後編(前後編構成)
過去のいじめの贖罪として、白川優太の家に通いつづける俺――田中徹。張りつめていた糸が切れたかのように、ついに白川の家を激情のあまり飛び出してしまう。白川との関係がぎくしゃくし始めるなか、恋人洋子との約束の日がやってくるのだった――
そして迎えた、洋子との約束の日。
二人で電車で行こう、と洋子が提案したので、俺はバイクを家において徒歩で待ち合わせの駅に向かった。天気の方は上々。ちょっと雲が気になるけど、まぁ十分に晴れと言える。
「おまたせー。ごめんごめん寝坊しちゃって。待った?」
ホームのベンチに座って待っていると、待ち合わせの時間より三十分遅れて洋子がやってきた。化粧っけはほとんどなくて、それが逆に洋子自身の飾らない部分をよく表しているようで好感が持てた。いつも後ろで一本にまとめてある髪はほどいている。仕事で顔を合わせる時よりも全然ラフに見える。
「待った? って待ったに決まってんだろ。ったくよ、自分から言い出しといて遅刻なんてありえなくね?」
「だからごめんって謝ってるじゃん。いつまでもぐちぐち言わないでよ。それより乗る電車考えよう。何分発のやつになりそう?」
「はいはい、わかったよ。えーと、今の時間は正午ぴったりだから……」
いつもなら、白川の家に行っている時間だ。
「……って、もうすぐあるじゃん。急ごうぜ。さっさと行かないと座れなくなるぞ」
「うそ? わたしまだ切符買ってないよ」
「急いで行ってこい。ここで待ってるから」
「うんわかった。ちょっと待ってて」
券売機のある方へ駆けていく洋子を見送ってから、俺は手元にある切符に目を落とした。
そうだよ。今日はあっちのほうは考えなくていいんだ、先週が先週だったし。むしろ終わらせるにはちょうどいいじゃないか。繰り返しを繰り返しているだけじゃいつまでたっても終わりはこない。あれくらいのインパクトがある事件がないと、俺はずるずると意味もなくあいつの家に通い続ける羽目になっていただろう。
いいんだ。
もう、いいんだよこれで。
「買ってきたよ! さっさと行こう」
洋子の声で、俺は視線を上げる。
立ち上がるついでに、さりげなく俺は洋子の手を握った。びっくりした洋子の顔。その顔に笑みを返して二人で改札へと急ぐ。
今日は楽しい一日になりそうだった。ちょっと雲が心配だが、昼の間は大丈夫だろう。
初めてのUSJは予想以上に楽しかった。日曜だし人が多かったのであまりたくさんのアトラクションを回ることができなかったが、それでもスパイダーマンにジュラシックパークにジョーズにと、有名どころはきっちり抑えられたので大満足だった。
特に印象に残ったのが、最近できたっていう、テーマパーク内をめぐるジェットコースターだった。このジェットコースター、椅子はあるのだが足がつかないようにできていて、乗り物に乗っているというよりもまるで空を飛んでいるような感覚を味わえる。これも結構な人気があって、長い時間並ぶ羽目になった分、十分納得のいく内容だった。
なんていうか、日常のしがらみから解放されるような、そんな快感を味わえた。今日一日のアトラクションの中で一番印象に残っている。できることなら、これだけは二回でも三回でも乗りたいところだ。
けれど――。
「テツさぁ、はっきり言って、今日あんまり楽しくなかったでしょ」
帰りの電車の中で、洋子が唐突に俺に訊いてきた。何とか雨が降り出す前に電車に乗ることはできたが、空は完全に雲に覆われている。
「そんなことないって。何だよ突然。面白かったに決まってんだろ?」
「本当に?」
「本当だって」
「嘘。テツ、USJにいる間ずっと笑ってたけど、全部どこか嘘くさかったし」
「そんなことないって。お前の思いすごしだろ」
「ある」
「ないって」
「あるよ」
「ないない」
「ある。絶対」
「ないって言ってんだろ」
声が、自分でも不機嫌になったのがわかった。洋子の方も俺の空気を察したのか、それきり追及してこなくなった。ごめん、と小さく言ってから、俺は改めて今日の自分自身を振り返ってみる。
実際、洋子に言われた通りなのかもしれない。俺は今日確かにずっと笑いっぱなしだった。けれど正直に言えば、その笑いが心からの笑いだったとは言えないような気がしないでもなかった。
確かにUSJは楽しかった。そこに嘘はない。けれどどうしてか、正直楽しければ楽しいほど心のどこかでむなしさのようなものを感じていたのも、また事実だった。別にアトラクションが退屈だったわけではないし、いやむしろこれ以上ないっていうほど面白かったんだけど、面白ければ面白いほど物足りなさを感じてしまう俺がいた。特にあのジェットコースターがそうだった。確かに面白いんだけど、どこか、そう、どこか俺の心を不安にさせるようなものがあったんだ。そして、その不安をかき消すためにほかのアトラクションをめぐる。今考えてみれば、今日はそんな一日だったのかもしれない。
「……やっぱり、今日はいつもの用事を断ったから?」
洋子が、少し声の調子を落として訊いてきた。
「違う」
いや、違うと思いたいだけかもしれない。自分で自分の考えていることがよくわからなくなってきた。
「……そっか。テツが言ってくれるんだったら、そう思っとく」
「悪いな、ほんと。俺も、よくわからないんだよ」
「いいって。そうやって正直に言ってくれることの方がわたしは嬉しいんだから」
そんなことを話しているうちに帰りの駅に着いた。電車から降りて、改札を通り、駅を出る。
「送っていくよ」
「ううん。今日はやめとく。何かテツ疲れてそうだし」
「そんなことないって」
「テツは気を遣いすぎなんだよ、いつも。だからこんなわたしといるのが楽しんでしょ? わたしといると気を使わないで済むから。なのにわたしに気を遣っちゃったらただしんどいだけじゃん。今日はゆっくり休みなって」
「……悪いな、そうするよ」
「そうそう。だいたいそんなテツと一緒にいてもわたしが面白くない」
洋子の言葉に俺は思わず苦笑してしまった。それを見て洋子もにっこりと笑う。ホント、俺はいい彼女を持ったと思う。
その後、洋子はバスに乗ってさっさと帰って行った。
辺りはもう真っ暗だ。曇り空だからか、月どころか星は一つも見えなかった。俺と同じようにUSJに行った帰りだろうか。駅の入口からは、たくさんの人が吐き出され続けている。
俺も、もう帰るとするか。そう思って自宅の方へと歩き出そうとしたとき、不意に後ろから声をかけられた。
「もしかして、田中君じゃないかしら?」
「え?」
振り向いた先には、白川のおばさんがいた。片手に、有名な百貨店の紙袋を提げている。
「あらあら奇遇じゃない。今日は来ないから心配してたのよ」
「あの、どうしてこんなところにいるんですか?」
「見ればわかるでしょう? お買い物。そしたら偶然田中君を見つけたものだから……。どうしたの、今日は」
「いえ、あの……」
「ちょうどいいわ。今日は来てくれないのかと思ってたから。今から来てくれたらあの子もびっくりするわよ。田中君はここまで何で来てるの? バイク?」
「まぁ、歩きですけど……」
「だったらちょっと乗ってきなさいよ。せっかくだから晩御飯も御馳走してあげるから」
「え? あの……」
「いいからいいから、ほら乗って乗って」
おばさんの車に乗せられて、俺はほとんど無理やり白川の家に行くことになった。今日はあいつの家にはいかない日だと決めたのに、いったいどうしてこんなことになったのだろう。
「さぁついたわよ。ほら上がって上がって」
駅で出会ってから三十分もしないうちに、俺は結局いつもの客間の椅子に座っていた。
「田中くんが来たことは秘密にしておいてあげましょうか。その方があの子も驚くでしょうし」
「はぁ」
「少し待っててね。ちょっとあの子の様子見てくるから」
客間に俺だけ残して、おばさんはさっさと二階へと上がっていってしまった。
何がどうなっているんだろう。俺の頭の中は疑問符でいっぱいだ。
そもそも、今あいつと会っていったい何を話せるというのか。
「どうしようかな……」
帰るか。そんな考えが頭の中をよぎった。
相変わらず聞こえてくるピアノの音。そう言えば、今日はいつもとどこか調子が違う気がする。いつもは曲なんて気にして聴いていなかったけど、こうして違うのがいざかかっていると結構気付くもののようだ。
よくわかんないけど、なんか、水? が流れているような感じがする。音が集まって表現されているというより、何も意識しなくてもそれにしか聞こえない。こんなことをピアノを聞いて感じるのは初めてだった。
こういうのが、面白みなんだろうか――?
「お母さんには分らないんだよっ!」
突然声が上がったので、俺は驚いた。誰の声? 考えるまでもなく白川のそれだ。ピアノの音も止んでいる。俺は気になって、急いで二階へと向かった。
「また来てくれるって? もう来るわけないじゃないかっ! そんな軽いものじゃないんだ。知ったような口で話さないでよっ!」
ドア越しにも白川の声がはっきり聞こえる。こんなに激昂したあいつの声を聞くのは初めてだった。
「優太、聞いて。実は今日、田中君が一階に来てくれてるのよ」
「嘘だろ。嘘に決まってる」
「本当よ。今から呼んできてあげるから……」
「呼ばなくていいっ!」
声と同時に白川が鍵盤をたたいたのか、意味のわからない不快な音が響いた。
「どうせ来てくれてるのだって、お母さんが無理やり呼んだんでしょ。それくらい僕にだってわかるよ」
「優太」
「……先週、ようやく分ったよ。僕は、僕は高校の時から何も変わっていないんだ。あの頃も、僕は僕を誰かに知ってほしかっただけなんだ。そればっかり考えてた。それが、相手を怒らせることなんて考えてもみなかったんだ。ううん、本当は分かってたのかもしれない。いや分かってた。分かってて、僕はあえて続けてたんだ。ただの繰り返しかもしれないけど、続けてればきっと分かってくれるってそう思ってた。けど違ったんだ。繰り返せば繰り返すほど、相手のイライラを増やしているだけだったんだ」
「優太。そんなことないわ。言い続ければ、いつかはきっと」
「そうやって、僕はこうなったんじゃないか!」
おばさんの言葉をさえぎって、白川が叫んだ。
「僕が事故にあったのも、目が見えなくなったのも、全部僕が悪かったんだっ! 僕が僕のことを分かってほしいなんてわがままを出して、結局みんなをイライラさせて……ただの自業自得だったんだ。そのことに早く気付けばよかったんだよっ! なのに田中君は自分が悪いなんて勘違いして僕のところに来てくれて、本当は嫌なのに僕と話なんかしてくれて。それで、今度こそはなんて僕が思ってしまったのも悪かったんだ。今度こそは田中君に僕を知ってもらおうなんて考えるから、結局田中君をずっと苦しめていたんだ。自分の好きなものを無理やり人に押し付けて。三年間も。三年間もずっと! 田中くんはもう呼ばなくていい。もういいよ。もういい加減、田中くんを解放してあげてよ。今呼んでるんなら今すぐ帰ってもらって!」
白川の言葉は取り留めもなく続く。俺は白川の部屋の入り口で固まったま動けないでいた。もしかしたら、まばたき一つしていないほど固まっているかもしれない。
息がうまく吸えない。
「お母さんには……分らないよ」
白川の声が激昂から変わった。
「僕だって、田中くんには来て欲しい。もっといろんな話を聞きたい。もっと外の世界を知りたい。色んな、自分が体験していない話を聞くと、色が戻ってくるんだ。心の中の色が。でも、田中くんはもう呼んじゃいけないんだ。もう駄目だよ僕は……。誰も僕を知ってくれない。僕は誰にも僕を伝えてはいけないんだ……僕は、そう僕は――」
それ以上は聞かなかった。聞いていられなかった。俺は音をたてないように階段を降りて、玄関のドアを開け、先週そうしたようにまた挨拶もなしに白川の家を出た。
ただ一つ違うのは、今日はバイクを持ってきていなかったということ。ここから自宅までは歩いて帰らなければいけないが、それも今日はちょうどいい。
雨が降っていた。当然、傘なんて持ってきていない。それほど強い雨でもないから、歩いて帰れなくもなさそうだ。少なくとも死にはしないだろう。本当に、何から何まで都合がいい。
「……何がただの繰り返しだよ。いい気になりやがって」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。そうしないと声が震えてしまうから。
いったい自分は今まで何を考えていたのだろう。繰り返しに意味はない? その繰り返しに、俺は、そして白川は苦しんでいたんじゃないか。そして、毎日をただの繰り返しだと決めつけていたのはいったい誰だ? まぎれもなく俺だ。
繰り返しだから同じ日々が続くわけじゃない。同じことしかしないから、結局繰り返しになっていただけだった。
傲慢にもほどがある。昨日までの自分が考えていたことに、心底吐き気がする。
どうして高校時代に白川の態度にいらついていたのかも、どうして俺がピアノの音に悩まされていたのかも、唐突に納得がいった。ようは分らなかったのだ。そして、分らないものが不安で怖かったのだ。そして、俺はそこで分らないものを分ろうとせずに、ただはねつけることしかしてこなかった。
変わっていないのは、俺の方だ。贖罪のためだとかカッコつけて三年間もあいつの家に通っておきながら、あいつをいじめていた高校時代と何一つ変わっちゃいない。
「馬鹿だよな、ホントに」
雨が強くなった、様な気がする。風が冷たい分、春の雨の温かさが感じられて心地よい。
繰り返しに意味がないだって? なら、意味があるようにしてやろうじゃないか。
あいつは、俺が今日まで三年間ずっと苦しんできたって言ってたけど――。
「ならあいつは、高校にいた時からずっと苦み続けてきたんだな」
この間そうしたように白川の家を振り返った。少し離れたところから見た白川の家は、アパートなんかと違って一つだけぽつんと明かりがともっていて、なんだかとっても寂しそうに見えた。
音をたてないようにゆっくりと階段をのぼる。いつの間にか階段をのぼるのもうまくなったようで、今日は階段の方もぎしぎし音をたてていない。将来はいい泥棒になれるかもしれないな、なんて冗談めかしたことを考える。
おばさんには黙っておいてと頼んでおいたから、きっとあいつは驚くだろう。
相変わらず聞こえてくるピアノの音。やっぱり、俺が来るときにいつも弾いてたやつだ。本当に好きなんだな、あいつは。
相変わらず半開きになっている入口のドア。まだ中の白川はピアノを弾いている。あとは、これがうまく開けられるといいんだけど。
ぎぃぃぃぃぃ――。
鳴ってしまった。ぴたり、とピアノの音が何の脈絡もなしに止んだ。白川が驚いて演奏を止めたのだろう。
鳴ってしまったものは仕方がない。俺はそのまま何気ない顔で部屋の中へと入る。
「お母さん、入るならちゃんと入るって言ってよ。今結構いいとこだったんだから邪魔しないでくれる?」
演奏を邪魔された白川が不機嫌な声を上げる。
笑い出したくなる。言ってしまおうか。それともまだ黙っておこうか。
「で、何の用? さっき掃除に来たばっかりじゃない。なにか忘れものでもしたの?」
だめだ。もう言ってしまおう。
「お母さんじゃないよ。俺だよ、俺」
「え……?」
白川は予想していた人物と全然違う声が聞こえたことに、目をぱちくりさせて固まってしまった。目が見えないことを知っていてからかうのはあまりほめられたことじゃないんだろうけど、それでも面白いものは面白い。
「だって……え? 田中君は……え、えええええええ?」
「なんだよ。俺がここにいたらそんなにおかしいのかよ」
「だって、今日は日曜じゃないし、階段登ってくるときの音だってそんなに大きくなかったし、その、いつもと雰囲気違うし、それにピアノ弾いてる時に入ってくるなんて、今までなかったし」
「悪いかよ。俺だってたまにはピアノ弾いてる時に入りたくなるんだよ。今日みたいにびっくりさせるためだとかな」
「驚いた。田中君、ピアノ嫌いなんじゃなかったの?」
「ああ、嫌いだ。ピアノなんて聞いててイライラしてくるだけだしな」
「……そう、そうだよね」
白川は俺の言葉に目に見えて落ち込んでいる。やっぱり、こいつは目が見えていないんだなぁと思う。本当に目が見えていたら、きっとそんな顔はできなかっただろうから。
「だから、今日は好きになろうと思ってここに来たわけだ」
「……え?」
白川が驚いて顔を上げる。
ただの繰り返しは、もう終わりだ。
「なぁ、弾いてくれよ。何かおススメのやつ」
「あ、うん……それじゃいくね」
白川の指が再び鍵盤の上を滑り始める。音が鳴る。高い音。低い音。それらが重なって生まれる音。けれど今日はそれだけじゃない。なんとかしてメロディーを聴きとろうと努力してみる。
テンポよく音を刻んだかと思えば、流れるような旋律に変化して、また元に戻る。よく聞くとその同じメロディーがいくつも重なりながら繰り返されている。ただの繰り返しのようで、けれどその繰り返しが微妙に重なって、また違うメロディーが生まれ、飽きさせない。へぇ、こうやって聴いてみると面白いじゃないか。メロディー自体は何度も繰り返しているので簡単に覚えられる。俺は知らず知らずのうちに、白川のピアノに合わせて、口笛でメロディーを歌っていた。
よく聴けば、白川が好きだと言っていたあの曲だった。
白川がうつむくように身をかがませた。
俺たちの、ピアノと口笛の合奏は続く。
しばらくして、ほんとうにおばさんが入ってきた。合奏を続ける俺たちを見て一度笑ってから、空気の入れ替えのためにずっと閉まっていた窓を開けた。
汚れのない真っ白なカーテンをたなびかせて、車の排気ガスのにおいが少し混じった、それでも心地よくて暖かい春の風が、俺たちの合奏に乗っていつまでも白川の部屋を流れていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
はじめまして。イノチのキモチと申します。『カノンに添えて』いかがだったでしょうか。
お気づきの方もいるかと思いますが、タイトルにもなっている「カノン」(作中で白川の弾いていた曲)とは、ドイツの作曲家ヨハン=パッヘルベルの有名なクラシック音楽で、この曲は同じメロディーがいくつもかさなって違うメロディーが生まれる、という特徴をしています。『かえるのうた』なんかを思い浮かべていただければわかりやすいかと思いますね。
今回の作品が初投稿という新米ですので、右も左もわかりませんが(もっと一話一話区切って短くした方がいいとか、そもそも文章全体が長すぎるとか暗すぎるとか……)、これからも定期的に作品を投稿していければと思います。
それでは、今回はこのへんで。また、次の作品でお会いしましょう。