第8話
少年は緊張で震える手から、一枚の羊皮紙を差し出した。それは不格好な文字で書かれた履歴書だった。
「命を救っていただいた恩返しがしたいんです。無給でも構いません、ここで働かせてください!」
まっすぐな瞳で訴えかけてくるティオに、俺は小さく息を吐いた。かつて迷宮の浅い階層で救助した見習い冒険者は、すっかり体力を回復させたようだが、その細い腕では重い荷物一つ運べそうにない。何より、迷宮の恐ろしさを知らずに無謀な行動をとった彼が、この過酷な現実に直結する職場で耐えられるとは思えなかった。
「タダ働きは断る」
冷たく響いた俺の言葉に、少年の肩がビクッと跳ねる。
「対価のない労働は、責任の所在を曖昧にする。俺たちは命を扱う仕事をしているんだ。善意だけで回るほど、このビジネスは甘くない。お前の覚悟がどれほどのものか知らないが、遊び半分で関わられては困る」
ドライに事実だけを告げると、ティオは俯き、履歴書を握る手に力が入った。彼の目に涙が滲みかけたその時、横から上品な足音が近づいてきた。
「無給というのは確かに困りますね。ですが、最低限の賃金で雑用をお願いすることは可能です」
リゼが完璧な営業スマイルを浮かべて口を挟む。彼女は俺の意図を理解した上で、あえて助け舟を出したのだ。
「所長がより高度な案件に専念するためには、細かい業務をこなす人手が必要です。備品の管理や清掃、依頼書の整理など、彼に任せられる仕事はいくらでもありますよ。それに、恩返しをしたいという彼の気持ちを無下にするのも、今後の評判に関わります」
「……お前が管理するなら好きにしろ」
俺が折れると、ティオは顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 一生懸命働きます!」
こうして、事務所に新たな人員が加わることになった。
ティオの働きぶりは、予想以上に真面目だった。少しドジなところはあるものの、ノラの指示を素直に聞き、事務所の隅々まで磨き上げる。
「ティオ君、そっちの書類は依頼の難易度別に分けておいてね。浅い階層のものは青いファイル、中層のものは赤いファイルよ」
「はい、ノラ先輩! すぐにやります!」
二人がテキパキと動くおかげで、俺とリゼは救助の計画と経理に集中できるようになった。活気に満ちた空間は、一つのチームとして見事に機能し始めている。
俺は自室のデスクで、詳細な料金表を見直していた。
受付嬢だったリゼの提案を受け、自身の知識を正当な対価に換える専門ビジネスを立ち上げてから、状況は劇的に変わった。階層や対象者の身分に応じた料金を設定し、自らの能力に見合った命の値段をふっかける準備を整えたのだ。
思い返せば、俺が中層で理不尽に追い出されてから三日後、ギルドの掲示板は帰還予定日を超過した者たちの赤札で溢れかえっていた。
迷宮の奥深くは、進むことよりも帰ることの方が圧倒的に難しい。俺が抜けたことで、迷宮の恐ろしさが容赦なく牙を剥いたのだ。
当時、掲示板の前で立ち尽くす冒険者たちの顔には、明らかな絶望が浮かんでいた。彼らは武力こそが全てだと信じていたが、物資が尽き、道に迷えば、どれほど強い戦士でもあっけなく死ぬ。安全なルートを導き出す能力が、いかに探索者の生存に不可欠であったか。あの赤札の群れが、何よりも雄弁に物語っていた。
俺はペンを走らせ、料金表の特記事項に新たな項目を書き加える。リスクが高い依頼ほど、報酬は跳ね上がる。それがこのビジネスの鉄則だ。
◆ーーーー◆
同じ頃、迷宮の深層では絶望が静かに蔓延していた。
「おかしいわ……手帳の記録では、ここは安全な通路のはずなのに!」
エルマが焦燥に駆られた顔で、奪い取った古いマッピング手帳を何度もめくっている。彼女の足元には、作動したばかりの毒矢の罠が転がっていた。
壁の凹凸や魔力溜まりの位置が、手帳の記述と全く一致しない。迷宮の構造変化に対応していない古い記録が、彼らを確実に死地へと導いていた。
「お前が読み方を間違えたんじゃないのか!」
ザックが苛立ちを隠せずに怒鳴りつける。彼の防具は傷だらけで、疲労の色が濃い。数日前の戦闘で負った傷が化膿し始めているのか、彼の顔色は土気色だった。
「私のせいじゃないわ! 記録が古すぎるのよ! あの荷物持ちが、わざと嘘の情報を残していたんじゃないの!?」
「言い訳するな! お前が完璧な攻略本だと言ったんだろうが!」
責任を押し付け合う二人をよそに、ギルバードは冷ややかな目でガルドを見つめていた。
かつて絶対的な威厳を誇っていたリーダーは、今や力任せに壁を叩き斬ることしかできない。物理攻撃が通じない魔法的な罠に対し、彼の大剣は無力だった。
「俺たちは最強だと証明してやる! こんな小賢しい罠など、力ずくでねじ伏せればいいだけだ!」
ガルドは虚勢を張って怒鳴り散らすが、その声にはかつての覇気がない。
(このままでは全滅する)
ギルバードは内心で舌打ちをした。力だけで状況を打破しようとするガルドを見限り、彼は静かに自分の生存ルートを探り始めている。だが、物資はすでに底を突きかけており、後戻りすら不可能な状況に陥っていた。
暗闇の奥から、魔物の低い唸り声が響く。その音を聞くたびに、彼らの精神は少しずつ削られていく。
◆ーーーー◆
数日後、順調に回っていた事務所の扉が勢いよく開かれた。
「緊急事態です!」
飛び込んできたのは、ギルドの連絡係だった。息を切らし、顔面を蒼白にしている。
「最深部へ向かっていたガルドたちの定時連絡が途絶えました! スポンサーの貴族から、至急の救助要請が出ています!」
その言葉を聞いた瞬間、事務所の空気がピンと張り詰めた。ノラが息を呑み、ティオが不安そうに俺を見る。
俺は手元のペンを置き、冷静に状況を分析した。
ガルドたちの実力なら、中層や深層の入り口程度で全滅するとは考えにくい。定時連絡が途絶えたということは、俺が抜けたことで安全な帰還ルートを見失い、最深部付近の複雑な階層で完全に孤立したと見るべきだ。俺の記憶にある最新の迷宮構造と照らし合わせれば、彼らが頼りにしている古い手帳の情報がどこで破綻するかは明白だった。今頃、未知の罠と魔物の群れに囲まれ、進むことも戻ることもできずに絶望しているはずだ。
最深部の危険性は計り知れない。だが、ルートが分かっていればリスクは計算できる。彼らがどこで迷走し、どの罠に引っかかっているかさえ、手に取るように予想できた。
「第四十階層の毒沼地帯を抜け、第四十五階層の幻影の迷路を迂回する。あのルートなら、魔物との遭遇を最小限に抑えつつ、安全に最深部へ到達できる」
俺は脳内の3Dマップを展開し、リアルタイムで更新していく。古い手帳の記録に頼っていれば、間違いなく第四十八階層の変動トラップに引っかかっているはずだ。
引き出しから、かつて彼らに無意味なガラクタと嘲笑された青白い発光苔と、温度変化を感知する特殊な石を取り出す。これらを使えば、迷宮の微細な環境変化を読み取り、安全なルートを確実に特定できる。
「スポンサーからの依頼ということは、報酬は言い値で構わないということですね」
リゼが静かに歩み寄り、一枚の書類を机に置いた。それは、血のような色をした最高位の魔法契約書だった。
いかなる法外な条件でも、署名すればギルドの絶対的な強制執行力が働く。
「お客様には、命の値段を正しく理解していただかないといけませんね」
リゼが冷酷な笑みを浮かべる。彼女の目には、莫大な利益を生み出す獲物しか映っていない。
「ああ。彼らの全財産と、今後の人生を担保にしてもらう」
俺は呟き、かつてない高額な請求書の作成に取り掛かった。




