第37話 「婚約者」
近付いて来た男の顔を見て俺は苦笑した。
獰猛な猛禽類のような顔をした戦士の男はその顔付きだけではなく、実際にとても怒っていたからである。
こいつ……一体、何者だろう?
第一声で誰に何を言うのか、俺は何となく気になった。
俺とジュリアにとって、奴に心当たりは全くないからである。
そして……奴は予想通り、イザベラに近付くと深く一礼した後に、こう切り出したのだ。
「イザベラ様……何故、気高い貴女様がこのような薄汚い人間風情と行動を共にしておられるか、俺には分りませんが……お父上もとても心配しておいでです。直ぐに国に戻りましょう」
口調も態度も、臣下が王族に対するものではあるが、何となく奴の雰囲気にはイザベラに対する気安さが感じられた。
このようなやりとりをするのは彼も悪魔か、それに準ずる上級魔族なのだろう。
それにしてもやはり彼等魔族は人間を見下す傾向があるようだ。
俺達が薄汚くて……悪かったな。
こいつをもし怒らせると、真っ当に話が出来なくなるとは聞いていたが……
上から目線の、この態度じゃ俺の方が先に頭に来そうだ。
帰国を促す戦士の男に対してイザベラはきっぱりと断りを入れる。
「私は戻りません! 姉上の為にオリハルコンを手に入れるまでは!」
「ははは、それは単なるイザベラ様の口実でありましょう」
男はあっさりとイザベラの主張を否定した。
姉の輿入れの為のオリハルコンの入手というのが表向きで、実は彼女の本意ではないとしたら……
「…………」
戦士の男の言う事は全くの出鱈目じゃあないのだろう。
その証拠にイザベラは黙り込んでしまう。
だったらイザベラは何故、国を出たのだ?
一体どういう事だろう?
しかしそれも男が即座に種明かしをしてくれた。
「ははは、俺との婚約の儀を嫌がって先延ばししたいが為に魔界を抜け出たのは一目瞭然。しかしよりによって人間の世界などに来て何をしようと申されるのだ、イザベラ様」
ええっ!?
こいつ、イザベラの婚約者か!
しかし、相手が自分を嫌っているかもしれないのに堂々としたこの態度は何?
悪魔って、皆こうなのだろうか?
ある意味、凄いと言えなくもない。
「さあ、俺と一緒にお父上の下に帰りましょう!」
男は焦れたのか、いきなりイザベラの腕を掴むとぐいっと捻り上げた。
しかしイザベラも美しい赤い目をらんらんと光らせて簡単には連れて行かれまいと耐えている。
両者は全く動かなくなってしまう。
驚いた事にどうやら2人の力は互角のようだ。
「やめなよ、イザベラが嫌がっているじゃあないか?」
見るに見かねたジュリアが止めに入る。
何とイザベラを掴んだ男の腕に取り縋ったのだ。
「黙れ! 薄汚い人間の小娘ごときが口を出すな、引っ込んでおれ!」
「ああっ!?」
しかし、男が乱暴に手を振ると、ジュリアはあっけなく振り払われ、地面に倒れてしまったのである。
あ、ああっ、俺の大事なジュリアを!
頭に来たぞ!
この野郎ぉ!
俺もジュリアと同様、男の空いた手を掴む。
手を掴まれた男の顔に怒りの色が浮かぶ。
「こ、この薄汚い人間めが! 汚らわしいぞ! この俺に気安く触るな!」
「この屑が……俺が大人しくしていればいい気になりやがって……直ぐイザベラを放せ。そしてジュリアに悪かったと土下座して詫びるんだ」
以前、ジュリアと風呂屋へ行った際に、彼女がチンピラに絡まれた時がある。
俺の怒りが爆発して暴走モードに入り、まるで理性のブレーキが効かない状況になったが、今の状態はそれに近い。
「ははは……貴様みたいなひ弱な人間など……殺してやる」
そうかい、だったら上等だ!
これ以上こんな奴との会話は不要だ。
俺は男を掴んだ手に少し力を入れた。
途端にみしりと骨が軋むような音がして男の身体が硬直する。
骨の軋みは痛さに直結したようだ。
「ぐあああああ!」
男は苦痛のあまり、思わずイザベラを掴んでいた手を離す。
その瞬間、自由の身になったイザベラが鋭く叫んだのである。
「トール、このアモンと勝負してくれ!」
こいつ……アモンというのか?
「分った……容赦なくぶち殺して良いんだな?」
自然に物騒な台詞が出てくるのに俺自身、驚く。
相手は多分凶悪で残虐な上級悪魔? なのにだ。
当のアモンは憎しみから来る殺気と怖れの篭もった目で俺を見詰めていた。
「容赦なくぶち殺すって!? ち、違うよ、トール。私の時と同じ勝負方法さ」
イザベラが俺の凄まじい殺気に怖れをなしたのか、殺し合いではなく勝負事を持ち掛けて来た。
ええと、イザベラと同じ?
ああ、冒険者ギルドの講習の際にやった腕相撲と同じって事か……
俺はこうしてイザベラの婚約者らしい、アモンという悪魔と腕相撲の勝負をする事になったのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
状況は以前、イザベラと勝負した時と全く同じになった。
悪魔族の理屈というか論理は以前、イザベラから聞いた通りなのであろう。
力こそが正義、いや悪、……悪魔同士が揉めた時に決着をつける為の簡単明瞭なパワーゲーム、それが腕相撲なのだ。
場所は、とある居酒屋の軒先を借りた。
ここはジュリアの知り合いの店のようだ。
娯楽が殆ど無い世界だから、どのような物でも賭け事のネタとなるらしい。
俺とアモンが腕相撲の勝負をすると分るとあっという間に10人以上の人が集まって来たのである。
アモンはさっさと椅子に座ると目を閉じてゆっくりと右腕をテーブルに置いていた。
店の主人らしい若い男がジュリアに話し掛けている。
腕相撲で意外な人だかりが出来て吃驚したような表情だ。
「ジュリアちゃん、いきなり店の軒先貸せって……あいつら……一体何者なんだよ?」
「こらっ、何言っているの? あたしのお陰で少しは客が入ったじゃないか? 明日の夜の飲み食いはこれでタダだからね」
「ちぇっ! それより前から頼んでいる俺とひと晩デートしてくれるって話はどうなんだい? いつも誤魔化されているけどよ」
男は今迄、事あるごとにジュリアを口説いて来たらしい。
しかしジュリアは今回も男の誘いをきっぱりと断ったのだ。
「駄目よ!」
「駄目って? 何故だよ?」
男はなおも食い下がる。
ここでジュリアが爆弾を投下した。
「何故って……あの黒髪の彼があたしの旦那だもの!」
「ああっ!? あいつがジュリアちゃんの旦那か!? あっちの逞しい戦士の男じゃなくてか?」
店の主人は旦那が居ると言われて、てっきりアモンの方を相手だと思っていたらしい。
そして自分が勘違いしていたと分るとこのような捨て台詞を吐いたのである。
「でも弱そうな奴だなぁ……今迄言っていたジュリアちゃんの趣味と全く合わないじゃあないか?」
「ほう、よく言った……賭けるかい? あたしは博打が嫌いだけど勝てる勝負は受けて立つよ」
「お~し、やろう! 勝ったらひと晩デートだぜ。うひひひひ」
男は下心見え見えの態度で勝負を受けるとジュリアに答えたのだ。
「その代わり負けたら金貨20枚だよ、良いね?」
スパイラルから貰った聴覚の鋭い、人間離れした俺の耳はそんな会話を一切捉えていた。
「おい……何が勝ったらひと晩デートさせろ、だ?」
俺は指をぽきりと鳴らすとジュリアと男の前に立ったのであった。
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