第5話 「狼姫と、高所恐怖症」
「高所、恐怖症か……」
「うん。ごめん」
「苦手なものは誰にだってある。謝る事じゃないさ」
彼女が高い所を苦手な事は知っていた。
しかしそれがまさか歩道橋レベルの高さでも無理だとは予想外だ。
いや、見方を変えれば窓や遮るものがない空間で足元を車がビュンビュン高速で爆音をかき鳴らしながら走り抜けていると考えると……怖いのかもしれない。
「参考までに聞くんだが、いつもはどうしてるんだ?」
「いつもはさっきの交差点で曲がってる。でも今日は、おばあちゃんと一緒に歩いたし、総一郎が来たから」
「…………なっ!?」
何て言う事だ。
これ、俺のせいじゃないか。
俺が話しかけてそのまま歩き出したせいで口下手な咲蓮は言い出せなかったんだ。
クソっ、惚れている女性の僅かな変化にも気づけないなんて、俺はなんて馬鹿野郎なんだ……!
「それは、すまなかった! まだ時間は十分すぎる程あるし、今からでも引き返せばいいんじゃないか?」
「そうだけど。でも……」
「何だ? 他に何か理由が――はっ!?」
俺は気づく、気づいてしまった。
何故彼女が高所恐怖症なのに、引き返さずに俺の腕を抱いたのかを。
いつも綺麗すぎるぐらいのポーカーフェイスを崩してまで俺に何を伝えようとしていたのかを。
咲蓮は絶大な人気者だ。
学校では、孤高の狼姫と呼ばれている。
つまり皆の憧れとして、そう模範として行動しているんだ。
そんな努力家で頑張り屋な彼女だから、きっと高所恐怖症を克服したいのだろう。
苦手なのに、怖いのに、それでも頑張ろうとするその姿に――。
――俺は、キュンとしてしまった。
「分かったぞ咲蓮。俺で良ければ喜んで協力する。一緒に歩道橋を打ち倒そう!」
「うん。お願い、総一郎」
覚悟を決めたように、彼女は俺の腕を抱く力をギュっと強める。
それは恐怖に怯える子犬ではなく、気高く生きる狼そのものだった。
「あうぅぅぅ……」
「まだ階段の中腹だぞ!?」
――訂正、子犬だった。
まだ道路を横断する段階にすら入っていないのに腰が引けてしまっている。
俺の腕を抱き腰が引ける姿は何て言うかエロ……情欲を誘うようなか弱さがあり、とてもじゃないが見ていられなかった。
ただでさえ膝上以上のミニスカートを履いてその長く綺麗な足を露出しているのだから、長くこの場に留まるのはそれこそ危険だった。
「頑張れ咲蓮! 頑張ったら、今日のご褒美はいつもより長くして良いぞ!」
「が、頑張るるる……」
「その意気だ! 頂上は近いぞ!!」
恐怖で軽く呂律が回っていないが、彼女は勇気を出した。
一歩、また一歩と階段を昇っていく。
そしてついに、歩道橋の一番上へと到着して――。
「ひぅ」
――小さな、悲鳴が漏れた。
引けていた腰は、完全に抜けている。
プルプル震える姿は誰がどう見ても、か弱い子犬だった。
「無理。総一郎、無理」
でも、彼女にも意地があるのか表情は変えなかった。
無表情、いや、虚無かもしれない。
俺の名前を呼んで、壊れたロボットのように無理と連呼している。
「そ、そうか……」
俺は心の中で頭を抱える。
ここまで咲蓮はとても頑張ってきた。
それをここで諦めさせていいのだろうか?
これ以上高い場所に上がる事は無く、後はまっすぐ進んで降りるだけなのだ。
けれど怖がる彼女に、自分は大丈夫だからという理由だけで無理はさせられない。
どう感じるかは、その人次第なのだから。
そう、だから――。
「俺だけを見てくれ」
「……え?」
「大丈夫だ、俺がいる。いつものように俺を見て、俺だけに集中していれば良い。安心しろ、俺がいる限り、咲蓮は絶対に落ちないし、俺が守る」
――俺は、最初の彼女の言葉を尊重する事にしたんだ。
怖くても、変わりたいと思って一歩踏み出した、最初の言葉を。
「――――」
切れ長の瞳が大きく開き、俺を見つめる。
口元は変わらないので何を考えているかは分からない。
でもそれでも、恐怖が消えた事だけははっきりと分かった。
「俺を、信じてくれるか?」
「――うん」
咲蓮は大きく頷く。
そして、俺の一歩に合わせて自分も大きく踏み出した。
身長差があり歩幅も違う、緊張しているからかぎこちないが、それでも大きな一歩だった。
「総一郎」
俺の腕を抱いた咲蓮が、ゆっくり歩きながら俺を見上げる。
俺は転ばないように歩きながら、チラッとだけ彼女に視線を移した。
「どうだ? 他の事に夢中になっていれば、怖いものでも何とかなるだろう?」
「うん」
すると歩道橋のゴールが近づいてきたのに、咲蓮は俺の腕を更に強く抱いて。
「今の私。総一郎に、夢中」
「そ、そうか!? む、夢中になり過ぎて転ばないようにな……!」
「分かった」
そんな誤解をしかねない言葉を言ってくる。
俺は危うく転びそうになったが、咲蓮が腕を抱いていてくれたので事無きを得た。
「…………」
「…………」
しかしそのせいで、より身体が密着してしまう。
色々な意味でドキドキしっぱなしだった俺たちは、無言のまま無事に歩道橋を渡り切り――。
「……ありがとう。総一郎」
「……どういたしまして」
――俺を見上げる咲蓮の口元が、そっと笑みを浮かべた。
それはいつものポーカーフェイスが少し崩れた小さな笑みだったが、安堵と感謝が混じったとても可愛らしい笑顔で。
その純真無垢な微笑みに俺の心臓は今日一番高鳴っていく。
「……腕、離してくれないか?」
「うん。もうちょっと、だけ」
歩道橋を降りてもなお、俺の腕を抱いて歩き続ける咲蓮に聞こえてしまうんじゃないかと思うぐらいドキドキしていたんだ。