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「んん……」
太陽の光特有のあの暖かさを感じて、私は少し身じろいだ。
目を開くとそこにあったのは、見慣れた白い天井ではなく、赤い布で作られた天蓋だった。布の端は金の糸で細かい刺繍が施されている。
「……あ?」
どうして、こんなものがあるんだっけ。
……とりあえず、学校に行かないと。今日もお母さんは怒ってるかな。あれ、でも私、死ななかったっけ? 海に落ちて、それで、明星とかいう変な人に出会わなかったっけ? 天使がどうのとか言われたよね? あれ?
まだ霧のかかったフワフワとした意識で、そんなようなことを考える。
私、何があったんだっけ。
まあ、ひとまず起き上がってみないと何も分からない。
そう思って上体を起こした時、
「陽春様! いつもより早いお目覚めですね」
近くから、若い女性の声が聞こえた。
声がした方を向くと、そこに立っていたのは銀色の髪を頭の上でまとめた綺麗な女性だった。着物の上部分みたいな白い上衣に青いスカートを穿いている。青い瞳の色とも合わせたみたいだ。
……。
ああ。
ああ、そうだ。そうだった。『平塚風音』は死んで、『明旺陽春』に生まれ変わったんだった。それは明星とかいう男が所属している謎の組織が仕組んだことで、私はただ巻き込まれただけなんだった。なんで私なのかと言うと、それはそう『シナリオ』に記されているからっていう馬鹿げた話なんだった。
で、心細かった私は、その話を信じたんだっけか。何かに縋りたくて、というかその話がもし嘘だったら私は本当に独りぼっちになってしまうから、あの得体の知れない男を信用したんだ。
独りぼっちには、なりたくない。
独りは怖くて寂しいから。私は一人には慣れているけど、独りには慣れていないから。風音の時は心の底から信頼できる人が一人だけいたから。絶対に嫌いになれないくらい大好きで、愛おしい――。
――。
その人のことを思い出そうとして、その人と過ごした暖かい記憶を脳裏に再生しようとして、私はそれが出来ないことに気が付いた。大好きで、愛していた人の記憶が、脳内に一切なかったのだ。思い出そうにも、その記憶がないのでは思い出せない。記憶の海のどこかに沈んでいるのではなく、存在していないものを想起するなんて不可能だ。
そして、私は理解した。
この人の記憶こそが、私の中から抜かれてしまった記憶なのだと。
許せない。本当に許せない。
どうしてそんな大切な思いを手放してしまったんだろう。
まあ、このことについて考えても現状では答えはでないだろう。
それよりも、目の前の女性である。
私を「陽春様」と呼んだのだから、明旺家に仕える使用人だろう。多分。
使用人だったらば、「いつもより早く」と言っているので、私の起床をいつも見守っているのだと推測できる。
「ああ、おはよう。そんなに早かった?」
「はい、いつもは私が起こしに来る頃はまだすやすや寝てるじゃありませんか。しかも今日は寝覚めもいいですし、舞月は驚きましたよ」
この女性の名前はマツキというらしい。よかった、名前が分からなくて相手と自分との間に齟齬が生まれてしまうのを防げた。まあ、齟齬が生まれても修正は可能らしいけど。
「やっぱり、今日『初夏の儀』があるからですか?」
初夏の儀?
初めて聞く単語に戸惑いを覚える。儀式なのはわかる、でも何の儀式が執り行われるの? しかも今日って。
でも、この動揺を表に出してはいけないのだ。明星たちの組織にはできるだけ頼りたくない。
「そう、なんか緊張しちゃって」
当たり障りのないようなことを口にする。舞月の反応で、初夏の儀がなんであるのかを推測しよう。
「まあ仕方ないですよ。元服は誰だって緊張するものですし、私も村の成人式で踊ったりしたときは緊張しましたもの」
元服?
いや、元服が何なのかは知っている。公家や武家で、成人になったことを示す儀式だ。普通は男子のことを言うが、どうやら私はここの領主の長女らしいので、別に不思議はないだろう。
問題なのは、私がそこで何をすればいいのかを全く知らないということだ。
舞月は「私も村の成人式で踊った」と言った。「私」の後に「も」という助詞がついていることから、私も今日行われる『初夏の儀』では踊りと相対するようなことをしなければならないのだろう。
しかし、それが全く分からない。
「さぁ陽春様、そんなにぼーっとしていないで早く起きて下さいな。今日の為に、領主さまが上等な着物を用意してくださったんですよ。あちらの衝立の裏に置いてありますので早く着替えましょう?」
舞月に言われるがまま衝立の裏を見ると、そこには雅やかな和服が立てかけられていた。
濃い緋色の地に、小鳥や紫陽花、椛や風花などの四季を表すモチーフが散りばめられた着物だ。その一つ一つは金の刺繍糸で細やかに仕上げられ、派手派手しくない絢爛さを醸し出している。赤と黄金の対比が、すごく綺麗だ。
「帯も、金糸を織り込んだ明旺領の特産品を使ってるんですよー。ほら、絹糸の触り心地が素晴らしいです」
舞月はやけに誇らしげだ。
「やっぱり陽春様は赤色が似合いますね! 白い肌と黒い髪と赤い着物が上手く調和してます」
他愛のない会話をしながら、舞月は瞬く間に私に着物を着せていく。多分、私が一人で着るより彼女に着せてもらう方が速そうだ。
「髪梳かしますねー」
香油と思しきものを舞月は手に取って、櫛で寝癖を戻していく。その間、私は地毛が黒髪ストレートなのは前世と同じだな、とかどうでもいいことを考えてみる。
そのまま舞月は化粧台と思われるものに置いてある小瓶を取って、中から赤い粉末を取り出して練り始める。
なんだあれ……?
「陽春様陽春さま、紅注してもいいですか?」
舞月が満面の笑みで尋ねてくる。
嗚呼、瓶の中身は口紅だったのか。
既に蓋を開け始めている舞月は、断られるなどと微塵も思っていないのだろう。
――いや別に断る訳ではないけれど。化粧なんて今までしたことなかったからちょっと気が引けているだけだけど。
「まあ、断られても塗るんですけどね! 注した方が絶対陽春様可愛いので!」
どうやらこの舞月という女性には傍若無人の気があるらしい。
「ははぁ、やっぱり陽春様は美しいですねぇ……今日屋敷に集まった人が皆軽く卒倒しちゃうくらいには美少女じゃないですか? はー目の保養、生きててよかった……私天才」
舞月の思うままに化粧を施されること十数分。
舞月は口に手を添えて悶絶している。でも最後に自分を褒めるのを忘れないあたり彼女らしい。
「満足したようで何より」
手元に鏡がないので自分が今どうなっているのかが分からず、曖昧な返答しかできない。鏡を取りに行こうにも和服に慣れていないから、下手な動きをしたら帯が解けてしまいそうで動けない。
すごく、もどかしい。
「じゃあ移動しましょうか。早めに行けばもう一回練習できるかもしれませんし」
そっか。
私、こんな慣れない着物を着て何かをしなければいけないのか。……どうしよう、本当に何をすればいいのか分からない。
ううん、なんとかしなければならない。
明星は私が失敗することをなんら問題視していないはずだ。絶対に失敗して欲しくないのなら何をすればいいのか私に伝えるだろうし、なにかあれば記憶を修正するので大丈夫的なことを言っていたし、彼は単純に眠たくて「初夏の儀」についての説明をしなかったのだろう。うざいなあ。
舞月の後をついて廊下を歩く。さっきまでは気付かなかったけれど、舞月は私より上背があるみたいだ。
幾らか進むと、向こうから一人の少女が歩いてくるのが見えた。
黒い長髪を後ろで一つに結って、華美な着物に身を包んでいるその少女も私たちに気付いたようで、小走りで駆け寄ってくる。
着物でよくそんな身のこなしができるなあ。
「お姉ちゃん! それから舞月!」
おねえちゃん?
濃い血縁関係を示すその言葉に一瞬動揺した。
どうも、明旺陽春には妹がいるらしい。
「わあ、秋暉様! 新しいお着物ですか? すごく似合ってますね」
舞月が話しかける。ごく普通の、女性らしい話題だ。ただ一点を除けば。
……あきてるさま、って何だ?
男の名前だよな。え、でも、今私の目の前にいて舞月が話しかけた人はどう見てもピンクの可愛い着物着た女の子なのである。頭が混乱する。
「おお、気付いてくれた! そうなの、今日のために新調してもらったんだ」
確かに心なしか声が低いような気もするけど、でも女子の声として不自然な高さではない。いやしかし名前はどう考えても男だ。
「お姉ちゃんも新しい着物だね、すごく似合ってる」
私が脳内で考えを逡巡させていることなど露知らず、彼(彼女)はこちらに話しかけてきた。
「あ、ありがとう。ええっと、今日のために特別に作ってもらった着物……なんだよね?」
動揺のあまり声が小さくなってしまったのは許してほしい。自信がなくなって最後には舞月の方を向いてしまったのも許してほしいっていうか怪しまないでほしい。
「もー陽春様ったら相変わらず着物への興味がないんですね……さっき言ったじゃないですか。そうです、陽春様が今着てるそれはかなりの高級品なんですよ?」
「まあお姉ちゃんが急に着物に興味示してもそれはそれで怖いよね。別人かなって思っちゃう」
どうやらよく分からないフリのするのが最適解だったらしい。危ない、よかった。
「ところで、いや話しかけた僕が悪いんだけど、引き留めて大丈夫だった? 初夏の儀の始まりまではまだ時間あるけど、練習とかやっぱりする、よね……?」
「大丈夫大丈夫、全然余裕だから心配しないで」
さっきまで饒舌に喋っていたのに急に不安げな顔をするものだから、余裕なんてない癖に思わず強がってしまう。その表情を、前に見たことがあるような気がしたのだ。
「そうですよ、この前の練習の時なんて、陽春様『簡単に出来すぎてどうしよう』って言ってましたもの。でもそんな気遣いが出来るなんて秋暉様は良い子ですね~」
舞月は顔に笑みを浮かべながら、秋暉の頭をわっしゃわっしゃと撫でる。「せっかく整えたのに」と口を尖らして零す秋暉も、まんざらでもなさそうだ。
その顔にも、私はどこか昔懐かしいものを感じた。
……それはそうとして、明旺陽春、初夏の儀のことを『簡単』なんて言ったの?
「陽春様、分かってますか」
秋暉の影が見えなくなった頃、舞月が神妙な面持ちで口を開いた。
「……何を?」
思わずこちらまで緊張してしまう。
「初夏の儀まであまり時間ないですよ」
「嘘だ」
「本当です」
「……走る?」
「私は構いませんが、陽春様それで走れるんですか?」
私は今一度自分の現状を確認する。
裾の長い重い着物。絶妙なバランスで巻かれた帯。もし裾に躓いたりしたら、帯は容易く解けそうだ。それに加えて、このすぐ後に元服の儀式が待っているとのこと。
「無理」
「ですよね。ゆっくり行きましょう……初夏の儀で行うことはもう大丈夫ですね?」
舞月の青い瞳が私を映す。
ここはもう、正直に言うしかないだろうな。そしたら教えてくれるかもしれないし。忘れた、ってことにすればそこまで不審に思われないだろうし。大分無理があるかもだけど。
「実はちょっと忘れたかも」
「えええ、この前楽勝って言ったじゃないですか!」
「あ……ごめん」
「もー、しょうがない人ですね! じゃあ、歩きながら一連の流れだけ説明するので、ちゃんと思い出してくださいよ? 全く、練習にいつも付き合った私はこんなに覚えてるっていうのに……」
口を尖らせてそんなことを言うこの人は、きっと良い人なのだ。
「うん……ありがとう」
頭の中ではあんなにみずみずしかった感謝の言葉は、カラカラに乾いて今にも消えそう音になってしまった。
こんな私を、赦してほしい。
「まず、内裏の門から菊の間への階段を上りますでしょう? そうしたら、ご領主様――父君様の前に盃が置いてあるので、その中に入ってる清水を飲み干して、次は母君様の元へ行って、髪に簪を挿してもらってください。その後は戻ってきた道を引き返して、内裏の門から出たら、初夏の儀は一応それで終わりです」
「分かった」
元服とか言う割には案外淡泊な儀式らしい。
「あっあと、階段を上る前や上りきった時など、動作が変わる時には毎回お辞儀してくださいね」
「毎回?」
「はい」
笑顔で首肯する舞月。
「多すぎない?」
「そうですか? 明旺領の人は勿論、大陸中の偉い人が沢山来る儀式ですからそんなもんだと思いますよ」
「でも、頭下げる理由ないじゃん。だって今日のは、私が親に産んでくれてありがとうって伝える儀式な訳でしょ? お、お父様とお母様にお辞儀するなら分かるけどそれ以外の人にお辞儀するのは意味分からないよ」
私がそう言うと、舞月は困った顔をしながらもゆるやかに微笑した。
「陽春様、前に同じ説明した時と同じこと言ってますよ」
「…………」
「流石というかなんというか、陽春様らしいですね。でも、ちゃんとお辞儀はしてもらいますよ? 今日で15になるんです、何時までも子供じみたこと言ってられないんですよ」
そう念を押す舞月の顔を眺めながら、もしかしたら私は明旺陽春と気が合うのかもしれない、なんてことを考えた。
鮮やかな紅の緞帳が垂れ下がっている。この向こうの大部屋「菊の間」が初夏の儀の会場なのだと舞月は言った。あちら側の準備はもう整っているから何時緞帳を上げて儀式を始めても良いのだ、とも。
深く呼吸をする。絶対に失敗してはいけないのだと自分に言い聞かせる。
だってやっぱり明星に馬鹿にされるのはウザいし嫌だし、それに、記憶に細工を施される人はもう私だけで十分だと思うから。他人が侵してはならないはずの絶対領域、心の一番深い所に大切にしまってあるものを紛い物に取り換えてしまうなんてことは、してはいけないことと思うから。
昨日考えていたことが明日にはもう考えられなくなるなんてことは、すごく悲しいことだと思うから。
そして、幸いなことに私にはそれを護る術がある。些細で繊細で純朴な、変わることのない日常を護ることができる。
ならば私がすることは一つしかないのだ。上手くやるしかないのだ。
舞月に視線を送る。緞帳を開けてくれ、という合図だ。
少しずつ上に上がっていく深紅を視界に映しながら、私はもう一度深呼吸をした。
壇上の中央の奥、そこに座っている貫禄のある男性が、きっと明旺陽春の父親だろう。鮮やかな赤い瞳がそっくりだ。
その横はきっと『お母さん』。陽春のまっすぐな黒髪は彼女譲りらしい。切れ長の瞳と目が合った。視線を逸らすようなことはしない。私は貴方の娘だと表すように、しっかりと見つめ返した。
深く礼をする。
そして、一歩を踏み出した。平塚風音ではなく、明旺陽春として生きるための一歩だ。
階段の頂上まで登りきって、またお辞儀をして、父親の方へ足をむける。
その瞬間、なんとなく不安になってしまった。
階段を上って最初に向かうのは、本当に父親だったっけ? 母親じゃなかったっけ?
そんな疑念が脳内を駆け巡る。
あれ、舞月はなんて言ってたっけ。まるで記憶に霧がかかったように思い出せない。思い出せないから、この胸騒ぎも消えてなくならない。だから、自然と足の動きも止まってしまう。
ああどうしよう。どっちに進むのが正しいんだっけ。どっちに進めば、皆の記憶を護れるんだっけ。分からない。もっとしっかり聞いておけばよかった。もっとちゃんと確認しておくんだった。もっと、もっと、もっと出来ることが私にはあったはずなのに。全部私のせいだ。どうしよう、でも、このままここで尻込みしているのもきっと駄目なはずだ。動かなきゃ。もうお辞儀もしてしまった。動かないと観ている人たち全員に不審に思われてしまう。それは駄目だ、絶対駄目だ。そんなことがあったら、ここにいる人たちの記憶全部が改竄されてしまう。それはどうしても防がなきゃならないことなのに、どうすればいいかがわからない。こうやって考えている内にもどんどん時間は過ぎていくのに、いまだ解決策が見当たらない。手に汗が滲む。思い出さなきゃ、思い出さなきゃ、思い出さなきゃ。父親の所で清水を飲む。母親の所では簪を挿してもらう。それは覚えてる。でも、どっちが先? それだけが分からない。あーあ、どうして、不安になんかなってしまったんだろう。こんなこと思わなければ躊躇せずに一歩を踏み出せていたはずなのに。私の馬鹿。バカバカバカ。いつの間にか呼吸が浅くなってるし。堂々としていなきゃいけないのに。ほら、姿勢が悪いから視線も下に落ちちゃってるし。とりあえず、不自然にならないくらいに姿勢を正して、視線を上にして――。
――――。
目が、あった。
綺麗に澄んだ青い双眸の奥底にも、底が見えぬほど深い赤の双眸にも、私が映っている。
私から見て右手側。父親の側の席に秋暉がいる。その後ろには舞月もいる。私に注目して信じている瞳が、そこにはあった。
私は、決して独りなんかじゃなかったのだ。
思わず顔が綻んでしまう。
溢れ出る幸せを抑えて、そして、父親の方へ右足を差しだした。
清水の入った赤い盃の底には、金箔で装飾が施されていた。初見では気付きにくい細やかな美に、もうこの世界には存在しないであろう『日本』を感じる。
立ち上がり、再び礼をして、母親の元へ向かう。風音の時に茶道を習っていたのが幸いして、それらしい所作になっているはず。絶対役立たないと思っていたことが役に立って、なんだか複雑な気分だ。
顔を上げれば、今一度母親と視線が交錯する。
そこにあったのは、紛れもなく安堵の色であった。
――刹那、感覚的に理解した。
あたたかいあたたかい、私だけに向けられた感情。
きっと、この人は「母」なのだ。
私は貴い身分らしいから、彼女には直接育てられてないのかもしれない。それでも、彼女は娘のことが心配でたまらない、ただの親なのだ。
さっき目が合ったのだって、きっとそうだった。あれは、気負っている私に向けられた母性だった。そこには確かに、愛があったのだ。
目を伏せて、簪が挿しやすいように頭を垂れる。髪に簪が乗る感覚。
ああ、こんな気持ちは一体何時ぶりだろう。
「記憶は修正するって言ったじゃないですか。貴方は僕たちの命令をただ聞いて、適当に生きていればいいんですよ。それなのに、何でそんな生きることに真面目になってるんです?」
日付が変わる少し前、月の光が差し込む角度がかなり高くなった頃に、例の青年は再び窓から私の部屋へ侵入してきた。
「別にいいでしょ、結果的に上手くいったんだから」
「それは結果論です。今はまだ大丈夫ですが、そのうちこんなやり方では計画の全てが瓦解します。貴方も死にたくなければちゃんと僕の言う事を聞いてください」
「……でも、貴方たち私を殺したくはないんでしょ?」
私がそう言えば、明星の薄茶色の瞳が仄かに揺れた。
「どうして、そう思うんですか?」
明星の瞳孔に私が映っている。ここで目を逸らしてはならないのだと自分に言い聞かせた。
「だって、貴方たちが望んでいるのはあくまでも『制御』じゃない。私の記憶を質にして、私の性格も把握して、私が自殺をすることも、命令を聞かないことも出来なくした。まあ、自殺をしても何も解決しないんだろうけど。……きっと、私の魂じゃなきゃいけない理由があるんでしょ? だってそうじゃなきゃ、最初に私が喚いたときには既に殺されて、別の魂と交換されているはずだもの。面倒臭いことが嫌いな貴方がやりそうなことでしょ」
私のことはじっと見つめたまま、明星の薄い唇が形を変えた。
「へえ……随分頭が回るんですね、知らない世界に来たばっかりだというのに。ちょっと誤算です」
「……」
「貴方のお見立て通り、僕たちは明旺陽春の肉体に貴方の魂を入れることを第一としています。まあ別に、殺しても良かったんですけどね。でも殺した後の始末も大変ですし、殺して天界で記憶を消して、またこちらに戻ってくるのも面倒です。記憶を消すのは天使たちにしか出来ないことですから、いちいち頼むのも煩わしいですしね」
「……種明かししてくれるんだ」
「見抜かれたことをいつまでも隠しておく必要はないでしょう。貴方が事実を知ろうと知るまいと僕たちのやることは一緒ですし、貴方に望むことも変わりません。貴方が失った記憶の為に僕たちの言うことを聞くことも」
「でも、貴方たちは私を思い通りにさせる為の文句を一つ失った」
「そうなりますね。でも、貴方の大切な人の記憶は相変わらずこちらの手中にある。その記憶の扱いはこちらの自由なはずですよ」
大切な人の記憶、とわざわざ言うところに悪意を感じる。
「別に、貴方たちに頼って記憶を取り戻そうなんて思ってない」
「じゃあ貴方は、自分一人だけで記憶を取り戻すつもりなんですか? この時代の常識も知らず、世界の理だって最近知ったばかりの貴方に一体何ができると言うのですか?」
「……私は独りじゃないから」
本気で嘲るような彼の視線と、くじけそうな自分の心に向かって言い聞かせる。でも、紡いだ言葉はなんだか弱々しいものになってしまった。
「かなり幸せなお頭をしているんですね、誤算でした。質問を変えます。貴方はどうしたら僕達の言うことを聞いてくれるのです?」
「随分下手にでるのね」
「ええ、まあ。今後の態度は貴方の返答次第ですけれど」
薄い唇が歪む。どうやら、それが彼の笑顔らしかった。
「……私は、貴方たちの命令が私の目的と一致した時なら言うことを聞くわ」
「その目的は自分の記憶を取り戻すこと、で合ってます?」
「ええ、そう。それと、明旺陽春として生きることよ」
そうだ、そうなのだ。
私に向けられている眼差しに気付いた瞬間、生きたいと思ったのだ。
昔は理解ができなかった「人のための嘘」。その一端を掴んだ気がしたのだ。あの瞳を裏切ることなんてできそうにない。悲しませたくないと、強く思った。
失礼な行いであることは重々承知している。申し訳なさで心が縮むくらいには理解をしている。これは、平塚風音を蔑ろにする行為だ。不義の積み重ねだ。
そんな他人を想う気持ちと他人を想う気持ちが相反している中で、そっと背中を押したのは、ちっぽけな醜い欲だった。
ただ単純に、生きることの喜びにもう一度出会いたいと思ってしまったのだった。




