第12話 「狼姫と、約束」
「この匂いが私を誘惑する」
放課後の教室で。
俺の胸に飛び込んだ咲蓮が、顔を押し当ててくる。
胸元に伝わる柔らかさと彼女の息遣いによるくすぐったさが同時に襲ってきて、俺は大いに混乱していた。
そりゃそうだろう?
避けられていると思ったら、その理由が俺の匂いが良すぎると言われたのだから。
「よくない。本当に、よくない」
「さ、咲蓮!?」
「すーはー……。総一郎の匂いは中毒性があって、とても危険。国は一刻も早く規制するべき」
「俺の匂いは違法なのか!?」
咲蓮は上目遣いで俺を見つめながら、真顔でそんな事を言ってくる。
そしてまた、俺の胸に顔を埋めた。
「すー……こんなの……はー……危ない……すー……いつも良い匂いなのに……はー……汗で……すー……すごい濃くて……はー……他の女の子が……すー……気づいちゃう……はー……」
「す、吸うか喋るかどっちかにしてくれないか!?」
「じゃあ、吸う」
喋るより吸う方を優先される。
それだけ我慢できなかったらしい。
その間も俺を逃がさないように両手は背中に回されていて、一心不乱に嗅ぎ続けていた。
「…………」
でも咲蓮は分かっていない。
汗を吸う距離にいるという事は、咲蓮の匂いも俺に伝わっているという事を。
必然的に俺の顔の下にある灰色の髪からは咲蓮の匂いがこれでもかと漂ってきている。今日も運動部の助っ人に行ってたからかそれとも衣替えをするぐらい暑くなったからかは分からないが、いつもの甘い匂いに混じってほのかに汗の匂いも香り、俺の思考を揺さぶりまくっていた。
「すー……はー……げほっげほっ!?」
「咲蓮!?」
むせた。
俺の匂いを嗅ぎ続けて、深い深い深呼吸をしていた咲蓮が盛大にむせた。
俺はすぐに咲蓮の背中を優しく擦る。
「だ、大丈夫か……?」
「大丈夫。総一郎の匂い、ちょっと過剰摂取しすぎただけ。幸せのオーバードーズ」
「ほ、ほどほどにな」
喜んで良いのか悪いのか、絶妙に微妙なラインだった。
かなりむせたけど満足そうなので、とりあえずは良しとしよう。
「でも、困った。ううん、困ってる」
「困ってる?」
「うん。これからもっと暑くなって、総一郎の匂いがどんどん濃くなる。そしたら私、我慢できなくなって皆がいる前で嗅いじゃうかも」
「そ、それは困るな……」
「困るね」
これも嬉しいけど、複雑すぎる気分だった。
大好きな人が自分の匂いを好んでくれているなんて最高だけど、それはそれとして今のこの秘密の関係をバレる訳にはいかなかった。
風紀委員としての立場、そして誰もが憧れる孤高の狼姫の立場から、咲蓮が甘えん坊でハグと匂いフェチな子犬姫だとバレてはいけないのである。
そもそも、下校時間ギリギリの教室で密会をして抱き合っている時点でかなりアウトだ。最悪の場合、不純異性交遊扱いされて停学……最悪の場合退学になりかねない。
俺はともかく、咲蓮は絶対にそんな目に合わせたくなかった。
「……なら、満足すれば良いんじゃないか?」
「満足?」
そんな俺に、天啓が降りた。
それは先ほどむせたけど満足そうだった咲蓮を見て閃いたのである。
無理に我慢をすると後で反動が来てしまうし、学校生活が今日のようにかなりぎこちなく歪になってしまう。
「ああ。放課後だけじゃなく、早朝にもご褒美タイムを作るんだ。この前の、日直の日みたいな感じでな」
「……!!」
だったら、先に満足させてあげればいい。
俺の提案に咲蓮は、切れ長の瞳を期待で大きく見開き輝かせた。
「良いの?」
「俺は構わない。だけど当然、毎日かなり朝早く学校に来る必要がある。分かっていると思うが、誰にも見られてはいけないからな」
「大丈夫。早起きは、得意」
ふんすと鼻息が荒くなる。
それでも表情は崩れないのだから、凄いと思った。
「なら、決まりだな」
「うん。約束」
そう言って咲蓮は俺に左手の小指を立てて差し出してくる。
まさか高校生になって指切りの約束をするとは思っていなかった。
でも咲蓮とする約束なら、大歓迎だ。
「ああ、約束だ」
そして俺も小指と立てて咲蓮の小指にひっかける。
同じ小指でも咲蓮の小指は細く綺麗で、だけどしっかりと俺の小指に絡める力は強かった。
「総一郎。明日からも、よろしくね」
「おう。こちらこそよろしくな」
指切りで約束をした俺たちはそっと小指を離し笑い合う。
俺を見上げる咲蓮の顔は、小さく、だけど嬉しそうに微笑んでいた。
「じゃあ、総一郎」
「ん?」
「今日のだっこ、お願い」
「はあ!?」
そして、俺に両手を広げて、いつものようにハグを要求して来た。
「さ、さっきしただろ!?」
「……むぅ。さっきのは、総一郎の匂いを嗅いだだけ。それに総一郎からぎゅってしてもらってない」
「だ、だけどもう時間が……」
「近寄らないでって言ったのに、何度も近づいてきた。誘惑に耐えるの、すごく頑張った。お弁当あるのに、学食で食べるしかなかった」
最初はただのゴネかと思ったら、かなり正当性がある反撃をしてきた。
それに俺が勝てる可能性はゼロである。
だって実際に逃げる咲蓮を追いかけ回したりしたのだから。
「……ほら」
「うん。これこれ、待ってました」
俺は正面から、咲蓮の華奢な身体を抱きしめる。
女の子の柔らかい身体の感触が全身に伝わってきた。
かなり温かく感じるのは初夏の暑さのせいだけじゃないだろう。
ブレザーが無くなって、ワイシャツ越しだけどより直接的に咲蓮を感じる。
目下には綺麗な灰色の髪、そこからは甘い匂いがして、身体で感じる極上の熱と柔らかさ。
「総一郎の匂い。好き」
そして最後に、幸せそうな呟きが聞こえて。
俺の五感の半分以上が、咲蓮で埋め尽くされたんだ。




