第38話 「叱責」
「何だ! てめぇは!」
ジュリアと賭けをした居酒屋の主人がいきり立つ。
しかし俺は奴をスルーしてジュリアに言い放つ。
「ジュリア、そんな馬鹿な賭けはやめておけ」
「え?」
俺から少し離れていたし、小声で話していた居酒屋の主人との会話がまさか聞こえているとは思わなかったらしい。
ジュリアは呆気に取られている。
「聞こえなかったのか? そんな馬鹿な賭けは『無し』だと言ったんだ」
「えええ! だ、だって! あ、あたし!」
「勝負事なんて何が起こるか分らないんだ。俺はそんなくだらない賭けで勝った金貨20枚なんて欲しくはないし、万が一俺が負けたらお前はその男とどこかへ遊びにでも行くのか?」
ジュリアは俺がそんなに怒るとは思っていなかったのであろう。
驚きのあまり、口がぱくぱく動いて、まるで酸欠状態の金魚である。
「お前がそんな馬鹿な事をやるのなら、もう、勝手にどこへでも行ってしまえ!」
俺は自分でも意外だった。
そこまで言う!?って感じである。
さっきの「悪魔ぶち殺す」発言といい、前世の弱気な俺ならそんな事は一切言えないからだ。
そして極めつけは容赦ないジュリアへの絶縁宣言!
初めて出来た彼女への扱いとは思えないこの対応である。
俺って実は思い切り亭主関白では無いか。
確かに、知らない間の『嫁寝取られ事件』などは真っ平御免だが……
しかし居酒屋の主人である若い男は、はっきり言って俺を舐め切っていた。
俺に一方的に言われて、少しは低姿勢になるかと思いきや、ますます粋がって増長している。
「何だと、てめぇ! 約束は約束なんだよ。賭けはもう成立しちゃったんだ。ジュリアちゃんは俺がばっちり頂くぜ! てめぇこそ、弱そうな癖に粋がるな! 馬鹿はてめぇだよ、ば~か!」
俺は男の前に立ち塞がる。
「な、何だよ、てめぇ?」
俺は黙って左手で奴の胸倉を掴み、右手で平手打ちを連発した。
ぱんぱんぱんぱんぱん!
肉を打つ乾いた音が軽快に鳴り響き、居酒屋の主人の口からは血が噴き出す。
「あが、あごががが……」
顎が痛いとか、訴えているようだが、口は災いの元だ。
いい気味である。
ちなみに手加減したので居酒屋の主人は意識を手放すまでに到っていない。
「おい! 今、何と言った? 俺には馬鹿とか聞えたが気のせいか? それに人の嫁を亭主の目の前で口説くとは良い度胸だ。次にやったらてめぇの顔の真ん中に風穴、開けてゴミ溜めに放り込んでやるぞ」
俺は掴んだ男を軽く振り回してから、店の入り口から奥へ無造作に投げ込んだ。
テーブルや椅子が倒れる派手な音がして、主人の苦痛を訴える呻き声が聞こえたがやがて静かになる。
アモンとの勝負を見守っていた男達は俺が怒った様子を見て息を呑むように静かにしていた。
ちなみに店の中に居る客からも怒号と悲鳴が上がったが、俺は一切無視してテーブルに座る。
「さあ、アモン! 勝負をしようか?」
アモンは今の俺の一連の行動を驚いたように見詰めていた。
そして鼻を鳴らすと興味深そうに言う。
「俺はお前を少し……見直した。あの女はお前の連れ合いだろう? 後で説教するべきだぞ、あのような軽薄な男に口説かれるような尻軽では困ると……お前は人間なのに悪魔の論理を理解している男だ」
「そいつはどうも……でもあの娘は俺が絶対に勝つと信じていたみたいだけどな」
「ふうむ……どうして分る?」
「そりゃ分るさ、あいつは俺の愛する嫁だもの」
嫁として俺の事を絶対的に信じているからこそ、あのような馬鹿な賭けに乗ってしまったのだろう。
そういうとアモンは僅かだが面白く無さそうな顔になる。
「ふん……まあ良い。勝負だ」
俺は右腕をゆっくりとテーブルに置き、アモンと右手をがっちりと組み合ったのであった。
―――5分後
「う、うおっ!」
大きな声をあげて青筋を立てたアモンの顔は真っ赤である。
渾身の力を注いでいるのに間違いはなかったろう。
しかし先程から組んだ俺の右手と奴の右手はぴくりとも動かなかった。
イザベラは自分に勝ったのは両親と姉だけだと言っていた。
その話が偽りでないなら、このアモンはイザベラと互角以下という事だ。
俺は既にイザベラに対して圧勝している。
であれば、計算上は腕相撲限定の勝負の場合……アモンは俺の敵では無い。
正直、今の状態も先だってのイザベラとの勝負のように殆ど力を入れていない。
やがてアモンの顔に滝のような汗が流れ始める。
俺には分る……奴は隠された力を解放しようとしているんだ。
「うおおおっ!」
アモンの掛け声と共に彼の手へ結構な力が加わり、俺をねじ伏せようとするのが分かる。
おっ!
これが悪魔の本気の力か!?
しかし!
俺はその力を楽々と受け止めると、少し力を入れて押し返す。
「たあっ!」
俺が更に気合を入れるとアモンの手は容易く下げられて行く。
「頑張れ! トール!」
そこでイザベラの声援が耳に届く。
「おっしゃ!」
俺は一気に力を入れて『決め』に掛かった。
アモンの右手が呆気なくテーブルについた瞬間、凄まじい音がしてテーブルは粉々に破砕された。
俺がさすがに手を離すと、アモンは勢い余って四つんばいになり両手と両膝を突いてしまった。
確かに分り易いパワーゲームであり、決着もはっきりしている。
アモンは、というと俯いたまま動かない。
ひ弱な人間と、見下していた俺にあっさりと……そう、無様に完敗したのが余程ショックだったのであろう。
「勝負……あったな」
俺はそっと呟き、まだ無言を貫いているアモンをその場に残すと勝負の結果を待っていた2人の女に手を振った。
その2人はとても対照的な雰囲気である。
ひたすら明るいのがイザベラだ。
この勝負で何を決めるかを、よくよく考えたら決めてはいなかったが、アモンが最早イザベラを故国に連れ帰ろうとする可能性は低いだろう。
何せ力が全ての悪魔族なのだ。
俺に完敗した婚約者など王女の相手としては不適格であろうから……
親が決めたのであろう、このうざい婚約者から解放された感で一杯なのである。
一方のジュリア……彼女は気の毒なほど落ち込んでいた。
俯いた可憐な顔は大きく歪み、号泣する寸前という雰囲気だ。
軽々しく自分の操を賭けて、勝負をした事を俺に叱責されたのがだいぶ堪えたらしい。
挙句の果てに、どこへでも勝手に行けと言われたら、そのショックは計り知れないだろう。
傍らで狂喜していたイザベラもジュリアの落ち込みように気付くと、一生懸命慰め始めた。
「トール……どうか、ジュリアを許してやってよ。あんたが勝つ事を凄く信じていたんだしさ……」
俺はイザベラに対して無言で頷くと、そっとジュリアを呼んでみた。
ジュリアは相変わらず俯いたまま動かない。
「ジュリア!」
俺が大きな声を出すとジュリアの肩がびくっと大きく震えた。
そうか……
俺にきつく言われて反省したと同時に、とても萎縮してしまっているんだ。
タトラ村でジュリアが不安そうに言っていた話を俺は思い出していた。
『あたしさ……本当はとても怖がりで小心者なんだ。だけど仲買人って商売柄こうやって強がっていないと不安なのさ。もしトールが見て不味かったらどんどん言ってね、直すから……』
ジュリアに厳重注意をしたのは良いが、やはり俺はまた『言い過ぎて』しまったようである。
それに俺は気付いていた。
こんなに怒ったのって、絶対にジュリアが大好きな事の裏返しだ。
「ジュリア、おいで」
今度はそっと呼ぶとジュリアが上目遣いに俺を見た。
まるで捨てられた子犬のような哀れさが篭もった眼差しである
「もう怒ってなんかいないさ、おいでったら」
俺が優しく声を掛けたその瞬間、ジュリアは大声で泣きながら俺の胸に飛び込んで来たのであった。
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