第0話 ――毎週水曜・午前十時、婚約破棄の時間です
赤絨毯の敷かれた玄関ホールに、革靴の踵が高らかに打ち鳴らされる。
「ミリアーネ! 俺は君との婚約を破棄する!」
怒声が大理石の壁に反響し、屋敷中に轟いた。
けれども使用人たちは慌てない。廊下を歩くメイドは「また水曜」と小声で笑い、執事は懐中時計を開いて「十時二分、ほぼ定刻」と頷く。毎週恒例、もはや行事だ。
執務室。
当のミリアーネ・フォン・リュクスハイムは飾り扇を片手に、静かに書類へ目を落としていた。白く整った指先は微動だにせず、長い睫毛の奥の瞳も揺れない。扉の向こうから荒々しい足音が迫る。それを合図に、彼女はひとつ息を吐き、扇を「パチン」と閉じた。
「……あら、今日は水曜日でしたわね」
淡い声に合わせるかのように、室内の時計が十時を二分過ぎて刻む。
フィリップ・グレイヴェル男爵令息は扉を押し開けると、拳を握ったまま息巻いた。
「聞いてるか、ミリアーネ! 俺は本気で――」
「承っておりますわ、フィリップ様。毎週水曜日に同じお言葉を」
涼やかな返答。彼女は椅子を離れ、棚の上に重ねたふきんから一枚を取り上げる。腰をかがめ、執務机の天板を丁寧に磨き始めた。
「……やっぱり出たよ、その動き!」
フィリップは額に手を押し当て、呻く。「令嬢たるものが自分で机を拭くか? しかも婚約破棄のたびに!」
「ええ、拭きますわ。習慣ですもの」
「その“習慣”が問題なんだよ!」
思わず声を荒らげるフィリップ。彼の視界に、革張りの小さな手帳が映る。
金文字で《習慣こそすべて》――不穏すぎるタイトルだ。
「どうせ書いてあるんだろ? “婚約破棄を叫ばれたら机を拭く”って!」
ミリアーネは無言でその手帳を開き、今日の日付を示す。
『水曜:フィリップ様が婚約破棄を叫んだら、机を拭く ☑』
「うわあああああっ!」
フィリップは髪をかき乱す。「習慣化すんな! 俺だって人間だぞ!? 傷つくんだぞ!?」
「では、“傷ついたフィリップ様をなだめる”も来週から追加いたしますわね」
「追記すんなぁあああ!!」
しばし屋敷に響く怒声とため息。
やがて彼は膝に手をつき、しょんぼりと呟いた。
「……ミリアーネ。君は僕のこと、どう思ってるんだ……?」
その問いに、彼女の手がふと止まる。
だがミリアーネはすぐ微笑み、再び布を動かした。
「水曜日以外のご質問は、来週水曜にお願いできますか?」
「答える気ゼロかよ!」
机の表面は艶やかに光り、フィリップの赤い顔を映していた。
――こうして今週も、“婚約破棄”という名の儀式が滞りなく終了する。
けれど誰も知らない。完璧令嬢の胸に隠された本音も、怒鳴る青年の裏返しの恋心も。
次の水曜日、二人の習慣はほんのわずかに軋み始める。
物語の歯車が、静かに動き出していた――。