前編(前後編構成)
はじめまして。イノチのキモチと申します。初投稿です。
『カノンに添えて』は前後編の二話構成となっています。
それでは、どうぞ本文の方へとお進みください――
俺が一歩一歩上るたびに、階段がぎしぎしと音を立てた。スリッパをはいたおばさんが上る時はぱたぱたと跳ねるような音しか立てないその階段は、俺が上る時だけわざと重苦しい音を立てているように感じる。
その時の俺の心境は、絞首台っていうんだったかな、たぶん、それに向かう階段を上っていく死刑囚のそれだ。
二階が近づいてくる。それにしたがって、向こうのほうから階段のぎしぎし音以外の音が聞こえてきた。
ピアノの音だ。
衆目に晒された死刑囚に民衆がかける罵声のように、その音は俺の耳の奥を責めたてる。
高く細い、流れるようなピアノの音が加わって、ぎしぎし音がかえって余計に耳に付く。
たった十数段、けれど俺にとってはその何倍にも感じる階段を上りきり、そこの廊下をまっすぐ三メートルほど進んだところに、ひときわ大きなドアがある。金属製の取っ手のついた、いかにも高級そうな木製のドアは半開きになっていて、ピアノの音はそこから漏れだしてきている。それが知らずになのかわざとなのか、それとも知っていても閉められないのかは俺にもわからないし、あいつに訊いたこともない。けれど俺がこの部屋を訪れるようになって三年間、いつも俺が来るときには決まってこのドアは半開きになっている。
俺はそのドアを開けてゆっくりと中に入っていく――ようなことはしない。俺は黙って、静かにドアの隣に腰を沈めた。ここが俺のいつもの定位置だ。部屋の中から俺の姿が見えないように、ドアの付いている方の壁にぴったりと背中をくっつけて床に座る。
あいつはだいたいあと五分ほどピアノを弾き続けるはずだ。この時間が俺にとっては一番つらい。当たり前だが、部屋の入口ぎりぎりのここは、ピアノの音が一番よく聞こえるからだ。俺は耳をふさいだ。確かにピアノの音は小さくなったが、関係のない雑音の方も聞こえなくなってしまい、余計にピアノの音が耳につくようになってしまった。そんなことはわかりきっているはずなのに、この位置にくるとどうしても俺は耳をふさいでしまう。
あと五分。あと五分。ぶつぶつとうわごとのように呟く。どうしてピアノの音がこんなにも俺の神経をまいらせるのか、自分でもわからない。
そうこうしているうちに、いつのまにかピアノの音は止んでいた。恐る恐る両耳に貼り付けた手のひらを外す。大丈夫。大丈夫だ。ようやくその時になって俺はゆっくり立ち上がると、半開きになっているドアを開け、中へと足を踏み入れた。
ぎぃぃぃぃ――。
床に敷かれた真っ赤なカーペットの上にはごみ一つ落ちていない。真っ白なレースのカーテンが付けられた窓は閉まっていて、本や楽譜がぎっちり詰まっている本棚は、もうそれらを読む人がいないにもかかわらず埃一つかぶっていない。本棚とちょうど対角線の位置にベッドと机が置かれていて、その隣に、黒光りする大きなグランドピアノがあった。
「今日は、遅かったんだね」
そいつは、そのピアノの椅子に腰かけて、俺の方に顔を向けることなくそう言った。
「ああ。今日は、臨時の仕事が入ってな。そんな時もあるさ」
「田中君が僕の家に来てくれるようになってから、こんなこと初めてだよ。本当に、なにかあったの?」
ぎくり、とする。大丈夫だ。今のは単に俺の体を心配して言っただけ。こいつには何も見えていない。声に出しさえしなければビビる必要はない。
「ま、いっか。こうやってちゃんと来てくれたんだし。そんなことよりも」そいつはそこで椅子に座り直して、身体ごと俺の方へ向き直った。
灰色の、光を失った瞳が俺をまっすぐ見つめてくる。
「今日も、たくさんおもしろい話を聞かせてよ」
そう言って、そいつはいつものように、無邪気で無防備な笑顔を向ける。
そいつの光を奪ったのは、まぎれもなくこの俺だっていうのに。
田中徹という人間が白川優太という人間の光を奪ったのは、高校時代のことになる。何のことはない。当時いきがってた一人の馬鹿が、なんの罪もない一人の人間を道路に突き飛ばし、そこにたまたま車が突っ込んできた、ただそれだけの話だ。
「最近あった面白い話といえば、そうだな、昨日コピー機の調子がおかしいってことで、ちょっと業者に来てもらったんだよ。その時なんだけどな――」
あらかじめ俺のために用意してくれている丸椅子に座り、いつものように白川に他愛もない話をしゃべっている間、俺の意識は白川優太がまだ光を失う前――高校時代へと飛んでいた。
白川優太は、今で言ういじめにあっていた。そして、いじめる側の筆頭がこの俺だった。
そのころの俺は本当に好き放題やっていた、と自分でも思う。いつも数人の友達と一緒につまらないことではしゃいで楽しんでいた。オンナノコとも遊びまくったし、タバコも吸った。けれど好き放題やっていた分、それを縛るガッコウというものが本当にうっとうしく、ストレスも多いに溜まった。
そんな俺たちがストレスのはけ口として選んだのが、一人も友達を作らずに本ばかり読んでいる白川優太という人間だった。
実際、白川優太にからんで遊ぶのは、こう言っちゃなんだけど、予想以上に面白かった。白川優太は、俺たちが無茶な要求を突きつけても必死になってこたえようとする。教室でパンツ一丁になってグラウンドを一周して戻ってこいと命令したときなんか、俺たちの方は本気でやるなんて考えちゃいなかったのに、白川優太は本当に実行した。戻ってくる途中でチャイムが鳴って、あいつがパンツ一丁で授業中の教室に入ってきたときなんか、俺たちは腹を抱えて笑ったもんだ。
けれど一方で、そいつはどこか俺たちをイライラさせる何かを持っていたんだ。
俺たちの方は白川優太を単なる遊び道具としか見ちゃいないのに、あいつのほうは本気で俺たちのことを友達とでも思っていたらしかった。あんなひどいことをされているのに、俺たちに馴れ馴れしく話しかけてくる。音楽に興味はあるかとか、僕ピアノやってるんだけど今度聴きに来ない、とか。あいつが俺たちの中に組み込まれるのはいい。けれど俺たちがあいつの側に組み込まれることはご免だった。そんなあいつの態度を見るたびに、俺たちの行為は次第にエスカレートしていった。それでもそいつは俺たちに話しかけるのをやめようとしない。俺たちのイライラは頂点に達して、そしてついにあの事件が起こったんだ。
ちょうど白川への話もひと段落したところだったので、俺は少し間をおいて深呼吸を一つした。
そう、確か、学校から少し離れた細道だった。俺はいつもの仲間と一緒に、白川優太を取り囲んでちょっかいを出して遊んでいた。それはそれで楽しかったが、そいつの浮かべるひきつったような笑顔が気に入らなかった。嫌がっているのは明らかなのに、ひたすら媚を売るみたいにへらへら笑っているそいつがとにかくムカついた。
俺はそんなあいつの態度にいらついて、ひときわ強くあいつの尻を蹴った。たぶんそれは、その中では俺が初めに耐えられなくなっただけで、俺がもしも耐えていたのなら別の誰かが起こしたことなんだと思う。
あいつはのけぞって、俺たちの輪から勢いよく飛び出すことになった。
ちょうどその時、滅多に車の通らないその道にワゴン車が猛スピードで突っ込んできて、あいつはそのまま思いっきりはねられたんだ。
近くの家のおばさんが救急車を呼んできてくれて、すぐにあいつは病院に運ばれたらしい。ワゴン車はそのまま通り過ぎて逃げようとしたが、結局警察に捕まったらしい。運転手は免許をとりたての俺たちとそう変わらない兄ちゃんで、携帯電話でおしゃべりしていたためあいつの存在に気付かなかったらしい。俺たちはあいつが病院に運ばれて行くまでの間、何もできずにその場で彫刻のように固まっていた、らしい。
らしいとしか言えない。あの瞬間からの俺の記憶はとてもあいまいで、思い出そうとしても思い出せないんだ。
ただ、なんとなくだけど、俺たちにいじめられる前のあいつなら、ワゴン車にはねられることはなかったんじゃないか、なんてわけもなく思うときがある。理由なんてない。けれど、本当、自分でも全然よくわからないけれど、俺にはそう思えてならないんだ。
高校生といってもまだガキだった俺たちは、それからの詳しいことは何も知らない。とにかく入院費がどうとか裁判がどうとか保険がどうとか学校がどうとか、あいつの方は大変だったらしい。それに比べて、あいつの事故の原因を作った俺たちはといえば、何もなかった。本当に何もなかったんだ。せいぜい警察からの事情聴取がちょっとあったくらい。それも、近くにいた白川優太の遊び仲間という扱いで、だった。俺たちがあいつをいじめていたとか、そのせいであいつが事故にあったとか、そういったことは何一つ話題にならなかった。何も分からない。本当に警察も学校もそうとらえていたのか、それとも学校がいじめがあったという事実をもみ消してしまったのか。俺たちのせいであいつは事故にあったのに、俺たちはそれまでと何も変わらず、ガッコウに行き、友達と笑い合い、そして無事高校を卒業した。
俺は、そんな日常が何事もなく再びやってくることに耐えられなかった。
だから、卒業式の日、あいつが退院したっていう知らせを聞いた時、俺はいてもたってもいられなくなってあいつの家に行ったんだ。その時あいつのおばさんから、あいつは目が見えなくなってから話し相手を欲しがっている、という話を聞いた。
それから三年間、俺はあいつの家に通い続けている。今こうして白川にしているように、白川にいろいろな話をして、白川の気が済むと俺は帰る。
決して馬鹿だったわけじゃないが、俺は大学に行かずに高校を出てからすぐに就職した。平日はみっちり仕事で埋まっている。俺にとって唯一の休みは日曜日の週一日だけ。けれど、その日曜日は必ずあいつの家に行くことにしている。
何のために?
紛れもない、あいつの光を奪ったことについての贖罪のためだ。それ以外に何があるというのだろう。
けれど三年が経ち、最近の俺は思うんだ。
これがあいつの光を奪った贖罪なのだとして、だとしたら俺の贖罪はいったいいつになったら終わるのだろう、と。
もういいじゃないか、と考えるときがたまにある。もういいじゃないか。三年間、唯一の休日をあいつのために使い続けた。別に、俺がここに通い続けたからってあいつの目が見えるようになるわけじゃない。
毎週毎週あいつの家に行って、陰鬱な気分で二階への階段を上り、ピアノの音に悩まされ、ピアノが止んでからあいつの部屋に入って、身にもならない話をして、帰る。それの繰り返しだ。この三年間、それ以上のこともそれ以下のこともなかった。そして、これからもそんなことはないだろう。俺が通い続けたところであいつの目が治るのなら、喜んで俺は俺の時間と労力をあいつのためにささげよう。けれど、何にもならないことをただ永遠に繰り返すことの、一体どこに意味があるって言うんだ。ゴールの見えないマラソンをさせられているようなものだ。なら、もういいじゃないか。俺は十分よく頑張った。そもそも誰も俺のことを責めてなんかいない。なのに俺がわざわざあいつの家に通っているのは、ひとえに自分自身の気持ちの整理がついていなかったからだ。それも、もう――。
「そうだね。うん、たしかに僕もそんな時はあるかな。どうしてかわからないけど、不思議な気持ちだよね」
「え、あ? なんの話だ?」
また、ぎくり、と。
白川の言葉に、俺の意識は現実へと引き戻された。
表情は見えていないはずだが、声色から俺が困惑していることを読み取ったのだろう。迫力も何もない白川の眉間にしわが寄った。
「田中くん、さっきまで自分でしゃべってたじゃないか。コピー機の液晶パネルに付いてる保護シールの話でしょ。そこで働いてる人はみんなシールがどれだけペラペラになってても剥がそうとしなかったのに、あとから来た修理業者の人が勝手にそのシールをあっけなく剥がしちゃって、みんなに怒られたって話。僕はちゃんと真剣に聞いてるんだから」
「あ、ああ悪い悪い。ちょっとぼーっとしててな」
「でもやっぱり、保護シールって剥がれてきたら見た目が悪くなるだけだし、ペロペロになってきたのが気になって剥がしてしまいたくなるんだけど、なぜか剥がさずにとっておきたいとも思っちゃうんだよね。それで、僕もそういう気持ちになるときはあったな、ってさっき言ったんだよ」
「そうだな、そんな話だったな」
今度はなんとか冷静を保てた、はずだ。本当に、こいつは目が見えなくなった分ほかの何かが見えているんじゃないだろうか。
「僕だったら――そうだな、その剥がされちゃった保護シール、拾ってまた貼っ付けちゃうかもしれないな。せっかく今まで剥がしたいのを我慢して貼ったままにしてたんだしね。まぁ、そもそもシールを自分で拾えないのが悔しいところだけど」
そう言って白川は苦笑いをした。その苦笑いの意味するところを考えたくなくて、俺はその保護シールがその後どうなったのかを思い出していた。
確か、保護シールを大事に貼ったままにしていたそこの従業員さんがかわいそうな気がして、俺が剥がされたシールをもう一度貼っておいたんだっけ。
一度剥がれたものだから、いまにもまた剥がれてしまいそうなくらいペロンペロンだった気がするけど。
いつものことだが、外に出てみるとすっかり日は暮れていて、空には薄い雲に覆われた月がうっすらと見えた。今まで屋内にいたせいか、外に出た途端に強い寒気を感じる。気温がどうこうというよりも、今年の春は風がまだ冷たい。
玄関まで見送ってくれたおばさんに「また来週」と声をかけて、俺は白川の家を出る。バタン、というドアの閉まる音が聞こえたのを見計らって、俺は今出てきたばかりの白川の家を振り返った。
白川の家は高級住宅街の一角にある。いつ見ても大きい家だ。家族と暮らしているときも一人暮らしを始めてからもアパート暮らしの俺なんかは、こんな家に住んでいるやつらがどんな生活を送っているのか想像できない。まぁ、たいていは俺たちと変わらないんだろうけど、やっぱりご近所づきあいとかはそれほど考えなくてもいいんだろうな、と思う。俺たち一般市民なんかは近所の人との連携が生活の上でも大事だけれど、こんな家に住んでいるやつらなんかは、自分で全部何とかしてしまうんだろうな。
家の隣に止めておいたバイクにまたがって、みすぼらしくて懐かしい我がアパートへと向かう。陰鬱な気分を弾き飛ばしたくて、俺はスピード違反で捕まるのを覚悟の上で思いっきりバイクを走らせる。
体にぶつかってくる風が、どこか物足りない。
途中、俺が、そして白川優太が通っていた高校の前を通った。通り過ぎざまにちらりと中を窺うと、三月ももう半ばだというのに、校門に生えているはずの桜の木はまだ花を咲かせてはいなかった。まぁ、こんなに冷たい風が吹いていたら仕方ないことなのかな、と思わないでもない。だいたいもう夜だから、花が咲いていたところであまりよく見えなかっただろうけど、それでも花が咲いていないのはなんとなくさみしい感じがする。
そういえば米をきらしていた、なんてことを思い出し、俺はバイクの進路を近くのスーパーへと向けなおした。それほど大きくもない、アパート近くのスーパーだ。着いたときにはスーパーはもう閉店間近で、客は少なかった。さっさと目的のものだけを買って帰るに限る。アパートに来る理由になった米など必要最低限のものだけをさっさとかごに詰め込んで、レジへと急ぐ。レジで精算している間も、店員の対応がどこかそっけないものに見える。こんな時間だし客も少ないんだからそれもうなずけなくはないんだけど、そんな日常の他愛ない一コマさえ、色々あって少々沈みがちな俺の心に追い打ちをかける。
精算をすましてスーパーから出ると、もう俺の乗ってきたバイク以外には駐車場に車も自転車もなかった。どうやら俺が最後の客だったようだ。それもそうだろう。スーパーは俺が店から出た途端に店じまいを始めている。買い物も結局色んなところを回ってしまった。両手に持ったビニール袋がずしりと重い。ここが俺の悪いところだ。最低限、なんてものをなかなか決められない。おかげで後でやり残したとか忘れていたとかいうことが普段滅多にないのは助かるんだが。
「さて、今度こそ帰るか、と……ん?」
その時、マナーモードにしてあったポケットの中の携帯電話が震えだした。メールじゃなくて電話だろう。俺はメールではバイブすらしないように設定しているから。誰かと思って携帯を取り出すと、洋子からだった。
ビニール袋をその場で手放してすぐに電話に出る。
「はい、もしもし?」
「あ、テツ? もしもーし。よかったぁ、かかったかかった。テツさぁ、今まで何してたのよ」
携帯から、どう考えても裏表のない感情丸出しの声が響いてくる。
「なんだよ洋子、こんな時間に。お前常識ってもんを知ってるか? 電話ってのは夜かけるもんじゃないんだぞ一応」口調とは裏腹に、自然と頬が緩むのが自分でもわかる。「で? 何の用だよ」
「何よ。そんな言い方はないんじゃない? 今までいくらメールしても返ってこないから、こっちがどんだけ心配したと思ってんのよぉ」
「わりぃわりぃ。ちょいと野暮用でな。知ってるだろ? 俺が日曜は用事があるの」
「そりゃあそうだけどさぁ。やっぱ、心配になるじゃん」
「何がだよ」
「そりゃぁ、例えば」
「例えば?」
「例えば……」
「なんだよ、もったいぶらずに早く言えよ」
「だからっ! 例えば他の女のところに遊びに行ってるんじゃないかもって!」
ぶっ。
思わず吹き出してしまった。
「……なによ、何か悪いわけ?」
「いや、お前って案外純情なのな。びっくり」
少し長電話になりそうだ。携帯は頬と肩で挟み込んで、さっさと荷物だけバイクのシートを開けて中に放り込んでおく。
洋子は、たまたま先輩に誘われて行った仕事仲間での合コンで知り合った。それ以来仕事先でも度々顔を合わせるたびに挨拶していたら、ある日突然告白された。それ以来付き合い続けてもうすぐ三カ月になる。洋子は思ったことを何でも素直に言ってくれるし、だからこっちも同じように素をさらして話ができる。俺は洋子のそんなところが好きだ。こうして電話で話しているだけでも、全身の疲れが取れていくように感じる。
携帯からは、そんな俺の心境なんか知るわけもない洋子の、恥ずかしがってるんだか呆れてるんだかわからない声が聞こえてくる。
「あのね。一応、こっちはコクった側なんだから、そりゃ心配にもなるわよ。なに? そりゃあ、うざいと思われたんならやめるけどさ。嫌われたくないし」
「別にそんなことないって。普通に嬉しかった。うん、ありがと」答えつつ、立ててあるバイクの片側に背中を向けて座り込んだ。うまいこと風が遮られて、寒さを忘れられる。
「しかもテツったら、いざ付き合ってみたら折角のお休みの日曜はいっつもどっか行っちゃうし、どこ行ってるかも教えてくんないし」
「……まあな。それは悪いと思ってる」
「んで、どうせ今日も教えてくれないんでしょ」
「そんなことでわざわざ電話してきたのか?」あまりその話題は続けたくはなかったので、俺は無理やり話を変えた。途中、隙間風が入ってくるのがわかって少し座る場所を移動しながら。
「そうよそうそう。忘れるとこだった。テツ聞いてよ。確かこの前、テツ、USJまだ行ったことないって話してたよね」
「まぁ、確かに行ったことないけどさ」
「それなんだけどさぁ。なんか入場券が二枚手に入っちゃって、ちょうどいいから今度一緒に行かない?」
「え? マジで? 行きたい行きたい。なんだよそれどうやったんだよ」
「いやねぇ、友達がさぁ、彼氏と行くつもりで買ったらしいんだけど、この間ちょっとケンカしちゃってそれどころじゃなくなったってわけ。んで、折角だし頂戴って言ってみたらくれたわけよ」
「……いいのかよ。それ」
「ああ、ダイジョブダイジョブ。わたしは前からその友達にはさっさと別れた方がいいって言ってたし。むしろ今度のであの子もわかってくれるんじゃないかなーって考えてるくらいだし」
「いやそうじゃなくて。その友達が彼氏と一緒に行くつもりで買ったやつを俺達が使うってさ……その、どーよ?」
「いいんじゃない? 別に」
「……まぁ、いいけどさ。そんで、いつ行くよ?」
「そう、そこ。それさぁ、わたし的にはさ来週の日曜がいいんだけど」
「へ?」
ここまでとんとん拍子に続いていた会話が、一瞬途切れた。
「なに? 聞こえなかった? だからさ来週の日曜日。わたしも最近仕事たてこんでてさ、その日くらいしかしばらく休みとれないのよ」
「あのさぁ、さ来週はいいとしても、いや日曜は駄目だって。お前今日なんで俺からメール返ってこなかったかもう忘れたのかよ。日曜は俺用事あるんだって」
そうだ。日曜日は白川に家に行くことになっている。「なぁ、なんとか他の日にできないか?」
「他は駄目か? って……そもそも他の日だったらテツは仕事でしょ。そりゃわたしもだけど」
「そうだけどさ」
「だったら日曜しかないじゃない。いいじゃんいいじゃん。別にテツの言ってるその用事だって、仕事ってわけじゃないんでしょ? だったら一日ぐらい休んだっていいんじゃない?」
「でもなあ……」
いいのか?
一日くらい。
本当にいいのか?
いや待て。むしろどうして駄目なんだ?
そうだよ、どうせ俺が行ったところで何もないんだったら、もう――。
「ねぇどうなのよ。やっぱり無理? だったら券は友達に返すつもりだけど……」
「わかったよ」
言って、俺はため息をひとつついた。
「本当! やった! 結構無理だと思ってたんだけど。え? マジで? 嘘じゃない? 本当に?」
「マジで。マジマジ。用事の方はなんとかするよ。今回は特別だからな。あんまり調子に乗るなよ」
「わかってるわかってる。それじゃあ集合時間とか場所とかはまた連絡するから! じゃ」
急に音のしなくなった携帯を眺めて「まったく元気なやつだよ」と一つ呟いてから、俺は膝に手を付いて立ち上がった。
さてと、今度こそ本当の本当に帰りますか。
俺がバイクにまたがったところで、背後からスーパーのシャッターを閉める音が聞こえてきた。しまった、もう少し電話をしておくべきだった。そうしたらこのシャッターの閉まる音を聞かないですんだのに。おかげでまだ何か買い忘れたんじゃないかって心配になってきたじゃないか。
神様は、やっぱり俺に気分よく今日を終えることを許してはくれないようだ。
「あら、今週は早かったのね」
「おじゃまします」
玄関で迎えてくれたおばさんに軽く会釈をして、俺は靴を脱いで白川の家にあがる。
洋子と約束をしてから一週間がたった日曜日。来週が洋子との約束の日で、白川の家に行かない日でもある。ならせめて今日くらいはちゃんと時間通り行こうと思い、それまでの習慣通り正午ちょうどに俺は白川の家に着いていた。
白川の家は母子家庭で、白川の両親は早くに離婚して白川自身は母方に引き取られたらしい。おばさんはもともとお金もあったし、小学校で教師をしているらしいから収入もちゃんとある。この立派な家だっておばさんのものだ。
おぼさんに案内されて(と言っても何十回と来ているからいまさら案内されるも何もないのだけれど)俺は一階にある客間の椅子に腰かけた。しばらくもしないうちに、おばさんがコーヒーを持ってきてくれた。
「まだ、あいつはピアノ弾いてますかね?」
二階から、微かにピアノの音が聞こえているのが分かっていながら、俺はここに来るとどうしてもこの質問をしてしまう。
「ええ。いまのあの子の楽しみって言ったら、それと、あとは田中君が来てくれることくらいじゃないかしら」
にっこりと笑っておばさんが答える。笑った拍子にできた小じわが、年齢と同時におばさん自身の柔和な人柄を連想させる。
「そうですか……。じゃ、俺はいつもみたいにもうちょっと待たせてもらいます」
「そう? 別に待ってあげなくてもいいのに。それどころか田中君が入ってきてくれたらきっとあの子は喜ぶわよ」
「……邪魔にきまってますよ。俺なんかが入っていったら」
「そうかしら?」
「そうですって」
俺は苦笑いを一つしてカップを口に運んだ。もうおばさんも慣れたもので、すでにカップの中のコーヒーはミルクたっぷりの俺好みな色になっていたのだけれど、何となく少し苦めのコーヒーが飲みたかった今日に限っては、おばさんの気遣いは少しお節介になってしまったようだ。
「気にしなくてもいいのよ、本当に。……それじゃあちょっと待っててね。いつものようにお茶菓子を持ってくるから」
「いや、おかまいなく。いつもいつも悪いですって」
「それこそおかまいなく。いつもいつも来てくれて、こちらの方こそとても助かっているのよ」
そう言っておばさんはにっこり笑って部屋を出て行った。
胸中でため息をひとつついて、俺は椅子に座りなおした。
おばさんは何も知らない。俺のことも、白川が事故にあった時にたまたまそばにいたが助けられなくて、そのことに罪悪感を抱いてわざわざ家までやってきてくれる青年、と本気で考えている。もともと、人を疑うなんてことを知らない人なんだろう。俺の方もいまさらわざわざ真実を伝えたいとは思わない。俺が心の中で思っているだけで十分だ。
あらためて室内を見渡してみた。どれをとっても高そうな家具。頭上には小さなシャンデリアっぽい照明。壁には何枚か絵が飾られてあったけど、俺にはそれがなんの絵なのかわからなかった。見ているだけでなぜかイライラするので、俺は視線の行き場を探して窓の外へと目を向けた。それだって特に何かを見ようってつもりじゃなかったから、外の景色なんてそもそも俺の頭の中には入ってこなかった。
二階から、うっすらと聞こえてくるピアノの音。
おばさんは「気にしなくてもいい」なんて言ってたけど、別に俺はおばさんに言ってたように白川の邪魔をするから演奏中の部屋に入らないんじゃない。ただ単に、あのピアノの音が俺の心を逆なでするからだ。俺はそもそもクラシックなんて何も分からない。学校の授業で聴かされたときだって、あぁ何か眠くなる音がきこえてくるな、以上の感想を持ったことはない。だいたいああいうのは歌と違って歌詞も何もないから何が言いたいのかイマイチわからないし、かと言って音楽だけを楽しむなんて感性なんか俺は持ってない。言っている俺もよくわからない表現をしてもいいのなら、俺は今までクラシックを音楽として聴いたことがなかった。ただただ音だけを延々と流しているのを聴いて何が面白いのか、俺には理解できない。ノリのいい曲ならまだしも、聴いていてただ眠くなるだけの退屈な曲ならなおさらだ。
「はいどうぞ。いつも通り、そんなに高いものは用意できないのだけど」
「あ、はい。ありがとうございます」
おばさんの声で俺は視線の先を再び室内へと戻した。
「どうしたの? 窓の外なんか眺めて。そんなに珍しいものが通って行ったのかしら」
「いえ、別に。ただ何となくですよ」
「そう。……あら? 向こうの方も、ひと段落ついたみたいよ」
おばさんに言われて耳を澄ましてみると、確かにピアノの音は止んでいる。
「じゃあ俺、今のうちに行ってきますよ」
「そう? せっかくお菓子用意してあげたのに、悪いわねぇ」
「いえそんな」
――悪いのは、俺の方なんですから。
心の中で呟いて、俺はさっさと二階へと向かうことにした。
「こんにちは田中くん。今日は時間通り来れたんだね、よかったよ。先週みたいにまた急な仕事が入って遅れるんじゃないかなって心配だったんだ」
白川はいつも通りピアノの椅子に座っていた。俺がこれまたいつも通り用意されている椅子に座ると、すぐにこちらを向いて話しかけてくる。
相変わらずきれいな部屋だ。おばさんがこまめに掃除しているのかそれとも白川がごみを出さない生活を送っているのか、真っ赤なカーペットの上にはやはり埃一つ落ちていないように見える。白いカーテンが付けられた窓は今日も閉まっていた。その分、部屋の明るさは中の照明器具だけで左右されるので、なんていうか、部屋の中だけで完成された美しさ、というものが感じられる。こんな中にいると、俺は外から入ってきた自分自身がとてつもない不純物のように思えてくる。
「なぁ、いつも思うんだけどさ。お前、よく俺が来たっていうのがわかるよな。階段を上がってきたって言っても、おばさんかもしれないだろ。本当はその目、見えてんじゃないのか」
「そんなわけないよ。まぁ、ちょっとした陰影くらいは見えるから輪郭とかはある程度分かるんだけど、あまりあてにならないしね。わかるのはせいぜい大きい小さいくらい」
「じゃあなんで俺が来たってわかるんだ」
「そうだなぁ。階段登ってくる音が大きいとことか、あとなんとなく、臭い?」
「マジかよ。俺、そんなに臭いのか」
「そうじゃなくて。気配とか、そうだなぁ、雰囲気とかかな」
「焦った。実は俺、昨日風呂入ってないんだよ」
「ええっ! 信じられない」
「仕方ないだろ、帰りが遅かったんだから。昨日先輩から飲みに誘われて、家に着いたのは朝の五時なんだぞ五時」
「うわぁ……大変だね」
「そうだよ。働くってのも結構大変なんだからな」
そこで、会話が途切れる。
まずい。
なにか話さないといけない。そのために俺はここに来ているんだから。
でも、いったい俺から何を話せば?
いつもなら白川の方からいついつのことを話してくれって声をかけてくるのに、今日に限ってあいつは何も言わない。
「あの、さ……」
「今日はね」
意味もなく出た俺の言葉をさえぎって、白川が言った。
「いつもいつも田中君に話してもらってばかりだったから、今日は僕の方から話をしようと思うんだ」
「ああ、いいぜ。で、何の話なんだ?」
「といっても、まぁ僕が話せるのはピアノのことしかないんだけど」
「……ああ、わかった」
俺が答え、白川が笑顔を見せる。それであいつは本当に目が見えていないんだな、ってことが俺にもわかった。俺の顔が見えていたのなら、きっと笑うことなんてできなかっただろうから。
「田中くんが来てくれる日に僕がいつも同じ曲を弾いていることくらい、田中くんももう気付いているよね?」
そんなこと俺は知らない。聴いてなんかいないから。
「僕さ、この曲が好きなんだ。だから、田中くんにも好きになってもらいたくて、今日まで毎日弾いてたんだけど、どう? 効果あった? 少なくともメロディーくらいは頭に入ったんじゃないかな」
白川がピアノに向き直る。「こういうやつ」なんて言って、俺の目の前で鍵盤に指を滑らせる。
音が鳴る。高い音。低い音。それらが重なって生まれる音。この距離で聞くのは初めてだ。そう、こんなに近くでピアノを聞くのは。
やめてくれ。
音が、耳を通り越して胸に突き刺さってくるようだ。
「こんなこと言ったら悪いんだけど、洗脳っていうのかな? これって、そんなのかもしれないけど……でも、いいでしょこの曲。ちょうど、高校生の頃田中くんが僕に声をかけてくれた時くらいに覚えて、それからずっとお気に入りなんだ」
そんなことを言いながら、白川はそのままピアノを弾き続ける。
その隣で、俺は耳を押さえて身をかがめている。白川には、今の俺の姿は見えない。
「いつも僕がピアノを弾いているときは田中くんは入ってこないから、たまには近くで聴いてほしいなって思ってさ。せっかく、田中くんが来る時くらいから練習するようにしているのに」
わかったよ。
もういい。
もういいから。
俺はそんなことちっとも嬉しくなんかない。
白川がまた何かを言った。何を言ったかは知らない。聞こえない。聞こえない聞こえない聞こえない。もう何も聞こえない。ただピアノの音だけが、俺の頭の中に響き続けている。甲高い音が俺の心を切り裂いていく。低い音が俺の心をえぐっていく。
もうやめてくれ。
もういいだろう?
もう終わりにしてくれ。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれやめてくれやめてくれもう――。
「やめろっ!」
突然の叫び声に、びくりと白川の体が震えた。俺はいつの間にか立ち上がっていた。そのままの勢いで部屋を出て、階段を駆け下り、玄関のドアをあけ、バイクにまたがってキーを回す。
ぶおおおおん。
目の前に広がるいつも通りの景色に安心感を覚えながら、俺はそのまま自宅を目指してバイクを走らせた。
だから、この日はおばさんにいつものように「また来週」とは言わなかった。
ついに「俺」は白川の家をとび出してしまいました。
二人の人間関係に亀裂がはいったまま、後編は俺が洋子との約束の日を迎えるところから始まります。
序盤から鬱小説臭がぷんぷんしますが、一言いっておくならば作者イノチのキモチはバッドエンドはあまり好きではありません。というか嫌いです。
ということを頭の隅に入れていただいたうえで、暗い話が苦手な方も後編を期待していただければと思います。(こんなこと言ったうえでさらに読者を裏切るという手ももちろんあるわけで……)