湖と青
それからも、歩き続けた。
山は相変わらず静かだった。
静かすぎる、と言った方が正しい。
風が無い。虫の音も、獣の気配も無い。
踏みしめる土の音だけが、
やけに大きく響く。
私は何度か、無意識に後ろを振り返った。
――何もいない。
それが、余計に不気味だった。
二時間ほど歩いた頃、
空気が、少し変わった。
ひんやりと湿り気を帯び、
鼻の奥に、水の匂いが届く。
仁さんが、立ち止まる。
「……もうすぐだ」
木々の隙間を抜けると、
視界が、ぱっと開けた。湖だった。
山の中腹にぽっかりと開いた、
円形の静かな水面。鏡のように空を映し、
一切、波立っていない。
風が吹いても、揺れない。
私は、思わず息を止めた。
「ここが……」
「そうだ」
仁さんは、湖の縁に近づき、
静かに腰を下ろした。
「ここは、山と神の“中間”だ」
「どちらにも、偏らん場所」
胸元から、
青い布包みを、ゆっくりと取り出す。
私は、自然と距離を取った。
仁さんは、布をほどき、
中の鏡を露わにする。丸く、古い鏡。
縁には、細かな文様。
見ているだけで、胸の奥が、少しざわつく。
「触るなよ」
「分かってます」
仁さんは、鏡を両手で持ち、
湖に向かって、短く祝詞を唱えた。
言葉は分からない。
だが、音だけで分かる。
――これは、頼む言葉だ。
湖面に、鏡を近づける。
その瞬間。水が、すっと動いた。
風も無いのに、
鏡の下だけが、円を描いて揺れる。
「……来てるな」
仁さんが、低く言う。
鏡を、ゆっくりと水に沈める。
じゅ、と。水に触れた瞬間、
嫌な音がした。
まるで、
熱い鉄を水に入れた時のような。
湖面に、黒い筋が広がる。
汚れ――いや、澱だ。
鏡に溜まった“何か”が、
水へと流れ落ちていく。
仁さんは、じっと動かない。
呼吸すら、抑えている。
どれくらい経ったか。
黒い筋が、完全に消え、
湖面が、元の静けさを取り戻した。
仁さんが、鏡を引き上げる。
鏡は――
不思議なほど、澄んでいた。
「……終わりだ」
そう言って、
青い布で、再び丁寧に包む。
私は、ようやく息を吐いた。
「意外と……何も、無かったですね」
仁さんは、立ち上がりながら言う。
「今は、な」
その視線は、湖ではなく――
森の奥を見ていた。
「“汚れ”は落とした」
「だが、主が変わった山は、
それを黙って見過ごすとは限らん」
帰り道は、
行きより、静かになる。
そう言って、仁さんは歩き出した。
私は、遅れてついて行く。
背中に、確かな視線を感じながら。




