009話 夜が明けて
「ふぁああ」
「珍しいね、小夜が朝から大あくびなんて」
「ちょっとね」
友人に声を掛けられ、小夜は涙を拭う。
涙腺が緩むほどの大あくびをしているのは、昨晩徹夜したからだ。
すぐに戻るはずだった主税が戻ってこず、止む無く小夜だけは学校があるからと寮に戻り、シャワーだけ浴びて登校してきた。おかげで完璧に睡眠不足。肌荒れが起きれば責任を追及して、スイーツぐらいは奢って貰わねばならないだろう。
「うん、やっぱり妙よね」
教室を見回して小夜が気付いたのは、主税とザエモンが今日は登校していないということだ。ザエモンこと大山崎が学校を休んでいてもサボリか仮病を疑うところだが、主税が無断欠勤をするとは思えない。そんな目立つ真似を嫌う事情を知ったからは尚更だ。
昨夜、ザエモンが大丈夫大丈夫、と軽口でヘラヘラしていたから気にせずにいたが、改めて考えてみると妙な話である。
どうにも嫌な予感が拭えない。時間が経つごとに、不安な気持ちが増大していくのだ。
「出席採るぞぉ席につけぇ」
熱田先生が教室に入って来たので、学生たちは大人しく自分の席に付く。
空いた席は二つだけ。どうあっても目立つ。
「今日は大山崎と服部が休みか……さて、それはそれとして、皆に伝えておくことがある。昨夜、本学の生徒と思われる者が学内に無断侵入したらしい。恐らく成績と席次に血眼になっている三年生だろうとは思うが、一応皆にも伝えておく……この学校のセキュリティを舐めるな」
武闘派として学生に恐れられる鏡子のひと睨みで、一年生はびくついた。舐めるな、と言った言葉には、ドスの効いた重みがある。
「どの先生方も口を酸っぱくして言っているわけだが、それでも毎年二~三人は学内のセキュリティを舐めてかかって痛い目を見ている。自分なら上手くやれる。そう過信して処分を受けた奴等は数え切れない。くれぐれも、学園の生徒としての自覚を持ち、学んだ知識は正しいことに使うように。ホームルームは以上だ」
一時間目は数学だ。
教室の移動が無い分、ホームルームが終わってからしばらくは学生たちの自由時間。楽しいおしゃべりの時間。普通の生徒ならそうなる。
「熱田先生」
騒がしくなった中、職員室に戻ろうとした鏡子を呼び止める声があった。ある意味では“普通でない”生徒の一人からの制止。
「どうした美作」
「ちょっとお話が……相談したいことがあるんですが、良いですか?」
小夜が教師を呼び止めるなど、ただ事ではない。鏡子は怪訝な顔をした。
「それは構わんが、お前寝不足か? 目が充血しているぞ」
「そのことで相談なんです。出来れば人に聞かれずに相談させてください」
「そうか。ならば指導室に行くか」
生徒指導室。ガラの悪い生徒からは拷問室との異名もあるが、本来の目的は生徒に対してきめ細やかな指導をするための多目的な部屋。生徒を説教するのに使われるのは用途の一つにしか過ぎないのだが、指導室と聞けば説教を連想する学生も多い。
学園独特の事情もあり、また昨今のプライバシー尊重の風潮もあって、この部屋は完全に防音かつ防諜の設備が整っている。
学生同士の不純異性交遊や不道徳行為に使われないように、鍵だけは教師が厳重に管理しているが、鏡子は生徒指導を担う一人なのでこの部屋の鍵を使える立場。
部屋の中の備え付けの椅子に小夜を座らせた鏡子は、珍しく緊張している少女に目を向けた。
「それで、話とは何だ」
「先生は、主税……じゃない、服部君と大山崎君が何故今日休んでいるか知っていますか?」
「……二人そろって風邪をひいたので休むと連絡があった」
嘘だ。小夜はそう直感した。
「私は本当の理由を知っています」
女学生の言葉に、鏡子は一切反応を見せなかった。
なので、とっておきのカードを切り出した。
「実は昨夜、学園に忍び込んだ生徒というのは私です」
これには流石に鏡子も驚いた表情を見せる。
諜報機関の一部として、時には機密情報を補完する学園は、侵入者に対して厳罰を持って臨むのが建前になっているからだ。学生とはいえ、忍び込んで見つかれば、まず無罪放免はあり得ない。
「何? もし本当なら最悪は停学だぞ? 退学もありうる。お前もそうなるかもしれん」
「でも、証拠が無ければ処分なし。でしたよね?」
「……まあな」
だが、教師の脅しも小夜には通じない。建前を除いた事実を知っているからだ。
腐っても情報員を育てる学校。
疑わしいだけでいちいち罰則を科していては、それこそ学内の生徒全員が対象になってしまう。スパイ疑惑というなら、学園の生徒というだけで真っ黒くろすけ。スパイを育てる学校なのだから当たり前だろう。
だからこそ、生徒のスパイ活動は証拠が無ければ処罰されないのが学校のルール。むしろ、教師や現役の情報員にさえ尻尾を掴ませないようなら、表彰状を出してもいいぐらいの校風がある。
今、小夜が学園に忍び込んだと自分の口から言ったとして。それが事実とは限らない。情報戦として、偽情報の流布や偽装投降による嘘の自白は極々一般的。曲がりなりにも学園の教師が、本人の証言のみを信じて行動し、デマでしたとなれば恥どころの話ではない。
だからこそ、小夜の言葉に対して、内容を信じる前提で話をしながら、一切御咎めなしという状況が生まれる。
「しかし、何のためにそんなことをした。重ねて言うが、捕まっていれば只じゃすまないぞ。お前ならそれは分かるだろう」
「例の制服泥棒を捕まえたくて、手がかりを見つける為に現場を調べようとしました」
「あの事件は今も現職の情報員や警察が捜査中だ。単なる学生がやるもんじゃないぞ」
「はい。それも分かっています。それで実はその時に、主税が居たんです」
「何!?」
服部が昨夜の学園内に居た。これには流石の鏡子も驚いた。
自分達教師が、警備から上がって来た報告を教頭経由で聞いた時、侵入してきたのは単独犯と確定されていたからだ。
侵入してきた形跡の数々、残された痕跡から、犯人に繋がる証拠こそ無かったが、単独犯であることは間違いないとされた。これは本職がやったのだから、誤魔化したとするなら超がつく手練れということになる。
或いは、と想像して、鏡子は小夜の言いたいことが分かった気がした。
「……多分、先生が考えてることが当たりです。私も昨日同じような推理をして、本人に問いただしました。口は堅かったですが、幾つかの状況証拠と、その後決定的な自白を得られたことで今は確信しています」
「じゃあ、本当に」
「ええ。服部君と大山崎君は諜報員です。それも現職の」
自分たちの生徒が、ことによると教える側よりも専門家だという。
これには鏡子も呆れる他ない。なるほど、他聞をはばかるわけである。
「つまり、あいつらは昨夜制服泥棒の捜査をしていて、なにがしかの事情から今日は登校していないということか」
「大体はそれでいいと思います。ただ私が気になっているのは、登校しないのではなく、出来ない状況にあるんじゃないかということです」
登校出来ない状況。何やらきな臭い感じがしてきたと、鏡子も顔が険しくなる。
「分かった、美作が私に相談したいと思ったのも当然だと思う。良く教えてくれた。ここからは私が責任を持って対応する。教頭にも報告するので、お前は授業に戻れ」
「でも……」
「良いから。斉藤先生は遅刻に厳しいぞ」
「分かりました」
自分が乗り掛かった舟を途中で下ろされるような形になった小夜としては至極不本意だが、数学科の斉藤教諭は一時限目の遅刻には滅法厳しい先生なので、小夜としても遅刻は出来ないと指導室を後にした。
「早速、教頭先生に相談だな」
鏡子は、その足で職員室に向かった。
◇◇◇◇◇
「ってことがあったの」
放課後の時間。
クラブ活動に勤しむものや、帰宅部として勤勉に活動するもの、或いはアルバイトや恋愛に青春を費やすもの。人それぞれの時間を過ごす中、一年い組の教室には、数人の学生が残っていた。
「今回はまともな相談でしたわね」
桃華の皮肉げな言葉にも、今はトゲは少ない。
自分たちの班員の一人が、実はトラブルに巻き込まれていますとなれば一大事だからだ。ましてや、本職の諜報員として活動していた最中のトラブル。最悪のケースとしては死亡という可能性もよぎる。
「主税君が現役の諜報員だったなんて」
「信じられない?」
「ううん。何となく納得してる。体育の体力測定でもわざと手を抜いてるようなところがあったし、今思うとなるほどなって」
令司は、小夜の言葉に驚きはしたが、戸惑いは無い。
入学早々から主税は目立たなさ過ぎて、逆に令司は気になっていたのだ。
「それで、どうするつもりですの?」
「あたしの意見より、皆の意見を聞かせてよ」
小夜は、自分の行動が主税の迷惑になった可能性を捨てきれないでいた。不安もある。誰かに事情を話し、自分の気持ちや考えを整理したかったのだ。
そして、誰に相談するかとなると、小夜は意外と交際範囲が狭い。深刻な悩みを打ち明けるには、親友と呼べるものも居ない。
そこでと考えたのが、一班の班員に相談すること。性格はともかく、実力については申し分ないメンバーだ。
「状況を整理すると……主税君が実は現役の諜報員で、制服泥棒の事件を担当していた。美作さんはそのことを偶然知った。そしてどうやら何かのトラブルに巻き込まれたらしい。ここまでは良いよね」
「ええ」
「そして、現状では熱田先生に状況を報告済み」
「そうなるわね。先生も真剣に聞いてくれた」
うぅんと悩み込む四人。小夜以外の三人にとって、相談があるから残ってくれと言われ、まさかこんな内容だったとは想定外。
その中で、最初に口を開いたのは令司だった。
「僕らが取り得る選択肢は二つかな。主税君を探しに動くか、無視するかだ」
自分でも考えながらなのか、令司はパッチリとした二重の眼で天井を見ながら話している。
「無視? 一体何をするの?」
「何も。無視だもん。僕らは一切手出しせずにいるわけだから、可もなく不可も無く。そのうちひょっこり主税君たちが学園に戻って来る可能性だってあるわけだし。そもそも彼らは自己の責任と判断で仕事をしていたわけだから、最後まで手出しを控えるのは常識的な判断だと思う」
「そうね。でも、それでもし主税達に何かあったら……」
小夜が悩んでいるのもこの点だ。
もしも主税達に不幸が起きれば。自分が首を突っ込み、おまけに事情を察していながら見殺しにしたことになりはしないか。曲がりなりにも学園で席を並べ、見捨てるというのは非常に気分が悪い。
あの不愛想な馬鹿ヅラが無いと言うだけで、どうもクラスでも居心地が悪いのだ。小夜自身、無視も選択肢にあると分かっていながら、それを嫌だと思っている。何故なのかは自分でもわかっていないが、もやもやとした感情が渦巻いているのだ。
主税と二度と会えない可能性に考えが及んで以降。
「うん。もし危険が迫っているとして、僕らには助ける力があると思う。これでも学園の生徒だし、何よりこの班のメンバーは一年のトップだ。僕らが動くことで、もしかしたら主税君たちの助けになれるかもしれない」
「わたくしは反対ですわ。仮に服部さんが危険だからとは言っても、現役の諜報員なのでしょう? それならばある程度のリスクも承知の上のはずですもの」
お嬢様然とした少女が目を吊り上げる。
「でも、敵に捕まった仲間を助けるミッションだってあるじゃない」
「美作さん、前にも言いましたけどわたくし達は学生ですのよ。出来ない事に恥はありません。わたくし達が介入して、二次災害になる方が問題ですのよ」
桃華の意見は、学生として正しい。
仮に目の前で血を流している人間が居ようと、医療の心得が未熟な人間が手を出せば、悪化するかもしれない。だから見捨てろ。然るべきところに通報した以上、出来ることは無い。
何ともドライだが、冷静で確実な判断だ。
「失礼しますわ」
自分の鞄を掴み、桃華はその場を去った。
残されたのは三人。
「結局のところさ、美作さんがどうしたいかってことだと思うよ」
「どうしたいか?」
「主税君に何かあったらしい。もしそうなら助けたいってのは僕も同じ。少なくとも、何が起きてるのか知りたいってのは諜報員としては当たり前さ。僕ら程“知らない事の恐怖を知っている”人間はいない。でも、僕らは現場を知らないから、どちらにしろ不確実な部分は多い。どちらを選んでも後悔するかもしれないなら、結局は自分が納得できる行動をするしかないんじゃないかな」
令司の言葉をじっと聞いていた小夜だったが、やがて決意が固まる。
「令司、佳苗、悪いけど力を貸してほしい」
小夜の言葉に、班員二人は黙って頷いた。