4 健二と光代の出会い
ふと目を覚ますと、すでに夜は明けていた。昨夜は、レトルトのハンバーグと食パンをビールで流し込み、長距離の運転で疲れていたのか早めに寝てしまったようだ。今日は運動のためこの近くの山に登る予定になっている。
ベーコンと玉子四個を使ったスクランブルエッグを作り、食パン四枚をアルミのプレートでトーストにして、チューブからマーガリンを押し出して塗りつけた。二枚は朝食用に残り二枚は昼にも食べるのでラップに包む。車で林道の鎖で遮断されているところまで行きそこから林道を歩く。暫らく行くと登山道を示す小さな標識が木に打ち付けてあって、踏み跡が薄暗い樹林の中に消えていた。その道に足を踏み入れると林道とは違い空気が冷たい。道をたどると大きな木が横に枝を張っていて道をさえぎる格好になっていた。道はその根っこの部分を乗り越えなければならない。しかも湿っていてかなり滑りやすいようだ。
慎重に足を運んだが、右足が小枝にとられて、左足を咄嗟に出し踏ん張った。その瞬間左足ふくらはぎに激痛が走った。左足ふくらはぎは、ジョギングのとき、たびたび痛めていたところで、最近ではテーピングで保護していた。それを今回うっかり忘れていたのだ。
畜生! と叫んでみたところでどうにもならない。山登りはあきらめて、びっこをひきながら車にたどり着いた。幸い運転には問題がない。
キャンプ場に向け県道を走っていると、前方を自転車のロードレーサーに乗った若い女性が目にとまった。格好のいいお尻に、プロポーションも悪くないなあと思いながらゆっくりと追走した。筋肉質の脚は力強くペダルをけり、お尻はサドルに密着していて微動だにしない。それを見ていると男の本能が少し目覚めたような気がした。かなりの間、妻とは性交渉がなくそのまま妻は逝った。これも心残りの一つだった。ぼんやりと思いに耽っていると、道は少し上りになり下りに入ると左に急カーブを切っていた。
ロードレーサーは、後ろを押されるようにぐんぐんとスピードが増していて、コーナーのピークに差し掛かったとき、前方からカーブの内側を曲がってくる車が見えた。このまま行けば接触事故は避けられない。彼女は回避しながらブレーキをかけ左にハンドルを切った。スピードが出ていたため止まれずに側溝に突っ込んだ。
それを見た健二は急ブレーキをかけ、転倒した女性に駆け寄った。女性は顔をゆがめて左腕を右手で支えていた。どうやら骨折したらしい。女性を驚かせた車の姿はすでに消えていた。運転の下手なドライバーには怒りを覚える。大回りでカーブを曲がって来れば、この女性の事故は起きる筈もない。
女性を助け起こし「病院へ連れて行くからね」と言うが、女性は頷くだけで、うんうんという痛みに耐える音を発しているだけだった。自転車を後のサードシートを畳んだままのスペースに放り込み、彼女を助手席に座らせた。
「この辺は詳しいの?」と聞くと彼女は頷き「なんとか分かると思います。この道を湯西川温泉に行ってください」という。
湯西川温泉街に入る手前に栗山村立湯西川診療所があってそこに乗り入れた。彼女を抱きかかえるようにして受付で緊急の旨を伝える。二十代前半の可愛らしい看護師が診察室に消えてすぐ出てきた。
「こちらへ来てください」といいながら廊下を先に歩き出した。女性の腰に手を当ててついて行き別の診察室に入った。
「こちらに座ってください。それからお父さんですか?」と聞いてきた。
「いえ、違います。彼女が転倒したのを見た者です」
「じゃ、取りあえずここから出ていただけますか。あとで詳しいことをお聞きしますので、待合室でお待ちください」
待合室の椅子に座って目を閉じた。座るときに左足ふくらはぎに痛みを感じた。女性を助けるためにふくらはぎの痛みを忘れていたようだった。ついでに診てもらおうかと思うが、湿布をくれるぐらいだろうからこのままでいいと自分を納得させた。
ふと気がついたのは、この診療所の対応だった。緊急ですと言ったせいか対応が早かった。それで思い出したのは、妻と行った筑波山での出来事だった。筑波山に登って下山にケーブルカーを利用した。ケーブルカーが山麓駅に着いたとたん、妻が胸の痛みを訴えた。顔色が悪く苦しそうだ。病院に行こうと言っても「大丈夫、家に帰れば直るわ」と言って聞かない。車を発進させた。
筑波学園都市に差し掛かったとき、妻の様子はかなりひどい。顔色は死人のようにどす黒い。家まで持つはずが無い。信号の手前に「筑波大学付属病院」の看板が目にとまった。何の躊躇もせず左折して駐車場に入った。妻を車に残して、受付に急いだ。さて、ここからが思わぬ展開になる。
「緊急です。妻が胸の痛みで苦しんでいますので、すぐ診ていただけますか?」
時刻は午後二時を過ぎた時間だった。受付の女性は躊躇しながら難しそうな返事を返した。そこではたと有吉は気づいた。つまり救急車で搬送されてきていないので、取り扱いに苦慮しているということだ。
とっさに有吉は言った。「救急車を呼びましょうか?」これには彼女も参ったようだ。それはそうだろう。病院から救急車の依頼なんて恥もいいところだ。
「じゃあ、奥様を連れてきてください」
有吉は入口にあった車椅子を押して戻った。妻を乗せて受付に引き返すと、そこには医師と看護士を含め三人が待っていた。それからはテキパキと診察が開始され、結局病名は、ウィルスによる心膜症と診断された。妻は十日ほどの入院ですんだ。
この病院の名誉のために付け加えると、妻と同室の患者たちは、「いい病院に入れて、あなたはラッキーだったわよ」受付の不手際とまではいえないが、有吉のとっさの一言が有用だったのは確かだ。
そんなことを思い出しながら、いつの間にか眠っていたらしい。ハッとして目を覚ますと、待合室には、おばさん二人と子供二人が椅子に腰掛けていた。健二を見る目が好奇に輝いてもいた。六歳ぐらいの男の子がニコニコと笑っていた。有吉は、男の子に笑顔を向けた。健二はほっとしたせいか左ふくらはぎがまた痛いのを思い出して顔をしかめた。
早速、おばさんたちの質問が開始された。
「どうしたの」「あなたの娘さん?」
まあ退屈しのぎの面もあるのだろう。やたら質問が多い。
「あの娘は、加賀美という家の娘よ。今母親と帰ってきてるよ。おばあさんの認知症の介護のために。あの家はかなりの地主。で、あんたは?」
「ああ、わたしは娘さんが転倒したのを見て、担ぎ込んだだけですよ」
「親切だね。今時みんな知らん顔が多いのに。それでどこから来なさった?」
「千葉からキャンプに来ているんです」
「へえ、家族で?」
「いえ、一人です」
「一人? まあ寂しいもんだね。若くもないのに」健二は大きなお世話だと声に出さずに呟いた。
そのとき先ほどの看護師が診察室から出てきた。そして聞かれたことは、転倒の状況、健二の住所や携帯電話の電話番号といまどこに泊まっているかということまで詳細に。
「もうすぐ手当てが済みますから、有吉さんはお引取り願ってもかまいませんよ。彼女のお母さんが迎えに来ますから」と言う。
「それじゃ、彼女に一言断って帰ります」
診察室から出てきた彼女は、腕をギプスで固定され、包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「お世話になりました」
目元のすっきりとした細面で美人の彼女は何度も頭を下げて恐縮していた。
「自転車を駐車場に降ろしておきますよ。お大事に!」
「それで結構です。ああ、それからお名前は……」
「ああ、それは看護婦さんに詳しく伝えてありますから、そちらに」
「わかりました。本当にありがとうございました」また彼女は頭を下げた。
自転車を駐車場に置いてキャンプ場に向かったが、途中で共同浴場に寄った。今回も妙齢のご婦人は見かけなかった。
タープの下で缶ビールを一口飲むと、胃の中にスーッと流れ落ちるのが分かる。ついでに思い出したのが、何も食べていないということだった。車から取り出したラップに包んだサンドイッチを摘んだ。午後の気だるさが襲ってきて、健二をテントの中に追い込んだ。横になると瞬く間にまどろみに呑み込まれた。
遠くで声が聞こえたような気がした。目を明けテントの天井を見つめるとようやく意識が目覚めた。女性の声のようだった。一体誰だろうと、ファスナーを引きあけるとそこには四十代と思われるすらりとして色白で目のきれいな女性が立っていた。その女性を見つめて一瞬瞬きも忘れたようだった。おそらく口はあんぐりと開いていただろう。
「失礼します。有吉様でいらっしゃいますか?」とその女性は言った。
「ええ、そうですが。何か?」
「突然お邪魔します。先ほど病院に運んでいただいた娘の母です。病院でこちらと伺って参りました。わたくし加賀美郁の母光代と申します。このたびは大変お世話になりました。そのお礼に伺いました」
「いえいえ、どうってことないですよ。人が怪我をしたんですから、当然のことをしたまでです。ところで、お嬢さんの様子は如何ですか?」
「ありがとうございます。骨折で痛みが引けばあとは時間の問題だと先生はおっしゃっています。若いから回復は早いだろうとも。なにぶんおてんば娘ですから、日ごろから気をつけなさいと言っているのですが。これで少しはおとなしくなるかもしれません」
「まあ、そうかもしれませんが、若い人は元気が何よりですよ」
「そうですね。娘が、痛みが治まれば伺いたいと言っていますが、ここにいつまでいらっしゃるのですか?」
「別に決めていません。居心地がよければいつまでもいたい環境ですね。それから、お気遣いはありがたいのですが、無理なさらないでください」
彼女は頷いただけだった。
「あのー、よかったらこれを、ほんの気持ちだけですが」と言いながらビール・ワンカートンを抱えてきた。
「なにもそんなことまでしなくても……」
「いえ、ぜひ納めてください。お願いします」
「そうですか、それじゃ遠慮なくいただきます」
「それじゃあ、失礼します。本当にありがとうございました」彼女は暫らく有吉を見つめてから、車に乗り込み走り去った。
見送りながら、あの母があってあの娘ありかと呟く。娘もかなりの美人だった。その母親も胸騒ぎを起こさせる魅力があった。




