第1話 (フィリップ視点)そう、あの時から習慣家の片鱗はあった……と、婚約者は語る
リュクスハイム邸の薔薇園には、真冬にもかかわらずほんのり甘い香りが漂っていた。
薄曇りの光が冬薔薇の白い花弁を銀色に染め、庭そのものが背筋を伸ばしているように見える。
その日、フィリップ・グレイヴェルは“婚約者としての顔合わせ”のため、伯爵家の敷地に初めて足を踏み入れた。
本人にとってはただの「大人たちの取り決め」であり、実感も緊張もそこそこ。
しかし、そんな呑気さは数秒で吹き飛ぶ。
「ほら、フィリップ! リュクスハイム家のミリアーネ様よ!」
はしゃいだ母の声と同時に背を押され、彼はよろめきながら前に出る。
その視線の先にいたのが、少女──ミリアーネ・フォン・リュクスハイムだった。
白磁のような肌、黒曜石のような瞳、銀糸のドレス。
扇を静かに開きながら一礼するその姿は、七歳とは思えないほどの気品に満ちていた。
「……綺麗だな」
自分でも気づかぬうちに口をついて出た言葉に、すかさず父の咳払い。
フィリップは慌てて帽子を脱ぎ、ぶんぶんと頭を下げた。
それでも、目は離せなかった。
サロンには紅茶の香りと、見たことのないような菓子が並び、フィリップの目はキョロキョロと忙しい。
ちなみに伯爵夫妻と両親は談笑している。
そんな中、自分たちだけ会話していて申し訳無いと思ったのか、母からミリアーネへ質問が飛んだ。
「ミリアーネ様、ご趣味は何かしら?」
「……日記ですの」
ミリアーネは小さな手帳を開く。
行頭がきちんと揃った几帳面な文字。三色のインクで整然と分けられている。
「行動は黒、聞いた言葉は青、感じたことは紫。そうすると、自分の気持ちも後から“読み返せる”んですの」
フィリップは思わず「へえ……」と呟いた。
なんだかすごい。けど、本人は特別なこととも思っていない様子だ。
「それと、お花の水やりも習慣ですの。湿度と気温で量を変えます。根腐れしますから」
(すご……)
「本も毎日一冊ずつ読んでますの。朝の体操と同じですわ」
(すごすぎ……)
自分なんて、昨日の昼ごはんも思い出せないのに。
その後、両家の取り決めで、ふたりは毎週水曜日の午前十時に顔を合わせることとなった。
場所は薔薇園の東屋。内容は……特に決まっていない。
だから最初の数回は、ただお茶を飲んだり、お菓子を食べたり、
「ジャムは何が好きか」「この間読んだ絵本は面白かったか」そんな他愛もない会話ばかりだった。
けれどそれを、ミリアーネは日記に書いていた。
水曜日10:00
フィリップ様とお話し。
→今日は「アプリコットジャム派」とのこと。来週お菓子に使うかも?
「全部書くの?」と聞いたら、彼女はくすっと笑って首を振った。
「全部じゃありませんわ。“ちょっと嬉しかったこと”だけですの」
その言葉が、なぜか少し胸に残った。
数回の顔合わせを経て、フィリップは気づいた。
ミリアーネは、ちょっと変わっていて、ものすごく整っていて、
そして――なぜか、自分との約束をとても大切にしてくれている。
水曜日の朝は必ずリボンを変え、
その日の日記ページを事前に飾っておき、
お茶にはアプリコットジャム入りのスコーン。
(……これ、ちゃんとしなきゃダメなやつかも)
そう思ったフィリップは、帰り道の馬車の中でそっと決意する。
「来週までに、なんか読もう。……大人っぽいやつ。探せばあるだろ」
小さな少年が、“彼女にふさわしい自分になりたい”と初めて思った日。
それは、七歳の冬。静かな薔薇園で芽吹いた、小さな恋のはじまりだった




