165話 狂いだす歯車
帝国内にはその情報はまだ届いていない。
だが、それは帝国臣民にとって幸せな事であっただろう。
魔物の国への侵攻へと向かった帝国軍将兵、つまりは彼等の愛すべき家族達が、為すすべもなく皆殺しにされた、などと。
百万近い軍勢が攻めて、敗北など考えられない。
必ずや帝国の悲願である西側の征服を成し遂げ、帝国皇帝による統一国家を樹立すると信じて疑ってはいなかったのだから。
ジュラの大森林は鬼門ではあったが、邪竜ヴェルドラが弱体化した今、怖れるべき何者も存在してはいない筈だったのだ。
偉大なる皇帝陛下の御世で、最強の帝国軍による侵攻作戦が遂に開始された。
それが一般的な臣民達の感想であり、敗北どころか苦戦を予想する者もいない始末だったのだ。
一人の生き残りも出る事なく、西側諸国に到達する事もないままに、ジュラの大森林で全滅するなどと想像出来た者など、誰一人としているはずも無かったのである。
ユウキはその報告を得て、苦笑いを浮かべた。
百万近い軍勢で上手く攻めれば、魔王リムルを始末出来ると期待していたのだが……結果は全滅。
文字通り、全将兵が殺されるという結末になったのである。
魔王リムルを始末した上で、帝国軍が大ダメージというのが理想であった。
次点で、魔王リムルへ損害を与えつつ帝国軍も大ダメージならば目論み通り。
痛み分けに終わっていれば、時間を稼ぐ事になるので予定通りだったのである。
損害を受けた帝国軍が戻る前にクーデターを終わらせて、戻った機甲兵団も吸収し磐石の体制を築く。
魔王リムルが受けた損害を回復する迄に時間を稼ぎ、帝国を掌中に治める予定だったのだ。
蓋を開けてみれば魔王への損害は然したる事もないまま、一方的に蹂躙を受ける事になった訳だ。
自分の軍団を失ってはいないとはいえ、その内自分の手駒として利用しようとしていた考えが全て水泡に帰したわけである。
予想外の出来事と言っていい。
何よりも驚愕すべきは、魔王リムルの勢力の増強具合であろう。
「まさか……あの大軍を難なく撃滅するとは、ね」
「信じられませんね……あの軍勢ならば、魔王3体の軍勢を相手取っても互角に渡り合えそうでしたが……」
「いや、君が居た頃の十大魔王に比べて、現在の八星魔王達は勢力が桁違いだよ。
レオンだって、あれだけの個人能力を隠し持っていたし、魔法騎士団という戦力を有している。
部下を持たない事で有名だったミリムでさえ、カリオンにフレイという旧魔王クラスの配下が居る。
それらの魔王の領土を併呑し、今やジュラの大森林以南の広大な領土の支配者な訳だし。
最強たるギィは当然、ルミナスにダグリュールは元から最大派閥と呼ばれる自分の軍勢を持っていた。
ボッチなのはラミリスとディーノだけか?」
「……ですわね」
ユウキの言葉に反論したカガリだったが、説明を受けるにつれ納得の表情を浮かべる。
確かに、自分が魔王であった頃とは状況が違うのだ。
天使との戦いで勢力が削がれる魔王達の中でも、ルミナスやダグリュールは大勢力を誇っていた。
だがそれ以外の新参魔王達は、それなりの配下を揃えてはいても、自身の生き残りに必死になるレベルであったのは確かなのだ。
それはカガリこと"呪術王"カザリームも同様であった。
何より、配下を増やし数を揃えたとしても意味は無い。その事は、クレイマンの失敗からも明らかである。
ある一定の強さを超えた者に対しては、軍勢はまるで意味を為さないのだから。
一つ思うのは、機甲兵団所属の者にも、一定以上の強さを持つ猛者も居たはずなのに、その者達ですら活躍する事が出来なかったのが不可解だ、という事であろうか。
魔王リムルは動かず、配下の魔物達によって帝国軍は壊滅させられたらしい。
先程まで疲れた表情で説明を行っていたミランダによれば、恐るべきデーモンロード級の魔人まで魔王の配下に加わっているという事である。
何者にも束縛される事のない、悪魔族の王たる最上位存在が、一人の魔王に従うなどと、カガリの想像の外の出来事である。
そんな事を可能とするのは、"暗黒皇帝"たるギィ・クリムゾンのみだと思っていたのに。
「だけど、これで面白くなってきたね。
現在帝国の軍団は、ルミナス討伐も視野に入れた二正面作戦を実行中だ。
カリギュリオの敗北は未だ伝わっていないし、グラディムの魔獣軍団は、"飛空船"により北方面へ移動中。
本国首都の防備は混成軍団に任されている。
つまりは、この僕の意思で、帝国の心臓を握っているに等しい。
機甲軍団の帰還を警戒する必要が無いのなら、大手を振って軍事行動を起こせるよね」
「それはつまり……皇帝の寝首を掻く、という事ですか?」
「うん。その通り! クーデターだね」
その言葉に、カガリが妖しい微笑を浮かべる。
この世に混乱を齎す事が彼女の望みであり、その為の手段は何だって良いと考えるカガリ。
ユウキの予想は外れたものの、その事により自分達が不利益を得た訳ではない。
寧ろ、今こそが帝国掌握のチャンスとなっていた。
策とは、それが失敗に終わった場合すらも考慮に入れて張り巡らせるもの。
ユウキは実にその点を熟知している。転んでもただでは起きないのだ。
「了解ですわ。では、準備しませんとね」
そう告げて、カガリは席を立った。
忙しくなりそうだ、そう思い、更に笑みを深くする。
その顔は、更なる血と惨劇を求め、邪悪に染まっていた。
ユウキはカガリの退出を眺め、更に思考を深めていく。
予想外に魔王リムルが成長していたが、今はそれは置いておく。
たった今、裏付けが取れて、帝国軍の敗北は確定した。そして、リムルの軍勢の出鱈目な増強ぶりも確認が取れたのだ。
ならば……と、その先の状況を予測していく。
ヤツが動く。
この状況に至ったならば、間違いなく最強存在であるヤツも見過ごす事は無いだろう。
帝国軍の壊滅は問題ではなく、寧ろ都合が良いのだ。
魔王リムルを葬るのは、別に誰が行っても問題は無いのだから。
「さて、どうするのかな? リムルさんは……
どこまで抗えるか見ものだね。上手く共倒れになってくれると最高だけど……
少なくとも、ギィがリムルさんを始末してくれれば、問題が一つ片付く訳だ。
上手くギィに手傷を負わせてくれれば最高なんだけどね」
そう。
ここまで勢力を増強させてしまったのならば、間違いなくギィ・クリムゾンが動くだろう。
そうなるように既に手は打っている。
未だ計画は順調であり、少しの修正で問題なく遂行出来そうだった。
ユウキは自分の言葉に反応せず無言で立つクロエを見やり、小さく笑う。
命令は後2つ。
倒すべき敵は後3人。
その内の二人が潰しあってくれれば、最強戦力を投入するまでもなく願いが叶う可能性もあるのだ。
予定とは違うが、全ては順調に進んでいるのである。
ユウキは上機嫌に、今後の計画について思考を深めていったのである。
しかし、全ての事象を読み切る事は至難の業であった。
狂いだした歯車の修正は容易ではなく、事態はユウキの手を離れ、思わぬ方向へと動く事になる。
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ユウキへの報告を終えて、ミランダは速やかに帝都を離れるべく準備を行っていた。
一応軍属の身分を持つ以上、敵前逃亡がばれれば死刑となる。
隠れ蓑として身分を得た事が、この事態を招く事になってしまったのだ。
苦労して手に入れた身分の割りには、逆に足枷となるなどと、皮肉にも程がある。
裏組織"三巨頭"の頭の一人でもある彼女としては、逃亡先に困る事は無い。
自由組合同様に各国に根を張っている闇組織には、必ず"三巨頭"の手の者が潜り込んでいるからだ。
当然、帝国の首都にも組織は存在するので、そこに潜伏し機会を見て西側に脱出する計画であった。
カリギュリオの篭絡は後一歩の所まで漕ぎ着けており、自身の"女"としての魅力を駆使し、機甲軍団の実権を握るのも後少しだったのだ。
ダムラダが恐れる程の魔王とはいえ、100万の軍勢で掛かれば恐れるべき程でもないと思っていたのに……
魔王を駆逐し、西側諸国を制圧する。
そして、自分はカリギュリオを操り、帝国の中枢で栄光を掴む。
大手を振って凱旋し、約束された未来が待っている筈だったのだ。
それが、夜逃げのように自身の財産を掻き集め、逃げ出す事になるなどと……屈辱の極みであった。
それもこれも、魔王リムルの実力を見誤ったユウキの責任であり、カリギュリオの不甲斐なさのせいである。
ダムラダはユウキを恐れているようだが、ミランダとしては利用出来るから言いなりになっているだけであった。
ただし、"三巨頭"がユウキの創った組織である以上、ユウキには利用価値がある。
自身の"女"の魅力が通じぬ相手である以上、命令には従う必要があった。
ともかく今は、脱出を優先すべきだ。報告を終えた時に逃亡の許可は得ている。
要らぬ事を考える前に、さっさと身を落ち着けるべきであろう。
そう考え、ミランダは集めた財産を鞄に詰め込み、暗闇に乗じて自宅から夜の帝都へと飛び込んだのである。
帝都の闇は深い。
科学文明の恩恵により、灯篭に代わり街灯が設置されるようになってはいたが、未だ全区画を網羅してはいないのだ。
発展を続ける帝都ではあったが、闇を全て駆逐するのはまだまだ先の事となりそうだった。
そんな帝都の闇を、ミランダは静かに移動していた。
ヴェガやダムラダには劣るものの、ミランダも頭としてそれなりの実力を持っている。
こそこそと逃げ出す事になってしまったが、その事を不安に思う必要などないとミランダは考えていたのだ。
だがそれは失敗であったようだ。
ミランダが油断した訳では無かったのだが、ミランダの行く手に一人の男が立ち塞がったのである。
もし、ミランダが財宝等捨て置いて、さっさと帝都を逃げ出していれば、或いはその者から逃げ遂せていたかもしれない。
しかし、頭としての自信が仇となりミランダはその男と向き合う事となってしまった。
その男、近藤達也。
帝国情報局に所属し、帝都の闇を知り尽くす正体不明の怪人に。
「こんな夜中にどこへ行くつもりだ?」
「あら? 近藤中尉ではありませんか!」
突然目の前に現れ、声を掛けられたにも関わらず、ミランダは慌てる素振りも見せずに悠然と切り返す。
しかし、油断無く周囲の気配を探り、近藤が一人かどうかを確かめた。
周囲に人影は無く、気配もしない。近藤は一人で来たようだと確信し、内心で安堵する。
たった一人で来るなど、ミランダに殺してくれと言っているようなものなのだから。
自分が敵前逃亡した事が本部にばれて、追っ手が差し向けられる事になるのは問題だ。
西側に逃げても諜報員に狙われて、暗殺を警戒する毎日を送るのは御免であった。
この場にて、ミランダの生存を知る人物を消しておく必要がある。
恐らくだが、クリシュナが魔法道具を使用し、状況を伝えたのだろう。その際にミランダの逃亡を伝えているとは思えない。
帝国軍の全滅は伝わっていると判断出来るので、帝都の防備を強化した、そういう事だとミランダは理解した。
よりにもよって、情報局の中でももっとも厄介な男に見つかったのは痛いが、応援が駆けつける気配はない。
今ならば近藤を始末し、帝都を離れるのも容易だろう。
一瞬の間に、ミランダはそう判断を下した。
近藤がミランダをどのように見ているのかは不明だが、ミランダとしては危険の芽を摘み取るだけ。
つまりは、近藤を殺す事を決意していたのだ。
「君はカリギュリオ軍団長の参謀のミランダ、だな?
戦時作戦行動中に、何故帝都に戻っている?」
そう生真面目に質問してくる近藤に対し、
「怖かったですわ、近藤中尉!
実は私、カリギュリオ閣下に密命を受けて、帝都に戻って参りましたの――」
そう返事をしつつ近寄り、近藤の胸にしな垂れかかるミランダ。
自身の"女"の魅力を存分に駆使し、男を篭絡する。
手口としては、〈香水系呪術〉と〈幻術系〉の魅了を併用し、対象の思考を妨害しつつミランダの思惑通りに相手を支配するのだ。
カリギュリオも何度か抱かせている内にこの術に嵌り、弄せず言いなりに出来るようになったのである。
軍団長にもなれる男すら、ミランダの術の敵では無いのだ。たかが中尉如きが、この術に抗える筈もなし。
ミランダは確信し、その手を近藤の背中に回す。
豊満な胸を近藤に押し付け、自分の魅力をアピールしつつ、近藤の気が緩むのを待つ。
フッと近藤の気配が緩むのを感じ、
(フフッ、この男も堅物かと思えば、案外チョロイわね)
と、内心でほくそ笑む。
(いいわ、何なら抱かせてあげて、私の虜にしてしまえば――)
それがミランダの最後の思考となった。
近藤は表情も変えず、ミランダのこめかみを撃ち抜いた小型拳銃を袖口に仕舞い込む。
情報は既に採取済みであった。
接触した対象の思念思考を読み取る、ユニークスキル『解読者』によって。
ユウキの企みも、ミランダの目的も、帝国軍に生存者が居ない事も。
その全ての情報を読み取るのに、一秒も要してはいなかった。
そして、それだけの情報を読み取ったにも関わらず、その表情に変化は無い。
ただ詰まらなそうに、
「――クーデターか。愚かな」
と呟いたのみ。
そして、死体を一瞥すると、その場を後にした。
その後、情報局所属の者により、ミランダの死体は痕跡を残さず処理される。
帝都の夜の闇は深く、全ての出来事を無かった事にして葬り去るのだ。
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ギィは不敵に嗤い、立ち上がった。
驚くべき報告を受けて。
魔王リムルの動向を探らせるべくディーノを送り込んだのが、思わぬ形で役に立ったようだ。
ものぐさなディーノが珍しく、
「ダグリュールの所を追い出されたから、リムルの所にお世話になりたいんだけど……
紹介状、書いてくれない?」
そんな事を言ってやって来たのには驚いた。
怠け者のディーノが自分で動くなど、ここ千数百年来無かった事である。
天使との戦いでは、何度か面倒そうなディーノと共闘した事があったのだが、それ以外では記憶に無かった。
「何かあったら報告するし、いいだろ?」
馴れ馴れしいのはディーノらしい。
最強たるギィからすれば、別にスパイなどをして貰う必要も無いのだが、此処に居つかれても面倒そうだった。
ギィはともかく、ヴェルザードが許さぬだろう。
下手すれば、ディーノを殺してしまうかも知れない。
ヴェルザードが認めた者は、未だレオン一人しかいないのだから。
せっかくの手駒の一つを失うのも詰まらないので、簡単に紹介状を書き送り出したのだが……
そのディーノから報告が来たのだ。
悪魔公を何柱か配下に従え、帝国軍凡そ百万名を皆殺しにした、と。
明らかに異常。
世界は自分とルドラの支配を賭けた盤上だと認識していたが、そのバランスを乱す特異者が発生したようである。
人間達はルドラが、魔物はギィが、所有権を有している。
"竜種"に関してはお互いが一体づつ相棒としており、残り一体であるヴェルドラを取り込むのがゲームの醍醐味となっていた。
バランスブレイカーであるヴェルドラ以外に発生した、特異者。
その所属は幸いにも自分と同じ、魔王である。
最強の一角である自分とミリムに続き、究極能力『暴食之王』を有するであろう魔王、リムル。
何としても自陣営に取り込み、手駒とする必要があった。
育つのを待つもりでいたが、その必要は無いかも知れない。
ルドラに潰されるならそれまでと放置していたが、事態はそう甘くは無いようだ。
協力するなら良し、さもなければ、潰す!
一度逢っておいた方が良さそうだ、そう考え、ギィは行動を開始した。
「あら、愉しそうですね?」
そう問い掛けるヴェルザードに頷き、
「お前も来るか?」
と返した。
ヴェルザードは冷たく光る妖しい深海色の瞳をギィに向けて、
「ええ、そうですね。久しぶりに"弟"にも会ってみたいですし」
と冷たい微笑を浮かべる。
それで決まりであった。
二人は近所に出掛けるような気軽さで"白氷宮"を後にし、氷雪吹きすさぶ極寒の世界へと飛翔する。
暴威が今、魔物の国を目指し飛び立ったのである。