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6 熱い接吻(くちづけ)最終回

 キャンプ場で星空を見上げながら、健二の頬は(ゆる)みっぱなしだった。若い娘からちょっぴりハンサムと言われ、その美人の母親からキャンプ場でデートの約束までしたのだから当然だった。

 そんな浮ついた気持ちも、彼女の置かれた立場を考えると不謹慎(ふきんしん)だと気がついた。彼女の心情を()(はか)ろうとしたがムリだった。妻を亡くした恐怖や孤独を知っているつもりだが、認知症の肉親を抱える一人の人間の気持ちはどうなのか。またここで神の悪戯(いたずら)を思い、霧の彼方に目を()らすように必死で探ろうとしたが、むしろもっと分厚い霧の壁に(はば)まれるようだった。


 翌日は雨になった。必要なものの買い物のあとは、読書で過ごした。夕方には雨も上がったが厚く雲が覆っていて薄暗い中、料理を始めた。車のドアがバタンと閉まる音がして、降りてきた加賀美光代にあらためて目を見張った。控えめの化粧は、頬をほんのり色づけし、綺麗に口紅を引いていて、むかし映画で見たエヴァ・ガードナーを連想するほどだった。それに白のTシャツにブルージーンズ、それも目の置き場に困るほどぴったりしていた。

「お料理はなに? いい匂い!」

「秘密だよ。さあ、座って」

 テーブルにはすでに野菜サラダ、パンが並んでいた。フライパンで蒸し焼きにしていた『豚肉のホイル焼き』を皿に移し

「さあ、どうぞ」ステンレスのコップに白ワインを注ぎながら「ワイングラスがないので我慢して」コップを掲げて「なにに乾杯? これはどう。二人のめぐり合いに」

「そう、それでいいわ」光代の目が少し潤んでいるように見えた。

「あー美味しい。このワインさっぱりしていて。お料理もいただこうかしら」光代はホイルをはずして一口食べて

「うん、これも美味しい。程よい塩味とクリームのまろやかさが、豚肉を引き立てているわ」と言いながらワインに手を伸ばしていた。健二は彼女の母親について自ら話すまで黙って聞くことにしていた。

「久しぶりにリラックスした気分だわ。いつも大変なの。母は二年ほど前から認知症と診断され、今はかなり進んでいるの。私が娘であることさえ分からないのね。これは本当に悲しい。 わたしの話し相手といえばヘルパーさんで、ワインを飲みながらというわけにいかないでしょ。事務的といえば事務的ね。有吉さんにはいろいろとお世話になったわ」そこでフーとため息をついた。

 健二の携帯電話が鳴った。時計を見ると午後六時を少し廻っていた。

「はい、有吉です」

「やあ、蘇我です。折角の休暇中に悪いね」

「いや、構いませんよ」

「それで用件なんだけど、例のメゾネット形式のマンション・プロジェクトが急に動き出したんだ。資金的なことも大事なんで、あなたの予定を見るとあと四日あるね。少し早めてもらえないかと思ってね。

 最も海外旅行なら、こんなことは言えないが。幸い国内とスケジュール表にあるんで頼んでいるんだけど」

 社長はやたらに説明的で恐縮しているのが分かる。

「分かりました。二日ほど早めます。あさっての午後顔を出しますが。いかがです」

「ああ、それで十分だよ。いずれこの埋め合わせをするよ」

「そうですね。覚悟しておいてくださいよ。とんでもない要求をするかもしれませんよ」と健二は笑いながら言った。

「おいおい、脅かすなよ。両手を挙げて降参するよ」ハッハッハッーと大きな声が聞こえて電話が切れた。

「急用ですか?」と光代が問いかけた。

「どうやらそのようですね。わたしが勤めているのは、不動産会社なんです。そこの経理部門を担当していて、あるプロジェクトが急に動き出したというんです。何かをする場合お金がついて廻りますので、わたしも呼ばれることになるんです」

「さっきのお電話では、あさってお帰りになるとか?」

「ええ、明日でもいいんですが、あと一日、あなたとデートできればうれしいんですが」

「あら、困ったわ。明日は母のところへ行かなくちゃならないんです」

「そうですか。それじゃ、もう少し飲んでお開きにしましょうか」

 ワインを注いで舐めるように喉に流し込みながら静かな時間が過ぎていった。しばらくして光代が話し出した。

 彼女の話によれば、娘ともども実家に介護のため帰っていること。住まいと勤めは東京で、デザイン関係の仕事の方は一時休職になっていること。実家の隣が兄の家だが、兄も兄嫁も母と折り合いが悪く面倒見たがらないということ。娘は来年大学を卒業のため、今秋から就職活動に入ること。彼女の個人的なことでは、離婚経験者だという。

「家庭の中を覗くと、どこにでも同じような問題を抱えているんでしょうね。兄嫁は、私が母を介護するのを、財産目当てだと言っているようなの。本当に嫌になる。人生って悩み多いわね。ところで有吉さん、一人でキャンプなんて、奥様に悪いんじゃないんですか?」

「ええ、今もあなたのような美女と一緒だと、やきもちを焼いているんでしょうね。草葉の陰で」

「あら、ごめんなさい。そうだったんですか」

「ちょうど一年前に、交通事故で亡くなったんです。そんなことで、独身貴族に戻りました」

「でも、まだお若いからどなたかとお付き合いなどは……」

「いえいえ、そんな人はいませんよ。社長も気を遣って言ってくれますが、その気は、 今はないとはっきり言ってあります。

 誤解しないでください。未来永劫無いとも言っていませんからね。ようやく一人が慣れてきたところです。これでも掃除や洗濯、料理も出来るんですよ」

「ええ、料理の方はさっき頂いたので分かります。私の娘なんて、気が向けば料理をしてくれますが殆んどしてくれません。親の気持ちも分からないなんて、大学生があきれちゃう」

「いや、そうでもないですよ。甘えがあるのは確かでしょうけど、さっきお嬢さんから頼まれました。母のお友達になってあげて欲しいと。お嬢さんはお嬢さんで何かと気にかけているようですね。いいお嬢さんですよ」

 光代は言葉もなく暗い夜空に目を凝らしていた。コールマンのガソリン・ランタンのシューという音が静寂をかすかに震わせていた。

 健二は車の中で聴いていたロッド・スチュワートの「この素晴らしき世界」を選んでCD/MDポータブル・プレイヤーのスイッチを入れた。


目に映るのは木々の緑 

そして赤い薔薇

どれも僕と君のために咲き誇っている

そして僕はひとり思う

なんて素敵な世界なんだろう


 聴いていた光代の目が濡れている気がした健二は、手を彼女の手に重ねぎゅっと握った。光代は視線を向けて、力なく微笑み握り返してきた。それからの光代は言葉が少なく、考え込んでいるようだった。その光代を眺めていると、健二の感情は前後の見境なくわれを忘れて思わず抱き寄せ唇を重ねていた。光代は抵抗するそぶりを見せたが、やがてお互いの舌が絡み合い唇を離したときは肩で荒い息をしていた。見つめあってもう一度キスをして、健二は光代の背中を撫でながら「あなたが欲しい」と言っていた。

「今日はだめ、お願い。よく考えさせて!」

 それからは重い静寂に包まれていたが、唐突に「じゃ、今日はこの辺で失礼します」と言って光代は帰っていった。健二はありったけのビールを飲むつもりだったが、何故か喉を通らなかった。真夜中まで、光代とのキスと抱擁の感触が生々しく(よみがえ)り眠れなかった。


 光代は夜具に横たわっているが、目は夜行性動物のように何かを捕まえようと冴えていた。健二の抱擁とキスの余韻は、消え去るどころか、生々しさが増す一方だった。長く封印していた性的な感情が目覚め始めたのを意識してもいた。

 所詮(しょせん)この世は男と女、性的に結ばれるのが必然としても、それなりの人生を築いた光代の立場から言えば、それだけでは釈然としないものがある。一方で世の中は、やってみなければ分からないことも多い。頭の中であれこれ考えても、完全な回答が出るはずも無い。

 今光代に必要なのは、勇気だった。その勇気を引き出すために、頭の中で箇条書きを描いた。

有吉健二という男を好きか? 好き

好きならどういう点が? やさしさと男らしさ

なぜ分かる? 娘を助けてくれたしキスの仕方に性急さが無かった。それにわたしを求めたいと言葉で表現した。

異性関係は? 無いと本人も言っていたが、一人でキャンプが何よりの証拠。

財産は? 地位は? それは重要なことかしら。犯罪者でなければ何も言うことは無い。とは言ってもある程度は必要かしら。社長からの電話をそばで聞くかぎり地位もありそうで、収入もそれなりに。

そして何より娘が気に入っていることとセックスを求めているのは、健康な証拠といえる。欠点は何か? 今のところ見当たらないし分からない。

どうする? 恋に歳は関係ない。自分の直感を信じるしかない。その直感は、○。じゃあ突撃あるのみだわ。あら、物騒な表現。光代は決心した。


 眠れない夜を過ごした光代は、まだ暗いうちに目を覚ました。窓からは星空が見えていた。飛び起きて素顔のまま車をキャンプ場に向けた。

 たたき起こされた健二は寝ぼけ(まなこ)でウロウロとしていたが、「日の出を見に行きましょう」という言葉にすばやく反応した。


エピローグ

 健二の運転で峠について、昇る太陽の黄金色の中に出た光代は、健二の暖かい視線を感じた。微笑を返して寄り添った。

 健二が手を差し伸べてきたので、それを握った。これからどんな人生がお互いの上に訪れるのだろう。母の人生も大事にしてあげたい。それに私の人生も。頭を健二の肩に傾けた。健二の手が肩を抱いたのを感じた。

「今夜、お待ちしてるわ」

顔を健二に向けると、健二の両手が光代の頬を包み濃厚なキスが全身を貫いた。心は穏やかだった。


あとがき 

 伴侶(はんりょ)をなくした人、(ゆえ)あって離婚を余儀なくされた人、中年の男女にとって思いもよらない事態に変わりはないでしょう。残りの人生をどのように生きるのか。一抹の寂しさは否めません。心の奥底には異性へのこだわりの感情が(うごめ)きます。それらを想像しながら、わたしの理想の女性を登場させました。

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