第10話
「待ってもらおうか」
重厚な声とともに、事務所の扉が再び開かれた。
そこに立っていたのは、険しい顔をしたギルドマスターだった。ギルドのトップが自ら足を運んでくるとは、事態はさらに面倒な方向へ転がりそうだ。だが、誰が相手であろうと、俺たちのビジネスのやり方を変えるつもりはない。
「おお、ギルドマスター! ちょうどいいところに来てくれた!」
スポンサーの貴族は顔を輝かせ、すがるような目で振り返った。
「この悪徳業者をどうにかしてくれ。Sランクの連中を助けるために、領地の資産を担保にしろなどとふざけた条件を突きつけてきているんだ!」
ギルドマスターは無言のまま歩み寄り、机の上に置かれた赤い羊皮紙を一瞥した。深い皺の刻まれた眉間が、さらに険しく寄る。
「……最高位の魔法契約書か。規定の手続きを踏んで発行されたものだな」
「そうだ! こんな不当な要求、ギルドの権限で無効にして——」
「私であっても、その効力を覆すことはできない」
低い声が響き、貴族の男は口を半開きにして固まった。ギルドマスターは腕を組み、静かに首を振る。
「彼らは正式な認可を受けた救助業者だ。提示された条件に合意できないのなら、依頼を取り下げるしかない」
「そ、そんな……」
男の肩が崩れ落ちた。彼にとって、かつてのパーティを失うことは家の威信と巨額の投資をすべて失うことを意味する。他に選択肢などないのだ。
リゼが冷酷な笑みを浮かべ、すっとペンを差し出した。
「お聞きになりましたか、お客様。当事務所が提示した条件は、すべてギルドの公認に基づいております。同意のない依頼はお受けできません」
「くそっ……足元を見やがって……!」
男は屈辱に顔を歪め、震える手で羽ペンを引ったくった。ギリギリと音を立てて羊皮紙に署名が刻まれる。直後、血色の誓約書が淡く発光し、絶対的な強制力を持つ契約が成立した。
これで準備は整った。
俺はすぐさま最深部への単独行に向けた手配を始めた。市場へ足を運び、特殊な結界具や大量の回復ポーションを次々と買い占めていく。背嚢の重量が増すたびに、意識は冷たく研ぎ澄まされていった。
ガルドから中層で追放を言い渡された日の記憶が蘇る。戦えないお前はただの荷物だ。そう吐き捨てられたが、あの探索は最深部攻略の帰路だった。つまり、行きで踏破した下層までの道筋は、俺の頭の中に完全に構築されている。
追放から三日後、ギルドの掲示板は帰還予定日を超過した遭難者の赤札で埋め尽くされた。地下の迷宮は常に構造を変える。行きに通れた道が帰りも通れるとは限らない。その過酷な現実が牙を剥き、俺の案内能力がいかに生存に不可欠であったかを証明した。
それゆえに、俺はリゼの提案を受け、この救助専門ビジネスを立ち上げたのだ。詳細な料金表を作り、自らの技術に見合った命の対価を請求する。裏で払っている多大な労力を軽視する者には、相応の代償を払わせる。
「所長、物資の調達は完了しました。経理上の手続きもすべて終えています」
事務所に戻ると、リゼが完璧に整理された書類の束を掲げた。彼女の有能なサポートがあるからこそ、俺は迷宮の攻略に専念できる。
「助かる。あとは俺の仕事だ」
目を閉じ、記憶の中にある立体迷宮の構造を呼び起こす。微細な環境変化、魔物のテリトリー、罠の配置。最新の状況に合わせて脳内のマップをアップデートしていく。指先が微かに熱を帯びるのを感じながら、俺は確実な生還のための道筋を編み上げていった。
夜が更け、出発前夜の静寂が街を包む。
俺は恩師ジードの酒場を訪れていた。薄暗い店内には客の姿はなく、ランプの灯りが古びた木製のテーブルを照らしている。
無精髭を生やした初老の男は、カウンターの奥でグラスを磨いていた。俺の顔を見るなり、何も言わずに琥珀色の液体を注いだグラスを差し出してくる。
「……行くんだな」
しゃがれた声が静かに響いた。最深部の恐ろしさを誰よりも知る案内人の先輩として、彼は多くを語らない。ただ、顔の大きな古傷がランプの光で陰影を濃くしていた。
「ええ。最高のビジネスチャンスですから」
俺はグラスを受け取り、一口だけ喉に流し込んだ。強いアルコールが胃の奥を熱く焦がす。
「悪党め。死ぬんじゃないぞ」
ジードは鼻で笑い、自身のグラスを軽く掲げた。不器用な激励に、俺は小さく頷き返す。彼との無言のやり取りが、張り詰めていた神経を少しだけ解きほぐしてくれた。
静かな決意を胸に、俺は迷宮への出立を待つ。
翌朝、冷たい霧が立ち込める中、俺は単身で巨大な地下空間へと足を踏み入れた。湿った風が頬を撫で、奥底から微かな咆哮が響いてくる。
最深部の環境は、俺の計算通りに推移しているだろうか。一歩を踏み出すごとに、脳内のマップが鮮明に色づいていくのを感じていた。




