プロローグ
|それは、青色をしていた。
何よりも深く、何よりも美しく、何よりも純粋で、何よりも愛おしく、何よりも危険な青だった。
心を奪うようなそれが、自分の足りない部分を補ってくれるようなそれが、「平塚風音」の最後の記憶だった。
その日、私は昨日と同じ時間に起床して、朝食を食べて、普段通りに学校へ行く準備をして、家を出た。何かも全て、いつも通りだった。
いや、少し違うことがあったかもしれない。
私は、ゲームが好きだ。ММОRPGと呼ばれる類のゲームだ。
私はそのゲームをかなりやりこんでいる方だった。
その日も、いつも通り朝起きてすぐにログインした。何も変わっていないように思えた。何も変わっていないと思いたかった。
そのゲームには、フレンドになった人と話せる、チャット機能が存在した。私は一人の中堅プレイヤーの人とよくチャットで話していた。家族のことや、学校のことについて相談すると、いいアドバイスをくれる人だった。
その日、いつものようにチャットを開くと、いつものようにフレンドのアイコンが表示された。
「おはようございます」と文字を打って、送信ボタンを押すと、見たことないメニュータブが出てきた。それには「フレンドではない方とのチャットは出来ません」と書いてあった。
急いでフレンド一覧を見ると、そこに彼のアイコンはなかった。
チャットのログに、彼の最後のメッセージが表示されている。
「このゲーム、飽きちゃったので辞めますね」「今までありがとうございました」。
もうこの時から狂い始めていたんだろう。
唐突だが、私は友達が少ない。
某ライトノベルの題名に似ているが、それとは一切関係ない。
ただ単純に、嘘をつくことができない性格だったのだ。
そう、嘘が嫌いなのだ。誰かを慮るための優しい嘘や、方便としての嘘も理解ができなかった。だってそれは結局、誰かを騙し欺いていることには変わりはないのだから。親切心という厄介な免罪符を被せているに過ぎないのだから。
故に、私は周囲と馴染めなかった。根底にある価値観の違いは、どうやったって消えてなくならなかった。しかも私は歩み寄ろうともしなかった。自分の気持ちよりも他人の気持ちを尊重するのは、その頃の私にとっては自分への嘘に違いなかったから。
なんと扱いにくい人物だろうか。
どんな物語でも、そんな人は腫れ物のように扱われ、嫌われるのがオチだ。そして、私もその例に漏れることなく、気付いたら嫌われていた。
それでも、私を好いてくれる人は少なからずいた。それがいなくなったのは、私に対する嫌悪が行動に移され始めたのと同時期だった。俗に言う「いじめ」だった。
勘違いしないで欲しいのは、私はいじめごときに負けるような人間ではないということ。
他人からの罵倒を一身に受けることは確かにしんどいけれど、誰かに嫌われたから、なんて理由で自らの人生を終わらせるようなことはしたくない。他人の意思一つで人生を変えてなるものか、と思っていた。本当に。
ただ、その日の私は少し弱気だった。
一番の相談者が居なくなったからだろうか。朝から喧嘩をしている両親を情けなく思ったからだろうか。人間不信で引きこもりになった弟さえも守れない自分に嫌気がさしたからだろうか。
どれにしても、その日はなんだか学校に行く気力がなかった。
私の居ぬ間に落書きをされないようにと、毎日置き勉もせずに持ち帰っている教科書類の重みに押しつぶされてしまいそうになった。
ただでさえ憂鬱なのに、学校へ行って更に精神的苦痛に耐えなければならないと思うと、足は自然と学校に向かうことを辞めた。
きっと私は、いじめに負けそうになっていたんだろう。
「いじめをする人間のほうが弱い」と頭では分かっていても、「そんな弱い人間に自分の人生を左右されたくない」と強く思っていたとしても、やっぱり、上履きに画鋲が上を向いて置かれていないかを確認する毎日は辛くて、目を離した隙に教科書や文房具類を隠され隠されたものを貸してくれる友達もいない日々は惨めで、二人組を作る授業があればいつも余り物になる孤独感に嫌気がさして、皆の悪意を独りで背負うことに心が折れそうになっていたのだ。
だからこそ――。
気付けば眼前に、日光を受けて輝く青が広がっていた。
海だ。
気持ちいいぐらいに広い。
爽やかな風が吹いて、私の髪を揺らしていく。
壮大な物の前では、自分の悩んでいることがとても小さく思える、と言うけれど本当にそうだ。
海に近づこうと一歩踏み出したところで、自分のいる場所が崖の上だということに気が付く。
海に近づくことを諦めた私は、崖の上に座り込んで、海に足を投げ出す。バランスを崩したら即海に落ちるが、そんな距離感が丁度いい。
今は、少しだけ死の近くにいたい。
寄せては引いていく波の律動が、私の心を落ち着かせていく。
そして唐突に、ずっと前から存在していた感情に気付いてしまったのだ。
息をしたくない。
生きていたくない。
私には協調性がない。私は世辞を言えない。私は頑固だ。私はつい意地を張ってしまう。私は他人を立てるということが出来ない。私には長所が無い。それでも私はくだらない正義感で世界を変えることができると思っている。私はまだ夢を見ている。私は、生きるのに向いていない。
だから私は生きていたくない。
苦手なことから逃げていたい。
そんなことを考えてしまう弱い自分なんて殺してしまいたいほど憎いけれど、本当は強い人間になってちゃんと苦手なことに向き合いたいけれど、今の私にはきっと逃げることしか出来ない。
だから、生きていたくない。
思いを自覚した途端に、希死念慮が洪水のように溢れ出てきた。
でも、きっと私は死ねない。私のことを慕ってくれる人が一人でもいるなら、その人が不幸になるようなことは出来ない。約束を破るような無責任な真似は絶対に出来ない。
あああ、辛い。
私ももっと、上手く生きていれば良かった。私を守ってくれるかもしれなかった存在を、手放さなければ良かった。子供じみた意地なんて、張らなければ良かった。
でも、ifの話をしていても仕方がない。全て自分の行動の結果だ、その責くらいは自分で背負わなくては。
自分の足で歩いて行かねば。
生きなくては。
そう立ち上がろうとした、その時だった。
誰かの手が、私の背中に強い力と意思を伴って触れた。否、突き落とした。
それの目的が私を殺すことだと気付くのに、時間はそう要らなかった。だが、気付くのが遅すぎた。
崖の上に座っていた私は、突き落とす力に対抗する術を持っていなかった。
私は死ぬ。
瞬間的にそう理解出来た。
ふと、私は私を殺そうとしている人の顔を見たくなった。
知りたいと思ったから。人を殺す瞬間、人はどのような顔をするのか。狂気に満ちた顔をするのだろうか。笑っているのだろうか。恐怖に満ちた顔をしているのだろうか。
どうせ死ぬのだから何があっても関係ない、なんて言い訳をしながら、振り向きざまに私を突き落とした誰かの顔を見る。
それは、恐ろしいくらいに真顔だった。
あまりにも自然すぎたその顔は、人を殺すことなぞ日常、とでも言っているかのようだった。
――怖い。
ふいに、脳裏に一人の顔が思い出された。
嗚呼、ごめんね、怜音。今ここで私が死んだら、もっと人を信じられなくなっちゃうね。「ずっと一緒にいよう」って約束したのに。御免なさい。赦してくれなんて言わないけれど、でも、それを望むことだけは赦して。
自分の周りの物質が変わった気がした。
空気を裂く快感がなくなって、いろんなものが纏わりつくような――いいや、そんな表現の仕方じゃいけない。まるで、強く抱きしめられているかのような感覚に変わった。
水に抱擁されているようだ。
そう思ったら、息苦しさも正当化できるような気がした。強く抱きしめられたら、息が苦しくなるのは必然だから。
私を抱きしめている何かが変わっていく。
薄浅葱色から、水縹、縹色へ、紺碧色、青藍、瑠璃色、濃藍と色が少しずつ濃くなっていく。
それが紺になったとき、私の視界もブラックアウトした。
意識を失う寸前、上を見たら空の青と海の青が重なって、とても綺麗だったのを憶えている。
唯一、その青さだけを憶えている。




