知りで繊細な鳥なので、マスコットとしてはやや不向きかもしれない。
この店では、二十~二十一世紀の玩具や小物を真似て作ったものを売っている。電池を使わない物を、と決めていて、手動の、動く小さな玩具や時計やオルゴール、または動力を必要としない玩具を扱っている。客は、実用というよりインテリアとして買い求める場合が多い。
レプリカではなく本物を、という客は奥に通す。本物は希少でかなり高価なので、鍵付きのショーケースや引出しに納められている。
とはいっても、ネイとテイはまだ若く経験が浅いので、骨董の方での商売はあまり上手くはいかずにいる。生活はほぼ、レプリカの売り上げで賄っていた。
それでも生活が出来ているのは、この街にいるからだ。
ここは、二十世紀をテーマにした商店が連なっている。まるで時代が止まっているかのように、当時の食べ物、服、家財道具、芸術作品などが売られ、観光客に買われている。
全ては、二十一世紀のある日に、突然出された『メッセージ』から始まった。
KCと名乗る者が起こしたサイトの中には、当時の約三十種類の言語で、
『自分が地球以外の星の生まれであること』
『自分以外にも、多種の異星人が千人単位で地球上にいること』
『二十世紀後半から彼らの移住が始まったこと』
『地球の生物との共生を望んでいること』
『彼らのコミュニティーの存在する街の名』
などが綴られていた。街の名前の中に、この街も入っていた。
だが、百と数十年の間に色々な事が起き、二十二世紀現在、地球上に異星人はいないといわれている。
それでも、かつて住んでいたとされる、という曖昧な表現で、『メッセージ』公開当時の懐古趣味の観光地として、この商店街は始まり、徐々に店が増えつつ今に至っている。
会計を済ませた客に挨拶したテイは、入口のそばに、今朝の女、イーファンが立っているのを見つけた。
彼女は開いた戸の上を見上げていた。
「何を見ているの? 看板?」
明るい口調で、テイは話しかけてみた。
「ここ、鳥、飼っているの?」
イーファンが見上げたまま訊いた。
この店の名は『鸚鵡』。
店の看板は、アポロンをかたどった金属板に、店名を打刻し、色を付けて出来ている。
「飼ってるよ。うちの気難しいマスコットなんだ」
「かわいい?」
「そりゃあね。かわいいよ。最初はなかなか懐かなかったけど、今は仲良し」
「それってやっぱり、懐くようになってからかわいいって思った?」
「うーん。初めからかわいいとは思ったけれど、懐いてからの方がよりかわいい、かな」
「そうなんだ。…言う事を訊かなかったら、やっぱりかわいくないよね」
最後の一言が、テイには独り言のように聞こえた。
「言う事聞かない時なんて、今でもいっぱいあるよ。というか、私やネイの思うとおりにさせるのは、もうやめた。アポロンは人見知りでちょっと臆病だけど、マスコットには本当は向いてないけど、賢いし、こっちの考えていることとか、分かっているみたい。家族みたいなものだね」
「あんたの考えが分かっていて、でも言う事聞かないって…それでいいの?」
「そういう奴だから」
テイは肩をすくめながら言った。「いいの。そういう所もまた、かわいいんだ」
「ふうん」
「あなたは何か、飼ってる?」
「なにも」
イーファンはぞんざいに答えた。「動物は好きじゃない」
「そう」
イーファンがアポロンに興味を持ったのかとテイは思ったのだが、動物が嫌いなら、それは違ったようだ。
「ネイはきっと、従順な女の子より、言うこと聞かないくらいの子の方が好きだよ」
テイは言ってみた。
イーファンが驚いたようにテイを見た。
「ネイの事なんて訊いてない」
イーファンの声が大きくなった。
「そう。興味ないならごめんなさい」
「ネイの事なんて興味ないもん」
イーファンはテイから目を逸らし、黙ってしまった。
「興味ないか。呼んで来てあげようかと思ったのに」
テイは、視線を店内に向けて呟いた。
イーファンが視線をテイに向けた。
「あ、今は出られないんだった。会いたかったらまたあとでね」
「興味ないってば」
どなるように言い、彼女はテイに背を向け歩き出した。
「しまった…」
イーファンの後ろ姿を見送りながら、テイは思わず呟いた。「関わらないって言ったのに、つい面白がってしまうなあ」
正午はとっくに過ぎてしまったが、客足が途絶えたところで、テイは店先に休憩の札を掲げ、キッチンで簡単に昼食の支度をした。
その物音で、ネイが起き出してきた。白い、ゆったりとしたニットに、普段よく穿いているデニム。まだ眠そうな顔をしている。
「やっぱり壊れているみたいだ。どの周波数も全く出ていない」
ネイは、昨日のオルゴールの話をしながら、アポロンのためにナッツを出してやる。棚から大きなアルミの缶を取り出して蓋を開けた。
アポロンが止まり木から飛び立ち、ネイの頭に軽く足を掛けてキックし、テーブルに降り立った。
「君、最近それ好きだね」
ネイが、澄ました様子のアポロンに向かって言う。
「また蹴られた?」
テイが笑う。
「痛くないし、本人楽しそうだからいいけどさ」
ネイは、広げたランチョンマットの上に、いつもの数だけ、殻付きのナッツを転がせた。「でもなんで俺だけなの。テイにはやんないでしょ」
アポロンはその問いにはお構いなく、ナッツをつつき始めた。
「まあまあ。私達もごはんにしよう」
テイが、煮込み肉と米飯を盛り付けた皿を置き、言った。
二人は向かい合わせに座ると、食べ始めた。
「部品交換かもしれないんだね」
テイが訊ねた。オルゴールの話だ。
「たぶんね。でも、もう少し調べないと」
「そう。…今日この後、お店任せてもいいかな」
「いいけど。なにかあるの?」
「ちょっと出掛けたいんだ。夕方には帰る」
「了解。オルゴールの修理はまた後にするよ。急ぐことはないしね」
昼食が終わると、すぐにテイは家を出た。
表の通りに出て、駅と反対の方へ向かう。交差点を二つ渡った角に、老夫婦が営む生花店がある。
が、店は閉まっており、定休日の札が掛かっていた。
では、と、隣の果物店へゆく。
「いらっしゃい」
店のおかみさんが声をかけてきた。
買い物袋を手に提げ、テイが次に向かったのは、リーシャの家だった。
表口から入るには、階段を5段上る。その端には、いつも小さな鉢植えが飾られている。
ガラスのドアを押して中に入る。いつものように、ドアに付いたベルが賑やかな音を立てた。
日が傾くより早く、テイは自分の店に帰ってきた。
すると、ドアに、休憩中の札が掛かっている。
ネイが外し忘れたのかと、外して中に入ると、奥のソファに、ネイともう一人誰かがいる。骨董の方の客が来ているらしい。それで札を出していたのだと分かった。
「テイ、『こっち』のお客さんなんだ」
こちら向きに座っていたネイが、テイの方を見て言った。「店に出てくれる?」
「わかった」
答えながら、客の方を見ると、客もテイの方を向いて、目が合った。
「あれ?」
二人で同時に声が出た。
「昨日はどうも…」
テイが言うと、
「その後、具合はいかがですか?」
客が訊ねてきた。
「もうすっかり元気です。昨日はありがとうございました」
テイは笑顔で答える。
ネイが二人のやり取りを聞きつつ交互に見比べ、不思議そうにしているので、テイが言った。
「昨日話した、かんな橋で泥棒を捕まえた人だよ」
「いやあれは、あなたが早く気付かれたのが良かったんです。私は少し手助けしただけで」
落ち着いた口調で彼、喜多見は言った。「びっくりしました。偶然ですね。…もしかして、ごきょうだいですか?」
「きょうだいで店をやっています。こちらは弟で」
「兄です。…双子ですが」
すかさずネイが口を挟んだ。
そして、ふと何か思いついたようで、
「リーシャにも来てもらおうか」
テーブルに視線を落として言った。「こちらの修理のご依頼でね。表部分は彼女に頼むようになると思うんだ」
テーブルには、茶色い熊のぬいぐるみが置かれていた。座った恰好で、高さ20センチ程か。痛みが目立つ。背中に鉄製のレバーが付いている。
「発条で動くの?」
「中はオルゴールなんだ」
「へえ。かわいいね。…じゃ、電話してみる」
テイが電話を掛けると、リーシャは、驚いたような喜んだような口調ですぐに行くと言った。
数分後、緊張した様子のリーシャがやって来て、喜多見と挨拶を交わすと、ネイの隣のソファに座り、ぬいぐるみを手に取った。
仕事の話だと伝えたからか、淡い杏色のブラウスに、仕事用の黒いエプロンスカート姿、髪は1つにまとめている。
テイも、他の客が来ないので、キッチンのスツールを持ち込んでその様子を見ることにした。すぐ傍の作業用の椅子は、まだネイの道具が積みあがっていた。
「分解してもらえる? 俺、生地の方は詳しくないから…」
ネイの言葉にリーシャは頷き、持ってきた道具箱を開けた。
そして確かな手つきで、あっという間に、布や綿の部分と機械の部分とを分けてしまった。
機械部分は箱型になっていて、全体がかなり錆びている。布の裏側にもその錆が付着していた。布には更に、別な染みが広がっている。
「生地の方は、痛みが激しいので、新しい生地で作り直した方がいいと思います」
リーシャが遠慮がちに言った。「この生地を、別の新しい生地で補強して使うとなると、元の生地の方が耐えられないと思うんです」
喜多見は、考え込んでいるのか、黙ったまま、分解された機械と生地とを見つめている。
どうしよう。リーシャがそんな表情でネイの方を見た。
「機械部分の方は、少し確認する時間を下さい」
ネイが口を開いた。「どういった形で直していくか、ゆっくりお考え下さい。こちらはいつまででも待ちます。元の状態でお返しすることもできます」
その言葉にも、喜多見は答えあぐねているようだった。しかしすぐ、顔を上げた。そしてネイとリーシャを交互に見ながら、
「すみません。では考えさせてください」
申し訳なさそうに言った。
「構いません。お悩みになるお客様は結構多いんです」
ネイが慣れた様子で答えた。「では、この状態で預からせて頂きます」
話が一通り終わったので、テイは立ち上がり、訊ねた。
「喜多見さん、コーヒーとプーアル茶、どちらがよろしいですか?」
「いえ、私はもう帰りますので…」
喜多見が慌ててテイを見上げて言った。テイはそれに応えて言う。
「悩むのも疲れるでしょ? お急ぎでなければ少し休んで行かれてはどうですか?」
「…ありがとうございます。ではプーアル茶を」
テイは頷き、キッチンへ行く。
ネイも立ち上がり、作業台脇まで来て引き出しを開けた。
「かわいいオルゴールですね」
リーシャが喜多見に向かって言った。「私、ここの商品以外で、発条式のオルゴール、初めて見ました」
「そうなんですか? 手慣れていらしたから、てっきり修理業のかたかと」
喜多見は本当に意外そうな顔だった。
「本業は服を作る仕事です。修理で縫製作業があるときだけ、二人の手伝いをしているんです」
店の入り口で人の声がした。客が来たのだ。
「俺が出る」
ネイがキッチンの方を向いて言い、テーブルに空の樹脂製の箱を置いた。「リーシャ、この中にオルゴールを」
「うん」
「開いていますよ、どうぞ!」
ネイが明るい口調で店頭に出てゆくと、客の声は一層大きくなった。
リーシャが、分解されたオルゴールを丁重に箱に入れる。喜多見はその様子を見ながら話しかけた。
「彼らは双子なんだそうですね。確かによく似ている」
「でしょう? 一卵性なんですよ」
「一卵性ということは、DNAが全く同じ…?」
「いえ、異性だから違うそうです。だからとても珍しいらしいです」
リーシャが手を止め、話し始めた。「しかも二人は、お母さんのお腹の中で、ずっと両手を繋いでいたんですって。あ、勿論本人達は覚えてなくて、両親の話とか検診の記録とかで知ったそうですが。それで、生まれたときは、お母さんのお腹を切って、二人同時に取り上げられたんだそうです。だから、どっちが姉とか兄とか、今でも揉めるんです」
「なるほど。さっきも言い合っていました」
「ほんといつもそうなんですよ」
「でも、よほど強い絆で結ばれているんでしょうね」
「ですよねえ」
「ちょっと、リーシャさん」
プーアル茶を二客、盆に載せて運んできたテイが口を挟んだ。「人の話より、テーブルを片付けていただける?」
「はは、ごめん!」
リーシャは笑いながら、自分の道具を片付けた。
テイはそれに続けて、お茶を二人の前に置いた。そして箱を作業台に置くと、さりげなくキッチンへ戻って行った。
少し経ち、小物店の客がいなくなったので、ネイが奥へ来た。
「苺があるんだ。みんなで食べない?」
テイが言った。「もちろん喜多見さんも。お嫌いでなければ」
ネイが続けた。
「喜多見さんは、苺に何をかけます? 練乳? 粉砂糖? 生クリームもチョコレートソースもありますが? リーシャはどうする?」
「私は練乳」
リーシャが言った。
「了解。喜多見さんは?」
「苺、お嫌いでしたか?」
リーシャが小声で喜多見に訊ねた。
「いえ、そうではないんですが」
「じゃあ、遠慮なく。と私が言うのも変ですが」
リーシャが笑いながら言った。
「喜多見さん。早く言わないと、ネイと同じように全部かけちゃいますよ!」
「テイ! 俺、そんなことしないでしょ」
「では、何もかけないものを下さい」
喜多見が言った。その顔は、三人につられて少し笑っていた。
帰る喜多見を店の前で見送り、三人で店内に戻った。修理の話が終わってからかなり時間は経っていて、外では日が沈みかけていた。
不意に、リーシャが言った。
「私、喜多見さんの気を悪くしちゃったかな」
「え?」
「なんで?」
ネイ、テイがほぼ同時に叫んだ。
「ほら、修理の話で…元の生地が傷んでいるとかもう使えないとか、言っちゃったじゃない」
「使えない、とは言ってないでしょ。あれは伝えなきゃいけない情報だったよ」
「それに、言い方もかなり優しかったよ。喜多見さんだって気にしてないって」
「そうかな…」
「そうそう」
「あの後だって、楽しそうに話してたじゃない。気にしすぎだって」
「うん、そうだよね。…そうだ、私もそろそろ帰らなくちゃ」
リーシャがキッチンの壁の時計を見上げた。
テイも時計を見て、それからリーシャの方を向いた。
「じゃあ私送るよ。今朝の事もあるし」
「今朝の事って?」
空の食器を下げながら、ネイが訊いた。
「朝、カフェの裏で、猫が殺されていたんだって」
「カフェのおじさんが、裏口から外に出ようとした時に見つけたんだって。ほらあそこ、野良猫のたまり場になっているじゃない?」
「死体は何か所も刺されていて、酷い状態だったんだって。だから猫どうしの喧嘩とかじゃなくて、人が刃物で襲ったんじゃないか、って話だよ」
「それでね、昨日の夜に猫の声を聞いた、って人が結構いて…テイとアポロンも聞いたんでしょ?」
「うん。ネイ、あれはやっぱり気のせいじゃなかったんだよ」
「かわいそうに…」
「先週には、川の向こうでもそんなことがあったんだって」
「猫と烏と、二件あったらしいの。うちのお客さんから聞いたんだけど」
カップを洗う水道の音より勢いよく、テイとリーシャが喋る。
ネイはただただ素直に、すごいなあと思っていた。
「じゃあ、俺がリーシャを送る」
ネイが少し声を張り上げて言った。「カップを洗い終わるまで待っていて」
「大丈夫だよ、私が」
テイが言うのを、
「テイはアポロンを迎えに行ってあげて」
ネイは遮った。「あいつ、喜多見さんが来てからずっと二階に避難しっぱなしだから、たぶん機嫌を損ねてる。俺が行ってもきっと無視するよ」
「なら、テイはアポロンの所に行ってやって」
リーシャも言った。
「そう。じゃあリーシャ、またね」
「おやすみ」
テイは二階に上がって行き、リーシャはテイから、ネイに視線を向けた。「ごめんね、ネイ」
「構わないよ。こっちが呼んだんだから」
ネイは水を止め、タオルを手に取った。
そしてネイとリーシャは、外へ出た。
建物の隙間からはまだ少しだけ明るい空と、濃い灰色の雲が勢いよく北へ向かって流れてゆくのが見えた。
「週末は雨かな」
ネイが呟くように言った。
「予報では今夜から明日の昼までは曇り。その後雨らしいよ」
歩きながらリーシャが言った。「ねえ、気になったんだけど」
「何が?」
「テイから聞いたんだけど、昨日、猫の声がしたときに、ちょうどネイが帰ってきたんでしょ?」
「そうらしいね」
「ネイは本当に聞いてないの?」
「…聞いてないよ」
「テイより耳がいいって前に聞いたけど」
リーシャの声が、少し硬く聞こえた。
「鋭いな。…できたらテイには内緒にしといて欲しいんだけど…」
ネイは少し困りつつ、デニムのポケットから小さな燻銀色のピアス型イヤホンを出した。そして、リーシャによく見えるように、近くの窓から漏れる光にかざした。
「こいつで音楽聴きながら帰ってきたんだ、結構な音量で。それで気が付かなかったんだと思う。でも、それ言うとテイが怒るからさ、耳が悪くなる、って」
「そうか。分かった、黙っておく」
リーシャがほっとした声になった。
ネイもほっとした気分になって、イヤホンをポケットに戻した。そのとき急に気がついた。
「あ。…タオル、持ったまま出てきちゃった」
リーシャが声をあげて笑いながら、立ち止まった。もう彼女の家の前まで来ていた。
「ありがとうね、おやすみ」
リーシャが言うのを軽く手を振って答え、扉が閉まるのを見届けてから、ネイは引き返した。
このまま自分の店を通り過ぎると、絵葉書屋、古書店、カフェ…
古書店とカフェの間には、ネイたちの店の脇のように細い道があり、大通りに出られる。カフェと背中合わせになっているのは、住人が使う駐車場だ。
自分の店の角で、ネイは再び空を見上げた。
昨日の晩の空を思い出す。半月が出ていて、今日より明るかった…
駅からの帰路に、裏通りではなく大通りを歩いてきたのは、夜空がよく見えるからだった。もし裏通りを歩いていたら、何か気が付いただろうか。今からでも何か思い出せることは。 ネイは少しの間考え込んだ。
しかし何も出てこないので、ネイは考えるのをやめて中へ入った。
キッチンの止まり木では、アポロンが忙しそうに毛づくろいの最中だ。せわしい動きは、人間がいらついている様子と重なって見える。やはり、初対面の客が長居したのが気になっているのかもしれない。
テイは店の片づけをしているようだった。
ネイはその後ろ姿に声をかけ、夕食の準備を始めた。
そのうちテイが、店の灯りを落とし、キッチンへやって来た。
「黄色いインコがあと五個になったよ」
店の在庫、発条仕掛けのおもちゃの話だ。「ピンクと青も少なくなってきているし、今月中に完売かもね」
「デザイン違いはいつ入るんだっけ?」
料理の手を止めずに、ネイが訊いた。
テイはテーブルで、売り上げのデータと現金とを確認しはじめた。
「週明け。今のがなくなったら出そうね」
「緑と銀の飛行機は?」
「新しいインコと一緒に来るよ、たぶん。…船便だからあてにならないけど…」
「そう。…苺、今日買ったの?」
「出かけたときに買ったんだ。同じのをリーシャの所にも持って行ったんだよ。昨日、一昨日とお世話になったから」
答えてから、テイが顔を上げ、ネイの後ろ姿を見ながら言った。「花屋さんの隣で買った。ごめん、勝手に調べてきちゃった」
「別にいいけど」
ネイは手元を見たまま、言った。「何かわかった?」
「花屋さんは休みだった。それで果物屋のおばさんに聞いたんだけど。イーファンっていうお孫さんは本当にいて、全寮制のハイスクールの2年生で、成績優秀で自慢の孫で、で…
今はカナダに留学中なんだって」
「え」
ネイが持つ包丁の動きが止まった。だがすぐに動き出した。
「学校の交換留学制度とかで、先月から半年間行っているらしいよ」
「ってことは、夕べの話は嘘か…」
「そう。あれは誰だったんだろう」
テイは作業を終え、チェストに深く座り直した。
ネイは調理を続けながら言った。
「夕べ、俺は例のオルゴールを調べていたんだけど、二時くらいにキッチンのドアの呼び鈴が鳴って、いたのが彼女だった。家の人と喧嘩して出てきたけれど、行くところがなくて、うちの灯りが点いていたから思わず呼び鈴を押してしまった、って言ってた。俺は、例のオルゴールは隠して、他の修理をしてたけど、彼女はその間殆ど喋らないで、棚の本を見たり、店の物で遊んだりしていたな。…あなた結局聞くのね?」
「あ。そうだね。…無くなった物とか、変わったことはなかったの?」
「それが、ぜんぜんなくて」
「私も、店の中で、気が付いたことは特にないんだ。…とはいっても、うちは身に覚えがありすぎるからなあ」
「やっぱり家に入れるべきじゃなかったね。悪かったよ」
「もう仕方がないよ」
テイが立ち上がった。「何か手伝おうか?」
「じゃあ皿を出して。もう少しで出来るから」
「炒飯だね。匂いで分かるー」
テイは食器棚の戸を開けた。「そういえば気が付いた? リーシャが…」
「ああ。喜多見さんが新しい王子様?」
リーシャの様子を思い出しつつ、ネイが問う。
「そうなの。昨日一目惚れしたみたい」
「いつもながら、熱しやすい人だなあ」
「冷めやすくもあるのが、やや難ありだけどね」
『鸚鵡』から見ると、川の向こう側は、駅の近くは繁華街で、離れるにしたがってオフィスビルが目立ち、その先は集合住宅が多くなる。
ビル街の隅の路地、薄暗いその狭い路地を、数人の男女が無言で歩いている。
彼らの、長い袖で隠された手には大振りのナイフ。
足早に進みながらも、その目は辺りを怯えるようにせわしく動き、物音がしたような気がしては、止まってナイフを構える。獣でも虫でも、見つけたものに襲いかかるが、大抵は空振りに終わる。
稀に、ナイフの餌食となったものがあれば、息絶えるまで刺し続けた。そうして死に至る瞬間を、皆で囲んで凝視する。
先刻、彼らの一人が大きな鼠を捕らえた。
はじめの一刺しで背中を掠った。二度目で下腹部を貫いた。もう鼠の死は確実だったが、三度目四度目と、鼠が完全に動かなくなるまで続く。誰もが黙ってそれを見ていた。
やがて鼠の動きが止まった。
しばし、彼らはそれを見ていた。
何も起こらない。
別な一人が、更にナイフを突き立てた。何度も。
そして死骸は原型を留めず、彼らは失意を纏って再び歩き始めた。
その後何時間も歩き続けている。
「さっさと出て来いよ」
一人が、誰に聞かせるともなく呟いた。「出て来い出て来い出て来いでて」
「うるせえ。お前を刺すぞ」
「いいねえ」
「なんかもう、何でもいいから刺したい」
「人の中にはいないんだろ。いたら刺しまくれるのに」
そう言った先頭の女の、数歩先で物音がした。
見ると、誰もいなかったはずのそこには、人影があった。
その存在に気付いた彼らは急に押し黙り、立ち止まった。
人影は彼らに近づいた。そして、
「刺せばいいじゃないか」
言うと、女のナイフをその腕ごと掴み上げ、女の太腿めがけて振り下ろした。
女が悲鳴を上げ、ナイフを落した音が響いた。
人影はそのナイフを拾い上げるとすぐさま近くの男に近付き、振り回した。男は必死でかわす。人影はそのさまを楽しんでいるかのように見えた。
別な男が人影の背後に回った。それを察した人影は振り向いて利き手に切りつけるとそのナイフを投げて元の標的の頬に掠めさせた。
路地の数メートル先に、小さなサーチライトが光った。
「何をしている?」
その何者かが声を上げた。
だれも答えなかった。
「警察だ。何をしている?」
また、声が上がった。
女を刺した人影は、そのわずかな間に忽然と消えていた。
彼らは振り返って駆けだした。
「止まれ!」
警官達が拳銃に手を掛けた。
瞬間、その背中に何かが当たった。彼らは振り向きざまに銃を構えた。
だがその先には誰もいない。
再び、暗がりの方にライトを向け、路地に入った。が、逃げた者たちはすでに見失い、残されていたのは、血の付いたナイフ一本だけだった。
真っ暗な路地から明るい通りに、足音もなく出てきた人影があった。
人の波に混ざり、昼間のように明るい街の中を歩き、川沿いの公園まで来ると、彼はジャケットのポケットから小さな金属の缶を取り出し、中のライターで紙巻煙草に火を点けた。
それを吸いながら、彼は何度も深呼吸をした。
やがて煙草が随分と小さくなると、彼は火を消して吸殻を缶に収め、静かにどこかへ歩き去っていった。
第四章 雨の予報
翌日の午前中、ネイが今日は店を空け、駅へ向かっていた。
外は少し寒かった。夕方からは雨の予報。行きがけにTシャツの上に羽織ってきた濃紫色のカーディガンが、ちょうど良い暖かさだった。灰白色の細いボトムのポケットに左手をかけ、右手はトランクを持ち、藍色のスニーカーを履いた足で、周囲の人々より少し早いペースで歩く。
昨晩も喜多見から預かったオルゴールを調べた。
錆付きが酷い部分は部品交換になるが、直すことはできそうだ。これからその部品を調達に行く。
もう少しで駅というとき、不意に左腕が軽く引かれた。
見ると、『イーファン』がネイのすぐ左側にいて、こちらを見上げてにこりとしていた。
「やあ」
ネイが再び歩きつつ言った。
イーファンも同じペースでついてくる。
「今日は眼鏡なんだね。ネイは目、悪いの?」
「いや。ただの気分」
「おしゃれだね。どこへ行くの?」
「君んち」
瞬間、イーファンがネイから離れた。
立ち止まったイーファンに合わせて、ネイも足を止めた。
「嘘だ。方角が違うじゃない」
「うん、嘘」
ネイが言う。「おじいさん、おばあさん達と仲直りした?」
「…ネイには関係ないでしょ」
「あるよ。避難させてあげたじゃないの、一晩ものあいだ」
「仲直りなんて無理」
「じゃあゆうべはどうしたの」
「まあ、適当に…どうにかした」
「そう」
ネイは、イーファンの服があの時と同じなのを認め、冷ややかな声で相槌を打つと、再び歩き出した。
イーファンはついてこなかった。
ネイはまた止まり、振り返った。
「ネイには関係ない話だけど」
立ち止まったままのイーファンに聞こえるよう、声を少しだけ張り上げた。「君、本当は誰なの」
彼女はびくりと体を揺らし、一瞬だけ、何かを躊躇するような顔をしたが、すぐ後ろを向くと走り出した。そしてそのまま、人混みに消えていった。
店の出窓に並べた商品を、テイは一つずつ手に取り、そっとクロスで磨いていた。
店を開けたものの、天候のせいか今日はまったく客が来ない。なので、暇つぶしにと、出窓のディスプレイの入れ替えをしている。いつものように好きな商品を選び、並べたら、今日は発条仕掛けで歩く猫、尾や首を振るもの、鳴き声を出すもの、台座にオルゴールが仕込んであるもの…大きさも毛色もさまざまな、猫ばかりの窓辺になってしまった。
アポロンは今、二階のケージに入っている。
いつもなら、食事の後は、たまに外へ出してやることもあった。先日のようにテイが一緒のときもあれば、二階の窓を開け放して、自由に出入りさせるときもある。
だが、猫の件があったため、暫くは人前に出さないようにしよう、とテイとネイは決めた。
出窓の猫を全て磨き終え、テイは時計を見た。
昼までまだだいぶ時間がある。
少し寒くなってきたので、アイスブルーの荒いレース編みカーディガンを羽織った。その下には、白いTシャツと緩めのデニム。
そして、本でも読んでいようかと思ったとき、客が入ってきた。
…いや、その二人組は、客ではないようだった。
通りの向こう側から、窓越しに店内を覗いている三人の男女がいることに、テイは気付いていた。かれこれ三十分はこちらを見ていた。いずれも知らない顔ばかり、身なりはきれいとはいえない。そのうちの二人の男が、店に入ってきたのだ。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけたテイの顔を、先に入った一人がじっと見た。もう一人は店内をきょろきょろと見回している。
二人とも何も言わないので、テイが再び口を開こうとしたとき、テイを見ている方が言った。
「あの、あなた、大きな鳥を飼ってますね」
その声はやたら甲高く、上ずっていた。
テイはそれには答えなかった。
「どういったご用件でしょうか」
「いえ、あの、その鳥をね、見せてもらいたくて。鳥を」
「あんた、こないだ大きな三色の鳥を連れていたでしょう?」
もう一人が大きな声で続けた。「あれを見せてほしいんですよ。珍しい種類じゃないですか、あんなの本当にいるのかと思って」
「すみませんが、あの子は人慣れしていませんので、お見せすることは出来ません」
「でも、あんたのペットなんでしょう?」
大声の方も少し声が震えていた。
「家の者にしか懐いていないので。それにここは動物園でもペットショップでもありません」
そう言いながら、テイは二人のすぐ目の前に歩み寄った。そして二人の目を交互に睨んだ。
「ご用はそれだけですか?」
二人は無言で出て行った。
後ろにいた方の男が、外へ出る直前にテイを睨み返していった。
「なんなの?」
呟きつつ、出窓から外を覗くと、三人が合流し、駅方向に歩いていくのが見えた。
アポロンは、この街では珍しい種類の鳥なので、店の中でも外でも、人々が近くで見たり触れたりしたがることが多い。アポロンの機嫌次第では、それに応ずることもある。だが今の三人組は、アポロンに触れて喜ぶ人達とは違うような気が、テイにはしていた。
であれば、思い当たるのは一つしかない。
テイは急いで休憩中の札を取り、入口の外へ出てセンサーに右手をかざした。これで施錠できた。そして札を掛け、あの三人の後をついていった。
三人は大通りをまっすぐ歩く。だんだんと行き交う人が増えてきた。テイが三人から離れ、かつ見失わないようにするのが難しくなってきた。
三人は、駅前広場へと続く上りのエスカレーターに乗った。
数メートル離れて、テイも乗った。
普段、駅方面に行くときは、ここではなく裏通りから別のエスカレーターに乗っている。そこは地元の者くらいしか使わないルートで、エスカレーターは上り下りの一基ずつだが、ここは、街の中心部であり、四基ずつのエスカレーターが人でいっぱいになっていて、人々のざわめきが賑やかに響いていた。
上がりきると、そこが駅前の広場になっている。
歩道に沿って草花が植えられていて、それらは種類を変えながらずっと向こうの駅入口まで続く。
遊具で子供達が遊ぶスペースや、クラウンが大道芸や音楽を披露する一角もある。あちこちにカラフルなベンチが置かれ、いろいろな菓子の露店もあった。広場から、周囲のビルに出入りすることも出来、たいていはレストランや観光案内の店だ。
このあたりは毎日賑やかで、テイたちの商店街とはずいぶん様子が違う。テイもネイも、こういう雰囲気も嫌いではないが、やはり、懐古調で平日はごく静かな今の場所の方が落ち着くなと思っている。
テイが広場に降り立つと、緩やかなカーブを描く歩道の、先の方に、三人の姿を見つけた。
少し距離が開きすぎてしまった。見失いそうだ。テイは小走りで進みだした。
その時、背後で、自分を呼ぶ声がした気がした。
「……。テイさん」
二度目ははっきり聞こえた。
振り向くと、すぐそばに喜多見がいて、テイの方に歩み寄ってきている。
「喜多見さん。こんにちは」
笑顔で挨拶したものの、気持ちはもちろん先に向かっている。
「昨日のオルゴールについて、今朝ネイさんから連絡がありました。よろしくお願いします。それと、悩みましたが、外側もきれいに作り替えてください。生地は新しくして。リーシャさんに全てお任せします」
「わかりました。すみません、今急いでいるので…」
「待って下さい」
穏やかな声で、しかしはっきりとした調子で喜多見はテイを引き止めた。逆らってはいけないような気がした。「今日はお休みじゃないのでは?」
「ええ、まあ」
「ではお店へ戻るといい。今すぐに。ここまでにしておきなさい」
喜多見の言った意味が、わからない。
「どういうことですか?」
「いずれ、…機会があればお話しします」
言うと、喜多見は、音もなくテイの横をすり抜けた。
その穏やかな風のようなさまに、テイはわずかな間呆然としていたが、はっと我に返ると急いで三人組を目で探した。だが、もうわからない。
そして喜多見の姿さえも、目立つはずの長身も彼が着ていた白いレザージャケットも、すっかり見失っていたのだった。
その後、広場の中を探す気にはならず、テイは帰宅した。
急に夢が覚めたような、まだ覚めきらないような感覚が残った。
ネイはまだ帰っていない。修理部品を調達するとかで、夕方近くに帰ると言っていた。
ネイに電話をして、喜多見に言われたぬいぐるみ部分の話をした。
その後、リーシャにも連絡し、古いぬいぐるみ部分を取りに来た彼女に渡した。
だが、その他については、説明が難しいように感じられて、その時は言わなかった
テイは、二階のアポロンに餌を持ってゆき、その後昼食をとり、片付けて、店を開けた。それでようやく気持ちが落ち着いてきた。
店のレジカウンターにスツールを持ち込み、本を開いた。
それからどれぐらい時間が経ったか。
気が付くと、空が厚い雲にすっかり覆われ、下界はうす暗くなっていて、もう今にも雨が降り出しそうになっている。
予報より早く雨になりそうだ。
「ネイ、まだ帰らないかな」
レジに置かれた、発条で羽ばたく小さなコンゴウインコに呟く。
その時、店に入ってきた者があった。
「ネイなら、今は外出してるよ」
テイが言った。
入ってきたのは『イーファン』だった。昨日と同じ恰好で、店の中をゆっくりと見回す。
「悪いけど、出直してもらえる?」
「ネイじゃなくて、鳥に用なの」
イーファンがアポロンの止まり木に眼を遣ったまま言った。
「今日はうちの鳥が大人気だな」
テイは立ち上がり、イーファンの目の前に立った。
「鳥に何の用?」
「見てみたいだけ」
「動物は好きじゃないんでしょ?」
「見るぐらいできるもの」
「さっきも、知らない人たちが、鳥を見たいって来たんだ。男性二人に、女性一人。女の人は外にいたけど」
「…」
「もしかしてあなたの知り合い?」
「さあ。知らないよ」
「うちに泊まったのは、本当はどうして?」
「あんたには関係ない話」
「答えないなら、アポロンには会わせられない」
「じゃああんた、エイリアンについてどう思う?」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「私がこの町で嫌いなところは」
イーファンの声が苦しそうに聞こえた。「エイリアンがいたかもってだけで、記念碑だの博物館だのを建てて、観光地になって…」
「あなたはエイリアンが嫌いなんだね」
「二十一世紀の『エイリアン排斥運動』で、エイリアンはいなくなったっていうけれど、本当は今でもいるんでしょう? 猫とかに擬態して」
イーファンは窓辺に近付き、屈んで、並べられた猫の玩具たちを眺めた。「私、猫は好きだったけど、その話聞いてから気味悪くなっちゃった。かわいい猫だと思っていたものが、実は得体の知れない生き物だなんて、気持ち悪い」
「もしそうだとしても」
テイもイーファンの横に立った。「そうしなければ生きていけないなんて、気味悪いというより、私は気の毒なことだと思うな」
「優しい」
イーファンの口調は、皮肉を帯びていた。「だから自分でも飼っているんだ。本当の姿も見たことあるの?」
「もしかして、うちの鳥がエイリアンだって思ってる? 違うよ」
「丁度あのくらいが、擬態に適した大きさなんだってね? 人間だと大きいし、ばれやすいから、小型の動物や大きな鳥なんかに化けるんだってね」
言いながら、イーファンがテイの方を向いた。
その瞬間、テイの左頬に、冷たいものが当たった。
イーファンが右手に持ったナイフだった。
「鳥を出して。でないとあんたのことも切るよ?」
「見るだけじゃないでしょ。殺す気だね…猫たちのように」
テイが身じろぎもせずに言った。
「擬態できるのは生きている間だけなんだってね。死んだら本当の姿が判るんでしょ」
「見たことあるの? それ」
「今日、見られるんじゃない?」
テイは素早く左腕を上げ、作った拳の側面でイーファンの肘を打った。ナイフが床に落ち、甲高い音を立てた。
「やめなよ」
テイは拳を握りしめたまま、言った。
イーファンは落ちたナイフを気にする様子もなく、テイを見ていた。
「私は入ったばかりだから見たことないけれど、他の人は見つけた事あるって言ってた」
「他の人って…さっきここに来た人たちだね。エイリアン排斥運動家なんだね?」
「私には、エイリアンが気にならないあんたの方が余程おかしいと思える」
「私はむしろ、共存できたらいいと思っている方だから」
「この街の人間って大抵そう。気持ち悪い」
言いながら、イーファンはポケットから別の折り畳みナイフを出し、素早く振り回した。テイの肩に当たる手前で、テイが背後にかわす。イーファンが更に何度もナイフを振り、つどテイは後ろに下がりながらよけてゆく。
焦れたイーファンが大きく踏み込んできた。
その瞬間、テイは横にかわし、彼女の腕を取って引きながらそのまま床に叩きつけた。
衝撃でイーファンが顔を歪ませた。次の瞬間、イーファンが踵でテイの足を蹴った。テイは床に膝をついた。イーファンが立ち上がる。テイも体勢を整え、距離を取った。
「もうやめよう」
言ったのはテイだった。「私達がこんな事しても、意味がない」
「だったら鳥を出しなさいよ」
「あの子はエイリアンじゃないよ。…そう言っても、あなたは殺して試そうとするだろうね。絶対出さない、そっちが諦めてよ。そんな事やめなって」
イーファンがまたナイフを向けてきた。
「エイリアンなんていらない。出て行かないなら殺すまでよ」
「違うものまで死なせているじゃない」
「仕方ないでしょう。そうしないと判らないんだから。猫や鳥だって、何なら奴らが擬態できる生き物を全部殺してしまえば、奴らも生きていられなくなって丁度いいくらいよ」
「そこまで、どうして彼らを憎むの」
「気持ち悪い。そう言っているじゃない!」
ナイフが再びテイに向かってきた。テイは左手でイーファンの手首を掴むと右の拳を鳩尾に打ちつけたが、一瞬早く、イーファンの左手がテイの頬を叩いた。テイの拳の力は弱まらなかったが、左手は緩んだ。その隙にイーファンはテイの手を振りほどき、その首筋に向かってナイフを突き立てようとした。
テイは更に、イーファンの腕を掴みにかかった。
その時、ナイフの先がテイの腕に刺さった。
テイは力を抜かずに腕を回し、イーファンの腕を捻る。ナイフがテイの腕を割きながら落ち、血の雫が飛んだ。
テイは力をこめたまま、イーファンを睨んだ。
だがすぐに手先が痺れてきた。
イーファンが腕を振りほどいた。彼女の方は左手で鳩尾を押さえ、体を前に傾けている。
下を向いて、イーファンはゆっくりと出入口に向かっていき、扉の向こうに消えていった。
テイはそれを黙って見ていた。
イーファンの姿がすっかり見えなくなると、左腕の傷に目をやった。カーディガンとシャツをまくり上げる。肘から先が大きく裂け、血の染みができていた。テイが思っていたよりも傷は深いかもしれない。
救急車とタクシー、どちらを呼ぼうか考えながら、電話のあるカウンターへ向かう。
警察に知らせるつもりなら、救急車でいい。
黙っておきたいならタクシーで知り合いの医院。
どちらにしようか。考えがまとまらない。
そういう時はいつもネイに訊くのに。まだ帰らない。待っているわけにはいかないよね…
よろけるようにしてスツールに腰掛け、テイは大きく息をついた。
そのとき、ネイが帰ってきた。
ネイはまず、散らかった店内に気付き、そして血のついたナイフを見つけ、慌ててテイに近付いた。そしてその左腕に血が滲むのを見て顔色を変えた。
テイが訊いた。「救急車とタクシー、どっちに」
「タクシー」
早口で言いながら、ネイは電話を取った。「マウリッツ先生のところの方が早い。っていうか、どっちでもいいから早く呼べよ!」
「う、うん」
配車を頼み、ネイはテイの方を向いた。「傷は酷いの?見せて」
ネイはテイの傷を見、店の奥へ行きながら聞いた。「指は動かせる?」
「痺れているけれど、動く」
「ならいい。もう動かさないで」
ネイはタオルを持ってきて、テイの傷口に固く縛りつけた。それからかかりつけの医院にも電話した。
「誰にやられたの?」
「…イーファン」
ネイの問いにテイが答えた。それきり、二人は黙った。
そして、まもなく来た有人タクシーに乗った。
その女の運転手は、急ぐ客には慣れたもので、
「もうちょっとの我慢だからね」
と、テイに声を掛けると、勢いよく発車し、荒いながらも無人タクシーとは比べものにならない速度で街を走り、あっという間に、ネイが指示した医院に到着した。
二人がタクシーから降りると、医院の二階の窓に、白衣姿の男が腰掛けているのが見えた。テイやネイより肌の色が少し濃い。
「上においで。鍵は開いている」
彼は双子に声をかけ、窓の奥に消えた。
入ってすぐの階段を上がると、最初にあるのがその窓のある部屋だ。
ドアは開けられていて、物音が聞こえる。
入ると、部屋の中ほどにベッド、壁際には机や棚が並んでいる。先刻の医師が、ベッド脇の椅子に座り、手袋をはめていた。傍らでは、長髪を後ろで束ねた男の助手が、医師と同じ白衣姿で器具を並べていた。
「うちの常連が、今日は何事だ」
医師マウリッツがそう言いながらも、既に外科の処置をするための道具が揃えられている。ネイが電話しておいたからだ。
「ナイフで刺されたんです、折り畳みだけど刃の厚い、長さはこのくらいの」
ネイが手で示した。
テイは、助手の指示でベッドに横たわった。ネイは少し離れて立っていた。
「今夜のメインディッシュにでもされかけたかな」
ゆっくりと冗談めかした口調で言いながら、それでも真面目な表情で、マウリッツはテイの腕に巻かれたタオルを解いてゆく。
「喧嘩、みたいなものです」
テイが答えた。
「へえ。君らしいような、らしくないような」
流れるような手つきで、マウリッツがテイの腕に麻酔の注射を打った。
助手が、テイの右頬に冷たいタオルを載せ、廊下に出た。そしてすぐに器具を抱えて戻ってくると、テイの右腕に点滴の針を刺した。
「鎮痛剤と抗生物質を入れるよ。麻酔が効いてきたら治療を始める」
マウリッツはそう言いながら、道具を載せた台車を引き寄せた。「でもその前に、洗浄はしておこうか。テイ、カナタの手をしっかり握って」
助手が、ベッドの右側からテイの左手首から先と肘を押さえつけた。
次の瞬間、傷全体に染み込むような痛みが走った。テイは思わず呻いた。
「染みるだろ。それだけ傷が深いんだよ」
カナタが手を離した。が、テイの方は、反射的に握った力がすぐには抜けなかった。
「俺も痛い。テイちゃん、力強すぎ」
カナタがネイに向かって笑った。ネイもつられて、少し笑った。
「とはいっても、指や手首は動かせるし、骨にも届いていない。あと心配なのは、感染症だ。傷を接合しても、暫くは化膿や高熱に注意すること」
マウリッツの言葉に、テイとネイは黙って頷いた。
「そういえば、今朝警察が来て、ゆうべナイフで傷を負った人物が来なかったかと訊かれたんだ。…そろそろ接合するよ」
「あ、はい」
テイが答えた。左腕の感覚はなくなっていた。
「そいつらは、ほら、最近小動物が殺されている事件、あの容疑がかかっているそうだ。まあうちには来なかったけれど。あの動物達も、大きめのナイフでやられたそうじゃないか」
「動物を襲ったナイフで自分が傷を負う、って変な話だよなあ」
カナタが口を挟んだ。
「警察に訊かなかったんですか?」
ネイが訊ねた。
「俺、まだ出勤前だったのよ。りっちゃんはそういうの興味ない人だし」
「なくはない、他の点について推理を立てた。…テイのこの傷、動物殺しの犯人にやられたのだろう?」
「アポロンを庇った、ってところかな?」
「カナタ、人の推理を盗るな」
「俺だってそう思ったんだよ」
「テイ」
ネイの声には力がなかった。「そうなの?」
テイは、ネイがいるのとは反対の方を向いていた。そのまま、言った。
「そう。本人がそうだって言ってた」
ネイは何も言えなくなり、息をついて下を向いた。
「ひょっとして知り合いだったの」
カナタがネイに椅子を差し出した。
マウリッツは手を休めず言った。
「立ち入ったことを言ってしまっていたら済まない。だが怪我をしているのだし、医師として、患者の状況は把握しておきたかったんだ。野良猫や烏に使ったナイフで傷を負ったとなれば、感染症へのおそれがより出てくる」
「はい」
テイの声も、弱くなっている。
やがて処置が終わった。
カナタが器具を片付け始める。マウリッツは伸びをすると、テイとネイに言った。
「警察に通報はするの? うちはどっちでもいいけれど、するなら電話を貸すよ」
「テイ、どうする?」
ネイが訊ねた。
「どうしよう。わからない」
イーファンのこと。異星人のこと。怪我。ネイ。警察。
普段の怪我や病気ならこれほど動揺することは決してないのに、今日はいつもと違っていた。
「君が決めてもいいんじゃないか? ネイ」
マウリッツがテイの表情を見て、そしてネイのほうを向き言った。「今回はキューレーターも動いているみたいだ。詳しいことは全く教えてもらえなかったが」
キューレーター、という言葉に、ネイは少し引っかかったが、すぐ結論は出た。
「だったら通報します」
「仕事の方は、大丈夫か?」
「今回はアポロンが狙われたのだから、問題ないでしょう」
「キューレーターが動く理由は…」
テイが言った。「動物を襲った理由が、擬態したエイリアンを見付けるためだった、からだよ」
「それも、イーファンが言っていたの?」
「うん」
「先生。電話借ります」
ネイが部屋の隅の電話で話し始めると、マウリッツは白衣のポケットから飴玉を出して口に放り込み、先刻のように窓枠に腰掛けた。
片付けを終えたカナタが、テイの顔を覗き込んだ。
「で、アポロンは?」
「家にいる。無事だよ」
テイが答えた。
「そう、ならよかった」
「カナさん、ピアス増えてる」
テイが、カナタの両耳を交互に見ながら言った。
「おう。…落ち着いてきたな」
カナタが笑った。
マウリッツが口を挟んだ。「こいつがピアス穴を開けまくるから、それを見てうちに開けに来る奴らが増えて困っているんだ」
「りっちゃんだって、商売繁盛でいいじゃない」
「元気な奴の相手は苦手だ」
「カナさん、先生。ありがとう」
テイが呟くように言った。
「何が?」
全くわからないという風に、マウリッツが言う。
「ええと…」
「俺達じゃなくて、ネイに言いな。自分が治療受けているときの、あいつの顔見たことある?」
「ない…」
「どっちが患者なんだ、ってくらい青ざめているんだぜ、いつも。な、ネイ」
電話を終えたネイが、振り返った。
「何の話です?」
「兄は苦労する、って話」
「その通りです!」
「異議あり!」
「さすが、先生はよく分かってくれている」
双子が急に元気に話し出した。
「今日の所は、ネイがお兄ちゃんでいいんじゃない?」
カナタが声を掛けた。「りっちゃん、カルテ書かないと。警察が見るでしょ」
「そうだな」
マウリッツは面倒そうに返事し、飴玉を噛み砕いた。
外はさらに暗くなっていた。部屋には冷たい湿った風が入って来ていた。
やがて霧雨が降り始めた。そして、タイミングを合わせるかのように警察が到着した。
警察には、一昨日の晩からの話をしなければならなかった。
それでも、ネイは、今日イーファンに会った事は黙っていたし、テイの方も、昼間店に来た三人組を尾行した所までは話したが、喜多見に止められた事までは話さなかった。
話しているうちにテイの点滴も終わった。店に場所を移して、さらに状況を説明した。
床に残された二本のナイフは、警察官が持ち帰った。
ネイはその後、一人で店の片付けをした。
テイには、自室で横になるように言った。「自分も片付けをする」と言うかと思ったが、予想に反してテイは大人しく部屋に上がって行った。けだるげにしていたが、それは麻酔や点滴の影響もあるのかもしれない。
血痕を拭うとき、テイの傷に気が付いた瞬間を思い出して、また胸が痛んだ。
僅かでも残さないようにと、拭う手に力が篭った。
イーファンに会ったとき、もう少し違う態度が取れたのではないかと考えてしまう。自分の言動で、もしかしたらテイの怪我が防げたのかもしれないなどと、今更考えても仕方のない事が、頭の中をぐるぐる回るばかりだ。
ネイは頭を振った。そして片付けを続けた。
電話のベルが鳴ったのは、片付けを終えて、ソファに座ってぼんやりしていた時だった。
いつもの音なのに、なんだか動揺しながら出ると、リーシャの声が聞こえてきた。
「ネイ? テイが怪我したんだって? どんな具合なの?」
「けっこう大きな怪我だけど、もう治療して帰ってきている。でも今は寝てるんだ」
「そう。うちにも警察が来て、それで聞いたんだ。警察に色々訊かれたけど、私もお母さんも全然気が付かなかった」
「いや、むしろ、気が付いてうちに来ることがなくてよかったよ。相手はナイフを持っていたから」
「それ、あの、猫を襲った…」
「そうみたいだ。あるいは仲間か。アポロンを狙って来たらしい」
「アポロンは?」
「無傷だよ。その辺は、さすがテイ、というか」
「ほんとね。でもテイだって怪我しちゃだめだよ。早く犯人捕まるといいね」
「そうだな」
「なにか私でできることがあったら、言ってね」
「ありがとう」
「じゃあ」
「おやすみ」
電話を切ると、少し心が落ち着いていた。
雨は一晩中静かに降り続け、夜明けとともに止んだ。