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第8話 「狼姫と、横顔」

「メロスは激怒した」

「必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した」


 教科書を忘れた咲蓮が問答無用で机をくっつけてきて、そのまま授業が始まってしまった。

 授業の内容は教科書の朗読で、題材は有名な走れメロス。

 窓側一番前の席から順番に『。』で区切りながら交代で朗読する全生徒強制参加型のアレである。


「メロスには政治がわからぬ」


 三番目の生徒が読み終える。

 その間も俺と咲蓮は机の上に置いた一つの教科書を一緒に読んでいた。

 近い、とても近い。

 普段は教室の端から眺めていたのに、席替えと教科書を忘れたことによりその距離は肩が触れ合うレベルになっていた。 


「メロスは、村の牧人である」


 順番が刻一刻と回ってきている。

 咲蓮はジッと、自分の番を逃さないように俺が広げる教科書を凝視していた。その切れ長の瞳の奥は何を考えているのだろうか。

 整った眉や長い睫毛に高い鼻と、綺麗な顔が触れられる距離にあるのだ。


「笛を吹き、羊と遊んで暮して来た」


 その横顔に夢中になっていると、すぐ俺の番が回ってきた。

 教科書の物語は文章の区切りが短くて、分かりやすいけどこのスタイルだととんでもなく回転率が速いのである。


「けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった」


 俺の番が終わり、すぐ教科書を咲蓮が読みやすいように横へずらす。


「きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た」


 すると咲蓮は透き通るような声でさっと読み上げた。

 普段からクールで抑揚が少ない声は朗読に向いているのかとても聞き取りやすく、退屈な授業にも花が咲くようだった。


「メロスには父も、母も無い」

「女房も無い」


 そしてそのまま朗読は前の席へと移っていく。

 ジグザグにバトンリレーを行っていくこの方式は、席によっては後ろから近づいてくる場合もあり教科書の内容うんぬんよりも緊張感の方が勝るだろう。


「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」

「花嫁は、夢見心地で首肯うなずいた」


 しばらく淡々と朗読が進んでいく。

 その間も俺は咲蓮の事が気になって仕方なかった。

 セリフの場合は『。』で区切らずに、セリフが終わるまで続けなければならないという罰ゲームが発生する。


 そのせいかおかげか、教科書の物語が進む中でゆっくりと咲蓮の瞳が文字を追って動いていくのが分かった。


「メロスは、悠々と身支度をはじめた」


 時には小さく頷いて。


「私は、今宵、殺される」


 時には少しだけ驚いて。


「若いメロスは、つらかった」


 時には眉を、少しだけひそめた。

 赤堀咲蓮という人物は表情に出にくいだけで、とても感受性が豊かな人物である。

 それを俺は、特等席で眺めているのだ。

 最初はどうなるかと思ったが、この席そしてこの状況と言うのは誰にも咎められずに咲蓮の横顔を見れるということに気づいてしまった。


「ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた」

「メロスは、まごついた」

「佳き友は、気をきかせて教えてやった」


 だからだろうか。


『――――』


 俺は、途中から教科書うんぬんよりも咲蓮の顔を見ることに夢中になってしまったんだ。


『――――』


 教室に流れる、一瞬の静寂。

 このまま時間が進めば教室がざわつきだす、そんな空気の中。


『――――』


 ん? と、頭の中に疑問符が思い浮かぶよりも早く、隣から細い人差し指が教科書の文章に伸びて――。


「……総一郎。順番、ここ」

「……! め、メロス……君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ!」


 ――咲蓮が、俺に読むべき場所を小声で教えてくれたんだ。

 慌てて読んだせいか俺の声が少し上ずってしまったが、咲蓮のおかげで大きな赤っ恥をかかずに済んだのである。


 俺が咲蓮の横顔に見惚れていて、教科書を読むのを忘れてしまったなんて事態になったら、恥ずかしいなんてレベルじゃない。

 かなり危なかったと、一人胸をなでおろして熱くなる顔を冷ますように安堵する。


「――勇者は、ひどく赤面した」


 だから、俺も。

 綺麗な声で最後の一文を読みながら、そんな俺の横顔を見て小さく微笑む咲蓮には気づけなかったんだ。

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