第34話 「狼姫と、夏の始まり」
「総一郎。お待たせ」
「おう。お疲れ、咲蓮」
時刻は夜の八時を回っていた。
七月ともなれば日が暮れる時間もかなり遅くなり、それだけ運動部が活動に力を入れられる期間である。
俺はいつものように誰もいない教室で待っていると、咲蓮が教室に入ってきた。
灰色の綺麗なウルフカットが少しだけ跳ねていて、部活の助っ人が終わり急いできた事が伺える。
「ごめん。未来先輩と、ちょっと話してた」
「生徒会長と?」
「うん。最近は、色々とお話してる」
咲蓮は頷きながら、俺の隣、自分の席に座る。
そして椅子の向きを変えて、自然と俺の方を向いてきた。
「色々か」
「うん。色々」
多くは語らないらしい。
咲蓮は話したければ聞いてなくても話してくるので、そういう事もあるのだ。
ただ一点、懸念するのはその相談相手が朝日ヶ丘先輩だという事だろうか。
生徒会長としての相談なら良いのだが、願望や趣味に咲蓮が影響されるのはちょっと、いやかなりよろしくない。
「総一郎?」
「うおっ!?」
「考えごと?」
「ち、ちょっとな……!」
大丈夫かなと、心配事に夢中になっていたようだ。
咲蓮は椅子の距離を縮めて、そんな俺の顔を覗き込んでくる。
切れ長の瞳が一気に近づいて、綺麗で美しい顔が目の前にあった。
『恋する乙女の目だよ』
そこに、ついさっき言われたばかりの言葉が脳裏を過ぎる。
咲蓮が、俺に恋をしている。
流石の俺も鈍感ではない。
ここまで好意を向けられれば、そう言う事だろうと思ってしまう。
でも俺にはそう言った経験がないので、それを考えるだけでドキドキしてしまうのだった。
「なら、ちょうど良かった」
「ん?」
「総一郎。ご褒美、増やして良いんだよね?」
俺の顔の目の前で、咲蓮が首を傾げる。
その仕草一つですら最上級に可愛くて、俺はもう駄目かもしれなかった。
「あぁ……言う事を聞く、だったな」
「うん。覚えててくれた、嬉しい」
そんな俺は、咲蓮といくつか約束を増やしていた。
ご褒美の数を増やす……もっと具体的には、何でも言う事を聞くと。
「じゃあ、総一郎」
「お、おう……」
グッと、咲蓮が近づいてくる。
今でさえかなり甘えているのに、咲蓮は俺に何を要求してくるのだろうか。
朝日ヶ丘先輩に変な影響を受けていないと良いが……。
「今度。デート、しよ?」
「…………え?」
でも、そのお願いは。
とても純粋で、予想していなかったもので。
「駄目? 総一郎と、もっと仲良くなりたい」
「い、良い……です」
その直球なお願いに、俺は思わず視線を逸らした。
そんな俺にも、咲蓮は嬉しそうに笑顔を向けてくれる。
ああ、駄目だ。
また熱が上がってしまう。
七月になり、本格的に夏が始まるからだろうか。
「やった。約束、えへへ」
「…………」
いや、咲蓮のせいだ。
可愛らしく子供のように小指を差し出してくる咲蓮に、俺は自分の小指を絡める。
それだけで、胸の奥が満たされていくようだった。
「それじゃあ。今日も、だっこ」
そして小指を離した咲蓮は両手を広げ、今日のご褒美を要求してくる。
こんなの、心臓が何個あっても足りない。
それでも受け身一辺倒な俺だから、朝日ヶ丘先輩と似ていると言われたのだろう。
「……ほら」
「ぎゅー」
両手を広げると、咲蓮は嬉しそうに俺の腕の中に入ってくる。
本当に駄目だ。
こんなの、好きになる理由しかない。
このドキドキは、咲蓮に聞こえてしまっているのだろうか。
「すんすん。今日の総一郎の匂いも、極上の味わい」
「匂いなのか味なのか、どっちなんだ……?」
そんな小さな不安とそれを忘れさせる程の大きな幸せに包まれながら。
俺は咲蓮と今日も、二人だけの秘密の放課後を謳歌するのだった。




