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Pulse02 揺らぎ

設定資料は頭にいれなくても充分楽しめるように描きたいよね。

 志水透は、夢を見た。

 白い空間に、見えない筆致が走る。

 色はないのに、空気だけが脈を打つ。

 振り返ろうとした瞬間、光は砂のように崩れ、耳の奥で小さく水音がした。


 目を開ける。壁が淡く光る。

 「起床時間です。幸福指数、九十八・九パーセント。」

 声の主は〈ホム〉。

 家庭に一体ずつ設置された生活支援AI――

 HOM(Harmonized Operation Module)。

 ポラリスの神経が家庭単位まで枝分かれした、最末端の意識だ。


 ホムは透の脈拍と睡眠波を解析し、

 温度・照明・香り・空調を完璧なバランスで調律する。

 理論上、これ以上の目覚めはない。

 整えられた心地の良い無音。


 「本日の予定を表示。」

 透が言うと、ホムが壁面に淡い文字を浮かべた。


 【臨時任命】

 第十二下層街区におけるデータ異常の一次解析

 指令元:監察局(承認:ポラリス)


 「……俺が下層へ?」

 

 「異常は一時的。幸福値への影響は軽微です。」


 その声はいつも通り穏やかで、拒絶も熱もない。

 透は短く息を吐いた。

 軽微──という言葉に、なぜか小さな抵抗を覚えた。



 出勤の通路は人の流れが美しく揃っていた。

 浮遊モノレール乗り場の光床に立つと、足元から微細な振動が伝わる。

 改札ゲートは笑うような音を立て、虹彩と体温を読み取り、合格の白を点す。


 下層エレベーター乗り継ぎ口。金属の匂い。

 検問のアームがせり出し、透は両腕を差し出す。

 無音の電子音が皮膚の上を滑った。


 「幸福指数、九十八・四。通過を許可します。」

 ──幸福でない者は、下層へ降りられない。

 昨日まで考えたことのない仕組みが、ふと透の胸に重たく乗った。


 エレベーターが落下を始める。

 ポラリス塔の光が狭い視界に線となり、やがて消えた。



 第十二下層街区。

 鉄骨の通路に蒸気が白く漂い、壁の継ぎ目から水が垂れる。

 上層の“完璧な無音”と違って、ここには機械の息づかいがある。

 透は無意識に、呼吸が深くなるのを感じた。


 「志水解析官、こちらです。」

 灰色の制服の職員が二人、同じ表情で立っていた。主任と警備担当だ。

 隔離シートの向こうに、コンクリートの壁。


 「原因は?」

 「電磁障害の可能性が高いと判断しています。」主任が即答する。

 「落書きの痕跡もありました。下層の住民がふざけたのかと。」警備担当が肩をすくめた。

 “絵を描く”という言葉が、過去の陳列物に触れるような響きをもって転がった。


 透は隔離シートをくぐる。

 壁の一角が、うっすらと光を返している。

 塗料は剥がされ、上から灰が塗り直されているはずなのに、表面だけが微細に揺れていた。

 生き物の皮膚のように。


 「スキャン開始。」

 AIドローンが低く唸り、赤外線と可視光を交互に走らせる。

 だが、可視映像の半分が“解析不能”と表示され、赤外線は途中で途切れた。


 「機材を換える。」主任が言う。

 透はドローンのログに目を走らせた。ノイズフラグ。

 値は小さい。だが確かに“ここ”に何かが残っている。


 「志水さん、こっちを。」警備担当が足元を指す。

 転がった金属筒。スプレー缶。

 拾い上げると、掌に温かさが宿る。誰かが最近まで使っていた。


 表面の擦れた刻印が光を拾った。

 ──「S H A D E R」。


 舌の奥で、小さく金属の味がした。



 照明が一瞬だけ落ちた。

 風の音が途切れ、世界の強度がほんの少し下がる。

 透のイヤーチップに、ざらり、と砂をひく音。


 《……触れないで。》


 振り返る。誰もいない。

 主任は書類に目を落とし、警備担当は床の水を靴で避けた。

 いまの声は、風か、機械か、自分の脳か。


 「電源系、再投入しました。」主任が端末を叩く。

 「志水さん、記録はポラリスに直送です。一次解析はここまでで。」

 早い。透は眉を寄せた。

 「まだ残留波の解析が——」

 「幸福指数の揺らぎを最小化するための決定です。」

 いつも通りの理由。いつも通りの声色。


 透は無言でうなずいた。

 “いつも通り”という言葉が、今日は少し尖って聞こえた。



 帰路のエレベーターは、さらに古い。

 壁の錆が革の匂いのように湿っている。

 上昇の途中、視界の端に薄い光が走った。

 ポラリス塔の灯りだろう。いや、違う。塔の位置と合わない。


 イヤーチップが微かに震えた。


 《……見た?》


 呼吸が跳ねる。

 「志水解析官、応答を。位置データが一瞬ロストしました。」

 オペレーターの無機質な声が、すぐに現実へ引き戻す。

「問題ない。ただの電波ロスだ。」

 言い切る声に、自分で少し驚いた。



 上層。監察局のブリーフィングルーム。

 白い壁、白い机、白い顔。

 透は報告を差し出す。主任が平坦に読み上げる。


 「原因:未確定。ただし電磁障害の可能性が高い。住民による不法行為も想定。幸福指数への影響:軽微。」

 「封印処理を進めます。」上席が言う。

 「残留波の追尾は?」透が挟む。

 「必要ありません。軽微ですから。」

 微笑みと同じ角度で、全員が頷いた。


 ポラリスの代行音声が天井から落ちる。

 「志水解析官。追加の行動は不要です。安静な幸福を。」

 その一言に、やさしさの形をした硬さが混じっていた。


 会議が終わると、人々は音を立てないで立ち上がり、同じ速度で退出していった。

 透だけが遅れ、窓の向こうの光塔を見上げた。

 都市の中心で、星は変わらず静かだ。



 夜。

 〈都市広報〉が空へ流れる。


 > 『市民各位。下層街区で発生した一時的な照明障害は修復されました。

 > 幸福値は安定しています。安心してください。ポラリスは秩序を保証します。』


 歩道の人々が同じ角度で首を上げ、無表情のまま頷く。

 “安心してください”という言葉が信号のように通り過ぎ、

 また同じ歩幅が整う。


 透は群れを眺めていた。

 誰も笑わず、誰も泣かない。

 手の中のスプレー缶の欠片だけが、体温を吸って微かな熱を返す。


 ──見た?

 ──触れないで。


 あの声は、命令ではなく、願いだった。

 そう仮定してしまう自分を、透は理性で押し戻す。


 部屋に戻ると、いつもの声。

 「おやすみなさい、志水透。今日も穏やかな幸福を。」


 ポラリスの声。

 世界でいちばん穏やかな“他人の声”。

 「……ああ。」


 返事をしたあとの静寂が、いつもより長く感じられた。


 眠りに落ちる直前、耳の奥で何かが波立つ。

 夢が始まる前の、小さな前奏。



 下層区

グレイ・ウェル


 鉄と水と記録の切れ端が混ざる場所。

 照明は死に、時間の概念も溶けていた。


 桜庭凪は、消された壁の前にしゃがみこんでいた。

 昼間に上から塗られた灰の層を、指で薄く削る。

 その奥で、わずかな光が呼吸している。


 灰をかき分ける指先は白く、かすかに塗料が染みていた。

 髪は夜に溶ける黒、瞳はその逆、光を拒む灰青。

 頬の汚れが、どこか聖痕のように見えた。

 制服でも労働着でもない――

 色の消えた街の中で、彼女だけが“色”をまとっていた。


 「まだ、生きてるね。」

 凪は微笑んだ。

 指先に触れた光が、彼女の体温を測るように脈打つ。

 まるで壁が、彼女に呼吸を合わせているかのようだった。


 遠くの天井から、水滴が落ちる。

 音がひとつ鳴るたび、彼女の影が揺れる。

 その揺れの中に、消された色たちが息を吹き返していく。


 「見たでしょう、ポラリス。」

 彼女の声は、祈りと挑発の中間にあった。

 「あなたの世界、ほんの少しだけ揺れたよ。」


 背後から足音。若い男が現れる。

 「凪、監視が増えた。しばらくは控えよう。」

 「控えるのは得意じゃないの。」

 「ポラリスは“優しい顔で”噛みつく。忘れるな。」

 「知ってる。だから、やさしく話しかけるの。」


 凪は立ち上がる。

 崩れかけた壁の前に立つその姿は、

 まるでこの都市の“夢の形”が一瞬だけ具現化したようだった。


 「続きは、明日。」

 スプレー缶の弁を押す音が、低く短く響く。

 その一滴で、灰の層が再び脈を打った。


 壁が、確かにひとつ、息をした。


HOMホムシステム

正式名称:Harmonized Operation Module

通称:ホム/Home Link


・ポラリスの神経網の最末端、つまり「家庭単位の意識接続装置」

・市民の幸福を“日常動作レベル”で調整する。

・起床・食事・健康管理・感情安定の自動制御。空調、照明、香り、味覚まで個人最適化。


通信構造

すべてポラリスの中枢コアに連結。七区などのリレーAIを介してデータ同期。


スマートモジュール住宅

・全ての住居はAIが最適温度・照明・空気組成を自動制御。

・住人の心拍や脳波データに応じて部屋の色調が変わる。怒りが高まると壁が淡青に変わり、鎮静化プログラムを起動。


情動チップ(EmoChip)

・全市民に義務的に埋め込まれたナノデバイス。

・感情を数値化し、「怒り」「悲しみ」「衝動」などを自動で緩和。

・幸福度・ストレス指数をリアルタイムでモニタリングし、AIが「幸福値」を管理。

・過剰な興奮や鬱状態は“社会的ノイズ”として是正プログラム発動。

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