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concrete marriage

作者: 水沢桜成

「今度俺結婚するんだよね」

 彼の零した何気ない、しかし重大な一言で、私はパフェを運んでいたスプーンを一瞬止めてしまったことを自覚する。口に入れた苺の味をじっくり吟味して、果肉を噛みしめて飲み込んで、ようやく私は口を開いた。物が口に入っているのに話すのは行儀が悪い。

「へえ、誰と」

 私は首を傾げて見せる。私の記憶している限りでは、今現在彼には特定で付き合っている人はいなかったはずなのだけど。

「去年の夏に旅行に行った時に会った人がいるんだけど」

 その相手というのが大学生の時に同じサークルで後輩だった女の子らしく、大学時代はそうでもなかったそうなのだが、話していて意外にも意気投合して付き合いが続いていたそうだ。去年の夏というともう一年半も付き合いが続いている計算になる。

「なんで教えてくれなかったの」

 その子の話を聞きながらすっかりパフェを食べ終えてしまった。空になってもクリームはガラスの内側にこびりついていて、取ろうと思ってもなかなか取れない。私はそれとしばらく格闘していたけど、だんだん虚しくなってきて止めてしまった。

「言う機会なかったし、そもそも言うほどのことでもないかなと思ったから」

「まあ確かに」

 私は頷いた。実際その通りだ。

「そうだとしても急じゃない」

 話から察するに男女の関係になったのはここ一年の話の筈。そこから一気に結婚とはなんだか忙しく感じる。昨今は色々と「リスク」を考えた晩婚化が進んでいるというのにどうしてなのだろうと純粋に疑問を感じる。

「俺もそう思うんだけどさ。ほら、年とってから子供作ったりすると体力的にきついとも言うし、彼女も俺も子供欲しいとは思っているから、それなら早いうちに結婚しちゃった方がいいよなって」

 なるほど、一理ある。彼女さんの方はどうだか知らないけれど、彼の方はいまだ両親ともに健在だ。この年になってくると両親揃っているというのが珍しい(離婚とか、死別とか)からこれも追い風だと思う。なんだかんだ、子供ができた時にアドバイスしてくれる存在がいるというのは心強いだろう。

「ごちそうさまでした」

 そういえば言っていなかったなと思って、何となく手にしたままだったスプーンをお盆の上に置いて私は手を合わせた。久しぶりに来たけれど、ここのカフェのデザートの味は健在でよかった。

「どこ行ってもちゃんと言うよな、みどりは」

「なんのこと」

「ほら、俺なんかはファミレスとかだといただきますもごちそうさまも言わないから」

「ああ」

 確かに。言われてみれば彼が食事前後の挨拶を言っているのを聞いたことはあまり、ない。

「家とかで食べる時はいつも言っているし、そんなに気にするほどのことでもないんじゃない」

「うーん、そうかな」

 私は天井を仰ぐ。JRの線路の下にあるここのカフェは電車が通るたびに死ぬほど喧しくなるので内装の雰囲気が十全に生きたオシャレさがあるとは言い難い。それでも私たちがよくここに来ていたのは、いったいどうしてだっけ。

「子供」

「ん?」

 追加で頼んだコーヒーにコーヒーフレッシュを二つ入れ、攪拌しながらその白が全体に行きわたるのを眺める。これくらいゆっくりとかき混ぜていると、流動する白さがよくわかってほんの少し面白い。

「子供何人欲しいの」

「そうだな……」

 彼は少し思案する。彼のアイスコーヒーは少し汗をかいていて、下に敷かれた紙のコースターにじんわりとほの暗い染みを作っている。

「一人でもいいっちゃいいけど。やっぱり二人、いや三人は欲しいかな」

「なんで」

「だって好きな人との子供ならたくさん欲しいじゃん。お金とか大変だとは思うけれど、逆に言えば働くモチベーションにもなるし」

「なるほどね。ポジティブじゃん」

 彼のそういったところは軽率さを感じることもあるけれど、概ね明るくて良い所と捉えることができる。彼女さんもそういう所が好きになったのだろう。

 私はあんまり「子供が欲しい」と思ったことがないから、彼のセリフには半分くらいしか共感をすることができない。まあ、人それぞれという事だろう。

「三人もいれば日本の少子化は解決だね」

「俺たちだけでするわけないじゃん」

 そりゃそうだ。私はころころと笑いながらコーヒーを啜った。暖かなぬくもりが柔らかく鼻をくすぐって、ほんのりとした苦さが口の中いっぱいに広がる。ほろ苦い。砂糖も入れればよかったのだろうかと、私は幾許かの後悔を覚えた。


 ベッドを私はするりと抜け出した。時計を見ると、三時。おやつの時間というにはあと半日待たなければいけないのだけれど、怠惰なる私はカウンターのおやつ籠からポッキーを取り出してぽりぽりする。七本入りというが個人的に気に喰わない。なんとなく、食べにくい気がする。

 行儀悪く二本ずつ食べて、余ってしまった一本を虚しく見つめながら焦点をずらすと、眠りこけているしょう君が可愛い寝顔で何か言っていた。

「なあに」

 聞いてみても返事がない。漫画だと寝言にもそれっぽい返事をしてくれるものだけれども、現実はそううまくはいかないらしい。そんなことよく知っているけど。

 リビングから脱衣所に移る。鏡には裸で感情の薄い女の姿が映っていた。別に自分の容姿や性格を嫌悪したことはないけれども、今日ばかりは少し鬱陶しさを覚えた。

 シャワーのコックをひねると冷たい水が出た。私には冷水を浴びるような変態趣味はないので温水になる数秒間を待たなければならない。物理的に不可能なのはわかっているけれど、どうしてもっと早く動いてくれないのだろうと苛だってしまう。人間だもの。

 お風呂に入るたびに髪を切りたいと思うのだけれども、いつも躊躇してやめてしまう。長く伸びた髪の手入れは非常に面倒くさい、これをバッサリ切ってしまうだけで気怠くて仕方ない毎朝の睡眠時間をもう三十分は伸ばせることを、私は知っている。高校生以来切ったことが数えるほどしかない、誰にでも「綺麗でいいなあ」なんて無責任な感想を言われる、私の(一応)自慢の髪だ。たっぷり時間をかけてお湯で解してあげてからしっかり泡立てたシャンプーで綺麗にしていく。

「あわあわー」

 ぽつりと呟いてみた。飛んで行ったシャンプーの泡が私の出した流水に呑まれて消える。床に落ちた泡はこんなにも簡単に流れていくのに、どうして髪についたものはこんなにも流れにくいのだろう。


 部屋に戻るとしょう君が起きていた。

「早いのね」

 声をかけると操作していたスマホから顔を上げた。

「僕は割と早起きだから」

 彼が手招きをするので近づいてみる。ベッドに座ったしょう君の股の間に座ると、おもむろに伸ばされた手が私の頭を撫でる。ドライヤーをかけたばかりで熱のこもった頭に、冷たいしょう君の指が入ってきて心地良い。私はされるがままになって目を閉じた。

「いい匂い」

「同じシャンプーでしょ」

「そうなんだけど。どうしてこんなに差が出るのかな」

「私には違いが分からないわ」

 後ろからぎゅーっと抱きしめられる。体格に割と差があるので包まれている感覚がどことなく良い気持ち。触れ合った肌からじんわりと伝わる体温。これが幸福感というやつなのなら、そんなに悪いものではないかもしれない。

「みーどり」

「なに」

「愛してるよ」

「ありがとう、私もよ」

 私は振り向いてしょう君にキスをした。少し乾いたしょう君の唇を湿らせるくらいに、私は愛情たっぷりの口づけをする。付き合ってもう三年になるのに、我ながらよく好意が続いていると思う。

 少しばかりそのままいちゃいちゃしてからしょう君はシャワーを浴びに行った。時計を見るともう五時半、ぼちぼち動かなくてはいけないと思いながらも、ベッドに仰向けになって腕を瞼に重ねる。

 仕事帰りにそのまましょう君の家に行き、ご飯を食べてから一緒にベッドに入った。しょう君とセックスをするのは平均して週に一度くらい。私は性欲がぼちぼちある方なので、したいときには私の方からアクションする。大体応えてくれるので不満はない。ないのだけれど。

「あい」

 してる。

 愛してる。

 こんな素敵ワードに何か誓いめいたものを感じているのは二十四にもなって恥ずかしいと思うのだけれど、習慣というのは中々抜けないもの。三年、友達期間を含めれば五年も付き合いのあるしょう君に「愛してる」と言ったことはただの一度もない。

 セックスの時に常より甘い言葉を言うのは古今東西どのカップルでもそうだとは思うのだけれども、私は「愛してる」とだけは口にしない。しょう君の「愛してる」に同意したり、「私も好きだよ」と返すことはあるけれど。

立てる必要もとうに消えてしまった操を、私はいつまで愚直に守っていくのだろう。


 軽く焦げ目のついた食パンにマーガリンを塗る。

「はい」

「ありがと」

 彼も私もすっかりスーツ姿だ。仲良く早起きした日にはこんな風にゆっくり朝食が摂れる。何気ないこの瞬間が、実は幸せそのものなんじゃないかと思う。

「美味しい」

 スクランブルエッグを食べながらしょう君は言う。私が作ったものなら何でも美味しいというしょう君の感想は全く参考にならないけれど、言ってもらったらやっぱり嬉しい。作った甲斐があるというもの。

 私も黄色い卵を一匙すくう。

 スクランブルエッグとは少し不思議な食べ物で、放っておけば目玉焼き、綺麗に整えれば卵焼きにできるところを、何故かぐちゃぐちゃとかき混ぜて作る料理だ。簡単だからと言えばそうなのだけれど、きちんとした形を損なっているようで、どこか残酷な気がしないでもない。

「どうしたの」

 しょう君が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。

実に可愛い彼氏で、優しい男の子である彼は、私の本心を知ってもきっと怒らないに違いない。

「なんでもない」

 私は卵を頬張った。


「それで、どうだったんです」

「え?」

 お昼休憩。裏側に引っ込んだ私は同僚の須崎さんと遅いお昼を食べている。近年のコンビニは目覚ましい文化の発展を遂げていてどんなものでもたいてい美味しくいただける。今日のペペロンチーノもなかなかイケている。

「『え』じゃなくて。元クラスメイトとお茶に行くって言ってたじゃないですか」

 私より一つ年上の須崎さんは、しかし私にも基本的に敬語で話しかけてくる。私より背がだいぶ低いこともあって、むしろ年下の感がある。

「……ああ」

 須崎さんに言ったんだっけ、と思いながら頷いた。

「ええ、まあ。楽しかったですよ。久しぶりでしたし」

 私がそう言うと須崎さんは少しぽかんとした表情をする。

「え、そんだけですか」

 私は首を傾げて見せる。クラスメイトと会って、お茶を飲みながら旧交を温める、楽しかった。何もおかしい所はないだろう。

「だって元カレなんですよね、その人」

 一緒に買ったサラダ、そのチキンにかかっていたと思しき黒コショウをかみ砕いてしまい口の中に想定外の辛さが走って行く。舌をひりりとさせながら努めてそれを表情には出さない。

「……そんなこと一回も言ってないじゃないですか」

「言ってないですけど、ほら、何となくそうなのかなあって思う事あるじゃないですか。女のカンってやつですよ」

 私が胡乱な目を向けると須崎さんはにやりと笑って見えた。うわ、イヤなこと考えていそう。

「篠原さん、クラスメイトって言ったじゃないですか」

「言いましたね」

「一般的に卒業後も連絡を取る、ましてや二人でご飯食べたり遊びに行ったりするような相手というのはさほど多くはないです。しかしそれを篠原さんは友達と言わなかった。さらにはクラスメイトというところから先輩後輩という線もなし。となると残っているのは恋人か元カレくらいですよ」

 なるほど大した推理だ。

「恋人という可能性もあるでしょ」

「いやだって篠原さん今カレいるじゃないですか」

「……」

 これも言ってないんだけどなあ。私はペットボトルのミルクティーを飲む。ストレートティーもいいけれど、私はミルクティーの方が好きだ。雑な甘みは頭の疲れを簡単に癒してくれる、気がする。

 蓋をきっちりと閉めてため息を吐いた。

「そうですよ、正解です」

「やったー」

 無邪気に喜ぶ須崎さんからは先ほどの推理力は微塵も感じられない。愉快な人という印象だったけれど、どうしてどうして中々恐ろしい人だなと思い認識を改めることにする。人は見かけに依らないとはよく言ったものだ。

「で、どうだったんです」

 続く追及に少しうんざりとするけれども、バレちまったもんは仕方ないという悪役の心持で対応する。

「特に変わったことはないです。ただご飯を食べて少し話をして解散ですから」

「えー、積もる話とかあったんじゃないんですか」

「積もる話という程の話題はなかったですけれど……」

 私は口を滑らせた。

「結婚するそうですよ」

「うわっ」

 今度ばかりは須崎さんも本気で驚いたようだ。

「クラスメイトってことは篠原さんと同い年って事ですよね。早くないですか?」

「私もそう思うんですけれども、早めにしたいだのなんだのって言っていましたね」

「へーえ。珍しいですね」

 しばしの沈黙。私は空になったプラスチックの器をビニール袋に入れなおしてキュッと縛る。ペコポンと間の抜けた空っぽな音がした。

「なんでわざわざそんなこと言ったんですかね」

 須崎さんも同じようにしながら(ちなみに彼女の献立はグラタンと野菜ジュースだった)不思議そうに言う。

「わざわざとは」

「だって、一度は付き合ったことのある相手に結婚するとか、普通言います?」

「さあどうでしょう。私と彼はただの友人関係に戻っているのでそんなに気にしていないですけど」

「……まあ篠原さんはそうなのかもしれないですけれど」

 釈然としない風。

「少し気づかいが足りてないと思いますね。あくまで私の意見ですけれど」

 腕時計をちらりと見て「そろそろ行きましょうか」と須崎さんは立ち上がった。首肯して私も立ち上がる。ゴミ袋となったビニール袋はいつもの通り、廊下に設置されたごみ箱に捨てに行く。右手でプラプラさせた袋が軽い。

(私は愚痴りたかったんだな)

 すたすたと先を歩く須崎さんの小柄な背中が少し頼もしく思えた。


 どこかで泣く赤ん坊の声がかすかに聞こえる中、ふらりと外に出る。さっきまでしょう君と長電話していたのでじんわりと楽しい気持ちが耳に、手に残っている。しょう君は出張に行っているので会うことができない。いつもだったら今日はしょう君の家に泊まる曜日だったので、今日は電話という事にしたのだ。

(福岡かあ)

 単純に遠い、そう思う。私は福岡どころか沖縄以外の九州に行ったことがないので全くイメージがわかないし、もはや海外とそう差がないように感じる。あまり治安が良くないと言われている場所だからやっぱり心配してしまう。

(お土産は楽しみだけれど)

 福岡と言えば明太子だ。辛いもの好きの私は今から楽しみにしている。

 軽い服で出てきてしまった私の身体に風が強く吹きつける。肌寒い、よりもう少し寒い寄りの感覚。戻って上にもう一枚羽織ろうかとも考えるけれども面倒なので止めた。我慢できないほどではない。最近は夜になると冷える。次からは気を付けようと思った。

 目的地なんて御大層な言い方をするほどではないけれども、とかく向かっていたコンビニに着く。

「  」

 軽快な入店を知らせる電子音のなか、少し待ってみても「いらっしゃいませ」の声はかからなかった。まあ深夜のコンビニなんてこんなものだ。わかっているけれど、なんとなく当てが外れた気がした。

 雑誌コーナーには今日発売の少年誌が所狭しに並んでいて、日も変わっているというのに立ち読みをしている元気に不健康な人間が立ち尽くしている。それに並んで私も一部を手に取って読む。私の知っている漫画が生き残っていたり、いつの間にか終わってしまっていたり、見たことも聞いたこともない漫画が連載していたり。時間ってやつはトロくさいようで足早に去って行ってしまう。

 知っている漫画だけ流し読みをしてラックに戻した。横に立っていた少年がちらりと私を見てくる。視線を返してやるとそそくさと目を紙面に落とした。確かにこの年の女が一人立ち読みというのも珍しいだろう。でも私があんたくらいの時にはこんなことしていなかったよ。

 目当てだったスナック菓子とビールの六本ケースをカゴに入れてぶらりと店内を一周する。明日食べるパンと、美味しそうだったアイスと。

(ん)

 ATMの横の影の薄いDVDコーナーに数年前に大流行したアニメ映画のブルーレイがいたのだ。流行は文字通り流れ行くものなので今じゃ話題にする人もいないその映画をただ立ち尽くして見ている。

 内容はよく覚えている。よくあるボーイミーツガールの青春している作品だ。どこか嫌味っぽく行ってしまったけれど別に嫌いじゃない。当時映画館で見て普通に泣いてしまったレベル。

 自然と手が伸びた。

三千円。

安いとも思わないけれど一夜を過ごすにはいい相棒になってくれると思った次第だった。

「いらっしゃいませ」

 レジに向かうと今度こそ声をかけられた。

「六百円が一点、百二十円が一点——」

 読み上げをする店員さんの顔をしげしげと眺める。五十そこそこのおっさんだ。どういう人生を歩んできたらその年になってコンビニの深夜店員なんてやることになるのだろうとかなり失礼なことを考える。実家の父親の顔を思い浮かべた。もうすぐ定年を迎える父はすっかり薄くなった髪を気にしているようでそうっと梳かしている。

「早く孫でも見せてくれ」

 そんなことを笑いながら言いつつも、彼氏には会いたがらないのが微妙な父親心だと思う。この店員さんにも子供はいるのだろうか。いたとして、今何をやっているのだろう。

 ずっしり重たいレジ袋を引っ提げて帰り道の坂を上っていく。救急車が音を変えて走って行くのを見送った。

 自宅のマンションについた。さほど広くはないけれど三年近く住んでいる私の巣だ。電灯をつけると電話をしながら飲んでいたノンアル梅酒の空き缶が横倒しになっていた。

 早速買ってきたブルーレイをパソコンにセットする。本当はテレビで見たいのだけれど、残念ながら再生するための機器がない。どうにかこうにかすると今のままでもテレビで見られると教えてもらったことはあるけれど、よく理解できないまま今もこうなっている。

 チーズ味のスナックをポリポリしながら飲むビールは実に美味しくない。ビールなんて飲み会で最初に乾杯するためだけに存在するものなのだ。じゃあ何で買ってきたんだと聞かれたら、『夜中にぼうっとしながらビールを飲む一人暮らしの女』になりたかったからだ。

 アニメは中盤に差し掛かっている。ヒロインが未来から時間を飛びこえてやって来た女の子だと主人公が気付く。

「私はどうしても貴方に会わなきゃいけなかったんだ」

 そういって消えたヒロイン、その姿があったはずの虚空を掴む主人公。すると水滴がその手に滴る。

(情景描写)

 登場人物の心情を風景に仮託して描く基本的かつ王道の手法。どうしてこんなに都合よく雨が降ってくるのだろうと、すっかり年を取った私は思ってしまう。これがもう少し年を食えば純粋な気持ちで作品を捉えることができるようになるのだろうか。

 四缶目に手を伸ばしたところで瞼が重くなってきた。大学生の頃には二ケース開けたってピンピンしていたのに、どうしてこんなことも上手くできなくなっているんだろう。

 画面の中では格好のいい女性の先輩キャラが主人公を叱咤している。この後主人公は駆けだしていく。今まさにこの世を去ろうとしているヒロインの許へ、がむしゃらに無様に脚を動かすのだ。

 鈍る頭で思考を巡らす。

 明日は百貨店で母親の買い物の付き合いをして。

明後日の仕事帰りはしょう君を迎えに行って。

一週間後は一月のお客のデータを纏めて本部に送って。

一か月後の同窓会ではまた彼に会うことになって。

半年後に私は何をしているのだろうか

一年後は、十年後は。

未来の自分はなりたい私になっているのかな、今の自分は後悔しない生き方をできているのかな。あの時の私はどうして素直じゃなかったのだろう。


 気付けば朝になっていた。


 我ながらいいプランだ。今時新婚旅行にハワイだなんてなかなか豪気な気がするけれども、私が彼にできるプレゼントなんてこれくらいのものだ。旅行代理店に勤めていてよかったと、初めて心の底から思った。

 一年前に彼に結婚すると聞かされてからちまちまと組んでいたこれを彼に見せた時にはすごく喜んでくれた。

「社員割り使ってちょっと安くなってるから」

「マジかよ。ありがとう今度ちゃんとお礼するわ」

「じゃあ花束投げる時は私に狙い定めるようにお願いして」

「え、みどりも結婚するの」

 そんな会話があったのが一週間前。明日の昼には彼らは飛行機の中だろう。私はハワイに行ったことが大学生の時に一回きりだから、そんなに風変わりな計画を作ってあげることができなかったけれど、思い出に残る四日間になってくれればいいと思う。


「問題は旅行中の喧嘩だよね」

「よく新婚旅行で喧嘩するカップルいるらしいからね」

「そうそう、羽田離婚ってやつ」

 そんな形で思い出になったら私の努力は水の泡だ。休憩時間をつかってパソコンに齧りついていた私の時間を返して欲しい。彼に殆ど怒ったことがない私でもさすがにキレざるを得ない。

 今日は休日。しょう君の腕の中でぬくぬくとしながらドラマを見ている。ドラマの中では傲慢な弁護士がなんとも楽しそうに刑事に煽りちらしている。

「さすがにそんなことはないと思うけどね」

 しょう君が笑いながら言った。

「あれだけ仲良さそうだしさ。今日初めて会ったのに、すごいラブラブな感じが伝わってきたよ」

「だといいけどねぇ」

 恋愛と現実は別だろうと、少し冷めたことを思ってしまうけれども。まあ、本当に、なんというか。うまくいってくれればいい。そう思う。

「しょう君はさ」

 呟いた。

「私と結婚したい?」

 このドラマのエンディングはギャグテイストな作品の割にどこかしんみりとした曲調で、私のことばになんともマッチしていた。

 疲れた脚をキュッと伸ばす。結婚式に行くのは初めてだった。いとこのような同年代の親戚が私にはいないので、自然と初めてのイベントとなった。映画とかで見るような瞬間瞬間を見るのは新鮮で、面白かった。その後の立食パーティーが堪えたのが少し残念だっただけで。

「できればいいな、とは思っているよ」

 ふんわりと、私の身体に回した腕に力が入る。緊張してるのかな。そりゃそうか。

「そんなに積極的じゃない感じ?」

「全然そんなことないけど……みどりはどうなのさ」

「うーん」

 私は首を傾げた。ドラマはもう終わっていて、有名なお笑い芸人が住宅のCMをやっていた。テレビの横にある花瓶に活けられたカスミソウが静かに揺れる。

「というかさ」

 私は振り返ってしょう君の目を見つめながら言う。

「そういうこと、女の子に言わせちゃうの?」

 少し見開いたしょう君の瞳がそしてゆっくりと閉じていって。応えて私も瞼を閉じると、柔らかい感触が唇に触れた。だいぶあざとかったかもしれない。

「まあ」

 離れたしょう君が照れ臭そうに頭を掻きながら言う。

「ちゃんとしたいから、また今度な」

「ふふ」

 柔らかく微笑むことができたと思う。

「かっこいいの待ってるね」

「まかせて」

 もう一度キスをした。キスってやつはなんだか不思議なもので、ふわふわでドロドロで、もっと相手が欲しくなる。そういう行為だ。

「ねえしょう君」

「なに」

「愛してるよ」

 気恥ずかしくなって、急に立ち上がった私は「お風呂入る」とだけ告げて慌ただしく洗面所に向かった。鏡の前に立つとらしくもない顔がそこにはあった。

「……ばーか」

 服を脱ぐといい感じに顔をぬぐうことができる。そのためだけにティッシュを使うのは癪だから丁度いい。言葉にもならないようなくぐもった唸り声を上げる。


 今こうして私がこうしているのは全然そんなことじゃなくてだけどどうしてだろうなんだかとってもあれなんだけどじゃあ何かできたかと聞かれたら全くそんなことはなくてむしろやる気なんてとうの昔に置いてきてしまったというかなんというかあの瞬間にもう少し動けていたのなら少しは違う今があったのかなあなんて思うけれども今が嫌なんじゃなくてむしろすっごく幸せでだけどちょっと思うところはあったりするどころかそれが隠しようもないからこんなことになってしまってるんだよとほのかに自分を笑ってみるけれどそんなことをしているとどんどん虚しくなってくるからもういっそ全部崩れてしまえばいいのになって八つ当たりしてむしろそんなことになるべきは自分なんだよなあとか思いながらぐしゃぐしゃな心の中にずぶずぶと両足をつけて浸かっていくのはどこか心地よくてこれでいいならもういっそそのまま生きていければいいんじゃないかなあと思ってすべては長い人生のほんの一瞬の夢に過ぎないんだよなと反省してみればなんだかとっても楽になってくる気がするのはきっと勘違いだからまだあがいてみたいけれどとっくにそんな燃料は残っていないからただだらだらと浪費していくのは失礼なことでせめて一生懸命になりたいのにこのざまだからもう本当にどうしようもねえなあって泣きだしたくなる気持ちを三日月を作った手で殴りつけながら叱咤激励してまた明日を生きて行かなきゃいけない事を強く自覚してそのためにはまず今日を生き延びなきゃいけないのだけどそんなことができるのなら今の私は違う私になることができるだろうなんて堂々巡りの考えを私はいつまで続けていくのだろうと一周回っておかしくなってくるのを俯瞰しているとどんどん馬鹿になってしまえればどんなにいいんだろうと考えるにきっとまだまだ大丈夫やっていけるからと今までの自分を再評価してなんだかんだやって来た同じことを続けるだけ簡単簡単と奮い立たせるのももう限界になって来たからだから少しは幸せになりたかっただけなのと零れ落ちて取り逃がしたものを必死になってまた手に入れたくて泥臭い醜い自分に酔っているからこんな私好きになれないとかどこかで聞いたような台詞を考えてみたりするにそういうことを一言で纏めてしまう言葉に縋りついて当て付ける。

「愛してる」

 並んだ歯ブラシを睨みつける私は、何かを失ったことに気がついた。

本作はハッピーエンドとなっております。いや、マジで。

高校生の頃から切らなかった髪、頑なに失恋を認めなかった彼女はようやくここに来て己の初恋を失ったことを認め、本当に彼氏と向き合うことを密かに認めました。

その過程がどんなに辛く、過去を悔い未来を憂いても、とりあえず一歩を踏み出すことを決意した、そういうお話です。

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