アルバイター事件騙り
「先生、バイト代の支払いをお願いします」
「……何だバイト。久しぶりに顔を見せたかと思ったら藪から棒に」
労働者の権利を主張した僕に、雇用主である先生は紫煙をくゆらせながらさも意外なことを言われたとばかりに目を瞬かせた。
「久しぶり? 一昨日もその前日も前々日も出勤してたでしょう!? 僕の勤務履歴をサラッと無かったことにしないで下さい!!」
「……そうだったか? ここのところ修復の依頼が立て込んでバタバタしてたから、時間感覚がすっかりおかしくなっててなぁ」
「その貴女のために飯の準備やら画材の買い出しやらしてたのが僕なんです! というか立て替えた経費もまだ払ってもらってないし!」
デスクに経費のレシートを叩きつけると、先生はそれを指先で摘まみ「あ~、そんなこともあったかもなぁ~」と他人事のように言う。
僕はこめかみに血管が浮き立つのを感じながら、冷静であれと自分に言い聞かせた。
「もう二か月もバイト代の支払いが遅れてます。せめて立て替えた経費だけでも払ってもらわないと今月の家賃の支払いが──」
「何ッ? それはいかんな……!」
僕の切実な訴えに、先生は口元に手を当て真剣な表情を見せる。そうだ。僕は貴女のせいで大変な目に──
「来月の入金日までバイトの財布を当てにしていたのに、計算が狂ってしまう」
「──どこまで引っ張るつもりだあんた!?」
しかもやっぱり確信犯じゃないか。
「仕方ないバイト。今日はもう休んでいいから今すぐ適当な日雇いのバイトでも探して金を稼いで来い。そろそろ顔料が切れそうだからお前に買ってもらわんといかんのだ」
「あんた一回、休みの意味を辞書で引いてこい! しかもまだ僕から巻き上げる気か!?」
「?」
「その『何か問題が?』みたいな顔やめろ! 今日日こんな平成のブラック企業どころか中世の徒弟制度より酷い搾取があるか!? 少しは価値観を現代にアップデートしてこい!!」
荒い気を吐いて不満をぶちまける。
しかし先生はまるで堪えた様子もなく、やれやれと肩を竦めてかぶりを横に振った。
「分かっていないな、バイト。それは弱者の発想だよ。価値観のアップデートなぞ実に下らん」
「……いや、下る下らないの話じゃないでしょう」
「世間ではお前の言うように新しい価値観に迎合することがさも素晴らしいことかのように語られているが、私に言わせれば全くの逆だよ。いや別にそれが悪いことだとは言わんが、そうしなくてはならないというのは負け犬の発想でしかないね」
またこの人、面倒くさいことを言いだしたぞ。
「……はぁ。そんなこと言ってると時代遅れの老害扱いされますよ」
「勝手に言わせておけばいい。そもそもね、バイト。新しい価値観と言えば聞こえはいいが、鮮度がモノの良し悪しを保証してくれるわけじゃあない。所詮そんなものは社会体制における支配者の変化に過ぎないんだ。実際には目新しさすらありはしない」
「支配者の変化? むしろ雇用者とか年配の人が立場を利用して若者を支配するのをやめようって流れなのでは?」
「そうだな。言い換えればそれは、従来の支配者層の力が弱くなり、被支配者層だった者の力が相対的に強くなった、ということだ。昔と比べて年寄りの影響力が弱くなり、雇用は売り手市場で労働者が働く場所や環境を選べるようになった。優れた価値観が社会構造を変えた訳じゃあない。パワーバランスが変わったから若者や労働者に配意して価値観が変わらざるを得なくなったというだけの話なのさ。形は変われど強い者が社会を支配するという本質は何も変わっていないんだよ」
それは……そういう部分もあるかもしれない。
「……言いたいことは分からないでもないですけど、切っ掛けがどうあれ不公平な関係が是正されるのは良いことでしょう?」
「それが行き過ぎなければね。人間というのはお前が思うよりずっと貪欲なんだ。一度権利を振りかざすことを覚えると歯止めが利かない。自分たちに都合の良い価値観を正義や合理といった言葉で飾り、押し通そうとするものなんだよ」
「それは偏見が過ぎてやしませんか?」
「そうかい? 実際に会社や地方なんかじゃ、今までそこにいた人間の行動や慣習が善意か悪意か、あるいは合理か不合理かさえ関係なく、自分たちにとって合わないものは『老害』『時代遅れ』の一言で切り捨てられているんじゃないかい? 自分たちの価値観は尊重しろと言うくせに、これまであった価値観には何の敬意も払おうとしない人間は枚挙にいとまがない。これは別に個人に問題があるわけではなく、集団としての人が抱えた疾患なんだよ」
「…………」
実際にそういう人間がいることは事実だ。極端すぎるとは思うが、実際に僕もつい先ほど『老害』という言葉を使っていたわけだし否定はしづら──
「──ん? 今の先生の主張と僕が一方的に労働力と金銭を搾取されてることは何の関係もありませんよね?」
僕の正当なツッコミを先生は全く悪びれることなく鼻で嗤う。
「バイト。今の話の学びはね、主導権を握った強者はどこまでも理不尽に、自分に都合よく行動するということさ。このアトリエにおける絶対権力者は私だ。故に私は理不尽かつ自分に都合よく行動する。世間がどう思おうが知ったことか。それが嫌ならいつでも辞めてもらっていいし、労基にでも何でも訴えてもらって構わんよ?──ま、君にその選択ができるとは思えんが」
「畜生!! 碌に稼ぎもしてないくせに経済的DV夫みたいなこと言いやがって!」
さて、遅くなったがここで僕たちの自己紹介を。
僕が先生と呼んでいる女性はこのアトリエの主であり、彫刻をメインに、絵画、工芸、インスタレーションと何でもマルチにこなすアーティスト。そこそこ大きなコンテストでの入賞経験もあり、業界内での評価も高い注目株だ。とは言えそんな彼女であってもアート一本で食べていくことは簡単なことではなく、普段は古美術品の修復や売買のようなことをして糊口を凌いでいる。
そして僕はその先生のアトリエで働くアルバイト。一応、美大生でもあるのだが彼女のようにアーティストとしてやっていけるような才能はない。
ここで働いているのにもドラマチックな事情なんてものはなく、担当教授に彼女の世話を頼まれたというだけの話。自分の才能に見切りをつけてしまった身としては、就職に強い教授とのコネはあまりに魅力的なカードだった。
「……はぁ。今からウーバーやっても家賃の支払いには間に合いそうにないし、どうしたもんかなぁ」
雇用主への賃金及び経費請求を一旦棚上げ。日払いのバイトでも探すしかないかと溜め息を吐く。するとそんな僕に先生は不思議そうに首を傾げた。
「金がないと言うが、そもそもバイト、お前明日は家庭教師の給料日じゃなかったか?」
「……何で人の給料日を把握してるんですか」
「そらお前、大事なことだからな」
「……言っときますけど、先生に貸す金はありませんからね?」
「そらお前、大事なことだからな」
しつこく繰り返す先生に、僕はそうじゃないとかぶりを横に振った。
「だから期待しても無駄ですって。家庭教師のバイトなら先月クビになりました」
「クビ? 何をやらかしたんだ?」
「なんでやらかし前提なんですか。正確には、クビっていうか雇い主の方針が変わったんですよ。ちゃんと成績は上がってたんですけどね。もう家庭教師は必要ないって言われちゃったんです」
「……バイト、私の前でそんなつまらん見栄を張るなよ。正直に言ってみな? どうせ生徒の女の子にちょっかい出したか、視線がキモがられたとかそんなとこだろう?」
「生徒は男の子、勿論僕は至ってノーマルです! 関係は良好で、彼もトラブルとは無縁の凄く真面目で勉強熱心な子でした!」
「…………」
まだ疑わし気な視線を向けてくる先生から視線を逸らし、僕は先方から契約終了を告げられた日のことを思い出す。
生徒との関係も良好で結果も出ていたからこそ、あの突然の宣告には驚いた。もっと上を目指したいのでより優秀な家庭教師をつけるというならまだ納得もできたのだが──
「──バイト?」
「え?」
「え、じゃない。突然黙り込んで……何かそのクビになった件で気になることでもあるのか?」
「…………」
「図星かよ。お前の貴重な収入源に関わる話だ。気になることがあるなら話してみろ」
明らかに善意以外からくる発言だが、こういう時、先生の洞察力は頼りになる。
「……別に、気になるってほどのことじゃないんですけど──」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕が家庭教師に行っていたのは西明寺さんって御宅でした。
生徒は一人息子の礼人くんって子で、中学二年生。都内の進学校に通ってます。凄く優秀な子でね。お父さんが弁護士をされてたそうなんですけど、自分もお父さんみたいな立派な弁護士になるんだって熱心に勉強に取り組んで、成績も学年で一〇位以内をずっとキープしてたんです。
──え? 何で父親の仕事が過去形なのか? それにどうしてそんなエリート一家に僕みたいなのが潜り込めたのかって?
西明寺さん家は教授に紹介していただいたんです。あの人、経営者とか政治家とかやたら人脈豊富なのは先生も知ってるでしょ。あと、これでも一応僕、高校時代は優秀な学生で通ってたんで。
何で過去形なのか、ってとこは……その礼人くんのお父さん、つい二か月前に亡くなってるんですよ。
死因? 確か心不全だったかな。持病があるって話は聞いたことありませんでしたけど、お仕事が忙しいのもあってか元々あまり顔色が良い方じゃありませんでしたからね。周りもそういうこともあるかなって感じの反応でした。
それで向こうも暫く葬儀やなんやでバタバタしてて、喪が明けて久しぶりに伺ったら、礼人くんの方から突然『もう弁護士を目指すのは辞める。家庭教師は要らない』って言われちゃって──
「…………ふむ」
僕の話をそこまで聞いて、先生は感情の見えない表情でコテンと首を傾げた。
「話を聞く限り、父親が死んで勉強する動機を失った子供が『もう勉強したくない』と家庭教師を断っただけに聞こえるな。一体、何が気になってるんだ?」
「……その、礼人くんは本当にお父さんを尊敬してたんです。勉強を強制されてたって感じでもなかったし、そういう子がお父さんが死んだからっていきなり目指してた目標を変えたりしますかね?」
僕の疑問を先生は鼻で笑う。
「ハッ。そりゃ単にお前に見る目がなかったってだけだろうよ」
「……別に人を見る目がある方だなんて言うつもりはありませんけど、親に強制されてやってたかどうかぐらい教えてれば分かりますよ」
「どうだか。ボロが出ないように常に気を張って良い子を演じていたのかもしれない。あるいは本人もそう思い込んでいたが、父親の死を切っ掛けに我に返ったというパターンもあり得るな。何にせよ仕事でちょっと関りを持っていただけの他人が、相手のことを理解しているなんて思うのは傲慢だろうさ」
「…………」
確かに先生の言う通りなのかもしれない。だが僕はどうしても礼人くんのあの突然の変化を飲み込めずにいた。あれは良い子を辞めたというより、むしろ──
「ふん……」
僕が納得していないのを見て取り、先生は少し考える素振りをする。
「お前の人物観察眼はあてにはならんが、確かに父親が死んで一月もたたず今まで馴染んだ生き方を変えるというのは些か急な話ではあるな。仮に強制されたものだったとしても、その少年が今まで目標の為に費やしてきたコストは相当なものの筈だ。それを簡単に放棄するというのは余程の短慮か、あるいは……」
思考に埋没した先生の指先が何かを描くように虚空を掻く。
「……一人息子ということだったが、その子の母親は?」
「いますよ。ごく普通の専業主婦です」
「息子が弁護士を目指すことを辞めると言い出したことについて、母親は何と言っているんだ?」
問われて、僕はあの穏やかで影の薄い女性を思い出す。
「……いえ、特に何も。息子のやりたいようにすればいいって感じでしたね」
「何も? 父親が死んだ直後に豹変した息子に対して、何も意見がないのか?」
「それは……」
そう言われると多少違和感がないわけではない。
「その母親はどんな女なんだ? というかホントにまともな家庭環境だったのかい?」
「いやいやいや。ネグレクトとかじゃありませんからね」
先生の言葉を慌てて否定する。
「奥さんはなんていうか、自己主張をあまりしないタイプの人なんですよ。子供に無関心とは違って強制はしないって感じの。家事とか身の回りの世話は完璧でしたし、勿論親子仲が悪いようには見えませんでした。料理なんか特にお上手で、よく僕も晩飯をご馳走になってたんです」
奥さんの料理は絶品だったし夕食代も浮いて助かっていた。だからこそ余計にバイトをクビになったことが惜しまれる。
「……料理上手? 亡くなった旦那との夫婦仲はどうだったんだ? 仕事で多忙ということだったから、折角料理を作っても旦那が食べる機会は少なかったんじゃないか?」
何か引っかかるものがあったのか、先生が奇妙なことを聞いてくる。僕は不思議に思いながらも、かつて西明寺家で見た光景を思い出して答えた。
「どうでしょう……いやでも、旦那さんの分の料理を取り分けてるところを見たことあるんで、全く食べてないってことはないんじゃないかな? あ、そう言えば一度旦那さんが早く帰ってきた時、奥さんに弁当箱を渡してるのを見たことがあります」
「…………」
何故か僕の答えに先生の眉間の皺が深くなる。
「……先生?」
「親子仲は悪くないと言っていたが、具体的にその少年と母親の関係はどんな感じだった? 何でもいい。気になるところはなかったか?」
僕の疑問を無視して質問を続ける先生に、僕は追及を諦めて記憶を辿る。
「そうですねぇ……そう言われても本当に普通としか言いようがないんですけど。真面目で礼儀正しい息子と、穏やかで怒ったりするところが想像できない母親って感じで」
「ふむ……」
「あ、でも一応反抗期っぽい気配はあったのかな? 礼人くん、よくお菓子とかハンバーガーとかのジャンクフードばっかり食べてて、お母さんのご飯残してたんですよねぇ。あんな美味しい料理を勿体ない」
「────」
僕のその言葉に、先生の纏う空気が変わった。
「……先生?」
「──そのバイト、辞めて正解だったかもな」
「え?」
突然そんなことを言われて、僕は意味が分からず目を瞬かせる。しかし先生は勝手に納得した様子で何度か頷いて続けた。
「一度タガが外れた人間は何をしでかすか分からん。状況次第で息子ではなく、警告の為にお前に手を出す可能性がないとは言えんだろう。確証はないが君子危うきに近寄らずだ。バイト代は惜しいが諦めろ」
「え? あの、何を言ってるのか分からないんですけど……?」
僕はただ何故バイトをクビになったのか分からないと言っただけなのに、どうして危険とかそんな話になるんだ?
「何だ、ここまで言ってもまだ分からないのか?」
「?」
「もしその少年がお前をクビにしていなければ、父親同様お前も殺されていたかもしれないと言っているんだ」
「…………は?」
殺される? 父親同様? 何を言ってるんだこの人は?
父親の死因は心不全で、特に事件性があったなんて話はしていないし聞いていない。そもそも──
「殺されるって……誰に?」
「……お前は本当に察しが悪いな。登場人物はお前を除いて三人。一人は既に亡くなっていて、一人はお前をその家から遠ざけた。残るは一人しかいないだろう」
え? それは、つまり──
「十中八九、父親を殺したのはその母親だ。その少年は自分と──ついでにお前の命を守る為に、お前をクビにしたんだろうさ」
「────」
僕の頭は真っ白になった。
「──……え? えと、はい?」
何を言っているんだこの人?
あまりにツッコミどころが多すぎてどこからツッコんでいいのか分からない。
「あ~……えっと、あまりに話が飛び過ぎてついていけないんですけど、そもそも礼人くんの父親が殺されたなんて話はどこから出てきたんですか? 父親の死因は心不全ですよ。そりゃ、何か毒を盛られて心不全が起きたって可能性もないわけじゃないですけど、日本の医者や警察は優秀です。もし不審な点があったなら誰かが気づいてるでしょう」
一番のツッコミどころはこれ。何をどう狂ったら殺人なんて発想が湧いて出てくるのだろう。
しかし僕の言葉に先生は失笑を漏らした。
「おいおい、バイト。お前ひょっとして、完全犯罪なんてのは小説やドラマの中だけの作り事で、現実にはまず存在しないなんて考えてるんじゃあるまいな?」
「……事実、その通りでしょう」
「ハハッ。完全犯罪とは、つまりそれを事件と認識すらされないからこそ完全たり得るんだ。つまり現実には当事者以外その存在を把握していない。認識できないならないのと一緒というのは、ある意味正しくはあるが愚者の発想だよ」
「…………」
ボロカスに言われて、しかし僕は言い返すことなく黙って先生の言葉の続きを待つ。
何が言いたいのか分からないが、これが殺人事件だというならその根拠を聞いてやろうじゃないか。
「そもそも完全犯罪なんてものはある種の人間にとっては何ら難しいことじゃあないのさ。人を殺すのにはナイフも銃も必要ない。毎日の食事にちょっと毒を交ぜてやればそれで済むんだからね」
「……少量だろうと毒を盛ってバレない保証はないでしょう。むしろ少量だからこそ本人が異常に気づいて病院に行くとか発覚する可能性は高くなるんじゃありませんか?」
僕の反論に先生はニヤリと笑って頷いた。
「その通り。だからその毒は医者に検査されても怪しまれないものでなくてはならない」
「そんな都合の良い毒が──あ」
「うん。気づいたようだな。世の中の大抵のものは人間にとって毒でね。極論、一度に取り過ぎれば水でさえ毒になるのさ。塩分、糖分、添加物、発がん性のある食品でもなんでもいい。身体に悪いとされているものを少しだけ多めに食事に混ぜてやれば、それだけで健康は損なわれ死のリスクは加速度的に増していく」
先生が言っているのは一種の『プロバビリティの殺人』というやつだ。確実性のない殺人。食事に健康を損なうものを混ぜ続けたとしても確実に相手が死ぬとは限らない。だが確実性がないからこそ犯罪を立証することが難しく、成功した時には完全犯罪が成立する可能性が高い。
「ひょっとしたらその母親には、元々殺意まではなかったのかもしれない。最初はちょっとした嫌がらせのつもりで塩分多めの食事を食べさせたとか、その程度のものだったんじゃないかと私は想像してる。だがある日、旦那は健康診断で数値の悪化を医者から指摘された。身体の具合が思わしくなかった彼は、きっと家に帰り妻にそのことを相談したことだろう。旦那はそれが自分がやったことだと全く気付いていない。それどころか体調管理の為に協力してくれと頼んできた。自分は今、気持ち一つで旦那の生死をコントロールできる状況にある──そのことを自覚した妻は果たしてどう考えただろうか?」
「…………」
「旦那は弁当を持って行っていると言ったね? 弁護士は裁判所への出廷、警察署での接見、依頼者との打ち合わせやら外出することが多い仕事で、弁当はむしろ邪魔になることが多い。わざわざ外食を控えるというのは、金銭的な事情かこだわり、あるいは食べるものに気を遣っているケースのいずれかだろう。そして体調や健康診断の数値というのは食事を改善すれば必ずしも良くなるというものではないからね。少しずつ慣らしていけば味覚を誤魔化すことも難しくない。多忙な旦那は数値が改善しなくても食事以外の生活習慣に原因があると考え、妻の食事を疑うことはなかった。そして気づかぬままに徐々に彼の身体には負債が積み上がり──」
先生は胸の前で何かが弾けるような仕草をして笑う。
「──ま、これはあくまで私の勝手な想像だ」
そうだ。これは先生の勝手な想像で、もしこうであれば完全犯罪が成立するという可能性の話に過ぎない。そもそも先生の話には致命的な問題があった。
「……仮に、先生の言った通りだったとして、奥さんが旦那さんを殺す動機は? 少なくとも僕の目には西明寺家の家族仲は良好に見えました。殺人を主張するなら、先生はその部分をどう考えているんです?」
「動機? おいおい、あまり馬鹿なことを言わないでくれよ。今時殺人の動機なんてのはどこにでも転がっているものさ。お前だって、ふとした下らない理由で目の前の人間をぶち殺してやりたいと思ったことぐらいあるだろう?」
揶揄われているのか?
「それはあくまで頭の中の妄想の話でしょう? そりゃ僕だって、ムカつくやつがいたら殴り殺してやろうと思うことぐらいありますけど、現実にそれを実行したりはしません。そんな事したら犯罪だし、何より普通は心理的なブレーキがかかって実行できな──……」
先生はようやく気付いたかと頷く。
「……不確実性の高い方法──料理に少しずつ身体に悪いものを入れる程度なら、そうした心理的なハードルは低い。繰り返すうちに慣れて、どんどんハードルは低くなる。人を殺すのに、そんな大それた動機は必要ないかもしれない」
「そういうことだ」
先生が先ほど『最初はちょっとした嫌がらせ』と言ったのはこれが理由か。
ちょっと腹立たしいことがあって嫌がらせに食べ物や飲み物にものを混ぜるなんてのはよく聞く話だ。そこには殺意すら必要ない。だが繰り返すうちに少しずつタガが外れ、エスカレートして──
「…………」
思わずぶるりと身体を震わせた僕に、先生は何も言わず薄く笑みを浮かべた。
言いたいことは分かった。奥さんが旦那さんを殺した可能性についても理解した。その上で、まだ解決しなくてはならないことがある。
「……仮に今の推理が当たっていたとして。礼人くんはそのことに気づいているんでしょうか?」
「状況的に、そう考えるのが自然だろうな。家族であれば両親の間にある確執を察していてもおかしくないし、父親の料理の異常に気づく機会もあっただろう」
僕は優等生の彼が母親の料理を避けてジャンクフードばかりを食べていたことを思い出す。
「母親を止めることは──いえ、難しい……ですね」
「そうだな。彼がどちら寄りの立場だったかというのもあるが、母親に惚けられたらそれまでだし、どう転ぼうが確実に家族関係は破綻する。中学生の少年にはそれは耐え難いことだっただろう。そもそもの問題として、彼自身ここまで大事になるとは思っていなかったのではないかな」
「…………」
母親が隠れて父親の料理に嫌がらせをしている。それを知り、自分の料理にも何かされているのではないかと不安になり、母親が作った料理を避けるようになった──そんなところか。
「……だけど父親は死んでしまった。母親がその原因だとしても、確固たる証拠はないし、それを指摘すればやはり彼は母親を失ってしまう。だから口を噤んだ。わざわざ弁護士の夢を諦めると宣言したのは、母親に自分は父親とは違うとアピールする為、ですか?」
「恐らく、ね。別にそこまでしなくとも母親が息子に何かする可能性は低いと思うが、彼には父親の何が母親の癇に障ったのかまでは分からなかったんじゃないかな。元々弁護士という目標は父親への敬意に端を発したものなんだろう? であれば安心を買うためにはそれを否定し、母親へ服従を示すことが必要だと考えたのかもしれない」
「…………」
服従。まるで主人と家来のような物言いだ。先生はそんな僕の思いを見透かしたように続けた。
「恐らくその西明寺家という小さな世界では、父親こそが主人であり王だったのさ。息子はその主人に忠実に従い、良き家来であり領民であろうと努めていた。だがある日母親が父親を殺害し、彼の新たな主となった。新たな主の歓心を買うために旧い主に砂をかけるなんてのは別に珍しいことじゃないだろう?」
「そんな……家族をそんな風に言うのはどうかと思います」
「家族だからこそさ。よく家族──特に夫婦は対等であるべきだ、なんていう奴がいるがとんでもない。人が二人以上集まれば必ずどこかで意見は対立する。上に立つ者がいない皆が平等な組織なんて絵空事以下の害悪でしかない。まして家族は狭い逃げ場のないコミュニティだ。本当の意味で対等の関係なんてものを望めばあっという間に破綻してしまうよ。だから円滑な家族というのはね、必ずその家庭における価値観を定め、裁定する支配者がいるものなんだ。その上で、支配者は立場に見合った責任を果たし、被支配者がその支配を受容することで秩序が成り立っている──ま、最近はその責任を理解しない馬鹿な連中が多いからそれが破綻しているわけだが」
「…………」
何の努力も対価も支払わず無条件に成り立つ関係などない。中学生の子供でも理解していることを、お前は──そう笑われた気がして、僕はそれ以上何も言えなかった。
「──ま、これはあくまで私の想像だ。実際は単に不摂生で父親が亡くなっただけかもしれないし、逆にお前が気づいていなかっただけで家族仲はとんでもなく悪くて母子二人で父親を殺したなんて可能性もないわけじゃない。私は警察でも探偵でもないからね。お前の話から見えたものを無責任に切り取って騙っただけさ」
「…………」
「一つ確かなのは、お前はその少年にも母親にも必要とはされていないし、首を突っ込むべきじゃないってことだろうね。探偵気取りであるかもしれない真相を明らかにすることはできるかもしれないが、それがもたらす結果に責任が負えるわけじゃないだろう?──ま、いいバイト先が無くなったのは惜しいが、切り替えて次を探せってことさ」
「…………なるほど」
先生の言う通り、これ以上考えたところで誰が幸せになるわけでもない。
何より僕は平和主義。真実や正義なんて刃を振りかざして他人の世界に戦争を仕掛けるなんて真っ平御免だ。
「……スッキリしたとは口が裂けても言えませんけど、クビになった職場のことは忘れて、素直に日雇いバイトでも探すことにします」
「うむうむ。頑張って稼いで来い」
「……言っときますけど、先生に貸す金は一銭もありませんからね?」
「けち臭いことを言うな──そうだ。バイト代代わりに倉庫にある失敗作を幾つか持って行っても構わんぞ? あれも売れば幾らか金になる筈だし──」
「んなバンドマンのチケットノルマみたいな話でバイト代を誤魔化そうとしてもそうは──」
連載の合間の息抜き短編。
最初は悪役令嬢のリベンジものを書いていたのに、手直ししている内にミステリ擬きの序章みたいな話になってしまった。
本当に自分でも何がどうなってるのか……大人しく連載途中の現代ダンジョンもので「う○こ女神編」を書きます。




