【英語を習得することが出来なかった言い訳を捜してみる】
学校での英語教育に関しまして
どうやら2018年度より
小学三年生から始めることになるらしい
とのことなのでありますが
小学校の5年生辺りから習い事の1つとして英語を始め
中学~大学に至るまで英語が評価の対象となる場に身を置いたモノから致しますと
たぶんでありますが
結果はこれまで通りに
終わってしまうことになると思われます。
その言い訳を考えますに
一言で言いますと
(英語をマスターしなくても)不便では無いから。
であります。
小中高大に至るまで
物事を習得するのにあたりまして
英語が無くとも事足りてしまったから。
元は英語(?)であったと思われるのでありますが
それら全てが既に
日本語に翻訳されたモノが
教科書として提供されていたため
受験科目になっているから
とか
奨学金を無利子にするためには
通信簿を少しでも良くしなければならなかったから
点数を稼ぐ必要に迫られ
英語を勉強しますけれども
それを習得したところで
ほかで役立つことがありませんので
テストが終わると同時に
不必要な知識と判断し、
脳の中から削除されましたので
英語を習得することが出来なかった。と…。
これが
教科書全てが英語で記されているのでありましたら
英語を習得せざるを得なくなったとは思うのでありますが。
英語教育
と考えてみました場合、
本来重視しなければならないのは
伝達能力よりも
翻訳する力
だと思うのでありまして
蘭学事始の
フルヘッヘンド
ではありませんが
そのままの言葉として
『フルヘッヘンドね』
と解った気になるのではなく
様々な事案を捜しながら
『盛り上がる』
と言う言葉に翻訳することが
モノマネがいつのまにか
日本独自のモノとして良くなる。
更には別次元のモノに進化を果たし、
輸入していた相手に
逆輸出する
力の源になっていたと思うのでありますが…。
最近は
外国語の文法に対する時間よりも
意思伝達手段を磨くことに割かれる時間が増えたため
今後。翻訳する力が弱くなってしまうのかもしれません。
そうなりますと
羅列された音を埋めるために
意味も無く外国語がはめ込まれた歌のように
妙な俗語だけを覚えた
何も無い子が
頭の悪さを曝け出す方法として
外国語を用いることになる。
そんな世の中になってしまうのか?
翻訳することが出来なくなるため
全ての日本語が排除された
輸入先の言語が
マル写しされました
教科書が用いられるようになり
そこに記されている言語がわからなければ
本を読むことすら叶わなくなる
世の中になってしまうのか?
(今から20年後が楽しみであります。)