第八話 奇襲
更新が遅くなりすみません。
黎明騎士団による地下鉄跡地への突入作戦が開始される、数時間前のことだった。
薄闇に包まれた地下鉄の構内。崩れかけたコンクリートの天井から滴る水音が、ひっそりとした空間にわずかな生命感を与えていた。
その空間の一角――鉄と煤に汚れた冷たい床の上で、アーシャリアは黒き獣の温もりに包まれていた。
彼女の身を守るように横たわるのは、メルと呼ばれた巨大な漆黒の狼。
人の背丈を優に超えるその獣は、まるで絹糸のように滑らかな毛並みでアーシャリアを優しく覆っている。
その体温は人よりも高く、鼓動はゆったりとして穏やかだった。まるで世界の混乱を遮断する結界のように、彼女を静けさで包み込んでいた。
そんな彼女の眼前――わずかに煤けたホームの縁に腰を下ろし、床に寝転ぶような姿勢でいたのは、エクリティアだった。
無防備な格好にもかかわらず、どこか余裕と貫禄を感じさせるその態度は、彼女がただの幻でも妄想でもない“本物”の異端であることを確信させる。
その赤い瞳には人間の常識では測れない“何か”が宿っているように感じられた。
「それで……具体的にはどのような作戦で行こうと考えているのですか?」
アーシャリアは静かに問いかけた。その声にはまだわずかな戸惑いが混ざっていたが、それでも以前より遥かに芯が通っている。
自らの意思でこの“何か”に向き合おうとするその姿勢は、修道女としての祈り以上に強く、確かなものだった。
エクリティアはアーシャリアの言葉を聞くと、小さく肩をすくめながらも、愉快そうに息を吐いた。そして、片肘をついたまま寝返りを打つように体を動かし、指先で床の塵を払いながら言葉を紡ぎ始める。
『お前の記憶の断片――正確には“共有された記憶”って言うべきか。あれのおかげで、同胞が捕らえられている施設の概要や配置はある程度把握できた』
『あの政庁に直に乗り込むなんて、正面からやってたらまず不可能だけどね。だから、余たちが打てる手は限られてる。手段はただ一つ――“奇襲”さ』
「ですが……いくら奇襲を仕掛けたところで、それだけで崩せるとは……。神聖監理庁の政庁は、極東エリアの中枢ですよ。黎明騎士団の本拠地でもあって、防衛も厳重です。ただの奇襲で打開できるほど、甘い相手では――」
言葉を重ねるアーシャリアの声音には、明確な懸念が含まれていた。
騎士団で育ち、教会の秩序を間近で見てきた彼女だからこそ分かる。
そこは“ただの建物”ではない。神と秩序の名のもとに、完璧に構築された防衛拠点なのだ。
攻め入るなど、狂気の沙汰――理屈だけなら、そう断じてもおかしくなかった。
しかし、そんな彼女の懸念を見透かすように、エクリティアは不敵に微笑んだ。
彼女はゆっくりと体を起こし、膝を折ってアーシャリアの傍へと歩み寄る。その動きは獣のように静かで、まるでこの空間そのものと同化しているかのようだった。
そして、エクリティアはアーシャリアの隣に腰を下ろし、そっと目線を合わせる。
真紅の瞳が、淡い紫の瞳をまっすぐに見つめた。
『……確かに、ただの奇襲じゃ崩れない。お前の言う通りだよ。政庁は教会の誇りであり、秩序の象徴。そこを壊すというのは、神の城に火を放つようなもんさ』
『でもね――“神”がいない城なんて、ただの飾りだよ』
彼女の声は囁きにも似ていたが、その響きはなぜか心の奥底に深く沈み込むような重みを持っていた。
『こっちは奇襲と同時にある演出を仕掛ける。大衆の目を引く炎と、象徴を揺さぶる破壊を用意するためには下拵えが大事だ。余たちの目的は勝つことじゃない。見せつけることだよ。あそこに囚われている同胞たちに、自分たちが見捨てられていないってことを。そして、あの塔に胡坐をかいてる奴らに、神の敵はまだ地上に残っていると知らしめるためにね』
その口元に浮かぶ笑みは、美しくも残酷だった。アーシャリアは、ただ静かにその言葉を聞いていた。メルの鼓動が静かに彼女の背中から伝わる。
今、彼女は選択の渦中にいる。
ただの修道女として、教会の秩序の中に生きるか――それとも、自らの中に眠る“力”と向き合い、何かを変える存在になるのか。
アーシャリアは、ほんのわずかに目を細めた。
その表情には、もうかつてのような怯えや迷いはなかった。
「……その同胞の方々も、戦いの場へと加わるよう、導くつもりなのですね?」
アーシャリアの問いかけには、微かな緊張と共に、責任への自覚がにじんでいた。
彼女はまだ迷いながらも、この異常な事態に自らの意志で歩を踏み出しつつあった。
“血族”という未知の存在、そしてその一員となった自分が、これから何をすべきか――それを確かめるような眼差しで、目の前の“もう一人の自分”を見つめる。
その視線を受けながら、エクリティアはほんの少しだけ肩をすくめるような仕草を見せた。
彼女の赤い瞳は、どこか遠い過去を見つめるかのように淡く揺れていた。
『どうだろうね。それを選ぶのは、彼ら自身だよ。力を得た者が必ずしも剣を握るとは限らない。余たちが手を差し伸べるのはあくまで“檻”を壊すことであって、出てきた者が何をするかまでは縛れないさ』
冷静に、けれどどこか優しく語るエクリティアの言葉は、数多の戦いと別離を経た者だけが持つ静かな覚悟のように響いた。
そして、彼女はふっと表情を和らげ、言葉を続ける。
『でも――だからこそ、余たちは消耗戦に陥るわけにはいかない。その結果、誰か一人でも取り残されるようなことになれば、意味がない』
エクリティアの言葉と同時に、アーシャリアの視線が自然と移った。
そこにいたのは、彼女の体を守るように寄り添っていた大きな黒い影――柔らかな毛並みに包まれ、温かな呼吸を感じさせる巨大な狼、メル。
アーシャリアの紫の瞳と、メルの深紅の瞳が交錯する。
まるで心を読んだかのように、メルはゆっくりと頭を彼女に近づけてきた。
その鼻先がそっと彼女の肩に触れ、ふわりと息を吹きかけるように、甘える仕草を見せる。
「メル……」
思わずアーシャリアがその名を呼ぶと、メルは嬉しそうに細く尻尾を振った。ふわふわと揺れるその黒い尾は、まるで意思を持ったリボンのように宙を舞う。
彼の動きは大きく、威圧感を放つ身体とは裏腹に、まるで子犬のような愛嬌があった。
アーシャリアがそっと手を差し伸べると、メルはその動きにすぐさま反応し、彼女の頬へとやさしく顔をすり寄せてきた。ふわりとした毛並みが頬に触れるその感触は、まるで陽だまりの中に包まれているかのような温もりを持っていた。
それだけで、胸の奥を支配していた張り詰めた緊張が、ほんの少しだけ緩んでいくのを感じる。
目を閉じて身を預けるような仕草を見せるメル。彼の呼吸は穏やかで、その胸の動きはアーシャリアの鼓動と重なるように静かに寄り添っていた。
彼女がぎこちなくも毛並みに手を滑らせると、メルは満足そうに細く尻尾を揺らし、さらに甘えるように身体を彼女に押しつけてきた。
その様子を、傍らで静かに見守っていたエクリティアが、口元にふっと微笑みを浮かべた。
気配を柔らかく変えながら、実体を持たぬその手をメルの背に当て、まるで本当にそこに存在しているかのように撫でる仕草を見せる。
『……この子がね、今回の作戦において最も重要な一手となる存在だよ』
まるでその背にかかる掌から言葉を伝えるように、エクリティアは穏やかにそう言った。
『この無謀ともいえる作戦を、五分五分ではなく成功の可能性を半分以上に引き上げてくれる存在。この子の能力がなければ、正直言ってこの作戦の成功率は、限りなく低かったね』
その真剣な声に、アーシャリアは思わず目を見開いた。
メルの温かな体温に包まれていながら、彼がそんなにも重要な役割を担っていると知らされたことに驚きを隠せなかった。
けれど、同時にわずかな安心も芽生えていた。
危険に身を晒すことを前提とした作戦でも、彼の存在があれば、助かる可能性が確かにあると信じることができたからだ。
しかし、エクリティアの声はそこで再び、少しだけ鋭さを帯びた。
『ただし、勘違いしてはいけないよ。この子に無理をさせることは絶対に許されない』
その目がアーシャリアの瞳を真っ直ぐに捉える。
『お前の影響で、メルは本来必要とする“血”をあまり摂らなかった。お前に寄りすぎたせいかね。だから、この子は奇襲と脱出の“要”ではあって、戦線維持のための駒じゃない。使い潰すような真似は、絶対に禁止だ』
――その言葉には、かつて彼女が何か大切なものを失った者であるかのような、強い戒めの色があった。
アーシャリアは、何も言わずに静かに頷いた。
その顔には、覚悟と緊張がせめぎ合いながらも、微かに灯った決意の色が浮かんでいた。
自分がこれから向かうのは、信じてきたものへの背反。
神に仕える修道女として日々祈りと奉仕に捧げてきた日々に、明確な終止符を打つ行動。
教会という、自身の家であり、よりどころであり、すべてだった存在に対して――剣を向ける。
同時に、それが誰かを救うための選択であることも、否応なく心の中で理解していた。
「……っ……私なんかに……できるのでしょうか……」
思わず漏れたその言葉は、囁くように構内に響き、すぐに静寂に溶けていった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚。
鼓動が早まり、冷たい不安が全身を包んでいく。
その時だった。
『何を緊張して、縮こまっているんだい、お前は』
突然、耳元に響いた声に驚き、アーシャリアは小さく息を呑んだ。
振り返ろうとした瞬間、さらに追い打ちをかけるように声が重なる。
『お前が反応しなかったからだよ』
「え……?」
目を見開く彼女の前に、いつの間にかエクリティアの姿が現れていた。
ふわりとした気配と共に歩み寄ると、彼女はそっとその手を、アーシャリアの頬に添えた。
幻のように非実体のはずの彼女の手が、確かに“そこにある”と感じられた。冷たくもなく、熱すぎることもない、優しさに満ちた、安らぎの温度。
その手は、まるで母のように、かつて誰かが与えてくれた愛情のように、アーシャリアの不安を包み込んだ。
『大丈夫。お前なら最善の道を選べるよ。余なんかよりもはるかに優しい子なんだから。自身を持つといい』
その言葉は、まるで祈りよりも強く、教義よりも深く――まさしく心の奥底に直接届く“真実の響き”として、アーシャリアの胸を打った。
それは誰かに赦される言葉でも、誰かのために唱える信仰の言葉でもない。ただ、自分という存在を肯定するためだけの、優しい温もりだった。
何かが胸の奥でほどけていく。
これまでずっと握りしめていた“恐れ”や“疑念”、あるいは“後ろめたさ”――それらが、ゆっくりと、しかし確かに解けていくのを感じた。
安堵という感情が、ふいに波のように押し寄せ、視界が滲む。けれども、アーシャリアは目をそらさなかった。
不意に潤んだその瞳からは、まだ涙はこぼれない。
泣いてしまえば、揺らいでしまいそうだった。だから、今だけは――この決意が崩れてしまわないように、強くあらねばならないと、自らに言い聞かせる。
この想いは、いま心に灯された火だ。弱くてもいい。小さくてもいい。でも、絶対に消してはいけない。そう決めていた。
『さあ、奇襲を開始しようか』
エクリティアの声が、静かに、しかし力強く響く。それは命令ではなく、共に進む者への“合図”だった。
「……はい。頑張ります。いいえ、やり遂げてみせます」
アーシャリアは、震える呼吸をひとつ整えてから、強く頷いた。
その瞳はすでに迷いを脱ぎ捨て、芯の光を宿していた。
一度、深く瞼を閉じ、もう一度ゆっくりと目を開いたとき――そこにあったのは、もはや“ただの修道女”ではなかった。
それは、自らの意志で戦うことを選んだ者の眼差しだった。傷つき、悩み、恐れながらも、それでも誰かを救いたいと願う強さが、瞳の奥で燃えていた。
その光は、誰よりも弱く、誰よりも強い。
そして、それこそがアーシャリアという少女の本当の強さの証だった。
♰
そして現在――。
神聖監理庁極東セクター政庁本部。
それは、この地における教会の支配と秩序の象徴とも言える巨大な要塞だった。
鉄灰色の外壁はおよそ二十メートルの高さを誇り、冷たい無機質な素材で成形されたその表面は、まるで人間の感情を拒絶するかのように鈍く、そして無情に光を反射していた。その壁の内側には、天を衝くような複数の巨大構造体――塔と管制ビルが林立し、まさに城塞都市そのものの様相を呈していた。
しかしその荘厳なる構造物も、いまや地獄絵図と化している。
突如として吹き上がった爆炎が、城壁を乗り越えて天へと噴き上がり、赤々と燃える炎の舌が夜明けの空をも照らし返す。
立ち昇る黒煙は激しくうねり、まるで憤怒に燃える魔物の咆哮のように空気を揺らしていた。舞い上がる火の粉が風に乗って敷地全体へと飛び火し、複数の補給施設や車両庫の一部も次々と着火されていく。
この政庁本部には、対キマイラ戦闘を前提とした軍事資源が大量に保管されていた。
地下の兵站倉庫には弾薬、次世代型の燃料、果ては機密指定の大型爆薬さえも備蓄されており、そのすべてが“必要ならばこのエリアごと焼き尽くすため”に用意されている。
当然、それらの物資が集積された一帯は政庁内でも最も警備が厳重に敷かれていた。
監視装置、感知式の自動砲台、そして選ばれた精鋭の騎士たちによる警備――そのすべてが、この区域の無謬性を保障するはずだった。
だが、その“万全”は、この朝に限って脆くも崩れ去った。
それは偶然でも、失策でもなかった。
黎明騎士団の主戦力が“吸血鬼の討伐”という至上命令により出払ったことは、政庁の防衛上、致命的な穴を作ることとなったのだ。
それでも、たとえ守備が手薄となろうとも、この施設を単独で突破できる存在など、本来あり得るはずもない――はずだった。
しかし、そこに現れたのは、人の理から逸脱した者――千年の封印を経て蘇った吸血鬼、エクリティアだった。
燃え盛る火の中を、彼女はまるで“舞うように”進み、数々の防壁をものともせず突き破り、警備兵を沈黙させ、構造物の要所に次々と血の爆撃を展開していった。
それは“侵攻”ではなく、もはや“処刑”だった。
そしてそれらは、まるで彼女の足取りに呼応するかのように、時間差で次々と炸裂し始めたのだ。
まさにそれは、ただの襲撃ではない。
教会の牙城に対する“宣戦布告”そのものだった。
騎士たちが銃の引き金を引くその刹那には、すでに意味をなしていなかった。
一閃。
それはまるで赤い稲妻のように、エクリティアの手にした血の大剣が空を裂いた。
音すら届くよりも早く、鋼鉄の鎧ごと騎士たちの肉体が二つに割れ、首と胴が違う方向へと崩れ落ちる。
赤い霧が、朱の雨となって空間を濡らしていく。
敷地内は瞬く間に鮮血の霧に包まれ、火柱が天に昇り、黒煙がそれに追いすがるように空へと噴き上がった。
炎と灰が舞う混沌の中に、ひときわ眩く立ち尽くす白銀の影がある。
アーシャリア――いや、今は彼女の肉体を借りて動く、“何か”が自らが生んだその惨状を見届けていた。
その白銀の髪は、爆風と熱風にたなびきながら揺れ、彼女の瞳にはただ一色、深紅の光が宿っていた。
それは宝石のように美しくもありながら、底知れぬ空虚を映し出す、冷たい無の輝きだった。
破壊も、殺戮も、彼女にとっては意味をなさなかった。
悲しみも、怒りも、すでに遥か昔に置き去られた感情だった。
その虚ろな心の奥に、ひとりの少女――アーシャリアの意識が小さく揺れていた。
本来であれば、罪悪感や拒絶、あるいは恐怖といった人として当然の感情があって然るべきだった。
けれど、実際には違った。
アーシャリアの内心には、痛みも、憐れみも浮かんでこない。
まるで感情の器そのものが空っぽになったかのように、ただ淡々と、冷ややかに状況を“見て”いた。
この光景は自分の目で見ているはずなのに、どこか現実感が希薄だった。本のページをめくるように、あるいは舞台の幕の裏から観客のように。
自分の身体が自分のものではないような、そんな奇妙な乖離感が彼女を覆っていた。
(……本当に……人を殺しているのに)
小さく、震える意識の中でそう呟く声があった。だがその声も、彼女の心に届くことはなかった。
無表情に、無感情に――アーシャリアは、あるいはエクリティアは、再び右手を振るう。そのたった一撃で、複数の騎士たちが吹き飛ばされ、肉と血を撒き散らして地に墜ちる。
鮮血が舞い、肉片が地に転がり、金属音が虚しく響いた。
だが、その中で最も静かだったのは、アーシャリア自身の心だった。
『何を一体、恐れているんだい?』
それは、耳元ではなく心の深層に直接響く声だった。静寂に包まれた時間の中で、エクリティアの声がやわらかく木霊する。彼女の声音には、どこか幼子を諭すような温もりと、しかし同時に本質を突く鋭さがあった。
けれど、アーシャリアはその問いにすぐに答えることができなかった。
唇はかすかに震え、胸の奥が張り詰めたように痛む。自分が今どれほどの恐れを抱いているのか、それすら明確に言葉にできず、ただ感情の渦の中で呼吸すらままならない。
それを察したように、エクリティアは少しだけ声色を和らげた。
まるで、自分の手で抱き上げた子どもを安心させるかのように、慈しみに満ちた調子で続ける。
『……今のお前は、余と深く繋がっている。だから、余が見てきたもの、余が抱いてきた感情、その全部が、お前の心にも静かに染み込んでいくんだ。
だからこそ……何も感じないのは当然なんだよ。余の“無”が、お前を包み込んでいる。
決して――お前に心がないからではないんだ』
その優しさは、刃にも似ていた。
アーシャリアは、小さく目を伏せた。
重い瞼の奥で、見開かれた瞳は小さく震えながらも、涙はこぼれない。ただ堰き止めたまま、言葉を絞り出すようにして静かに声を紡ぐ。
「……だとしても……たとえそれが、貴女の感情であったとしても……私は……私には……」
言葉が詰まり、喉が震える。
「……貴女が……そうして……心を殺してしまうのが――それが、私には……何よりも、恐ろしいんです……」
言い切ったその瞬間、アーシャリアの声は掠れて消えた。
自分の心が、ほんの少しでも動いたことに、安堵すべきなのか、絶望すべきなのか――その答えすら、今の彼女には分からなかった。
エクリティアはその言葉を聞いた瞬間、ふと沈黙する。
赤い瞳が静かに細められ、どこか遠くを見つめるような眼差しが、ほんの一瞬、揺れた。
彼女の沈黙は、叱責でも、肯定でもない。
ただ、想定していなかった感情に触れた者の、静かな困惑と、かすかな……懐かしさのような何かだった。
しかし、それはほんの一瞬の逡巡に過ぎなかった。
思考は脳裏に波紋のように広がるも、身体は迷いなく動いていた。もはや、思考と行動が分離しているような錯覚すら覚える。
それほどまでに、アーシャリアの心と肉体は今、エクリティアと深く、密接に結びついていた。
目の前に立ちはだかるのは、巨大で重厚な鉄の扉だった。
窓ひとつなく、冷たく無機質に閉ざされたその扉の向こうには、彼女が探し求めていた“何か”が確かに存在していた。
それは、血の繋がり――。
目には見えないが、確かに感じる。その向こうに、自分と同じ“何か”が囚われている。震えるような共鳴が、骨の奥底から響いていた。
『……さあ、ここからが正念場だよ』
エクリティアの声が、ふっと脳裏を撫でるように響いた。
その口調は、軽やかでありながらも、芯には緊張と覚悟が滲んでいた。
『これから先は、一瞬の迷い、ほんの僅かな感情の揺れが命取りになる……がんばっておくれよ、アーシャリア。余が選んだ、器としての――お前に』
その言葉に、アーシャリアは静かに頷くと、深く息を吸い込んだ。
緊張で強張った喉から、しかし力強く――。
「はいっ!」
その一言とともに、両手に握られた血の大剣を高く掲げ、真下へと勢いよく振り下ろす。
まるで雷が落ちたかのような轟音と共に、巨大な鉄の扉が無残にひしゃげ、中心から亀裂が走ったかと思えば――次の瞬間には爆風を伴って吹き飛ばされていた。
重厚な扉が地響きを立てて崩れ去る中、アーシャリアは一歩も立ち止まることなく、その奥へと進んでいく。
高ぶる心臓の鼓動すら、自身の足音にかき消される。冷たく澄んだ視線の奥には、静かな闘志が宿っていた。
そして――。
彼女が足を踏み入れたその先で、目にした光景は、
かつて神の名の下に正義と信仰を掲げた教会が秘匿していた“真実”そのものであった。
アーシャリアは理解してしまった。
今まで信じ、祈り、仕えてきた教会――その本質が、彼女の思っていたものとはまるで異なるものであることを。
それは信仰の裏に隠された“業”だった。