2 一人暮らしの朝食
で今、道路地図を見ながら、よくキャンプに行ったことを思い出していた。うん、キャンプがいい。何処へ行く? これが難題で、やっと思いついたのはサイコロで決めることだった。
大まかに1が北、2が東、3が南、4が西という具合に。本箱の引き出しをかき回して、かび臭い埃の中から出してきたサイコロを振ってみた。5や6が出ればやり直しだが、いきなり1が出た。よし、地図を見ると興味ある地名が目に入った。栃木県の鬼怒川、川治温泉の奥、日光市に編入された旧栗山村湯西川温泉だった。平家落人伝説に彩られた秘境といわれていて、都会に住む人たちを惹きつけていた。学校が夏休みに入る前が日程に自由が利くので、七月の中旬に決めた。その頃に早めの夏期休暇をとるつもりだった。
キャンプもいいが、その前にここ何ヶ月もウォーキングもジョギングもせず全く動いていない。キャンプ場の近くの山にも登るつもりなら、少し筋肉をつけなければならない。明日からは強めのウォーキングを始める決心をする。健二はようやく元に戻りつつあった。
季節の移ろいは、梅の花を見たと思えば櫻の花びらが重たげに垂れ、瞬く間にゴールデンウィークも掠めていった。そして紫陽花の咲く梅雨も過ぎ、梅雨明けはいつかが話題に上るようになった。
月曜日の朝は、いつも忙しい。午前八時から社長を交えたミーティングが開かれることになっていて、通勤に二時間近くかかるため健二は六時に自宅を出なくてはならない。独身貴族になった健二は、朝食を抜いて出勤することが多くなった。
会議終了後の九時に遅めの軽い朝食ということになる。妻を亡くした後の二・三ヶ月は、近くのコンビニで買ってきたサンドイッチを食堂で食べていた。
たまたまそれを見たのが、総務部庶務課長の相沢美奈という四十三歳で独身の女性だった。特に美人というわけでもないが、パッチリとした目と色白ですらりとしたスマートな体が魅力的な印象を与えている女性だった。その彼女が自分の昼食を買うついでに、健二のものも買ってきてくれるようになった。
いつも買ってきてもらうのも気兼ねなことで、ほんの時たま彼女の分を負担することもある。彼女は強く辞退するが、強引に支払っていた。彼女は単に善意の行為と考えているのかもしれない。
ミーティングは、時間通りに終わり部長席に座ってきのう現在の試算表とその付属書類に眼を通していると電話が鳴った。
「ああ、ありがとう」と言って電話を切った。相沢美奈から、買ってきたものを食堂に置いてあるという連絡だった。経理部の五人の女性社員の目が一斉に有吉に向けられた。
有吉は気づいていないが、社内の女性社員の間では、相沢美奈が有吉の朝食を買ってくることが、怪しい関係という噂になっていた。
サンドイッチを一口かじったところへ、相沢美奈が入ってきた。会社が支給する紺のスーツを着て茶色のウォーキング・シューズを履いていた。このスーツとシューズは、相沢美奈の提案で採用された。理由はいろいろあったが、要するに格好いいユニファームと楽な靴での勤務を望んだということだ。その提案に蘇我社長は、即座にOKを出した。内容の吟味は相沢美奈に任され、女子社員で構成される検討委員会が設けられて今の形になった。
腕に書類を抱えた相沢が「コーヒーをお淹れしましょうか?」と言った。
「ありがとう、頼むよ。それからいつもお世話になっているんで、近いうちにお昼を一緒にと思っているだけどね」
「あら、うれしいです。でも、お気遣いにならないでください」と言って顔を伏せた。
「いや、明日、経団連のセミナーに出かけるのでね。その前にお昼を一緒にと思っただけさ」
「そうですか、じゃあどこでお待ちすれば……?」
「そうね。千代田線の大手町駅経団連会館出口付近に十一時半はどうだろう」
「大丈夫だと思います」
「何かあったときのために、わたしの携帯電話番号を教えておくよ」
その日は雨模様の天気で、傘を持ち歩くといういやな日になった。待ち合わせ場所に行くと、すでに相沢美奈が待っていた。蒸し暑い日のせいか白のブラウスと紺のスカートに、通勤用なのだろう黒のローヒールを履いていた。遠くから見るとかなり背が高く見える。それに胸の肉付きがよく、眼の置き場に困る気がした。
「やあ、お待たせしたかな」
「いえ、今来たところです」
「そお、ならいいけどね。この近くに洋食屋というのがあるんだ。味はなかなかいいんだ。だから混んでいるよ。早速行ってみよう」
二人は並んで歩き出した。有吉は身長一七○センチで、相沢とさして違わない気がした。身長が自分と同じか、あるいはより高い女性と並ぶのは落ち着かない気分になる。目当ての洋食屋は、混んでいたが、丁度先客が立ち上がってレジに向かうところで、すばやくそのあとに座った。
店内は若いサラリーマンやOLで満席状態だった。会話の声や厨房の料理を作る音、ウェイトレスの忙しく動きながら注文をとったりそれを厨房に伝達する声などが充満していて静かに話を交わす雰囲気ではなかった。
「チョット場所を間違えたかな。これでは落ち着いて会話もできないね」
相沢美奈は、落ち着いて会話? 何の話だろうと訝ったが
「たしかに混んでいますね」と返事にならない返事をした。
「ここで食事をして、別のところでコーヒーでも飲もうか」と有吉はつぶやいた。
今日のお勧めの「仔牛肉の煮込みランチ」を注文して、ほとんど会話もなく食事を終えた。
近くのビルの二階にあるコーヒー専門店に席を移した。ここは比較的静かで話をするには問題はなかった。コーヒーが運ばれてきて、二人の前にカタカタと音を立てて置かれた。
「相沢さんにはいつもお世話になっているんで、たまにはお礼の意味を込めてご一緒をお願いしたんだ。それに会社の近くでは何かと目が気になるだろうと思ってこんなところまで来てもらったってわけなんだ」
「そんなお気遣いはなさらないでいいんです。でも、私が部長の朝食を買っているのを、社内では噂になっているようなんです。今朝、食堂に行ったのはこのことをお話したかったからです。そのときお昼を一緒にとおっしゃったので今お話ししたんです」
「へーえ、噂に? どんな噂か見当はつくよ。あなたに迷惑をかけるわけに行かない。これからは自分で買いに行くよ」
「ええ、それはいいんですが、急にやめるのも噂を認めることになりませんか? その辺のところをご相談したいと思っていたんですが」
「なるほど、そうかもしれない。今まで通り馬耳東風でいこう。あなたはどう?」
「わたしはかまいません。今わたしの分と部長のお昼を買っていますが、ほかの人のも一緒に買うことにします」
「よし、ご苦労をかけるが、しばらくその調子でいこう」




