16. チコ
階段の少し前で妻と娘に追いつき、そのまま一緒に階段の下まで漕ぎ続ける。
自転車を投げ出すように止め階段を見上げる。
浩太はすでに20段ほど先を駆け上っている。
リリィはさらにその向こうを駆け上がっている。
「先に行く、ミントを頼む」
ひとえとユイカに告げ、浩太を追いかけ、一段飛ばしで階段を駆け上る。
足のリーチの違いもあるので、程なく追いつく。
「チコ、大丈夫だから、チコ、チコ」
浩太は前を行くリリィの背中を睨みつけながら、必死に足を動かす。
何度も転びそうになりながらも足を止めない。
「浩太……」
手を階段に何度も付き、何箇所も擦りむき、全速力でここまで来た結果、息も絶え絶えな状態なのに、俺の息子は自分を助けた友達のために、手を、足を、全身を使って、前だけ見て、階段を駆け登り続ける。
俺にはかける言葉が無い。
息子の無事だけを喜んだ、俺には、
「止まれ」とも「進め」とも、
俺には、今の浩太にかける言葉が無い。
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ほとんどスピードを落とさないまま、浩太、俺の順で小屋に飛び込む。
リリィがこちらに背を向け、肩で息をしながらテーブルの前で立ち尽くしている。
テーブルの上にはチコが横たわっている。
「タナカ様。私では……中に入れ……ません」
振り絞るような声で、リリィは告げる。
階段を駆け上ってきたため、息をするのもやっとの状態だったが、それでもチコのそばに近づきながら、俺は応える。
「だ、大丈夫だ。俺が連れて入る」
「それに、チコはもう……」
振り返ったリリィの表情は、半笑いをしている様な引きつった感じだった。
その顔に、足を止めてしまう。
「チコー!」
浩太がチコにすがりつく。
「チコ、大丈夫だから、お願い、返事をして。チコ、大丈夫だから!」
ユイカが小屋に飛び込んでくる。
浩太がすがりついている姿にユイカは手を口に当て、立ち尽くす。
続いて、ミントを抱えたひとえが、小屋に入ってくる。
ひとえは、テーブルの上のチコに一瞬だけ視線を送ると、ミントを降ろし、そのまま光のカーテンに飛び込み、すぐさま、薄手のタオルケットを持って出てきた。
俺はタオルケットを受け取り、まだ体温を失っていないチコを包み込み、優しく抱き上げた。
体の一部分を失ったせいか、浩太と同じ年齢にしては軽すぎる重さに戸惑いながら、俺は光のカーテンをくぐる。
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玄関を通り、リビングに入るり、ソファの上にチコを横たえた。
「あなた……どう?」
ひとえが声をかけてくる。
「わからない。俺の時は玄関に入った時点で完治していたのだが……」
見ている限り、チコの身体に変化は無い。
ミントがチコの顔を舐める。
「お父さん、チコは治るよね。お父さん! ねぇ、お父さん!」
浩太が俺の手にすがり付いてくる。
ユイカが堪えきれず、声を上げて泣き出す。
チコの身体の変化を見逃すまいと、じっと注視し続けるが、何も起こらない。
ひとえが、チコの頭の方にしゃがみ込み、頭を撫でる。
「やっぱり……もう……」
俺の手にすがり付く浩太の手の力は、ほとんど入っていない。
「お父さん、お父さん! チコを助けて! お願いします! 僕を助けてくれたんだよ!チコを助けてよ!」
ごめん。浩太。
お父さんには何も出来ない。
ごめんな。こんな世界に来たから、こんな辛い思いをさせて。
ごめんな。
何で、こんなに無力なんだろうな。
異世界に来るなら、もっとチート的な力を使って無双するくらいでいいのに。
俺が読んできた話は、そういうものばっかりだったじゃないか。
神様、俺の家族にこんな辛い思いをさせないでくれ。
いつも笑って幸せに過ごせる……そんな生活を俺から奪わないでくれ。
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「浩太、浩太、もう……チコはもう……」
泣きじゃくっていたユイカが、浩太の肩に手を乗せる。
その瞬間、浩太は電池が切れたみたいに座り込む。
「チコは、チコは、チコは……」
這いながらチコの側にたどり着き、チコの手を握りしめる。
その手を自分の額に寄せ呟く。
「チコは、僕の友達なのに……」
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その瞬間、チコの身体が暖かな光に包まれる。
「え、な、何が……」
妻の声。
俺は声も出せず、ただチコを見つめる。
妻の声で、浩太が顔を上げる。
涙に濡れていた顔に笑顔が戻る。
「チコー」
「コータ?」
チコがゆっくり身体を起こす。
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チコの背中の傷は完治してた。
浩太は大喜びで、ずっとチコのそばにいる。
一生懸命、何があったかを説明しているが、完治した結果、服だけが破け尻丸出しになっていたチコは、恥ずかしそうに、毛布で自分の身体を包んでモジモジしている。少し浅黒い顔の割には、お尻は真っ白だった。顔は日に焼けているのかな?
「あれ、リリィは?」
妻の声で、リビングにリリィがいない事に気がつく。
「リリィは小屋の中にいるよ」
ミントが教えてくれた。
玄関に行き、光のカーテンから小屋に顔を出すと、気丈にも仁王立ちで流れる涙も吹かず、こちらをじっと見つめるリリィの姿が。ああ、鼻水がひどいな。
「タナカ様、チコは……チコは……?」
「大丈夫、完治した」
Vサインを出す。
意味が通じるかはわからないけどね。
リリィはそのままへたり込み、子供の様に大声で泣き出した。
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小屋の中でリリィが落ち着くのを待った。
「リリィさん、何で中に入って来なかったの? 別に小屋で待っている必要は無かったのに?」
「先ほど、ユイカ様に続いて入ろうとしたのですが、やはり入れませんでした。昨日は入れたんですが、どういう事でしょうか」
だからチコと一緒に俺がここに来るのを待っていたのか。
そういえば、今朝方、出発の準備の際もついて来なかったな。
「それじゃ、もう1回、俺の後をついてきてみて」
「はい」
リリィが後ろからついて来ている事を確認しつつ、光のカーテンをくぐる。
少し待つが、リリィが姿を出さないので、小屋に顔を出す。
「やっぱりダメか?」
「はい、ダメでした」
「ちょっと手を出してみて」
「はい」
「ひゃっ」
手をつないで引っ張る。リリィが驚くが我慢してくれ。
俺も、ちょっと照れくさいが仕方ない。
「これでもう1回」
手をつないだまま、光のカーテンをくぐる……が、途中で手に何か強い抵抗を感じ、リリィの手が弾かれる。どうやら、これでは駄目なようだ。
最後の手段。
一旦、小屋に戻り、リリィの腰を抱き寄せる。
「ちょっと失礼」
「ひゃい」
ガチガチに固まったリリィを見るが、顔が真っ赤かだ。そのまま光のカーテンをくぐる。今回はすんなり玄関へ。
手をつないでいるのと、抱えて移動する場合の差異がどこにあるかは判然としないが、とりあえずこうすれば光のカーテンをくぐれそうだ。
これで簡単な検証は完了。
あとは、玄関に現れた俺たちを待っていた妻に、この状況をどう説明するかだね。
うん、死ぬしか無いかも。
……とり急ぎ、二人で土下座しました。
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「そういう事なら仕方無いわね」
先ずはと元気になったチコをリリィに見せた。
俺たちのやり取りには興味が無いのか、子供たちは、いつの間にかテレビゲームをやっている。チコも順応性が高いな。
ヒゲのおっさん達が、カートでレースするゲーム、浩太よりも上手いんじゃ無いか?
「ひとえ」
「はい」
毛布にくるまりゲームをしているチコの後ろに、俺とひとえは正座をする。
「え、何でしょうか」
「チコ君、浩太を助けてくれて、本当にありがとうございます。この恩を私達は一生忘れない」
「あなたのおかげ、私達家族は誰も傷つかずに済みました。今後、私達が力になれるような事があれば、遠慮なく言ってね」
頭を下げ、心の底から感謝の意を伝える。
それを聞いて、ユイカと浩太も姿勢を正す。
「チコ、弟の事を助けてくれてありがとう」
「チコ、ありがとう。チコに何かあったら次は僕が助けるから」
「チコ、お前のおかげで救世主様は助かった。このリリアナ・ヒメノからも感謝を。そして、ただのリリィとしても、心の底からお礼を言う」
リリィはニコッと笑い、最後にチコの頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「救世主様のお役に立てただけで満足です。皆さんに怪我がなくて本当に良かった」
チコも頭を下げる。
お礼だけでなく、チコにはいつか何かの形で、少しでもいいからこの恩を返していかなければ。チコが助けてくれたおかげで、そしてチコも助かったおかげで、俺の心も救われた。この恩義は決して忘れない。
「チコ、今日はここに泊まっていけば? リリィもまた泊まって行くでしょ? 」
リリィを見つめる目が少し怖い。
「え、よろしいんでしょうか」
「は、はい! チコ、大丈夫だ。お前を一人で帰すわけにもいかないし、一緒に泊まってくれ、な、頼む。」
あ、チコの親御さんは、大丈夫かな?
「チコのご両親はすでに他界していて親戚のルカスの家に預けられているのです。私もいますし、このまま泊まっていっても大丈夫かと思います」
よし、それなら問題ない。
「決まりね。なら、先にシャワーを浴びちゃいなさい。治ったとはいえ、あんな事があった後だし、身体を綺麗にしておきたいでしょ。浩太、一緒に入ってシャワーの使い方を教えてあげて」
「はーい、チコ行こう」
「え、シャワーって?」
「水浴びの事ですよ」
チコにも教えてあげる。
「あ、は、はい。わかりました。大丈夫です」
浩太と一緒にシャワーに向かっていった。
ん? チコの顔が赤くなっていたような。そして何か覚悟を決めたような言い方だったな。
その表情に、ピンと予感が走る。
ま、まさか。そんなありがちなパターンか?
そんな伏線、どっかにあったか?
リビングを出た二人を見送りながら、そんな事を考えてた1分後……
「お、お、お父さん。チコ、女の子だー!」
まだパンツを履いている浩太が飛び出してきた。




