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それは、それとて  作者: 明日


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奴が、来た










山を下りる道は、行きよりも静かだった。

風もなく、鳥も鳴かない。

足音だけが、土を踏む音として残る。

湖での作業は、滞りなく終わった。

鏡は清められ、青い布に包まれている。

途中、何かが出ることもなかった。

――それが、逆に不気味だった。


「……不気味だな」

仁さんが、ぽつりと言う。


「ええ」


虫の声すら聞こえない。

だが仁さんは、それ以上は何も言わなかった。

言わない、というより――

言えない顔をしていた。

やがて、神社が見えた


山の空気が、そこで一度、途切れる。

肺の奥が、ふっと軽くなる。

「……戻れたな」

仁さんが、小さく呟く。


境内は、いつも通りだった。

砂利は整い、異変は、何一つない。

座敷では、マッキーがコタツに陣取っていた。

「おかえりなさーい。

 マッキーは、元気だった

「ただいまー」


「無事で何よりだな」

仁さんは

そう言って鏡を本殿へ運ぶ。

その瞬間だった。


――空気が、沈んだ。

重い。

水の底に、急に引きずり込まれるような感覚。

「……緑」

仁さんの声が、低くなる。


それは、聞こえた。

「ヴゥ……ボォ……」

低く、濁った声。山で聞いたものと、同じ。

だが、距離が違う。近い。あまりにも。


マッキーが、みかんを持つ手を止めた。

「……あれ?スピーカー、あります?」


仁さんは、ゆっくりと振り返る。

境内の奥。


鳥居の外――ではない。

内側だ。

「主は……許可は、出してない」

そう言った仁さんの声に、

初めて、焦りが混じった。

私は、

背中が冷たくなるのを感じながら、

ようやく理解した。


――山では、何も起きなかったんじゃない。

起こさなかったんだ。

「ヴゥ……ボォ……」

今度は、はっきりと。呼吸のように、

こちらの存在を確かめるように。


仁さんが、静かに鏡を抱え直す。

「……来るぞ」

その一言で、

空気が、完全に変わった

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