第七話 作戦開始
更新遅くなり申し訳ございません。
夜が明け、朝の光がゆっくりと街を照らし出す頃――本来であれば、通勤や朝市へと向かう市民たちで賑わうはずの街路は、いつもとは異なる緊張感に包まれていた。
通りには、軽装の鎧に身を包んだ騎士たちが列をなし、無言のまま鋭い眼差しで周囲を警戒しながら巡回している。
装甲車が幾台も唸りを上げながら街中を走り抜け、その動きに合わせて各所に設けられた検問では、住民一人ひとりに対する厳重な確認作業が続けられていた。
教会の名のもとに布告された外出制限が通達され、通りの掲示板や巡回する兵たちの声が、繰り返し「不要な外出を控えるように」と市民に訴えている。
加えて、不審な人物の目撃情報を求める広報が絶え間なく流れ、街全体がまるで戦時下のような緊迫した空気に包まれていた。
太陽の光が差しているにもかかわらず、どこか沈んだ雰囲気を纏う街。
そこには、人々が決して知らないままでいたほうがいい、異変の影が静かに、しかし確実に広がりつつあった。
その現場に、ひときわ異彩を放つ一台のリムジン型装甲車が静かに姿を現した。
艶やかな黒の装甲には、神聖監理庁の紋章が誇らしげに刻まれ、まるで貴族の騎馬が大地を踏みしめるかのように、重厚な足取りで検問区域の中央へと進んでくる。
その存在感は街の喧騒をひととき封じ、周囲で任務にあたっていた騎士たちが次々に敬礼の姿勢を取るほどだった。
停車するとすぐに運転席から一人の騎士が降り立ち、無言のまま後部座席の扉を開ける。
そこから現れたのは、まだ若さの残る端正な顔立ちの青年――短めに整えられた茶髪が朝日を反射して淡く揺れ、冷静で鋭い眼差しがすべてを見据えるように街を見渡した。
この男こそが、今ここに集まった騎士たちを統括する者であり、黎明騎士団の現団長、オーレオル・クラウゼその人である。
オーレオルは、このまたとない機会に内心で深く感謝していた。
吸血鬼という特異な存在の出現、教会施設の破壊、さらには本部直属の智天使騎士団の介入――どれを取っても騒動でしかないが、それらすべてが彼にとっては、栄光を掴む好機となり得たのだ。
クラウゼ家は、かつて教会中枢の一翼を担う本部騎士団の中でも、その名を知らぬ者はいないほどの名家であった。
だが、今から二百年ほど前、教会内部で勃発した権力争いに敗北したことでその地位を剥奪され、以降は辺境の管理や表に出ない雑務ばかりを命じられる、言わば“使い捨て”の家系へと堕とされた。
それ以降、クラウゼ家の人間は代々、教会中枢への返り咲き、そして最終的には教皇の座にまで辿り着くという悲願を密かに胸に抱いてきたのである。
そして、全世界の秩序を塗り替えた『大星災』の到来――この混沌が、クラウゼ家に再び巡ってきたチャンスであった。
オーレオルの父はこの混乱を利用し、教会の秩序を守る名目で民間のキマイラ狩りに精を出し、同時に各国の政治機関・軍部・宗教指導者の情報を密かに収集。
生存圏の支配権を確立しつつあった教会にとって、表に出せない“影の貢献者”として多くの評価を受けていた。
表立った功績としては認められなかったものの、オーレオルはその裏の記録をすべて知っていた。
父の意思を継ぐ者として、今度こそ己の代で名誉を取り戻し、地に墜ちたクラウゼの名を教会の頂点にまで押し上げる。
そのためには、たとえどんな手段を用いても、この“吸血鬼事件”を自身の手で解決しなければならない――そう決意していたのだ。
オーレオル・クラウゼは、冷たい風の中で静かに外套を翻しながら、騎士たちの間を歩き出した。
彼の瞳には、もはや迷いも憐れみもなかった。
ただ、復権への階段を踏みしめるという覚悟と、それを阻むすべてを排除するという強い意志だけが、そこにあった。
「クラウゼ騎士団長。近辺の捜索がすべて完了しました。そして先ほど、調査隊からの報告によって、旧地下鉄跡地付近にて吸血鬼の血晶反応の痕跡が確認されました」
報告に続いて地図を差し出す部下に、オーレオル・クラウゼは微かに頷きながら言葉を返す。
「……やはり、か。こういった連中が身を潜めるのは、当然こうした“死んだ土地”だろうな」
静かに目を細めた彼の瞳には、すでに次の行動が描かれていた。
吸血鬼が出没する可能性がある地域を洗い出す際に、黎明騎士団の討伐本部が早朝に設置した作戦会議でも、この旧地下鉄区域は最も有力な潜伏候補地の一つとして早々に挙げられていた。
理由は単純で、そこが“忘れ去られた闇”の象徴だからである。
旧地下鉄路線――それはかつて都市機能の一部として幾千もの人々を乗せて走っていた公共のインフラであり、日々の生活を支える動脈だった。
だが、大星災の激震によってそのほとんどが瓦礫に埋まり、崩落の危険から封鎖区域に指定されて以来、人々の記憶からも消え去った“空白の地”と化していた。教会による復興事業の対象からも外され、ほとんどの区域では行政の管理も及んでいない。まさに、闇に生きる者たちにとっては格好の隠れ家と言える場所だった。
教会は長きにわたり、吸血鬼たちを追跡・討伐するために幾つもの専用の技術を研究・開発してきた。
その中でも特に効果的とされたのが、吸血鬼特有の器官である「血晶」のエネルギー漏出を感知する装置である。
この血晶とは、吸血鬼の心臓の裏側――人間の生理構造とは異なる位置に形成される特異な結晶体の器官で、吸血鬼が吸収した血液から生成した力を蓄積・循環する核であり、彼らの力の源でもある。
どんなに隠れていても、血晶からは微量ながらも確実に特有のエネルギーが漏れ出す。
それを視覚化するのが、教会の聖工房が開発した希少な鉱石――《リトル・ロドライト》である。
この鉱石は、通常はただの曇った結晶にしか見えないが、血晶から放たれる波長にだけ反応し、淡く赤い輝きを発するという性質を持つ。
この鉱石を搭載した探査装置によって、教会の捜索隊は闇に潜む吸血鬼たちの足跡を確実に辿ることができるようになった。
そして今、この装置が感知した確かな反応が、旧地下鉄跡から検出されたのだ。
その報告は、クラウゼにとって何よりの朗報だった。自らの名を再び教会の頂点に押し上げるための手柄——その機会が、いま目の前に現れたのだ。
「地下の潜伏経路を確認しろ。すべての出入口を封鎖し、包囲を固める。……今回の敵は、ただの覚醒者ではない。油断するな」
その声に、周囲の騎士たちは一糸乱れぬ敬礼で応える。
その目には、ただ一つの目標――“直系”の討伐を為し遂げた己の姿が映っていた。
黎明騎士団の精鋭たちは、夜明けと共に旧地下鉄跡地へと続く複数の通路に展開された。
それぞれの分隊は厳密な間隔と陣形を保ちながら、慎重かつ迅速に地下へと続く複数の侵入口を封鎖。作戦はあらかじめ練り上げられ、内部への突入と制圧を並行して行うことで、標的である吸血鬼の逃走を完全に阻む構えだった。
「対象は旧教会に所属していた修道女、アーシャリア。現在は直系の吸血鬼と推定される危険存在。各班、接触後は即時排除を最優先とする」
騎士たちの耳に届いた指揮官の低い声が、地下に響く緊張の空気をさらに引き締める。
騎士たちは皆、重厚な外套と軽量化された機動鎧を身に纏い、自動小銃《L-AR7 セラフィム・ランス》を構えながら無言で頷いた。
彼らが相対する“直系”とは、千年に及ぶ教会と吸血鬼との戦いの中でも、ごくわずかな存在として記録に残されている脅威の一族だ。
だが今回の標的は、覚醒して間もない吸血鬼であり、しかも先日の戦闘においてかなりの力を消耗していることが判明している。
膨大な血の力を行使する吸血鬼にとって、血液はエネルギーであり命そのもの。
十分な血を摂取できていない個体は、いかに直系といえども、その本領を発揮することは不可能だとされていた。
教会が定めた基本戦術の一つ――“飢えた吸血鬼は無力である”という理論に基づき、オーレオル・クラウゼは今回の突入作戦を練り上げていた。
対象はただの吸血鬼ではない。あろうことか、教会の神聖な教義と民の信頼を象徴する修道女としての面を持っていた。
ゆえにこそ、これ以上の放置は許されなかった。裏切りの存在として、血によって蘇ったその者を、この地で確実に処分する必要がある――そのために集められたのが、黎明騎士団の中でも選抜された最精鋭の部隊だった。
「……敵は疲弊している。決して焦るな。こちらの優位は揺るがない。各自、神に祝福を祈りつつ任務を果たせ」
オーレオルの命を受けて、全隊が同時に地下への進軍を開始する。
地下鉄の構造を知り尽くした探索部隊の支援により、複数の通路から同時に侵入することで、包囲と奇襲の両方を成す完璧な戦術が展開されようとしていた。
その先に潜むのは、未だ未知数の力を秘めた存在。
だが騎士たちは信じていた。
自らの教義と正義、そして神の御名にかけて、どれほどの怪物が現れようとも、自分たちがそれを討ち果たすと――。
「――突入せよ。生け捕りが望ましいが、それが難しいのなら、完全消滅させよ。重要なのは“映像”だ。記録に残すことが何よりも優先される」
黎明騎士団の指令室に響いた、オーレオル・クラウゼ騎士団長の冷静かつ威厳に満ちた命令が、即座に各部隊へと伝達される。
そして、その号令を皮切りに、地下鉄跡に接続するすべての通路から、騎士たちが一斉に突入を開始した。
音もなく駆け出す騎士たちは、視界の悪い地下の通路を、まるで訓練された猟犬のように正確な陣形で進んでいく。
全身に纏った機動鎧が鈍い光を跳ね返し、手にした聖式小銃には常に発砲の準備が整えられている。
誰一人として言葉を発する者はいない。あるのは沈黙と、数秒ごとに発せられる隊長の短い確認の声だけだ。
突入から数分――どの隊からも、敵と接触したという報告は上がってこなかった。
地図上に表示される各部隊の進軍状況は順調そのもので、地下の広大な空間を縦横無尽に駆け抜けながら、何の障害も受けることなく内部を制圧していた。
《こちら第一分隊、抵抗なし。進入路周辺を確保》
《こちら第三分隊、異常なし。血晶反応は微弱化傾向》
《第四分隊、敵性存在未確認。進行続行》
各分隊から届く報告に、クラウゼは小さく息を吐いた。
その端正な顔には、いくばくかの安堵と、抑えきれない確信が浮かんでいた。
(やはり、こちらの推測は正しかった。再覚醒からの急激な力の行使で、体力を使い果たしたか…)
かつて“直系”と呼ばれる吸血鬼の脅威が記録に残された時代でも、覚醒直後の個体は血の供給が足りず、力を持て余したまま自壊に至る例も少なくなかった。
ならば今回も、まだ“未成熟”の段階にあるはずの標的――アーシャリアを仕留めるには、このタイミングが最適だ。
(迎撃用の罠すら設置できないほどに、消耗しているということか。ならば、好都合だな)
無駄に戦力を削る必要もない。無駄な被害も出ない。
これほど理想的な状況はなかった。
できることならば、生け捕りとしたい。
その理由は明白だ。吸血鬼という存在は、人類にとって滅すべき怪物であると同時に、研究資源としての価値を持つ“貴重なサンプル”でもあるからだ。
(吸血鬼たちは我々にとって“脅威”であると同時に、“必要不可欠な資源”でもある)
その血、その力、その秘密。
すべてを解析し、神の御技に変えるために――教会は幾世代にも渡って、吸血鬼の存在を“表向きには敵対しながら”、裏ではその力を利用し続けてきた。
クラウゼもまた、その真実を知る一人。
かつて本部騎士団に連なる貴族家系として、彼の一族が担っていたのはまさに“吸血鬼管理”という闇の任務だった。
「さて、あとは姿を見つけ、仕留めるだけだ…」
薄く笑みを浮かべながら、クラウゼはその場に設けられた仮設指令台の前で腕を組んだ。
彼の目は既に勝利を確信していた。
神の名のもとに、教会の栄光のために、すべては予定通り――そのはずだった。
だが、次にクラウゼの耳に届いたのは、彼が想定していた展開とはまったく異なる、想定外の報告だった。
《……目標、発見されず》
《各部隊、地下全域を捜索中ですが、逃走の痕跡すら確認できません》
《血晶反応は確かに現場で感知されました。しかし、反応源となる本体が、いない……いません!》
立て続けに響く通信機越しの困惑と混乱に満ちた声。
それは精鋭と呼ばれる騎士たちから発せられたものとは思えないほど、確信を失った不安と苛立ちに満ちていた。
作戦は完璧だった。包囲も封鎖も万全、逃げ道など一切存在しないはずだった。それなのに――。
「……馬鹿な……なぜだ……なぜいない……」
クラウゼの表情から、瞬く間に余裕と自信が消え失せていく。
先ほどまで指揮所の中心で毅然と立っていた彼の姿は、今や困惑と焦燥に包まれた一人の男へと変わっていた。
脳内で、ただひとつの問いが何度も繰り返される。
どこに消えたのか――たったそれだけの疑問が、嵐のように思考をかき乱していく。
奴は確かにそこにいたはずだ。血晶反応もあった。痕跡もある。にもかかわらず、姿がない。誰一人として接触すらできていない。
理性と理屈が、現実を受け入れられずに暴走する。その異常性に気づきながらも、彼の身体は自然と車体の傍に寄りかかっていた。
足元が揺らぎ、頭痛のような重苦しい感覚が頭を締め付ける。
目の前の現実は、あまりにも静かで、あまりにも不自然だった。それはまるで、最初から誰もそこにいなかったかのように。
いや――“いるべきものがいた形跡”だけが、意図的に残されていたようにさえ思えた。
(……まさか……こちらの動きを読んで……)
その瞬間、クラウゼの脳裏に、先程の“血晶反応”という報告がよみがえる。
反応があったというのなら、それは残滓か、あるいは――“囮”だったのではないか。
「クソッ……!」
怒りとも焦りともつかない声を漏らし、クラウゼは拳を車体に叩きつけた。
打ち付けられた拳の震えが、彼の焦燥と混乱のすべてを物語っていた。
吸血鬼――あれはただの化け物ではない。
こちらが“狩る”側だと思い込んでいたその慢心を、まるで嘲笑うかのような完全な“消失”。
この瞬間、オーレオル・クラウゼは理解した。
自らが、敵の掌の上に立たされていることを――。
その瞬間、空気を切り裂くような轟音が大気を揺らし、はるか後方から巨大な爆発音が鳴り響いた。
突如として巻き起こる衝撃波に周囲の空気すら震え、騎士たちの足元に敷かれた石畳が微かに揺れる。
音を聞いた刹那、クラウゼは顔を上げた。
――いや、向けずとも理解できていた。あの方向に何があるのか、それは疑いようもなく彼自身がよく知っている。
なぜなら、その場所こそ、彼がこの極東エリアを統べる者として日々指揮を執ってきた中枢――神聖監理庁本部。
黎明騎士団の誇るべき拠点、その中心核だった。
高台の先にあるその場所に、もはや威厳ある聖なる姿はなかった。
燃え上がる紅蓮の炎と空を覆い尽くす黒煙。
陽光を受けて揺らめくその炎の中に、突如として突き立った一本の柱――それは、空へ向けて突き刺さるように聳え立つ“血”の柱だった。
それを目にした瞬間、クラウゼの背筋を氷のような寒気が貫いた。
これはただの襲撃ではない。
明確な“宣戦布告”だった。
「本部ッ!何が起こったッ!」
怒号にも似た声が、周囲の騎士たちを震え上がらせる。
クラウゼは傍らの指揮卓に備え付けられた通信機に手を伸ばすと、迷いもなくそれを乱雑に引き寄せ、通話チャンネルを監理庁へと切り替えた。
だが、返ってくるのはただの静寂――否、静寂ですらない。耳障りなノイズが機械の奥から這い寄ってくる。
一秒、一秒が恐ろしく長く感じられる。
まるで永遠の時間を経てようやく繋がった通信先から、かすかに誰かの叫び声が届いた。
《……こちら……本部……襲撃……っ! 敵は……ッ!》
雑音混じりの騎士の声が断続的に響いたかと思えば、その直後、通信機越しに爆発音が混ざった。
――ズシャアアアッ!!という音とともに、通信は唐突に切断された。
その一瞬、指揮所内にいた全員が沈黙に包まれた。静寂が、恐怖の重みとともに場を支配する。クラウゼは通信機を強く握ったまま、顔を伏せた。
震える拳に、力がこもる。
(……まさか、これは陽動だったのか?)
(奴らは最初から、地下ではなく――“あそこ”を狙っていた……?)
自分たちの動きは読まれていたのか。囮に踊らされていたのか。
そう考えた瞬間、若き騎士団長の心にかすかに入り込んだのは、“戦術の敗北”という、最も認めたくない言葉だった。
オーレオル・クラウゼの表情は、燃え上がる神聖監理庁の炎に照らされ、次第に苦悶と怒りへと変わっていった――。