第2話
「チッ……なんだこのふざけた仕掛けは」
俺は苛立たしげに大剣の柄を握りしめ、目の前に立ち塞がった巨大な石壁を睨みつけた。轟音と共に落下してきたその壁は、俺たちが通ってきた通路を完全に塞いでいた。舞い上がった粉塵が鼻腔を突き、むせ返るような土埃の匂いが周囲に立ち込めている。
背後で、魔術師の女が短い悲鳴を上げ、斥候の男が慌てて腰のナイフを抜く音が響いた。治癒士の少女に至っては、腰を抜かして冷たい石畳の上にへたり込んでいる。
「完全に塞がっているな」
無数の傷が刻まれた重鎧を纏う壮年の盾役、ギルバードが、分厚いガントレットで石壁を叩いた。鈍い音が迷宮の奥へと吸い込まれていく。彼は振り返り、険しい視線を俺に向けた。
「手帳にはこんな罠、記されていなかったはずだぞ」
俺は鼻で笑い、肩をすくめてみせた。
「あの無能が書き漏らしただけだ。どうせ安全な場所からビクビクしながら書いてたんだろ」
アレンの顔を思い出すだけで、胃の奥が煮えくり返るような不快感を覚える。戦闘力を持たず、ただ後ろから指示を出すだけの臆病者。あいつがいなければ俺は何もできないなどと、誰が言ったのか。俺の圧倒的な力こそが、このパーティをSランクに押し上げたのだ。目に見えない裏方の作業など、俺の剣の一振りに比べれば何の価値もない。
「引き返せないなら、前へ進むしかない。俺の力があれば最深部なんてすぐだ」
俺は斥候の男から古いマッピング手帳をひったくり、乱暴にページをめくった。アレンの几帳面な字で書かれたルート図が目に飛び込んでくる。これさえあれば、あの無能の代わりは十分に務まる。俺は手帳を閉じ、未知の闇が広がる前方へと顎をしゃくった。
「行くぞ。俺の背中から離れるなよ」
大剣を肩に担ぎ直し、俺は自信満々に歩みを進めた。迷宮の壁は不規則な凹凸を持ち、微かに発光する苔が不気味な緑色の光を放っている。湿った空気が肌にまとわりつき、腐敗臭と鉄の匂いが混ざり合った独特の悪臭が鼻を突いた。
だが、迷宮は少しずつその牙を剥き始めていた。
手帳に「安全な水場」と記されていた場所に辿り着いた時、俺たちは足を止めた。そこにあるはずの清らかな泉は跡形もなく、干上がった岩肌が広がっているだけだった。岩の隙間からは、微かに乾いた風が吹き出している。
「おかしいな。水がないぞ」
斥候の男が舌打ちをし、水筒を振った。ちゃぽん、という心細い音が響く。
「些細な誤差だ。次の水場まで我慢しろ」
俺は気にも留めずに先を急がせた。迷宮の構造が変化しているという可能性など、俺の頭には微塵もなかった。認めてしまえば、アレンの案内が不可欠だったと認めることになるからだ。そんなことは絶対にあり得ない。
通路の角を曲がった瞬間、前方の暗がりから低い唸り声が聞こえた。手帳には記されていない、巨大な甲虫型の魔物が姿を現した。硬質な甲殻が発光苔の光を反射し、鋭い大顎がカチカチと不気味な音を立てている。
「魔物だ! 手帳の記述と違うぞ!」
ギルバードが即座に大盾を構え、前に出た。だが、俺は彼を押し退けて前に出た。
「引っ込んでろ。俺がやる」
俺は大剣を上段に構え、床を強く蹴り込んだ。重いブーツが硬質な音を立て、全身の筋肉が軋みを上げる。圧倒的な力が両腕に収束していくのを感じる。目の前に迫る魔物は、巨大な顎を開いて威嚇してきていた。だが、そんなものは俺の前ではただの的でしかない。
裂帛の気合いと共に、大剣を振り下ろす。空気を切り裂く風切り音が響いた直後、硬い甲殻が叩き割られる鈍い感触が手に伝わってきた。緑色の体液が爆発するように飛び散り、周囲の石壁を汚す。魔物は悲鳴を上げる間もなく、真っ二つに両断されて石畳に崩れ落ちた。
「ほら見ろ。俺がいればどんな魔物が出ようが関係ない」
俺は大剣に付着した体液を振り払い、ギルバードを振り返った。だが、彼の表情は険しいままだった。
「ここは魔物のテリトリーではないはずだ。迷宮の構造が変化しているんじゃないか?」
俺は苛立ちを隠せずに彼を睨みつけた。
「俺の命令が絶対だ。強者こそが常に正しい。お前はただ盾を構えていればいいんだよ」
ギルバードは深くため息をつき、黙り込んだ。彼のその態度が、さらに俺の神経を逆撫でする。
見えない罠の気配が忍び寄っていた。斥候の男が、床の僅かな沈み込みに気づかずに足を踏み入れた瞬間だった。カチリ、という小さな音が響く。
「危ない!」
ギルバードの叫びと同時に、壁の隙間から無数の矢が飛び出した。斥候の男は間一髪で身を捩ったが、一本の矢が彼の肩を深く抉った。鮮血が舞い、男が苦痛の声を上げて膝をつく。
「チッ、ドジを踏みやがって」
俺は舌打ちをし、治癒士の少女に顎でしゃくった。少女は震える手で杖を構え、治癒魔法の詠唱を始める。淡い光が男の傷口を包み込むが、彼女の顔色は青白く、魔力の消耗が激しいことが窺えた。
「ポーションを使え。魔力を温存しろ」
ギルバードが冷静に指示を出すが、男は首を振った。
「駄目だ。ポーションの残りが少ない。手帳のルートなら安全だと思って、街で十分に補充してこなかったんだ」
「なんだと?」
俺は眉をひそめた。物資が少しずつ減っていく。迷宮の奥深くへ進むにつれ、周囲の空気が重くなり、未知の瘴気が肌を刺すように感じられ始めていた。
迷宮の奥深くで道に迷い、自慢の武力が意味をなさないまま野垂れ死ぬこと。そんな恐怖が心の奥底をよぎるが、俺はそれを暴力的な自信で強引にねじ伏せた。
俺は最強だ。歴史に名を残す冒険者になるのだ。誰の助けもいらない。
「休んでる暇はない。行くぞ」
俺は再び大剣を担ぎ、発光苔の光すら届かない暗闇の奥へと足を踏み入れた。背後で続くギルバードの重い足音は、やがて底知れぬ迷宮の静寂に呑み込まれていった。
◆ーーーー◆
裏路地に足を踏み入れると、大通りの喧騒が嘘のように遠ざかった。湿った風が吹き抜け、どこからか腐った木材と泥の匂いが漂ってくる。俺は迷宮都市の片隅にある、古びた木製の扉の前に立った。
看板の文字はとうの昔に擦り切れ、何と書かれているのか判別できない。真鍮のドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。蝶番が油切れの悲鳴を上げ、薄暗い店内へと俺を迎え入れた。
店内は、昼間だというのに夜のように暗い。ランプの揺れる光が、埃の舞う空気をぼんやりと照らし出している。鼻を突くのは、安いエールと煙草のヤニが混ざり合った独特の匂いだ。客の姿はない。カウンターの奥で、初老の男が一人、黙々とグラスを磨いていた。
無精髭を生やし、顔に大きな古傷があるその男は、俺の足音に気づいて顔を上げた。
「早いお帰りだな。またあの力自慢の坊ちゃんが癇癪でも起こしたか?」
かつて一流の案内人だった恩師、ジードは、嗄れた声でそう言いながらグラスを棚に戻した。俺はカウンターの丸椅子に腰を下ろし、木の軋む音を聞きながら短く答えた。
「追放されました」
ジードの手がピタリと止まった。彼はゆっくりと振り返り、俺の顔をじっと見つめた。その瞳の奥に、静かな怒りの炎が灯るのがわかった。
「……理由を聞こうか」
「戦えない俺はただの荷物だそうです。手帳も置いていけと言われました」
俺は淡々と事実だけを告げた。感情を交える必要はない。ジードは鼻で笑い、やがて低い声で吐き捨てるように言った。
「馬鹿な奴らだ。迷宮の恐ろしさを力でねじ伏せられると本気で信じてやがる。お前がどれだけ裏で神経をすり減らして安全を確保していたか、欠片も理解しちゃいねえ」
ジードはカウンターの下から木製のジョッキを取り出し、水を注いで俺の前に置いた。俺はジョッキを手に取り、冷たい水を喉に流し込んだ。渇いた喉が潤っていく感覚と共に、冷徹な思考が頭の中を巡り始める。
「事実、俺には戦闘力がありませんから。彼らにとっては目に見える成果が全てです」
俺にとって、直接的な武力の低さを指摘されることは、決して気分の良いものではない。だが、それ以上に、案内人としての専門技術や、裏で払っている多大な労力を軽視されたことへの静かな怒りがあった。
「だが、お前の頭の中にある地図は、ただの紙切れじゃねえ。命そのものだ」
ジードは身を乗り出し、カウンターに両手をついた。
「お前は一度通った道を完璧に把握し、罠の配置や魔物の動きを予測できる。それは誰にも真似できない特異な才能だ。それを無能と呼ぶ奴らは、いずれ迷宮に食われる」
俺はジョッキを置き、小さく息を吐いた。かつて、俺は無力だった。迷宮の恐ろしさを知らず、ただ勢いだけで潜り、想定外の事態に陥って仲間を死なせた。暗闇の中で響く悲鳴、血の匂い、そして何もできない自分への絶望。
あのトラウマが、俺を徹底した現実主義者に変えた。命の重さを知っているからこそ、リスクを徹底的に計算する。安全が確認できないルートは、どれほど急かされても通らない。それが俺の譲れない価値観だ。
「ええ。だからこそ、俺は新しいビジネスを始めようと考えています」
「新しいビジネス?」
ジードが眉をひそめる。俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、カウンターの上に広げた。それは、ギルドの受付で特別に用意させた、血のように赤い契約書だった。
「遭難者救助専門ビジネスです。迷宮は進むよりも帰る方が圧倒的に難しい。物資が枯渇し、帰還ルートを喪失した冒険者にとって、確実に生還できる知識は何よりも高い価値を持ちます」
俺は赤い羊皮紙の表面を指でなぞった。ざらついた感触と共に、微かな魔力の熱が指先に伝わってくる。
「彼らが命を粗末にするなら、その対価を払ってもらうだけです。命の値段を適正に評価し、ドライにビジネスを遂行する。この『真紅の契約書』にサインしない者は、絶対に助けません」
ジードは目を丸くして契約書を見つめ、やがて豪快に笑い出した。その笑い声は薄暗い店内に響き渡り、埃を微かに揺らした。
「悪党め。命の値段をふっかける気か」
「適正価格です。彼らの全財産と引き換えに、確実な生還を約束する。これほど公平な取引はないでしょう」
ジードは笑い涙を指で拭い、俺の肩を力強く叩いた。その手には、かつての恩師としての温もりがこもっていた。
「やれ。お前のやり方で、あの馬鹿どもに現実を教えてやれ。お前ならできる」
俺は無言で頷き、ジョッキの残りの水を飲み干した。胃の奥に冷たい水が落ちていく感覚が、俺の決意をさらに強固なものにしていく。ガルドたちから全てを搾取し、俺自身の安全で豊かな生活を手に入れる。そのための準備は、すでに整っていた。
追放から三日後。
俺は迷宮都市のメインストリートを歩いていた。石畳を叩く馬車の車輪の音、露店で声を張り上げる商人たちの声、行き交う冒険者たちの足音。都市の喧騒はいつも通りだったが、どこか焦燥感を帯びているように感じられた。
冒険者ギルドの重厚な木製の扉を押し開けると、むせ返るような熱気と、汗と鉄の匂いが押し寄せてきた。ホール内は異様な空気に包まれていた。冒険者たちの顔には不安と疲労が浮かび、ひそひそとした話し声があちこちから聞こえてくる。
俺は人混みを掻き分け、ホールの奥にある巨大な掲示板へと向かった。掲示板の前には人だかりができており、誰もが沈痛な面持ちで板面を見上げている。
俺の視線の先には、「帰還予定日超過」を示す赤札が所狭しと貼られていた。風が吹き込むたびに、赤い紙片がカサカサと不吉な音を立てて揺れる。
迷宮の過酷さという真の脅威が、明確な形となって牙を剥いていた。冒険者の死亡原因の九割は戦闘での敗北ではない。帰還ルートの喪失による遭難だ。複雑な迷宮内で道を見失えば、手持ちの食料やポーションは急速に尽き果てる。どれほど戦闘能力に優れたパーティであっても、物資が枯渇した状態で迷走を続ければ、確実に死の淵へと追いやられる。
俺は無表情のまま、赤札の束を一つ一つ確認していった。そして、掲示板の中央付近に貼られた一枚の札で視線を止めた。
そこには、見覚えのあるパーティ名が記されていた。
『黄金の剣』。
ガルドたちのパーティだ。帰還予定日をすでに二日過ぎている。俺の案内能力がいかに彼らの生存に不可欠であったかが、この一枚の赤札に集約されていた。
俺は冷徹に状況を分析する。彼らは今頃、迷宮の最深部で完全に道を見失っているはずだ。俺から奪った古い手帳は、構造が変化し続ける迷宮ではすでに役に立たない。水は尽き、食料も底をつきかけているだろう。自慢の武力も、飢えと渇きの前では何の意味もなさない。迫り来る魔物の恐怖に怯えながら、彼らは暗闇の中で絶望を味わっているに違いない。
スポンサーである貴族から、ギルドへ高額な救助依頼が舞い込むのは時間の問題だ。二次遭難の危険性が極めて高いため、通常の冒険者は誰もこの依頼を受けない。だが、俺には確実に生還できる知識がある。
懐に手を入れると、指先がざらついた羊皮紙に触れた。真紅の契約書。いかなる法外な条件でも、署名すればギルドの絶対的な強制執行力が働く魔法の契約書。彼らの命の値段は、この紙に記されることになる。
俺は掲示板から背を向け、ギルドの受付カウンターへと歩き出した。周囲の冒険者たちが、俺の落ち着き払った態度に怪訝な視線を向けてくるが、気にする必要はない。
ジードの激励が耳の奥で蘇る。
『お前のやり方で、あの馬鹿どもに現実を教えてやれ』
俺は受付の女性の前に立ち、静かに口を開いた。この絶望に満ちた迷宮都市で、俺はどのようにして救助ビジネスを立ち上げ、彼らから全てを搾取するのか。不敵な笑みが、自然と唇の端に浮かんでいた。




