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ワクラバ

S氏リクエスト「ワクラバ」で書きました。

 昨年の夏の、名残なのだ。

 三日しか書いていない日記の最後のページに挟んであったひとひらの葉。

 じりじりと太陽が肌を焦がす昼に、机に置いた日記帳からはらりと零れ出た。

 夏に見つけた、黄色い葉っぱ。

 誰が見ても病気の葉だった。


「知ってる。わくらばって言うんだよ。」

 そう彼女が言ったのは遠い昔の様でもあるのに、昨日の事みたいだ。

「ビョーキの葉っぱなんだ。」




 昨年の酷く暑い夏、哲也は入院したのだった。足を骨折して全治一週間。

 哲也は相部屋の窓際で一人静かに本を読んでいた。

うとうとと瞼を閉じかけていると、本にはらりと黄色い何かが舞い落ちた。

 変色した桜の葉だ。

 夏の桜は深緑が鮮やかだ。それなのに、元気もなくただしわがれたこの葉も確かに桜だった。

 例えば哲也に父がいたり、他の男子に比べて体が細く色白でなかったのなら、哲也はそれを窓の外に放って土に還してやっただろう。しかし、哲也は読んでいた本のしおりに使った。何となく、本当に何となくこのままさようならをするのが苦しかったのだ。


「知ってる。わくらばって言うんだよ。」

 誰もいなかった筈の哲也のベッド脇から、少女の声がした。

「ビョーキの葉っぱなんだ。」

 黒い髪を二つに結んだ少女が立ち、哲也を見ていた。

「だから、早くに枝を離れたんだね。」

 哲也はそう言った。この少女が誰であるとか、何処から来たとか、そういう質問をする前に答えたくなった。

「ビョーキだから、さようならをするんだ。」

 哲也は、殆ど自分に言い聞かせるような心地で言う。

しかし少女は首を横に振った。

「ううん。わくらばには二つの意味があるの。一つは 病気の葉っぱだけど、もう一つは木の若葉。」

そう言って少女は頬にかかるひと房の髪を耳に掬い上げた。

 相部屋の老人をお見舞いに来たのだ、と言った彼女は葵と名乗った。

「しっかりと緑色に育たない葉っぱがわくらばなの?」

 哲也は、葵にそう問う。

 葵は不思議そうに首を傾げる。

「さあ。」

 そうして葵は病室から去っていった。


 哲也はベッドの横から一冊のノートを取り出した。

哲也が毎日つけている日記だ。残りが少ないから、もう新しいものにしようと思っている。

 ぱらぱらとページをめくると、級友との人間関係に関する苦悩や愚痴や様々な負の感情が羅列されているのが分かった。

 哲也は日記帳の最後に文字を書いた。


「わくらば

 病気の葉っぱ。」



 次の日も葵は病室に現れた。今度は哲也に話しかける事なく、気難しそうな老人と楽しそうに談笑していた。

 哲也は一人本を読み、目が疲れると外の桜を見る。

桜の葉は今にもぷりぷりと弾みそうな程、太陽の光を真っ向から浴びて輝いていた。

こちらは太陽の日もろくに当たらない、日陰の室内だというのに。

 哲也は早く大人になりたかった。

 級友たちは、哲也の事を快く思っていないようだったから。

 だから、学校など早く卒業して大人になりたかった。

 大人になる為には、あと一年と半年待てば良い。

 だから、それまでは辛抱強くじっとしていればいいのだ。

「何読んでるの?」

 葵が話しかけてきた。もう親しい仲のつもりらしい。

「本。」

 哲也がふいと窓の方を向くと、葵はふうん、と納得した。

「うちのおじいちゃんもね、本が好きなの。」

 葵は哲也の冷たい素振りも気にせず話し始める。

「凄いのよ。おじいちゃんの読んでない本なんてこの世に無いくらい。ずうっと昔に大学で偉い教授をしてたから、本当にお話も面白いの。」

「ふうん。」

「でもね、ある論文を書いたら怒られちゃって。それで、大学を辞めさせられちゃったの。」

 葵は声を殺して、本当に残念そうに言う。

「怒られた?」

「うん。おじいちゃんより偉い人を批判しちゃ、駄目なんだって。」

 哲也はその話に吐き気がした。大学の教授より偉い人ですらも、哲也の級友と同じ事をするのだ。

「おじいさんも、わくらば?」

 葵はそう問う哲也にきっと怒りの目を向けた。

「おじいちゃんは、ビョーキじゃない!」

 葵は哲也の膝に掛けてある布団をぎゅうと握りしめた。

「本当にビョーキじゃなくても、緑色の葉っぱ以外はわくらばじゃないか。」

 哲也はそんな葵に静かな声で語りかける。

 幼くても、細すぎても、色が白くても、緑色の綺麗な葉でないのなら、皆、わくらばなのだ。

 哲也は本を読むふりをした。葵は何か言いたそうにしたけれど、黙って哲也のベッドから離れた。

その日、学校を離れてから終ぞ起こらなかった吐き気が哲也を襲った。


 哲也の吐き気の対処法は日記だった。

 日記に書きたい事を書きたいだけ書く。殆どは気持ちの悪い毒の羅列なのだが、書けば書くだけ自分から紙へ毒が排出されるようで安心する。

 だから今日の日記も毒で埋め尽くされる筈だ。哲也は消灯時間間際に、誰もいない談話室に向かった。新しく買ったノートを携えて一番隅の椅子に座る。

「ねえ、聞いた?高橋さんの。」

 哲也がノートに何かを書こうとした時、ぼそぼそと看護師の声が聞こえてきた。

「ええ。あの可愛いお孫さんしかお見舞いに来ない患者さんでしょ。」

高橋というのは、葵とその祖父の苗字だった。

「息子夫婦も余りお見舞いに来ないし、困ったわ。大事な用事があるのに。お孫さんから伝言してもらうのも、ねえ。」

「そうね、あんな小さな子供に任せっきりで。何しているのかしら。」

「それが親子の仲が悪いとか。」

「それにしたって末期癌の親を見捨てるみたいなやり方!もう、飽きれちゃうわ。」

 哲也は看護師の話を聞きながら、吐き気を増やしていった。増やした吐き気が日記に埋まる。何ページも何ページも埋まっていく。

 それでも、今日哲也の吐き気が消える事は無かった。


 気持ちの悪いまま朝を迎えた。

 哲也は食事も受け付けないままぐったりと午前を過ごした。

 昨日まで読んでいた本も開いていたが読む気になれず、手もとの黄色い葉を玩ぶばかりだった。

「本、読んでるの?」

 葵はいつもそっとやってくる。そっとやってきて勝手に喋っていく。

 哲也は今日、誰とも話したい気分では無かった。

 ふいと葵から顔をそむけて目を閉じる。

「ねえ。大人ってキモチワルイね。」

 葵は構わず喋る。彼女はどうやら石よりましな話相手が欲しかった様だ。

「おじいちゃん、何も悪いことしてないよ。ただ意見書いただけなのに、悪者扱いされちゃって。おじいちゃんの味方もいなくなっちゃって。おじいちゃん寂しいのに、何でお父さんもお母さんも分かってくれないのかなあ。何でおじいちゃんは、お父さんに怒られなくちゃならないのかなあ。」

 大人って、気持ち悪い。葵はまたそう呟いた。

「何で大人は、緑の葉っぱじゃなきゃ、いけないの。」

 病室はしんとしていた。当然だ。哲也と葵以外の人間がこの病室にいないのだから。

「あたし、大人になりたくない。わくらばのままでいたいわ。」

 葵はぽつりと呟いた。きっと彼女は、若い新芽のままでいたいのだろう。大人になりたくないのだろう。薄汚れた大人になんて。

「僕は、早く大人になりたい。」

 哲也はきっぱりとそう言った。その言葉は、数瞬の間沈黙の海にどろりと消えてしまったが。

「何で?」

「大人になれば、少なくとも、仲間が増える。」

「お友達、欲しいの?」

「友達じゃない。仲間が欲しい。」

「どんな仲間?」

「普通の、仲間。」

 きっと病気を持った、変わった色の葉に仲間なんて出来るはずないのだろうけど。哲也は本音を喉の奥にしまい込んだ。


 その夜も吐き気で眠れなかった。消灯時間を過ぎた談話室は明るく、そこでいつものように日記を書く。一ページ目を書き終えると、俄かに辺りが騒がしくなった。

 良く分からない単語と電子音が響く。血圧がどうのとか、心拍数がどうのとか、家族に連絡を、とか。

もしやと思って少しだけ自分の病室を覗くと、確かにその部屋が騒がしいのだった。

 あの病室には自分と高橋老人だけ。

 ああ、そうか。

 もう一度椅子に座りなおした哲也は目を閉じる。

 脳裏に、葵の表情豊かな泣き顔が浮かんだ。


 次の日、高橋老人は病室にいなかった。

 相部屋の広い部屋に、哲也は一人取り残される。

 葵とももう、会わないのだろうなと思った。そうすると凄く楽しい何かが失われたような気がしてつまらなくなった。

 夏も深まっている。秋になれば次第に色づいていくのだろう桜の木も、まだまだ青く茂っている。

 早く、この鬱陶しい季節をやり過ごしたい。

 早く、早く、早く。


 哲也は、ふと何かを思いついた。

 哲也にしては珍しい、素敵な思いつきだったかもしれない。

 その言葉を書きとどめようと日記帳に日付を書いた時に、いつもの様にそっと葵がやってきた。



「おじいちゃん、死んだわ。」

 静かな声だった。

 想像していたよりもずっと、深く沈んだ声だった。

「末期癌だったの、知らなかったの。子どもだからって、知らなかったの。あたし、子どもだから。」

「……わくらばで、いたいんじゃなかったの。」

 哲也は葵の顔を初めてじっと見ながら、そう言った。

「だって!お父さんもお母さんも知ってたのよ?あたしだけ知らなくて、にこにこ笑ってお話して、知らないからって……大人ってキモチワルイのに、大人じゃないと子どものままだし、大人になりたくないのに、子どもじゃ嫌なの。駄目なの。大切な人と笑えないの。おじいちゃんとさようなら出来なかったの。子どもだから、」

「わくらばって、」

 葵の嘆きに覆いかぶさるように哲也は喋った。

「きっと気が早く成長する葉っぱのことなんだよ。」

 哲也は涙さえ見せない無表情な葵の手を握った。

「ねえ、君はわくらばなんだろ。わくらばなら、わくらばらしく、成長してみないか?」

「あたし、だって、大人になんか…!」

「別に、緑の葉っぱが大人なんじゃない。緑の葉っぱじゃなくても大人は大人だ。」

 哲也はそう言って、力を込めて葵を引き寄せた。すぐにバランスを崩した葵は、哲也の胸に転げこむ。葵のしっとりと優しい匂いの髪に胸の苦しさを感じながら、哲也は葵を抱きしめた。

「少し、早く成長したいだけなんだよ。」

哲也は葵にも自分にも言い聞かせるように呟いた。






 今年の夏は、昨年ほど暑くない。

 それでも向日葵は咲き誇り入道雲は白く、シャツは汗まみれになるばかりだった。

 哲也は自室の机に日記を置いた。

 三日程しか使わなかった日記帳は、それでも哲也の大切な思い出の一つとなっていた。

 学校を卒業するまであと半年も無いのだけれども、卒業を指折りで心待ちにする事は少なくなった。


 荷物を鞄に詰め込んだ哲也は部屋を後にした。出かける先は、かつて大学教授だった老人の書斎。広くて本がたくさんある涼しいその書斎は図書館と変わりが無い。

 ただ、一つだけ。

 その書斎の現在の主である少女が、麦茶を用意して待っているのだ。


 昨年の夏、あの日無闇に大人になろうと足掻いたわくらば達は、ひっそりと大人になる準備をしていた。


end.

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