3 加賀美光代の帰省
「まだ? 早くしなさいよ」光代の声は強張っていた。
「もう少し待ってよ。ママ」娘の郁の大きな声が部屋中に飛び跳ねた。
母加賀美光代と娘の郁は、実家に車で向かうところだった。光代は渋滞に巻き込まれるのが嫌で早く出たかった。ところが郁の言い草によると「真夜中に走るのでなければ、少しぐらい早く出たからといって道路が空いてるとは限らないわ。高速道路は事故さえなければ少しずつ流れるから、それほど気にすることもないわよ。それに都心を抜ければあとは順調のはずよ」となる。
まあ、それも一理あることは確かで、強く反論することもできない。そういうわけで、気ままな大学生の娘は、夜遅くまで友達とパソコンや携帯電話でメールのやり取りに忙しそうだった。当然朝は遅く起きる。
光代はビジネスの世界で時間厳守の重要性を肌で感じていて、まるでコンピューターに操られるように、極端に言えば秒の単位で動いている。そんな母と娘にはギャップが存在する。とはいっても、いつもぎくしゃくしているわけではない。家具や家電品、車といった共用の物品の買い物には連れ立って出かける。外から見る二人は、うらやましいぐらいこの世で一番幸せな母と娘に映る。二人と行き交う人々は、男女を問わず今一度確認するように振り向いていた。いたって仲のよい母娘だった。
母光代は、身長一六三センチ、すらりとした肢体に女の色香を漂わせる魅力的な四十五歳の女性だった。光代はデザイナーが本職で、女性の友人三人と会社を立ち上げて、事業を軌道に乗せていた。
娘の郁は、母の身長をはるかに超え一七○センチの長身、母に似て美人だった。今回の帰省には、車の屋根にサイクル・キャリアを取り付けて、ロードレーサーを運び、実家付近のアップダウンの道路をサイクリングする計画を立てていた。光代から見ると、それが気に入らない。なにせ認知症の母の見舞いと介護にいくのだから。
それに言いたくはないが、郁の歳にはもう結婚していて、遊ぶどころではなかった。得て勝手かもしれないが、それも気に障る要因ではあった。おまけに結婚して十五年も経って離婚という苦しい選択を迫られた。
その原因に離婚の二年前に立ち上げた会社を軌道に乗せるため必死で仕事に没入したために、夫の世話がおろそかになり、夫はほかの女に眼を向けた。男は子供と一緒で、誰かが世話をしてくれないとむくれる。扱いにくい種族だ。
離婚を経験して光代は強くなった。言い寄る男も数多くあったが、ことごとく無視した。冷たい女と思われたが、気にもしなかった。
そして、郁が育ちいまや一人前の女として社会に羽ばたこうとしていた。その意味するところは、独り立ちしていずれ光代から離れていくことだった。子育ての緊張から開放された光代に襲い掛かるのは、なんとなく感じる寂寥感だった。あるいは温かみが欲しいという感情が肌を震わせていることだった。
サングラス越しに見る青い空は、白い雲がぽつんと浮かび見つめているとカキ氷を連想させてくれる。そして食べたくなる。
「つぎのパーキングでアイスクリームを食べる?」と光代は言った。
「いいわよ。ちょうど何か食べたいと思っていたから。それにしても、どうしてアイスクリームなの? 甘いものを控えると言ってなかった?」
「そう、まさにそうなの。でも、あの白い雲を見ていると、無性にアイスクリームが食べたくなったの」
「へえー、あれだけ甘いものを避けてたのにね。ママ、何か不満でもあるの?」
「そんなの、ないわよ!」
「だってね。女はストレスにかかるとバカ食いするというじゃない」
「そうでしょうとも、それより何でもいいから音楽をかけて!」
白のベースボールキャップにからし色と薄い水色の縞の入ったコットンの半そでシャツにジーンズというラフな恰好をした健二は、車のハンドルを握りながら、流れる音楽に耳を傾けていた。ロッド・スチュワートの「グレイト・アメリカン・ソングブックVOl3」からジャズのスタンダード・ナンバーが次から次へと流れてくる。編曲が親しみやすく豊かで、どれも気分のいいものだった。
気分はハイになっていて、トラックの排気ガスも気にならない。片側二車線の幹線道路を走っていて、信号で停まったとき反対車線側の歩道を、幼児をベビーカーに乗せて押している若い女性に目が留まった。思わずスポーツサングラスを下げて、その女性を見ると夏の装いだった。半そでのTシャツにジーンズ、凹凸がくっきりとしていてかなり目立っていた。
眺めていると思いはかつての新婚初夜に飛んでいた。妻もあんな体形をしていた。それにしてもあの旅館のシーツはひどかった。糊がバリバリに効かせてあって、翌朝両膝が擦り剥けていたのを思い出してにやりとした。悪ふざけだったのかと今でも思う。
突然うしろから強烈なクラクションが鳴った。はっとして見るとトラックがすでに発進してかなり前を走っていた。アクセルを踏んでトラックを追走した。暫らくするとまたもや、若き日の妻の追憶に戻っていた。
夏の日差しを一杯に受けて渚で笑っている妻。山の頂上でおにぎりを頬張っている妻。キッチンで料理をする妻。花を生けている妻。子供を抱いて笑っている妻。まるでデジカメから画像をパソコンに取り込んでいるように像が結ばれる。
前を走るトラックが減速した途端、急ブレーキを踏んだ。一瞬ののち健二も急ブレーキで危うく追突を免れた。ふう―と大きく息を吐き、追憶を締め出した。同時にサウンドのスィッチも切った。
七月の陽光はギラギラと、木々の葉叢に照りつけ、気だるさとともに清澄な空気も運んでくるようだった。太陽は頭上にあって、落ちる影が短い。そう思うと空腹を感じた。前方に見えていたファミリー・レストランが近づき、大きなPの看板の横を駐車場に乗り入れた。
車から出ようとして、ドアの取っ手に手をかけたときハッとした。夏期休暇のことを、相沢美奈に連絡するのを忘れていた。無駄な朝食を持って途方にくれるか、怒っているかもしれない。とにかく電話をしてみよう。
「はい、相沢です」携帯が応答した。
「おはよう、有吉です」
「チョット待ってください!」挨拶も返さずに言った。しばらく沈黙があって
「お待たせしました。今会議室に移動しました。何の御用ですか?」声に冷たさが混じっていた。
「今日、夏期休暇をとっているんだ。それをあなたに連絡をしてなかったもので……」
「ああ、そのことですか。ご心配なく、経理に親しい女の子がいるんです。その子が、部長の動静を知らせくれますから」有吉の声を遮るように美奈は言った。その声音には怒りが含まれていた。経理の女の子が連絡してくれるとはいっても、有吉からの連絡を待っているのも確かで、それが怒気の原因なのだろう。
健二は一瞬、相沢の朝食の手配を解消するにはどう切り出せばいいか考えをめぐらせていた。こういう休暇ばかりでなく、出張や社長との朝食会、突然の来客などいちいち連絡するのも煩わしいと思っていたからだ。
「本当に申し訳ない。それで、わたしも一人暮らしに馴れてきたんで、朝食を家で食べようと思うんだ。月曜日は特別早く起きればいいだけのことだしね」
「そうですね。なら、そうなさったらいかがです?」
「わかった。事情を理解してくれてありがとう。それじゃあ、失礼するよ」と言って電話を切った。
やれやれ、どうも女性相手ではうまくことが進まない。しかし、これで余計な気を遣わずに済むのは助かる思いだった。彼女は男と女の関係を意識しているようだったが、健二にしてみれば、それはありがた迷惑だった。
ようやく陽射しの中に足を踏み出すと、肩に突き刺さるような暑さが纏わりついてきた。店内は冷房が入っていて涼しかった。お昼には少し早いのか、客はまばらだった。窓際の席についてランチを注文する。熱いおしぼりで手を拭きながら見るともなく見渡すと、四人の肥満家族がわき目も振らずに山盛りの食事に熱中していた。
再び追憶に戻ろうとしたとき、ランチが運ばれてきた。「豚肉のしょうが焼き」「サラダ」「味噌汁」「ご飯」にあとコーヒーがついている。食べているとお客が次々と入ってきた。瞬く間に席が埋まっていく。家族連れ、年配のグループ、若いカップルなどで、この人たちはどこへ行くのだろうと、余計な詮索を始めていて、またかという思いの自分がいた。
外に出ると相変わらず強い陽射しに目を細めながら、車のドアを開けると中からムッとする熱気が襲ってきた。両側の窓を開けたまま少し走ってエアコンを入れる。買って三年目のステップ・ワゴンは、荷物を多く積めるので重宝する。いまもテント、シュラーフ、折畳みテーブル、折畳み椅子、フライパンや鍋などの食器類を入れたコンテナーを詰め込んでも余裕がある。
鬼怒川温泉街を抜けて川治温泉から海尻橋を県道二四九号黒部西川線へ入っていく。ここまで来ると空気もひんやりとしてほっとした気分になる。湯西川温泉への道と分れて安が森林道方面に行くと、広々とした自然公園安らぎの森があり、ロッジ、炊事場、水洗トイレ、公衆電話、バーベキュー広場のほかには、キャンプ場と広い青空ときれいな空気、木々の緑に沢音が聞こえる程度の静かな空間は有り余るほどで、こういうところに来ると感じる心の落ち着きとなんともいえない幸せな気分に包まれた。
ロッジが管理棟を兼ねていて、そこには人がいない。炊事場で手と顔を洗っていると、軽トラックの音がしてロッジの前で止まった。降りてきた年配の男の人が、こちらにチラッと視線を向けながらロッジに入っていった。たぶん管理人なのだろう、ゆっくりとロッジまで歩いて行って「テントを張りたいんですが?」管理人は濁った目を向けて「一泊?」と聞いてきた。
「二・三泊と思っているんですが、決めていません。とりあえず今日一泊ということでお願いして、明日決めます」
「ああ、それでいいですよ。何人ですか?」
「一人です」
「じゃあ、千二百円いただきます。入場料二百円とテント一張り千円です」料金を受け取った管理人は、領収書を手渡しながら
「ここはシャワーも入浴設備もないんです。湯西川温泉に共同浴場がありますのでそちらをご利用ください。チョット分かりにくいかも知れません。温泉街で聞いてみてください。そこは地元の人がよく利用しますが、混浴になっています。それから七月といってもこの山間では、夜は少し冷えますからそのつもりでいてください」といって金歯の多い歯を見せて笑った。
有吉は意外に歯切れのいい言葉に驚いたが「そうですか、分かりました。で、テントはどこに張ってもいいんですか?」
「ええ、お好きなところで構いません」管理人は熟年の男一人のキャンパーに奇異の目を向けた。
道路から少し離れ、炊事場やトイレからもそう遠くないだだっ広い草地の中に、テントとタープを張った。夜は漆黒の闇に包まれるだろう。その代わり天気がよければ星空を満喫できる筈だ。設営が終わったのは、午後四時半だった。
温泉街で聞いた共同浴場は、なんとも素朴で思わず顔がほころぶ。誰もいなかった。妙齢のご婦人を期待したが叶わなかった。なにを今更! と影の声が言っているようだった。




