第3話 (フィリップ視点)誰でもできる習慣化の魔法
フィリップ・グレイヴェルは、いまにも倒れそうだった。
胸元はひゅうひゅうと浅く鳴り、足はわずかに震えている。
──原因はいたって単純。
頑張りすぎた。
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「ミリアーネにふさわしい男になるんだ…!」
その一念で、フィリップは――
•夜明けの剣術稽古
•午後の馬術ダッシュ
•書庫こもりきりの速読訓練
•食事は野菜七割・水は六杯
……など、あれもこれも詰め込んでしまった。
結果、3日目にして貧血でぱたり。執事におぶられ寝室送りである。
「努力って裏切らないんじゃなかったのかよ……」
シーツを握りしめつつ、どこかで聞いた名言を7歳はかみ締めた。
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水曜日・10時。
冬薔薇が凛と咲く東屋で、銀のティーセットを前に腰掛ける。
迎えてくれたのは婚約者――
ミリアーネ・フォン・リュクスハイム。
通称〈毎日やれ〉を座右に掲げる、筋金入りの習慣家である。
彼女はフィリップの顔を見て眉を上げ、口を開いた。
「あら、顔色が優れませんわね。無理なさったのでは?」
フィリップは3日間の荒行を白状した。
聴き終えた彼女は、すっと立ち、すっと親指を突き立てる。
「それはやり過ぎですわ。
タスクを細かく分けて、毎日やれ、ですわ!」
「ま、毎日!?」
フィリップの声が裏返る。
「小さく刻めば“意志”はいりませんわ。
何より毎日絶対にやるようにしてください。
そうすれば、歯磨きのように毎日勝手に続けさせてくれますもの」
預言者では?と思うほどの確信に満ちている。
「俺、まだ七歳なんだけど……」
「七歳でも歯は磨きますでしょう?」
「歯磨きと筋トレを同列にするなよ!」
「同列ですわ。どちらも習慣にできるものですもし」
――王都中央銀行の銀行員より説得力があるんですが。
「ちなみに私は毎朝、白湯を飲んで太陽に向かい
“今日も私はできる女”と唱えておりますの」
「新興宗教かよ!」
「自己定義が行動を引き寄せるのですわ」
さらりと言ってのけるあたり、やはり只者ではない。
細分化の助言を受け、フィリップは“ひと切れ”ずつ実践した。
•起床 ―― 目覚ましより五分早く
•机上整理―― 本を一冊片づけるだけ
•剣術フォーム―― 足幅を意識
3日後、執事は「坊ちゃまがついに大人に…!」と目を見張り、武術師範はフォームが少しだが改善されている!と喜んだ。
わずかながら着実な伸び――それが“毎日やれ”の威力だろうか。
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水曜日10時。稽古場の片隅。
冬の陽が差し込む稽古場の片隅で、ミリアーネはいつものように手帳へペンを走らせていた。稽古場で武術師範に教わっていたフィリップは木剣を納めると、胸に残る乱れた鼓動をやわらげるように深く息を吐く。
数刻前よりずっと真っすぐな剣先。けれど、その先にいる彼女の背中は、まだ遠かった。
フィリップは稽古場の片隅にいるミリアーネに駆け寄った。
目線をずっと手帳に映している彼女を『相変わらずだな』とにこやかに思いつつも、思わず口が勝手に動いた。
「なぁ、ミリアーネ、今日の俺……どう見える?」
ぴ、とペン先が止まり、黒曜石の瞳がこちらを映した。
視線は静かに巡り、足運びの跡、握りしめた木剣の柄、そして汗で乱れた前髪をも確かめると――
「姿勢が安定してきましたわ。呼吸も深くなりました」
「……それ、本当にか?」
「ええ。数字で言えば“昨日より二歩前進”。充分、進歩ですわ」
その確かな評価に嬉しさが湧く。だが、もっと欲が出た。
「でもまだまだだろ? 俺さ、もっと……お前にふさわしいって胸張れる男になれるかな」
思わずこぼれた弱音。
瞬きひとつ、ミリアーネは少しきょとんとし――次の瞬間、にこりと微笑む。
親指が、ぐっと上がった。
けれど今日のサムズアップは、いつもよりふわりと柔らかい。
「なれますわ。必ず」
フィリップの胸の奥が、ほっと緩む。が――
「──そのための《日課帳》も、ちゃんと用意しました」
「帳面かよ! もうちょっと情緒的に言えないの!?」
「情緒では未来は形になりませんわ。でも、“やり抜く情熱”には――わたくしも、愛を感じますもの」
さらりと、しかし確かに。
どんな甘い囁きよりも胸に響く言葉だった
習慣は、一度に山を動かす魔法ではない。
砂粒を毎日積み上げ、いつのまにか丘にする――
それが“毎日やれ”の正体だ。
フィリップはそっと笑った。
親指を立てるミリアーネの真似を、小さく、胸の内で。
――きっと、追いついてみせる。
毎日、一歩ずつ。
次の水曜日が、少しだけ楽しみになった