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第三話 崩れ去った日常

一万文字を超えちゃいました。

結構頑張りましたので、是非お楽しみに〜

「通り魔……ですか?」


 アーシャリアは、微かに眉を寄せながら、休息のために腰を下ろしていた訓練場で修道候補生ノビスの少女からの言葉を受けた。


 彼女はまだ若く、修道女となるための修行を積んでいる最中の見習いである。

 ノビスとは、一年から三年の間、修道生活を学び、正式な修道女となるための修業期間を過ごす者たちのことを指す。


 この少女は、二年前に修道志願者としてこの教会へとやってきた。

 同じ時期に修道院へ入ったアーシャリアとは、自然と先輩後輩のような関係になっていた。


 その彼女が、どこか不安げな表情を浮かべながら、落ち着かない様子で話を続けた。


 「ここ最近、教会の周辺で人が殺される事件が相次いでいるそうです。騎士団も巡回しているのですが、まだ犯人は見つかっていないみたいで……」


 その言葉に、アーシャリアはゆっくりと瞳を伏せた。


 数日前から、騎士団の動きが慌ただしくなっているのは知っていた。

 それは、外部の奉仕活動が突如として制限されるようになった理由の一つでもある。


 「通り魔……それは確定しているのですか?」


 静かに問い返すと、ノビスの少女は言葉を詰まらせる。


 「えっと……詳細はまだ分かりません。ただ……」


 彼女は少し言いづらそうにしながらも、絞り出すように続けた。


 「事件の被害者は、みんな同じ状態で見つかったそうです」


 アーシャリアは、無言のまま続きを待つ。


 「遺体にはほとんど傷がなく……まるで血が抜けたように、真っ青だったって……。」


 それを聞いた瞬間、アーシャリアの心にひやりとした感覚が広がる。


 血を抜かれたような遺体。

 その言葉には、奇妙な違和感があった。


 単なる通り魔の仕業なら、刃物による刺創や裂傷があって然るべきだ。

 だが、それらの痕跡がほとんどない――。


 (……何かがおかしいですね)


 騎士団の間では、今回の事件を"新種のキマイラによるものではないか"という説が浮上しているという。

 それに伴い、教会の周囲では巡回が強化され、夜間の外出制限が敷かれることとなった。


 「騎士団が、キマイラの可能性を考えているのなら……」


 アーシャリアは、思わず小さく呟いた。


 もし本当にキマイラの仕業であるならば、事態は単なる通り魔の比ではない。


 かつて大星災の時、人類を死の淵へ追いやった怪物たち。

 それがもし再び活動を始めたのだとしたら――その脅威は、計り知れない。


 事件の影響により、教会は日課として行われていた外部での奉仕活動を一時中止することを決定した。


 修道女たちは、騎士団からの指示に従い、しばらくの間は教会内での作業に専念することとなった。


 アーシャリアもまた、それに従い、余暇の時間を図書館や訓練場で過ごすようになった。


 普段であれば貧しい者たちへの施しを行い、病院や孤児院での奉仕活動に励んでいる時間帯。


 だが、今はそれもできない。


 「……静かですね」


 図書館の本棚に指を滑らせながら、アーシャリアはふと呟いた。

 外部との接触が制限されているせいか、教会の中はいつも以上に静寂に包まれていた。


 静かすぎる空間は、思考を研ぎ澄ませる。


 そして、どうしても頭から離れないのは――、


 通り魔の事件。

 血を抜かれたような遺体。


 (……ただの通り魔なら、いいのですが)


 だが、それが"そうではない"可能性を示唆するものは、既にいくつも揃っていた。


 異様な遺体の状態。

 明確な痕跡がほとんど残されていないこと。


 もし、キマイラではないのなら――この事件は、"何か別の存在" によるものなのではないか。


 そんな考えが、ふと脳裏をよぎる。


 (……まさか)


 しかし、その思考を振り払うように、アーシャリアはそっと本を開いた。


 今は、確かなことは何も分からない。


 だからこそ、安易に結論を出すのは早すぎる。


 (きっと、騎士団が解決してくれるはず……)


 そう思いながらも、胸の奥に残る得体の知れぬ不安は、拭い去ることができなかった。

 それは、まるで悪夢のようだった。


 ただの不安、ただの杞憂――そう思っていた矢先。

 衝撃的な報せが、朝も早い教会の空気を切り裂いた。


 「孤児院が……火事に……?」


 信じがたい言葉が耳に届いた瞬間、アーシャリアは全身が凍りつくのを感じた。


 それは、普段奉仕活動で訪れていた孤児院。

 いつも子どもたちの笑い声が響き、温かな灯がともる場所。

 彼女が大切にしていた場所。


 その孤児院が、夜の闇の中で炎に包まれ、燃え落ちたという。


 ――理解が追いつかない。


 「……私、行きます!」


 他の修道女たちが呼び止めるよりも早く、アーシャリアは駆け出していた。


 息が切れるほどに走った。


 朝の冷気が頬を刺し、心臓が喉元で脈打つのを感じながら、彼女はひたすらに孤児院を目指した。


 だが――彼女の目に映ったのは、


 かつて温もりに満ちていた孤児院の無残な焼け跡だった。


 「……っ!」


 灰色の煙がまだ立ち上る廃墟。

 炭化した木々の残骸が、瓦礫の山となって崩れ落ちている。


 そこに、生の気配はなかった。


 すべてが、炎によって焼き尽くされていた。


 彼女の足が震える。


 だが、それ以上に心を抉ったのは――庭に、整然と並べられた"それ"だった。


 布がかけられた、複数の遺体。


 まるで眠るように、いくつもの小さな身体が、沈黙の中に横たわっていた。


 アーシャリアは、何も言えなかった。


 呼吸が詰まる。


 目の前の光景が現実だと受け入れたくなかった。


 見なくとも、それが誰なのかは分かっていた。


 神父。修道女。そして、孤児たち。


 彼女が幾度となく手を取り、笑い合い、慈しんできた人々。

 "誰一人として"、生きてはいなかった。


 「なぜ……」


 喉の奥で、かすれた声が漏れる。


 何故、こうも唐突に、悲劇は訪れるのか。


 ――13年前も、そして今日も。


 彼女は、また何もできなかった。

 守りたかったものが、また目の前から奪われた。


 震える唇を噛み締める。

 冷たい風が彼女の頬を撫でるが、その痛みさえも、何も感じられなかった。


 心の中が、張り裂けそうだった。

 胸が焼けるように苦しい。


 しかし――アーシャリアは、涙を流さなかった。


 彼女は知っている。

 悲しみに沈んだところで、失われた命が戻ることはない。


 だからこそ。


 この痛みを、抱え続けなければならない。


 「……私が、泣いてはいけません」


 声に出すことで、自分に言い聞かせた。


 悲しいからこそ、背負う。

 悲しいからこそ、進む。


 もっと多くの人を救い、支えるために。

 同じ悲劇を、二度と繰り返さないために。


 この胸の奥にある痛みは、彼女が生きる限り決して消えることはないだろう。


 それでも。


 彼女は、進まなければならない。


 静かに息を整えながら、アーシャリアは、そっと胸元の十字架を握り締めた。

 祈りを捧げるように、誓いを立てるように。


 それが、自分にできる唯一の贖罪だと信じながら――。

 

 


 ♰




 孤児院の悲劇の後も、アーシャリアは休むことなく教会の奉仕に従事していた。


 普段なら他の修道女たちに任せているような雑務にまで手を伸ばし、いつも以上に精力的に働く彼女を見て、シスター・クレアレや主任司祭アルバス・プロディ・ティオは何度も休むように諭した。


 しかし――


 「私には、まだやるべきことがあります」


 彼女はそれ以上の言葉を交わさなかった。


 奉仕に没頭することで、心の痛みを忘れようとしているのは、明らかだった。

 修道女としての務めを果たすことで、失われた命への弔いとなるのなら――それが、今の彼女にできる唯一の贖罪なのだと信じていた。


 孤児院が炎に包まれた後、騎士団は教会に何の報告も寄こさなかった。


 通常であれば、教会に属する施設が襲撃や災害に見舞われた場合、その詳細な状況が聖職者たちにも伝えられる。


 だが、今回は一切の説明がなかった。

 それどころか、孤児院は厳重に封鎖され、外部の者は立ち入ることさえ許されなかった。


 そして――アーシャリアは見た。


 あの焼け跡の向こうに、見慣れない装いの騎士たちが現れたのを。


 (あの騎士服……見覚えがあります)


 彼女が聖都にいたころ、何度か目にしたことのある装束。

 それは、教会の本部直属の騎士団――。


 「……本部の騎士団の一団……」


 そのことを思い出した瞬間、彼女の胸に得体の知れない冷たい感覚が広がる。


 彼らはただの騎士ではない。

 教会の象徴であり、守護者であり、神聖監理庁の上位組織。


 "教会の脳であり、心臓"


 その名にふさわしい、最強の六つの騎士団。


 彼らの存在こそが、教会全体の秩序を保ち、聖郭騎士団を統制する教会の絶対的な意志である。


 熾天使セラフィム智天使ケルビム座天使オファニム主天使ドミニオン力天使ヴァーチャー能天使プリンシパリティー


 この六つの名を冠した騎士団が、教会の聖なる秩序を守護している。


 そして、今回孤児院に現れたのは智天使騎士団ケルビム・オルドの一団だった。


 "教会の見えざる手"――智天使騎士団ケルビム・オルド

 彼らについて知っていることは、ほとんどなかった。


 "教会の見えざる手"

 "異端を狩る者たち"


 それが、彼女が噂として耳にしたことのすべてだった。


 教会の中でも、彼らの活動は秘匿されている。

 一介の修道女であるアーシャリアにとって、彼らの実態は霧の向こうに隠された謎に等しかった。


 何を目的に動いているのか。

 何を守り、何を破壊するのか。


 彼らは、決して表舞台には立たない。

 それでいて、教会の意志の最奥に位置する存在。


 孤児院の封鎖。

 騎士団からの報告の欠如。

 そして、彼らの影。


 (……何かが、動いている……)


 それだけは、確信できた。


 だが、その"何か"の正体は、今の彼女には知るすべがなかった。

 アーシャリアは、無意識に胸元の十字架を握り締める。


 不安とも恐怖ともつかない感情が、じわじわと心の奥を蝕んでいくのを感じながら――。

 



 ♰




 その夜、再び悪夢を見た。


 アーシャリアは、激しい動悸とともに飛び起きた。


 「……っ、はぁ、はぁ……!」


 鼓動が乱れ、まるで体中が沸騰したような熱が駆け巡る。

 額にはじっとりと汗が滲み、息を吸うたびに喉が焼けるようだった。


 ――いつも以上に、苦しい。


 最悪な日に、最悪な夢。


 喉をかすめる息が震える。

 ひどく嫌な予感がした。


 アーシャリアはベッドの端に手をつき、熱に浮かされるような感覚を振り払うように、ゆっくりと体を起こした。


 冷たい夜風に当たろうと、彼女は薄手の寝着にケープを羽織り静かに部屋の外へと出た。


 だが――外は暗闇が支配していた。


 月は雲に隠れ、夜の闇が重くのしかかる。

 僅かな星の光が頼りない輝きを放つ中、教会の中庭は異様なまでに静まり返っていた。


 それでも、夜風に触れれば少しは楽になるかもしれない。

 だが、冷気が肌を撫でても、アーシャリアの体の熱は薄れなかった。


 「……どうして、こんなに熱いの……?」


 乱れる呼吸。

 胸の奥で燃え上がるような熱。

 それをどうにか鎮めたくて、彼女は夜の教会を彷徨い歩く。


 しかし――誰もいない。


 普段なら、夜間警備の騎士や祈りを捧げる修道女がいるはずなのに。

 今夜の教会は、異様なほど静まり返っていた。


 闇の中にただ一人、取り残されたような感覚が、アーシャリアの胸にじわじわと孤独を滲ませる。


 そして、その時――


 「……?」


 大聖堂の方から、何かの音が聞こえた。


 「こんな夜更けに……?」


 誰かがいるのだろうか。

 もしそうなら、少し助けてもらえるかもしれない。


 彼女は、大聖堂へと足を向けた。


 大聖堂の扉は、通常夜間には鍵がかけられる。

 開けられるのは、主任司祭アルバスが持つ鍵だけのはず――。


 だが――


 「……開いている?」


 わずかに開かれた扉の隙間から、闇が覗いていた。


 静かに、一歩近づく。

 重厚な扉に手をかけ、そっと押し開いた瞬間――鼻腔を満たす、異様な匂い。


 瞬間、アーシャリアの背筋に冷たいものが走る。


 「まさか……?」


 扉の隙間から流れ出たのは、夜の冷気とは異なる、重く湿った空気だった。


 大聖堂の中は、闇に沈んでいた。


 聖堂の奥に何があるのか。

 いくら目を凝らしても、闇の帳がすべてを覆い隠している。


 だが、確かに感じる。


 ――何かが、そこにいる。


 アーシャリアは、無意識のうちに十字架を握りしめた。

 鼓動が早まる。

 手のひらに滲む汗が、冷たい夜気に張り付く。


 この先に、何があるのか。

 それを知るべきなのか、知らぬままでいるべきなのか――。


 しかし、彼女の足は、もう止まることを許されなかった。


 ぬるりとした感触が、足裏を濡らした。


 アーシャリアは、瞬間的に息を呑む。


 「……これは……」


 灯りはない。

 しかし、鼻をつく鉄の匂いが、この液体の正体を雄弁に物語っていた。


 血――。


 足元から広がる生温かい感触。

 闇に沈んだ大聖堂の床を、赤黒い液体が覆っている。


 どれほどの量なのか分からない。

 ただ、彼女の足を一歩踏み出すごとに、微かに水音が響いた。


 その時――。


 バタンッ!


 背後で、大聖堂の扉が閉じた音が響く。


 アーシャリアの体が一瞬にして硬直した。


 (今の音……? まさか……)


 鼓動が、ひどく速くなる。

 背後に――何かがいる。


 分かっている。

 だが、振り返ることができない。


 本能が告げていた。

 振り向けば、そこに"何か"がいる。

 それを見てしまえば、決して無事では済まないと――。


 張り詰めた空気が、肌を刺すように冷たい。

 恐怖が、まるで霧のように彼女の全身を覆い尽くしていく。


 いつもの熱さは、もう意識の外だった。

 それどころではない。

 今、この瞬間、彼女の心を支配しているのは、圧倒的な"恐怖"だけだった。


 恐る恐る、足を進める。

 慎重に、慎重に――。


 目を凝らせば、大聖堂の最奥が見えてきた。

 そこには、荘厳なオルガンと、教壇が佇んでいる。


 だが――何かが、そこに横たわっていた。


 月明かりすら届かぬ暗闇の中、微かに見える輪郭が、彼女の瞳に映る。

 そして、それが何かを理解した瞬間――彼女の呼吸が止まった。


 主任司祭、アルバス・プロディ・ティオ――その亡骸だった。


 彼の顔は苦悶に歪み、その手はまるで何かにすがるように伸ばされていた。


 「……そんな……」


 言葉が出なかった。

 まるで時間が止まったかのように、彼女はその場に立ち尽くす。


 しかし、悪夢はまだ終わらなかった。


 視線をゆっくりと巡らせる。


 その先に広がっていたのは――"地獄" だった。


 「……っ!」


 言葉を失う。


 そこには、数えきれぬほどの亡骸があった。


 修道女たち――彼女とともに神に仕えた、家族のような存在。

 祈りを捧げ、共に笑い合った、優しい姉妹たち。


 その彼女たちが――無惨に、血の池の中に沈んでいた。


 「そんな……嘘……」


 誰かが答えてくれるはずもない。


 大聖堂の荘厳な空間は、血の海と化していた。

 美しい彫刻が施された石壁さえも、飛び散った鮮血で染め上げられている。


 彼女らは、ここで何を見て、何を感じ、そして死んでいったのか――。


 それを想像するだけで、胃の奥から吐き気が込み上げてきた。


 だが、アーシャリアは目を逸らせなかった。

 涙が滲む。

 しかし、涙を流している場合ではない。


 この惨劇を引き起こしたのは――誰なのか。


 そして、その"何か"は――まだここにいるのではないか。


 次の瞬間、衝撃が走った。


 強烈な力が、彼女の体を吹き飛ばした。


 「――ッ!?」


 視界が乱れ、世界が回転する。


 ――何が起きた?


 考える間もなく、床が迫る。


 ドンッ!


 背中から、硬い床に叩きつけられた。

 肺の空気がすべて押し出され、息ができない。


 「……っ、は……」


 痛みが全身を駆け巡る。


 だが、それ以上に――誰かが、そこにいる。

 暗闇の中、ただならぬ気配が広がる。

 アーシャリアは、必死に視線を巡らせた。


 しかし、大聖堂の中は依然として暗闇に沈んだままだった。


 ――何者かが、いる。

 だが、その姿は、闇に溶け込んで見えない。


 ただ、確かに感じる。


 背筋を冷たい刃で撫でられるような、全身を貫く、圧倒的な"悪意"。

 アーシャリアの喉が、音にならぬ悲鳴を漏らす。


 「……だっ…れ……?」


 返答はなかった。

 ただ、闇の中から、それはゆっくりと"こちらへ"近づいてきた――。


 そこに現れたのは――あの若い騎士だった。


 幾度となく、アーシャリアを街へ誘った、あの騎士。


 彼の軽装の鎧は、鮮血にまみれ、黒く濡れていた。

 頬や額に飛び散った血が、不気味な化粧のように彼の相貌を染め上げる。


 そして――彼の瞳。

 それは、血のような深紅の輝きを放っていた。


 狂気に満ちた光。

 人のそれとは思えぬ、紅蓮の焔のような瞳。


 アーシャリアの体が、恐怖に竦む。


 「ああ……君だったんだね」


 騎士は、穏やかに微笑んだ。


 「傷つけて申し訳ない」


 まるで紳士のように振る舞いながら、その声にはわずかに狂気が滲んでいた。


 「な……んで? こんなこと……っ!?」


 アーシャリアの問いに、騎士はただ微笑んだまま、無言で歩み寄る。


 紅い瞳が、じっと彼女を見下ろしている。


 その視線には、同情も、慈悲も、迷いすらなかった。

 ただ、純粋な執着と歪んだ悦楽があるだけだった。


 アーシャリアは身を起こそうとする――だが、次の瞬間、騎士が彼女の体の上に覆いかぶさった。


 「っ……!!」


 両手を押さえつけられる。

 右手で、強く。どれだけ力を込めても、びくともしない。

 そして、彼の左手が――アーシャリアの首に伸びる。


 「……っ、ぐ……!」


 指が、首に食い込む。

 じわじわと力が込められ、呼吸が制限される。


 空気が肺に届かない。

 もがき、足をばたつかせるが、拘束は緩まることはない。


 ――苦しい。


 肺が焼けるように痛い。

 意識が朧げになっていく。


 (……だめ……このままでは……!)


 苦しみに悶える彼女を、

 騎士は――満足そうに眺めていた。


 「ああ、それだ……」


 陶酔したように、甘く囁く声。


 「ずっと焦がれていた。《《こうなった》》後、私は君に夢中になったよ」


 ――こうなった?

 薄れゆく意識の中で、その言葉が、引っかかる。


 「キミがどうすれば苦しむか。それだけだった」


 その言葉に、アーシャリアの全身が凍りつく。


 「まさか私が、あの化け物どもと"同じ"になってしまうとは思わなかった」

 「けど、今思えば――幸運だったよ」


 彼の声は、歓喜に満ちていた。


 アーシャリアの首を絞める力がわずかに緩む。

 だが、苦しさは変わらない。


 震えるような呼吸の隙間から、彼女はかすれた声を絞り出した。


 「な……に……を……言っ……て……」


 騎士は、愉悦に満ちた笑みを浮かべながら、まるで独り言のように続ける。


 「結果的に教会は私を疑わず、"キマイラ"なんて被造物を容疑者に挙げている」


 「けど――智天使騎士団ケルビム・オルドがここまで来るとは思わなかったな」


 アーシャリアの瞳が、かすかに揺れる。


 「……?」


 彼の言葉に、嫌な予感がした。


 「あの場で燃やしていなければ、追跡されていたかもしれない」


 アーシャリアは、息を呑む。


 ――《《燃やしていなければ》》?


 彼が何を言っているのか、理解してしまった瞬間。


 全身に戦慄が走った。


 「……まさか……」


 震える声で、彼女は問いかける。


 「あの孤児院も……あなたが……燃やしたのですか……?」


 彼は、満面の笑みを浮かべた。


 そして、至極当然のように――真実を告げる。


 「私の食料だからだよ、アーシャ」

 「っ……!!」


 アーシャリアの胸の奥で、何かが、崩れ落ちる音がした。


 信じられない。

 信じたくない。


 けれど、目の前の騎士の表情は――それが紛れもない事実であることを物語っていた。

 彼は、薄らと笑いながら、アーシャリアの首を絞める手をゆっくりと頬へと滑らせた。


 「……ああ、こうして触れるのは、初めてだね」


 その手は、異様なほどに冷たかった。

 背筋が粟立つ。


 彼の瞳は、妖しく輝いていた。

 その視線の奥には、もはや"人"のものではない執着が宿っていた。


 それは、愛ではない。

 崇拝でもない。


 ただの"捕食者"としての欲望。


 震えるアーシャリアを見下ろしながら、騎士は陶酔するように囁いた。


 「ずっと……君の血が欲しかった」


 その言葉を最後に――アーシャリアの視界が、深い闇に沈んでいった。




 ♰




 騎士は、アーシャリアの首元へ顔を寄せ、そっと唇を這わせた。


 彼女の温かな肌に触れる刹那、牙が、肉を裂く。


 ちゅっ……。


 喉を鳴らしながら、微かに血を啜る。


 それは、陶酔と悦楽の瞬間。

 まるで生まれたばかりの赤子が母を求めるように――。


 しかし、これは単なる"行為"ではない。


 "本能"だった。


 ――騎士がこうなったのは、一年前のこと。


 その夜、異変は突如として訪れた。


 就寝中、突然の異常な発熱に襲われた。

 全身を焼くような熱と肌の奥に張り付く"渇き"。


 喉が、干からびるように痛む。


 どれほど水を飲んでも、その乾きは癒えなかった。


 騙し騙し、耐え続けた。

 しかし、限界はすぐに訪れた。


 ある日の巡回中、激しい体の熱に意識を奪われ、彼はとうとう地に伏した。

 意識が朦朧とする中、誰かが近づいてきた。


 それは、一人の女性だった。


 彼女は、倒れた騎士を見つけ、すぐに支えようと手を差し伸べた。


 その時――。


 彼女の指先が、騎士の鎧の鋭い縁で僅かに切れた。

 赤い滴が、白い肌を伝い、地に落ちる。


 その瞬間――騎士の頭を、"何か"が支配した。


 次に意識を取り戻した時、彼の腕の中にいたのは――青白い顔で倒れ込む女性だった。


 その首元には、深く噛み裂かれた跡があった。


 騎士は、すぐにその遺体を処理した。

 燃やし、砕き、跡形もなく葬り去った。


 だが――その事件は騎士団の知るところとなった。


 捜索願が出され、皮肉にも、騎士自身が調査を任命されることとなった。

 その時、本部から派遣された上級騎士――白髪の老練な剣士が、衝撃的な事実を語った。


 「この事件に関わるのは"人"でも"キマイラ"でもない」

 「それは、教会が極秘裏に対立し続けてきた"ある血族"の仕業だ」


 そして、13年前の真実。

 教会の本性、そしてその狂気。


 このことが漏れれば、"教会の秩序そのものが崩壊する"と、上級騎士は告げた。


 騎士は、沈黙の誓いを立てさせられた。


 そして――"禁忌"の扉が、開かれた。

 騎士は、知ってしまった。


 "血族"とは何か。

 その因縁が、どれほどの時を超えて続いてきたのか。

 彼らがどのように"血"を操り、どのように仲間を増やしていくのか――。


 彼らは、"僅かな血で人を凌駕する肉体"を手にし、更なる力を得れば、"血の力の神髄"**さえも手に入れることができるという。


 その記述を目にした瞬間、騎士は一つの可能性を見出した。


 「――ならば、私は、頂点に立つ」


 一生を教会の下僕として生きるのではなく、力をつけ、自らが支配者として君臨する。


 幼稚で、無謀な企み。


 だが、今の自分ならば、それが可能だと信じた。

 その為に、騎士は血を求めた。


 最初は一人、次は三人、やがては十人。

 血を吸うごとに、飢えは深まっていった。


 閲覧した文献に記されていた。


 "新たに目覚めた者は、血を求める"

 "やがて、自らの内に"血の結晶"を生み出すまで、その飢えは止まらない"


 着々と蓄えられ、膨れ上がる力に騎士は歓喜した。


 もうすぐだ――もうすぐ、"あの化け物ども"と……"直系"と並ぶことができる。


 その時に、彼女に出会った。


 白銀の髪。魅惑的なまでに整った容姿。そして――アメジストの瞳。

 それは、まるで宝石のように美しかった。

 その瞳は、慈愛に満ちていた。

 穏やかで、汚れを知らぬ修道女。


 騎士は、目を奪われた。


 そして、考えた。


 「私が真の力を得る時は、"彼女"をそのきっかけにしよう」


 「彼女の"死"と共に、私は"真に生まれ変わる"のだ」


 そのために、彼女を調べ尽くした。


 幾重にも重ねる吸血行為によって、騎士は知っていた。


 "生き血を啜るなら、相手が絶望するのが最も甘美な味となる"


 そう記されてはいなかった。

 けれど、騎士はそう強く思った。


 その思いを、誰にも否定させるつもりはなかった。


 そして――ついに彼は、成し遂げた。

 "教会の人間を殺し、その血を啜る" という禁忌を。


 修道女たちの悲鳴が響き渡り、床に広がる鮮血が、まるで"聖堂そのものが泣いている"かのように紅く染まっていた。


 だが、騎士にとって、それは悦楽に満ちた瞬間だった。


 あえて、無惨に殺した。

 あえて、徹底的に蹂躙した。


 そのすべては――彼女に、"死と絶望"を刻み込むため。


 「アーシャリア……君はどんな顔をするのだろう?」


 恐怖に震え、膝を折り、絶望に染まるその瞬間。

 彼女の純白の修道服が、血で染め上げられる光景。


 その時こそ、"最高の血"が流れ出すのだと、騎士は確信していた。


 アーシャリアの血を、僅かに啜る。

 瞬間――身体が震えた。


 いや、違う。

 それは、"ただの震え"ではなかった。


 「ッ……これは……!」


 圧倒的な力が、内側からあふれ出す。


 肌が焼けるように熱を帯び、血が渦巻くように流れ出し、脳が陶酔の快楽で満たされていく――。


 「ああ、なんて素晴らしい……!」


 これまで吸い続けた血とは、まったく違う。

 これは、まさに"神の血"。


 「これなら……本部の騎士共なんか、目じゃない!」


 今なら、何者にも負けない。

 これほどの力があれば、直系でさえも凌駕できる。


 そう確信し、騎士は再びアーシャリアの首筋に牙を立てようとした――。

 だが、その時だった。


 彼女の瞳を、見てしまった。


 「……っ!?」


 時間が止まったかのように、騎士の体が硬直する。


 自らこそ、この場で絶対的な存在であるはずなのに――。

 なのに、なぜ?

 なぜ、自分が"恐怖している"のか?


 彼女の瞳が、ルビーのように赤く輝いていた。


 その輝きは、まるで"深紅の業火"。

 しかし、それだけではない。


 瞳の奥底に宿る"何か"――それを見た瞬間、全身が粟立つ。


 それは、言葉では言い表せない"畏怖"。

 神すらも焼き尽くす、"何か"。


 次の瞬間――騎士の体が、宙に舞った。


 騎士が最後に見た光景――それは、アーシャリアが"小さく手を払う"仕草。


 ただ、それだけだった。

 たったそれだけの動作で――圧倒的な衝撃波が爆発し、騎士の体を吹き飛ばした。


 「――ッ!!?」


 激しい音と共に、大聖堂の天井へと叩きつけられる。

 背中から走る衝撃が、骨を軋ませた。


 そのまま、重力に従い、地面へと落下する。


 ドシャァッ!


 鈍い音を響かせ、血に濡れた床に転がる。


 「がっ……あ、が……っ……」


 痛みが、すぐに意識を引き戻す。


 苦しみの中、騎士は顔を上げた。

 そして――彼女を見た。


 月明かりに照らされた大聖堂。


 そこに立つ彼女は――もう、"アーシャリア"ではなかった。


 普段の彼女ならば、絶対に見せるはずのない冷徹な表情。

 感情の欠片すら感じさせない、氷のような瞳。


 それは――"害虫を見下ろす視線"と、同じだった。


 「お、おまえは……なんなんだ!!」


 騎士は絶叫した。

 だが、彼女は答えない。


 代わりに――右手に、赤く淡い光が集まる。

 次第に、その光が周囲の血を吸い上げ、形を成していく。


 その輪郭は――剣。


 赤黒く、神秘的で、狂気的な輝きを放つ"大剣"。

 よく見れば、細やかな赤の装飾と、彫刻が施されている。

 それはまるで、"神の遺物"のような威厳を纏っていた。


 そして――彼女は、静かに口を開いた。


 「私は――エクリティア」


 静かに紡がれた名は、まるで"封印を解く呪詛"のように響いた。


 「かつて神を信奉し、裏切られ、そして神に弓引いた――"血の怪物"だよ」


 次の瞬間――騎士の首が宙を舞った。

 紅く見開かれた瞳が、驚愕と恐怖を刻んだまま、宙を舞う。

 最後に映し出したのは――


 "絶対的な神の天敵"。


 そして、彼女が浮かべた、狂気的で美しい微笑みだった。


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