スキマ王子
イザティスはセフィーロ王国の王太子ナルシス殿下の執務補佐官である。
二人は乳兄弟であり、その付き合いは長い。今年で二人は二十五歳になった。どちらもいまだに独身で早く嫁をもらえと周囲からせっつかれている。
イザティスは主であるナルシスが結婚してから自分も……と考えているが、なかなか上手くいかない。元々王太子であるナルシスには生まれながら許嫁がいた。だが数年前、その彼女が流行り病で亡くなってしまった。その後当然ながら新しい婚約者をという話が何度となく持ち上がる。王太子であり、王国一の美貌を謳われる彼の妻の座を望む者は多い。だが残念なことに婚約までこぎつけた者は一人もなかった。
原因はナルシスにある。彼はいくつかの問題を抱えているのだ。
***
「絶対に嫌だ!」
イザティスはナルシスの叫びにやれやれと内心でため息をついた。
「そうは参りません、殿下。わが国は負けたのです。よろしいですか。敗戦です、敗戦。我々は敗戦国。拒否など出来ません」
「くそっ! だから戦など反対したのだ! 父上があの二国の甘言につられたばかりに!」
「殿下!」
「いいや、言わせろ! 私は間違ったことを言ってないぞ? これで我々北大陸の国々は終わりだ……。あの狂信者の国に踏みにじられるんだ!」
ナルシスは美しい顔を引きつらせ、ぶるりと身震いする。イザティスは何も言うことが出来ず、主から視線を外し、壁にかけられた大きな世界地図を見つめた。
この世界は一万年前、女神により創られた。東西南北、四つの大陸にそれぞれ人間が住んでいる。
イザティスの住むこのセフィーロ王国は北大陸にある中規模の国だ。その歴史は二千年ほど。北大陸の中では比較的長い歴史を持っている。
そんなセフィーロ王国が二つの隣国に声をかけられ、彼らと同盟を結び、戦を始めたのはつい先月のことであった。
相手は西大陸にある神聖ティファレト帝国。世界でもっとも古い帝国で一万年前の歴史を持ち、西大陸の全土を掌握している。西大陸原初の人を祖先にもつ皇族が治める国、通称——狂信者の国。その名は世界を創造した神への絶対的な信仰で国が支えられていることからきている。
そんな帝国との海峡の通行税を理由とした戦いは海上で行われた。三国の連合軍と相対したのはティファレト帝国皇帝率いる帝国軍と教皇率いる教皇軍。勝負はあっと言う間であった。
「それにしても……かの国の皇族は噂通り武闘派なご一族でしたね」
「だから喧嘩を売るなと言ったんだ!」
地図を見ながらぽつりとイザティスがこぼした言葉に、ナルシスが叫ぶ。そういえば王太子である彼は徹頭徹尾この度の戦争には反対していた。
ナルシスは決して愚かではない。だが彼は今、乱心中である。
「イザティス、前線にいた将たちからお前も聞いただろう。皇帝は自ら前線に出てきて兵たちに檄を飛ばすは、皇女でもある教皇は人外の魔力でこちらの軍船を沈めていたと!」
「そうですねぇ。教皇猊下は船を沈めるたびにイイ笑顔を浮かべていたそうですよ」
「ひぃっ!」
しまった、とイザティスは思ったが遅かった。ナルシスはすっかり怯え、身を丸くしている……家具と家具の間、ほんの僅かな隙間に入り込んで。その様子に先ほどから我慢していたため息が思わず漏れた。
「殿下。いい加減、その家具と家具の隙間に入り込む癖、おやめになりませんか?」
「うるさい! この狭さこそが私の癒し! とやかく言うな!」
王太子ナルシスには変な癖がある。それがこれだ。家具と家具の間の狭い空間に入り、そこで座り込む。一体何が癒しなのかイザティスには全くもって理解できない。
そんなナルシスいうところの癒しの空間で、彼は先から怯え震え上がっている。その理由は今話題にあがった、ティファレト帝国皇女でもあり、西教会教皇でもあるピア=セレネス=ティファレトにあった。
「あ、あ、あの恐ろしい女が来るなど冗談じゃない!」
「だから、仕方ないことです。我々は拒否など出来ません」
「父上め! こんな時に限って、倒れるなど!」
ナルシスの父である国王は敗戦の衝撃もあり、倒れてしまった。近々ティファレト帝国からピア=セレネス一世猊下が足を運ぶことになったのだが、国王が寝込んでいるのだ。仕方なく彼女の相手をナルシスがすることになった。
その話をイザティスから聞いた途端、彼は自室のチェストとチェストの間に入り込み、このように震えている。
「まあ、確かに猊下は色々とお噂のあるお方ですが……まだ御年十二歳でいらっしゃいますよ。ほんの少女です」
「バカな! イザティス、お前もその噂とやらは聞いているだろう。五歳で教皇の座についてから五年間教会内の徹底した粛清をして、気に入らぬ聖職者の首を刎ねまくったと! その首はずらりと壁の上に並べられ、死体は野晒しにされたと聞いている! 人外の魔力で船は沈めるは、大の男を殴り飛ばし昏倒させるは……ろくな評判のない武闘派な皇女だぞ! そもそもそんな者を女と呼んで良いものか? とんでもなく筋肉隆々とした小娘かもしれん!」
「はあ……」
「もし、だ。もし万が一にもそんな筋肉ムキムキな小娘が、この美しい私に一目惚れしたらどうする!」
主ナルシスの悪癖が出た、とイザティスは彼から地図へとさりげなく視線を逸らし、あえて何も答えなかった。だがそんな事にもめげずナルシスは続ける。
「しかも我が国は敗戦国だ。それを理由に婿に来いなどと言われたら?」
「……猊下は帝国の皇太子殿下のご婚約者です。それは万が一にもありますまい」
「甘いぞ! 何が起こるか分からぬのが世の常だ! ああ……、神よ。この美しさのせいで!」
「猊下は神の愛を説くためにお越しですから。寛大なお心でお許し下さるでしょう」
もはや面倒くさくなったイザティスは適当にそう答え、話を打ち切ることにした。書類を抱えて、部屋の扉へと向かう。これ以上ナルシスの話に付き合っていては仕事がたまる一方だ。
だがそんなイザティスの背中にナルシスの悲痛な叫びが飛んできた。
「薄情者!」
振り返ると、髪を振り乱したナルシスが思いつく限りの罵倒の言葉を投げてくる。その様子にやれやれと思いながら言った。
「殿下、そのように御髪を振り乱して」
「なっ!」
ナルシスが慌てて己の頭を抑えた。ぐちゃぐちゃになった美しい金髪を丁寧に撫でつけている。その姿を確認し、今度こそ本当にイザティスは部屋を出た。背後から悲痛な叫びが聞こえてきたが、一切無視だ。
***
とうとうやって来たピア=セレネス一世猊下の到着の日。やはりナルシスは部屋で震えていた。
その姿を見たイザティスは呆れ顔だ。己の主はまだ覚悟をきめていなかったらしい。
それにしてもこの家具と家具の間の狭い隙間に身を置くことを好み、自分の美しさ云々などという彼の言動。これを王太子ナルシスに憧れる社交界の美しき蝶たちが知ったらどう思うであろうか。貴族の娘たちはこんなナルシスの本性を当然知らない。
「い、イザティス。部屋に鍵をかけろ!」
「何故です?」
「もうすぐ筋肉娘が来るだろう!」
「殿下、他国の……それも戦勝国の使者である猊下とお会いにならぬなど出来ません」
「か、鍵だけでは足りん。相手は筋肉娘だ! 家具だ、家具で扉を塞げ!」
「殿下。私の話をお聞きください。そのようなことは出来ぬ、と」
「私の美貌に小娘が魅了される前に!」
駄目だ、これは。イザティスは渋々と扉へ向かい、鍵をかけた。主の命には逆らえない。それに鍵をかけたことで多少でも落ち着きを取り戻して欲しい。
肝心の猊下がここにたどり着く前に。
「扉も塞げ!」
「では殿下、恐れ入りますがその場所を離れて下さい」
「なん……だと?」
「そのチェストを使いますので」
「私から隙間を取り上げる気か?」
その時、扉が叩かれる音がした。イザティスもナルシスもはっと扉の方を見る。
「ティファレト帝国ピア=セレネス一世猊下のお越しです」
扉越しに聞こえた声にナルシスはみるからに動揺し、イザティスへと叫ぶ。
「は、早いぞ!」
「いえ……殿下。時間通りです」
イザティスは時計を見て、遅かったかと残念に思った。ナルシスをうまく宥めて、かの教皇猊下の相手をさせるつもりだったのだ。
「猊下のお越しです!」
扉越しの声が切羽詰まっている。それはそうだろう。国賓の応対をする予定の王太子が部屋から出てこないともあれば。しかも国賓本人が扉の向こうに既にいるのである。
「猊下の……」
「よい。何をしている? 殿下はこちらにいらっしゃるのだろう。何故扉が開かない?」
扉越しに聞こえた教皇のものと思われる少女の声にナルシスが更に震え上がった。イザティスは慌ててナルシスの腕を引っ張り、無理やり彼の体を隙間から引っ張り出そうとした。だがナルシスは全力でそれを拒む。
「扉を開けよ!」
「イザティス、無理だ!」
「殿下、しっかりしてください!」
「もう良い! わたくしが開けよう!」
「猊下、お待ちください!」
扉の内と外で叫び声が飛び交う。
次の瞬間、轟音が聞こえ、慌ててイザティスとナルシスは音の聞こえた方向——扉を見た。そしてその光景に呆然とする。蝶番が外れ、扉そのものが外れてしまっていた。その向こうにはセフィーロ王国の宰相と何人も供を連れた少女が立っている。
彼女がピア=セレネス一世だろう。何か言おうとした宰相を手で制し、彼女は部屋の中へと入ってくる。それにしても扉を破壊したのは誰だろうか。まさかこの少女が破壊したのだろうか。海をまたいでまで噂されるその怪力とやらで。
イザティスは慌ててナルシスから手を離し、一礼した。彼女はイザティスには目もくれず、つかつかとナルシスの目の前に近づいて行く。ナルシスは彼の愛する隙間に座り込んだままだ。
イザティスはそっと頭をあげ、その様子を固唾を飲んで見守った。
初めて見たピア=セレネス一世は筋肉隆々などではなかった。年の割りに背が高くすらりとしているが、筋肉があるようには見えない。人形のように美しい顔に珍しい銀髪。しかしその赤い瞳は剣呑だ。笑みを浮かべているのに、全く穏やかな人柄には見えない。
まさにナルシスは空腹の肉食獣に狙われた哀れな獲物状態に見える。
ピア=セレネス一世はナルシスの前にしゃがみ込んだ。そして彼に視線を合わせている。恐怖に目を見開くナルシスへ彼女は優しげに話しかけた。
「ごきげんよう。殿下。お初にお目にかかります」
「ご、ご、ご、ごきげんよう。猊下にお会いできて、光栄至極」
「なかなか扉が開かなかったので、驚きましたこと。でも良い余興でした。わたくしを歓迎してくださって嬉しいわ」
「お、お喜びいただけたなら……」
「ところで、あなた」
ナルシスの言葉を最後まで聞かずにピア=セレネス一世は立ち上がり、イザティスへと向き直る。
「殿下はこちらで何を?」
彼女は手で家具の間を指し、質問した。どうやらナルシスでは話にならぬと思ったらしい。その顔には僅かに苛立ちの色があった。
「猊下。恐れながら……殿下は緊張のあまり、その場所に。我が主はそのような場所、家具と家具の間……隙間に入ることを好むのです」
イザティス、とナルシスが叫ぶ。だがそれは無視した。下手に誤魔化すよりも、真実を告げたほうが良いと思ったのだ。これ以上彼女を怒らせるのはまずい。
ピア=セレネス一世は怪訝な表情で『隙間?』と繰り返し呟いている。そんな彼女に部屋の入り口から声をかける者があった。
「恐れながら、猊下」
「何だ、クロイツ」
「高貴なお方はどなたも、人には言えぬ日頃の鬱憤を晴らす何か……特殊な癖がございましょう」
「……なるほど。さもあろうな。スキマ殿下。一旦わたくしは失礼する。また後ほどあなたの準備が整ったころに参りましょう」
スキマ殿下という呼び名に全員が呆気に取られる中、彼女は踵を返しさっさと部屋から出て行ってしまった。宰相と彼女の供たちが慌ててその後を追う。
何とかこの場は乗り越えたらしい。イザティスは深々とため息をついて、茫然自失としているナルシスを引き起こしにかかった。ついでに乱れた髪を整えてやる。
こんな時でも主は隙間を愛してやまない。だが主の抱える一番の問題は隙間でも己の外見に関する自惚れでもないのだ。
***
国賓をもてなす為の夜会。
城の大広間には貴族という貴族が集まっていた。魔力式の灯りで広間は昼間のように明るい。中央では貴族の男女が音楽にあわせ踊っている。肝心のピア=セレネス一世は複数の貴族に囲まれ、談笑していた。
「殿下、猊下のお側に行かれては?」
「そうですぞ、殿下。友好的な関係を築くべきです」
イザティスの言葉に宰相も頷く。だがナルシスは小さく首を振った。
彼女がこの城を訪ねて二日目。さすがにナルシスは自分の美しさに魅了されたら云々は言わなくなった。だが、いまだに彼女が怖いらしい。そのせいでナルシスの乱心は今も続いている。
「いやだ……。大体何が神の愛だ。敗戦国に乗り込んできて、あんな殺気に満ち満ちた目で神の愛も何もあるか。次に歯向かったらお前たち皆殺しと脅迫しにきただけだ……あの悪魔は……」
今日の夜会にも出たくないとごねていたナルシスは、なるべく彼女の方を見ないようにしている。
「確かに仰るとおりです。ですがそんな事ではいけません、殿下。聡明な殿下らしくもない。なによりも猊下は殿下のお名前をスキマ殿下と間違えて覚えていらっしゃるではありませんか!」
「もう、いい。スキマで……」
宰相のたしなめる言葉にナルシスは投げやりに笑い、項垂れた。その様子にイザティスは昨日見た光景を思い出し、ナルシスを励ますべく口を開いた。
「殿下、宰相」
「どうした、イザティス?」
「猊下は間違えて名前を覚えていらっしゃるではないと思います」
「何故?」
「きっと猊下は殿下のあのお姿に親しみを覚えられたのでは?」
「だから……スキマというあだ名をつけたと申すか?」
「はい。猊下の執務補佐官がどのようなお方にも鬱憤を晴らす悪癖のようなものがあると言っていたでしょう。私は昨日見たのです」
イザティスは目を閉じ、偶然見かけたその光景を思い出した。
その時二階の廊下を歩いていたイザティスは、何気無く窓から下を見下ろした。窓の下は中庭だ。その中庭を挟み斜め下の部屋、中庭に面した一階のその部屋の窓は開け放してあり、中の様子がしっかりと見えた。
そこにピア=セレネス一世がいた。驚くべきことに彼女は絨毯の敷き詰められた部屋の床を転げ回っていたのだ。それも高速回転で。よくよく見れば何か叫びながら転げ回っている様子だった。
呆気にとられその様子を見つめていると、かの執務補佐官が慌てて窓際に駆け寄るのが見えた。一瞬、彼とイザティスは目があったが、一礼すると窓とカーテンを閉めてしまった。
イザティスの勘違いでなければ、あの執務補佐官の顔にはお互い大変ですねと書いてあった気がする。
つまり、あの猊下もナルシスと同じく人にあまり言えない悪癖があるのだ。
「しかし……」
ナルシスがイザティスに反論しようとした、その時。
「ごきげんよう。殿下」
ナルシスの背後にピア=セレネス一世がいた。その声に凍りついたナルシスは宰相に促され、ぎくしゃくとした動きで彼女の方へと振り返る。
「……ごきげんよう、猊下」
「このような宴を催して頂き、誠にありがとうございます。もしご迷惑でなければ、一曲お相手して頂けませんか?」
どうやら彼女はナルシスをダンスに誘うため近づいて来たようだ。手袋をした手を差し出す。また宰相が反応出来ずにいるナルシスの背中をこっそり叩いた。
「も、もちろん。喜んで」
もはや泣き笑いに近い表情をしてナルシスはピア=セレネス一世の手を取り、踊る者達の中へ進み出る。
その後ろ姿を見送りながらイザティスは宰相に尋ねた。
「大丈夫でしょうか?」
「何を言っておる。これも殿下の義務」
「いえ、そうなのですが……」
「なんだ?」
イザティスはナルシスをじっと見つめた。正確には彼の頭を。彼の最大の秘密がそこにはある。
「御髪が……」
イザティスの呟きに、ぎょっとなった宰相は慌ててナルシスの方を見た。
「あれは……まずいのでないか?」
「そうですよね」
「じ、侍従は何をしていた!」
「殿下はギリギリまで夜会に出たくないと仰って……」
「して、万全な姿で臨めなかったと言うか?」
「仰る通りです」
イザティスと宰相は深々とため息をつく。しかし今更ピア=セレネス一世とナルシスを引き剥がし、ここへ連れ戻すことは叶わない。
「そんなに激しく動かないことを祈りましょう」
「神よ!」
しかし二人の願いも虚しく、ナルシスがピア=セレネス一世をリードし音楽にあわせくるくると回るたびに、それは確実にずれていく。イザティスと宰相はハラハラしながら身を乗り出し、その様子を見守った。願わくばこれ以上悲惨なことになる前に音楽よ、終われ、と。
ナルシス本人が自分の異常に気づき、せめて回る時にもっと頭髪に衝撃を与えないよう回転してくれたら……。
しかし、ナルシスは目の前の少女がよほど恐ろしいのか虚ろな目をしており全く気づかない。それどころか彼と踊っている彼女のほうがナルシスの頭髪の一部がずれてきつつあるのに気づいてしまったようだ。僅かに目を見開き、その視線はナルシスの頭部へと向けられている。
もはやイザティスは我慢の限界であった。懐に手を入れ、いつも常備しているヘアピンを取り出した。主の頭髪をどうにかするのは侍従の役目。だが万が一のためにイザティスもこれを持っている。
そう万が一のため。それは今だ。今、これを使わずして、いつ使うと自問自答する。主の名誉を守らねばならない。
イザティスはヘアピンを握りしめ、意を決して一歩進み出た。それに気づいた宰相がイザティスの方へ顔を見て、訝しげに問いかける。
「イザティス、お前?」
「閣下。私は殿下をお救いするため参ります」
「ま、待て! お二人は踊っておられるのだ!」
「そんな事、百も承知!」
イザティスはそう言うなり駆け出した。とっさに腕を掴んで止めようとした宰相を振り切り、無作法とは分かっているが踊る者たちの方へと駆ける。
全ては覚悟の上だ。踊る二人を無理矢理引き離せば、帝国からは無礼者とされるだろう。だがイザティスには望みがあった。ピア=セレネス一世はナルシスの頭髪の一部がずれているという異常事態に気づいている。後で丁重に詫びをすれば分かってくれるのではないか。
急げ、自分よ。
尊いお方、我が主がひた隠しにする秘密。
その秘密を守る最後の砦が崩壊しつつある。
守れ、守るのだ。
イザティスは貴族たちをかいくぐり、ひたすら駆けた。この場にいつもの侍従たちがいてくれれば、と思う。ここ数年ともに主の秘密を隠すべく奮闘した同志たち。彼らがここにいてくれたならどんなに心強かったことか。己がこうやって一歩一歩進む間にもナルシスの髪は、あらぬ方向へずれていく。いまやピア=セレネス一世の顔ははっきりと引きつっていた。
もう少し、というその時、踊る二人は大きく回った。それと同時に、命綱たる最後のヘアピンが飛んだのがイザティスにははっきり見えた気がする。ぱさりという乾いた音とともに、ナルシスとピア=セレネス一世の間に金色の髪——カツラが落ちた。
踊っていた二人がぴたりと止まる。いや彼ら二人だけでない。周りの者も止まった。楽団も楽器を奏でる手を止め、談笑していた貴族たちも話をやめる。
大広間は水を打ったように静まり返った。皆の視線はナルシスの頭部に釘付けだ。しかも二人の立っている場所が悪い。魔力式の灯りの光を一番浴びるその場所で、ナルシスの頭頂部の禿げ上がったそこは輝いていた。まるでここに注目しろと言わんばかりに。
もう間も無く二人へ手が届くところにまで来ていたイザティスはがくりと崩れ落ちる。
間に合わなかった。全てが終わった。
周囲がざわめき始めたその時、思わぬ人物の声が貴族たちの口を塞いだ。
「静まれ! 騒ぐな!」
声の主、ピア=セレネス一世はしゃがみ床におちたカツラを拾った。そしてそれを手に立ち上がる。
「そなたら、この程度のことで何を騒ぐ? このような事は瑣末なこと。良いか? どのように美しい男でも、いずれ禿げ、肥え太る! それが早いか遅いかの違いだけだ!」
静まり返った大広間を彼女はぐるりと見渡した。まるで誰かを探すように。一体彼女は何をするつもりだろうか。
出来ればこれ以上、ナルシスの傷を抉らないで欲しいと願いながら、成り行きを見守る。
「セフィーロ王国宰相! 宰相いるか!」
彼女の呼びかけに慌ててイザティスの背後から宰相が進み出た。
「こ、こちらに」
「宰相、そなたも昔は豊かな髪を持っていたのだろう?」
「御意にございます」
宰相は見事に禿げ上がった頭を輝かせながら頷いた。その様子にピア=セレネス一世は満足気に頷くと、今度は別の者を探すかのように視線を巡らせる。
「財務長官はいるか?」
「は、こちらに」
たっぷりとついた肉を揺らしながら中年の男が進み出た。礼服のボタンが今にも弾け飛びそうなこの男はセフィーロ王国財務長官だ。
「そなたも昔は痩せていたのか?」
「御意にございます」
「なるほど」
彼女は再び満足気に頷くとまた会場を見回した。
「これは真理だ。だが嘆くことはない。神の愛は深い。神は我らの見た目など気にされぬ。だがこれは真理と言えど、見た目にこだわる愚かな我々人間にとっては試練と言えよう。だからこそ、この若さで与えられた試練と戦う殿下……皆の者、誇りに思うがいい。殿下はまさに勇者と言えよう。それにたとえ頭髪が無くとも、殿下の素晴らしさは一つも損なわれることはないと……わたくしは思うのだ」
そうだろう、と彼女は周りに同意を求めた。慌てて貴族たちが頷く。それを確認し、彼女はナルシスを促してイザティスへと歩み寄った。茫然自失としたナルシスはおとなしく彼女に従っている。
「これを」
「恐れ入ります」
イザティスは渡されたカツラを受け取った。
「では、殿下。ありがとうございました」
ピア=セレネス一世は一礼するとその場を立ち去る。彼女がぼそりと『神よ!』と呟くのが聞こえた。イザティスはその後ろ姿を見送りながら、一番気が動転したのは彼女なのかもしれないと考える。
踊っている相手のカツラが落ちるなど、早々ないのだから。
***
あの日以来、王太子ナルシスはカツラを捨てた。爽やかな風を頭皮に感じたい、と言って。結婚するまでは決してカツラを脱がないと断言していたのが嘘のようだ。カツラを捨てたナルシスは何かを吹っ切ったかのように見える。己の美しさに自惚れることもなくなったのは良い事だ。
その上あっさりと結婚が決まった。それも身分のつりあう相手と恋愛結婚である。『彼女は禿げてても殿下が好きと言ってくれる。羨ましいだろう』と散々自慢され、イザティスは閉口した。何だか少し癪に障るが仕方ない。相手は主なのだ。
しかも王太子とその婚約者の熱愛から火がつき、頭頂部を剃髪するのが貴族の中で流行り始めてしまった。そろそろ自分もやらないと、貴族社会で流行遅れな男の扱いを受けてしまう。これはきっと王太子の恋物語だけが原因ではない。神の愛とやらを語った教皇ピア=セレネス一世の『試練と戦う勇者』の一言もその一因だろう。
ちなみにナルシスはあんなに恐れていたピア=セレネス一世と文通する仲になった。一体二人の間に何があったのか、イザティスには分からない。確かに彼女がこの国から去るまでの数日間二人は何やら話し込んでいた。残念なことに、何を話していたのかナルシスから聞き出せなかった。ただあれ以来やたらとナルシスは『神の愛』を口にする。
だが友好的な関係を築いているのは良い事だ。
変わらないのは今も隙間を愛している事くらいだろう。ナルシスは何か嫌なことがあるたびに隙間に入り込み、それをイザティスが引っ張り出す。
きっとこれはずっと変わらないのだろう。そう思い、イザティスは今日もナルシスに声を掛ける。
「ほら、陛下! 国王に即位なされたのですから、いつまでも隙間でいじけないでください!」