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跳び箱通信

作者: 虎丸聡介


      一


 体育館の掃除は僕のクラスの担当となっているため、数週間おきにそれをする週がやってくる。今日はその週の一日目だ。僕はクラスの何人かと体育館の掃除をし始めると、体育館に必然的にある壇上に上った。そこも丹念にほうきで掃除しながら、僕は後々、体育館に忍び込むための準備をした。その準備は、舞台裏にある扉の鍵を開けておくことだ。


 この扉を出て、外に出れば体育館の裏に出られる。そこにある金網を上れば、学校の外にも出られる。僕は、掃除を終え、家に帰ったら、夕方、体育館裏から体育館に忍び込むつもりだった。体育館に別に用があるわけではない。誰もいない体育館に潜り込み、警備のおじさんが点検にくるのをやり過ごし、その後、体育館を我が物顔で走り回るというスリルと、体育館に一人しかいないという征服感を味わいたかった。


 僕は友達に見られないように、舞台袖にはけていき、体育館裏とを繋ぐ扉の鍵を開けた。ドアを一度開け、開くことを確認する。

よし。これで外から体育館に忍び込める。


 僕は体育館の掃除を終え、家に帰ることにした。歩いている途中、小太りの友達の重人が「何か楽しいことないかな? なあ哲也」と僕の名を呼び訊いてきた。

「楽しいことね……」僕は含み笑いを隠しながら、「ないな」と答えた。

 心の中では、楽しいことがあるんだよ、と思っていた。これから家に帰り、ランドセルを置き、もう一度学校に戻り、体育館裏から体育館に忍び込む。一人だけの体育館を堪能すること。このことは一人だけの胸にしまっておきたかった。誰にも知られたくなかった。もし、一人で体育館にいることが飽きるようだったら、その時は、友達を誘おうとは思っていた。だが、今は駄目だ。今は一人で楽しむのだ。


「今日、どうする?」

 小太りの重人が僕たちに今日の遊びはどうするかを訊いてくる。

 背は小さくやせっぽっちの翔太が、「土手にある池にでも釣りに行こうか?」と提案を出した。

「釣りか、いいね。最近釣りしてないからな」

 重人が頬の膨らみで細くなった目をぱちくりさせながら言う。

「僕はちょっと勉強しなければならないから、今日は遊べないんだ」

 僕は咄嗟に嘘をつく。心の中では体育館に忍び込むことを想像して、ほくそ笑んでいた。

「そうか、じゃあ、俺たちだけで釣り行くか」

 重人が翔太に言う。翔太は頷いた。

「じゃあ、また明日」

 僕は手を振ると彼らと別れ、家に帰った。


      二


 家に帰ると、母親がホットケーキを用意してくれていた。いつもならホットケーキにすぐさま手を伸ばすところだが、今日はそれどころではない。体育館に行きたいという逸る気持ちを抑えられなかったのだ。僕はホットケーキには手をつけなかった。

 

 すると、母親が「あれ、どうしたの? どこか体の具合でも悪いの?」と心配そうな顔で訊いてきた。

「いや、ちょっと今はお腹が空いていないだけさ。後で食べるかもしれないからとっておいて」

 僕はソファの上にランドセルを置いた。


「後でって、夕飯になっちゃうでしょう」

 母親はしきりにエプロンで手を拭いている。台所を見ると、キュウリを切っているところだった。

「じゃあ、夕飯の後食べるよ」

「夕飯の後になんて食べられるの?」

「食べられるよ」僕はそう言うと、「ちょっと友達と遊んでくる」と言って、玄関に行きかけた。

「あんまり遅くなるんじゃないのよ」

 母親からおきまりのセリフが吐かれた。母親はいつも決まってこのセリフを言う。そのセリフが息子に対する心配から出ていることはわかるが、さすがに毎日聞いていると耳が痛くなってくる。

 僕は「わかったわかった」とさもうるさそうにしながら靴を履いた。


「あ、そう言えば」母親は玄関に来ると、思い出したように手を叩いた。「最近、この辺で誘拐された子がいるそうよ。哲也も気をつけなさいよ。変なおじさんとかについて行っちゃ駄目よ。お菓子あげるって言われても……」

「わかってる、大丈夫だよ。もう五年生だよ。子供じゃあるまいし」

 僕は母親が言い終わる前にさえぎった。もう僕は子供じゃない。世間では子供に位置するかもしれない。でも、僕はもう大人だ。分別だってある。悪いことが何かもわかっているし、危険なことがなんなのかだってわかっている。変なおじさんになんかに絶対ついていかない。

「ならいいんだけど」

 母親はなおも心配そうな顔をしていた。


「じゃあ、行ってくるね」

「帰ったら勉強しなさいよ。夕飯の前でもいいし、夕飯後でもいいし。一日やらないと頭が悪くなるんだから。一に勉強二に勉強よ」

「うん」

 僕はそんな母親をよそに、家を出た。母親は僕を心配しすぎだ。それに勉強勉強ってうるさい。世間ではこういう親を過保護とか親バカというのだ。ここに友達がいなくてよかったと思った。友達がいたら、恥ずかしい思いをするところだった。心配をする母親をあまり友達に見せたくない。友達に馬鹿にされるのだ。母ちゃんのいいなりだなとか言われて。

 僕は階段を下りると、学校まで走った。


      三


 僕は掃除の時に開けておいた体育館裏の扉から、まんまと体育館に忍び込んだ。警備のおじさんが見回りにくるだろうことは知っていたので、それまでどこかに隠れていようと考えた。マットなどがしまわれている倉庫に隠れるのが妥当に思えたが、万が一ドアの鍵を閉められた場合出られなくなる可能性がある。どうしようか……。


 僕は、ふと閃いた。跳び箱の中に隠れてしまえば見つからないのではないかと。跳び箱はマットなどが入っている倉庫から斜め右にある壁に沿って三つ置かれている。

僕はそのうちの真ん中にある八段に重ねられた跳び箱の一番上の段を外し、右隣の同じく八段に積まれた跳び箱の上に置いた。そして、一段目を取っ払った跳び箱の縁に手をかけジャンプして中に入った。そして外した跳び箱の一段目を手に取ると、自分の上から被した。これで警備のおじさんが来ても、僕が体育館に忍び込んだことはわからないだろう。僕は今、三つ並べられていた跳び箱のうち、真ん中に位置していた跳び箱の中にいる。


 僕は息を呑んで警備のおじさんが来るのを待った。おじさんが見回った後なら、ある程度の時間は体育館で遊ぶことができる。そう何度も見回りにはこないだろうから。

 僕はじっと跳び箱の中で待った。なかなか警備のおじさんは来なかった。一旦跳び箱を出て、様子を窺おうと、体育館の出入り口の引き戸をかすかに開けて、隙間から隣の校舎を見た。校舎の廊下から、こちらに歩いてきている警備のおじさんが見えた。おそらくこのまま真っ直ぐ来て、渡り廊下を渡り、体育館に来ることだろう。僕は好奇心と興奮と期待に胸を膨らませながら、引き戸を閉め、足早に跳び箱の中に戻った。一段目を頭から被せじっとしたまま警備のおじさんが来るのを待つ。


 出入り口の引き戸が開いた。僕は跳び箱の段と段の隙間から、じっと覗いた。

 警備のおじさんは靴音を響かせながら、いくつか備えられた扉の鍵を確認していく。舞台の方にもゆっくりとした足取りで向かっていった。

 おそらく、僕が入ってきたときに使った扉の鍵が開いていることに気がつくだろう。

 少しして、警備のおじさんが戻ってきた。倉庫の中を覗いて扉を閉めると、あっさりと体育館から出て行った。


 よし、これで遊べるぞ。そう勢い込んで、上から被せた一段目の跳び箱を外そうとした。だが、なぜかまったくびくともしなかった。まるで、跳び箱の重ね目を接着剤でくっつけてしまったかのようだ。


 そんな馬鹿な。

 そう思いながら、何度も何度も頭上の一段目の部分を上に押し上げようとする。駄目だ。ならば二段目はと隙間に手を入れて持ち上げる。動かない。三段目は? 四段目は? 五段目は? どれも動かない。

出られない。どうしよう。


 跳び箱は下が空洞になっているから、一番下の八段目を持ち上げられれば、下をくぐり抜け出ることができる。しかし、両端が同じような跳び箱に挟まれ、壁にも接していることにより、持ち上げることができない。それに重くて無理だ。ならば中から押してみようか。僕は、電車ごっこでもするように、跳び箱を押そうとした。だが、跳び箱は巨大な隕石であるかのようにピクリとも動かなかった。床は滑りやすくなっているから、跳び箱は通常簡単に滑り動くはずなのに……なぜ動かないのだろう。跳び箱が床に張り付いてしまっているのか、それとも誰かが前に立ちはだかり跳び箱を押さえているのか。いや、押さえていることはないだろう。隙間から見ても人影はないのだから。


 どうしよう。そう思ってもじもじしていると、どこからか声がした。

「おい。おい」

「え、何?」

 僕はどこから声がするのかわからず、跳び箱のあらゆる隙間から覗いてみた。一瞬さっき来た警備のおじさんが戻ってきたのかと思ったが、それらしき人影はなかった。

「おい、杉野哲也ここだよ。ここ」

 跳び箱を叩いたような手と木がぶつかるような音がした。


「どこだよ」

 言った後すぐに黙り、耳を澄ませる。

「杉野哲也、おまえと同じ所にいるんだよ」

「え?」

 僕は後ろを振り返った。人の姿はない。同じところといえば、僕のいる跳び箱の内部だと思ったのだが、予想は外れたようだ。

「まだ、わからねえのかよ。横見てみろよ」

 僕は左右をもう一度見てみた。どちらにも僕の入っている跳び箱と同じものがあるだけだ。

「よく目を凝らして見てみな」

 言われたとおり、まず左側を向き、目をこらす。跳び箱の隙間を左から右に舐めるように見る。跳び箱以外何も見えない。今度は右側を向き、同じように隙間を左から右へ舐めるように見た。


「あ!」

「やっとわかったか」

 僕の跳び箱の右隣の跳び箱の中から、こちらを見ている二つの目が見えた。

「君は?」杉野哲也という僕の名前を知る人物……。同じクラスの……。「あ、重人だね」

「違うよ」

「じゃあ……そうか! 翔太だ」

「違う」

「じゃあ一体誰なんだい? 君は一体誰なんだい?」

「スムルだよ」

「スムル?」聞いたこともない名前だった。何処のクラスだろう。「何年何組?」

「何だ? そのナンネンナンクミって?」

「クラスのことだよ。そんなのも知らないの? 何年何組って訊かれたらさ、普通、四年一組とか、五年二組とかあるじゃない。まあ、僕は五年三組だけどさ」


「クラス? 五年三組?」

 跳び箱の中にいて目しか見えないから、どんな表情をしているかわからないが、スムルが戸惑っているのが伝わってきた。

「もしかして、君は」

「君じゃなくてスムルって呼んでくれよ」

「ああ、スムルはもしかしてここの学校の生徒じゃないのかい?」

「何だよ、セイトって?」

「そんなことも知らないのか。スムルは学校で何を勉強してるんだい? あ、もしかして学校じゃなくて、まだ幼稚園に通っているのかい?」


「ヨウチエンってなんだ?」

「そんなことも知らないの?」僕は呆れ口調で言った。「スムルは一体何歳なんだい?」

「十歳かな……」

「十歳かな? スムル、自分の年齢もわからないのかい?」

「別に歳を知らなくったって、死にやしないだろう?」

「そうだけど、そんなんじゃこれから大人になったら、まともに生きていけないよ」

 僕は説教をたれるように言った。普段、自分がお母さんから言われている言葉だ。


「心配してくれてるのか?」

「ん? まあ」

 心配したつもりで言ったわけではないが、流れ上そういうことにしておいた。

「ありがとう。でも俺は大人になんかならないから大丈夫だよ」

「いや、人間はみんな大人になるんだよ。学校でたくさん勉強して、たくさんの知識を頭に詰め込んで、大人になったら社会に出て、それを生かして働くんだよ。お母さんが言ってたもの。大人になったら大変なんだってさ。社会ってとこは厳しいらしくて、お父さんなんか会社から家に帰ってくると、夕飯食べたあとソファでごろんと寝て、お母さんに風呂ができたって起こされて、でも、嫌そうな声で疲れてるから今日は風呂やめておくって言うんだ。すると、お母さんはお父さんを無理矢理風呂に連れて行くんだ。それから三十分くらいしてお父さん風呂から出て来たと思ったら、しなびたキュウリみたいになってるんだよ。そんなになっちゃうくらい社会は厳しいんだよ。お父さんはいつも、大変な社会で仕事してるから毎日疲れてるんだ。僕もいつかはお父さんみたいになるんだよ。しなびたキュウリみたいに。大人は大変なんだよ。でも、スムルみたいじゃ、しなびたキュウリじゃ済まないかもしれないよ。今から覚悟しておいた方がいいよ。まあ、まだこれから勉強していけば、大丈夫かもしれないけど」


「しなびたキュウリか。ふん、変なの。そんなのになるために、おまえはガッコウってとこに通っているのか」

 スムルは面白くなさそうに言った。

「そうだよ。みんな学校に通うんだよ。スムルだって通わなきゃいけないんだよ」

 僕は訴えるように言った。

「俺はいいよ」

 スムルはそっけなく言った。

「いいよじゃないよ。この学校じゃなくてもいいから、どっかの学校に行って勉強しなきゃ駄目だよ。お父さんとかお母さんは何も言わないの? スムルがグレてること?」

 僕はスムルがグレて学校に行っていないんだと思って訊いた。

「グレてなんかいねえよ」

「グレてるよ。学校行ってないんだろう。それに、口調もなんか汚いし」

「グレてないよ」

 スムルはいきり立っているようだった。自分の入っている跳び箱を叩いたのか音がした。

 

 僕は、それ以上はグレると言う言葉を使わないでおこうと思った。スムルがグレていようがいまいが、僕が口出しすることではない。まだ、僕たちは初対面なのだ。顔ははっきり見てはいないが。初対面の人間にグレてるなんて言われたら、怒るのも無理はない。僕は謝ることにした。

「ごめんね。変なこと言って」

「ああ、いいんだよ。別に」




 僕は勉強ができた。塾に行かなくても、テストの点はいつも八十点以上だ。でも、母親は、常に上へ上へと僕を向上させようとする。正直、僕はそれがうっとうしかった。母親にとって僕は、いつまで経っても満足のいく子供ではないのだ。


 なぜ、母親が僕に満足しないかは、中学受験を考えているからだった。僕を有名な私立の中学に行かせたいのだ。それには、学校のテストで八十点とって満足してちゃ駄目なのだそうだ。学校のテストは常に百点をとり、もっと上の中学レベルの問題を今の内から勉強して、楽々解けるような状態にしておかなければいけないらしい。


 だったら、塾に行かせてくれればいいのに、と思うのだが、母親は行かせてくれない。小、中学校レベルの勉強なら、母親でも充分教えられるからということが理由だ。学校から帰ると、月、水、金は僕は母親に勉強を教わる。それ以外の日は自分で勉強をする。夕飯までに小学校の勉強をし、夕飯後は中学レベルの勉強をする。この一年で難しい数式や漢字をたくさん覚えた。


 勉強が大事なことはわかるが、小学生のうちからこんなに勉強する必要があるのかな、と少しだけ思う。しなびたキュウリになったお父さんの姿が頭に浮かんでくるからだ。どんなに勉強しても、結局ああなるのかと思うと、やるせない気持ちになってしまうのだ。でも、母親が勉強は大事だと言うから、今のところは従うしかない。


 友達に、僕の母親のようなのを教育ママというのだと教えられたのは、小学校四年にあがったばかりの頃だった。教育ママがどういうものかは知っていたが、自分の母親がそうだと指摘されると、非常にショックだった。五年生になった今でも、友達は口々に教育ママの家に生まれなくて良かっただとか、勉強ができる人間じゃなくて良かったと言っている。そういう声を聞くと、僕も教育ママでない家に生まれたかったなと思う。しかし、それは避けられない現実なのだ。僕に母親を選ぶことはできないし、母親も僕を選ぶことはできないのだから。教育ママの家に生まれてしまったのは運命なのだ。仕方がなかったと諦めるしかない。そう、諦めるしかない。しかし、そう思っても、僕の鬱憤は日増しに強くなった。


 僕は家でのことをスムルに話した。するとスムルが「そんな毎日じゃ疲れるだろうな」と言った。

「うん、疲れるよ。まだ小学生なのに、なんでこんなに疲れなきゃならないんだって、いつも思うよ」

 僕は跳び箱の隙間からスムルの表情を窺った。スムルの目は獣のように光っていた。だからと言って、怖い目ではなかった。優しい目をしていた。だが、非常に無機質な目をしていた。透き通った目ではない。どこか濁っていた。子供の目じゃないような気がした。だが、声の質は子供みたいだった。


「だったら、勉強なんてやめてしまえばいいじゃないか」スムルは自分のことのように怒っていた。「親の言いなりにならなきゃいけない法律はないんだから。たまには親に反抗してみろよ」スムルの声は荒っぽかった。

「反抗? できないよ。お母さんのこと好きだもん」

 僕の頬はきっと赤らんでいることだろう。この告白は少し恥ずかしかった。

「勉強しろって言われても? それでも好きなのかい?」

「うん、好きだよ。だってお母さんはこの世に一人しかいないんだもん」

「おまえ恥ずかしくないのか。いつまでもお母さんとくっついていて」

「恥ずかしい? 恥ずかしいこともあるけど……でも、僕はまだ子供じゃない」

 そう言いながら、自分は子供じゃないんだと思っていたはずじゃなかったのか、と自問した。ここは子供と言っておいた方がいいんだ。自分の考えに反抗するな。僕は自分の心に言い放った。


「確かに子供だよ。おまえは」

 スムルは人を下に見る人間らしい。口調にも見下したような雰囲気があった。

「スムル、君は十歳だよね?」

「そうだよ。たぶん」

「なのに、なんでおまえとか僕に言うんだよ。僕と君は同じ十歳なんだから、対等じゃないのかい」

「ああ、対等だよ」

「じゃあ、おまえなんて言わないで名前で呼んでよ」

「ああ、悪かった。おまえなんて言ったことは謝るよ。ごめん」

 スムルは素直だった。そんなところが、僕に安心感を与えた。スムルと僕は友達になれるかもしれない。跳び箱の中で知り合った友達。変な関係だ。まだ姿も見ていないのに。


「それよりさ」

 スムルが何かの提案を出すような口調をした。

「何?」

 僕は跳び箱の隙間に指を引っかけた。顔を近づける。相変わらずスムルの目しか見えない。跳び箱の真っ暗闇の中に目が二つ。明りでもつけば少しは姿が見えるかもしれないが、今はそれは無理なようだ。スムルは、跳び箱の隙間から突き出て来そうなくらい強い視線を浴びせてくる。

「哲也は勉強をするのが嫌なわけだよな」

「勉強自体は嫌いじゃないけど、あんまりしたくはないね」

 僕は跳び箱の中で身振り手振りを交えた。オーバーアクションだったため、手が跳び箱に当たってしまった。


「だったら、俺が哲也の代わりをしようか?」

「僕の代わりを? どうやって?」

「哲也、君はこの跳び箱の中に入っていればいいんだ。僕が外に出て行って君の家に帰る。そして哲也の代わりに俺が勉強をする。どうだ? いい考えだと思わないかい?」

 スムルの目が少しだけ弓なりになった。微笑んだようだった。

「でも、そんなことをしたら、お母さんにすぐにバレるよ。帰ってきたのが僕じゃないって。それに君みたいな見ず知らずの人が家に帰ってきたら、お母さんが驚くよ。それどころかお父さんだって妹だって驚くよ」

「驚かないさ。俺が哲也になりきろうとすれば、誰も気づかないさ」


「それより、君は自分の家に帰らなきゃ駄目じゃないか。お母さんが心配するよ」

 僕はもっともなことを言った。

「大丈夫。俺の家の親は、俺が帰らなくたって心配なんかしないよ」

「なんで?」僕は不思議に思った。「普通、子供が帰らなかったら心配するはずだよ。どこの親でも……」

「大丈夫だから、うちは大丈夫なんだよ」

 スムルは言い張った。自信ありげだった。

 どこからそんな自信が来るのかはわからなかったが、本人がそう言うのだからそうなのだろう。でも子供の言うことだ、すぐにスムルの親が捜しに来るかもしれない。それに、僕の母親がスムルのことを僕と見間違うはずはないだろう。スムルが僕になり代わるのは無理なような気がする。もしバレたら、僕は母だけでなく父からも大目玉を食らう。


「僕、やっぱり、やめておくよ」

「……そうか」スムルはがっかりしたような声を出した。「じゃあ、気が変わったらまた来いよ。俺はいつでもここにいるから」

「いつでも?」

「ああ」

 僕はスムルの存在に怪しい何かを感じ取っていた。もう会うのはよした方がいいのではないかとも思った。スムルはおそらく家には帰っていないのだろう。家出少年なのだ。そんな人間と付き合っていたら、僕は不良になってしまうかもしれない。不良……。よく母親が言う言葉だ。「不良と付き合ってはいけません!」そう言う母親の顔が浮かんできた。

 だが、僕はスムルにまた会うことになるだろうことを予感していた。だからスムルに、「今日のところは帰るよ」と、いかにもまた来るようなニュアンスを含めた言葉を言い残した。そして、僕は家に帰った。


      四


 僕が家に着いたのは七時半だった。

「どこほっつき歩いていたの?」

 母親は鬼のような形相をしていた。

「ごめんなさい」

 僕は深々と頭を下げた。

「勉強する時間がなくなっちゃうじゃない」

 母親は腰に手を当て、玄関で仁王立ちをしている。

「ごめんなさい」

「そんなに怒るなよ」という、父親の声がリビングから聞こえてきた。

「もう、今日のところは許すけど、次はないからね。今度やったら、勉強時間を増やすからね、わかった?」

 母親はまだ眉間に皺を寄せていた。今まで七時半に家に帰ることはなかったから、怒りが収まらないのだろう。今までは五時半には家に帰っていた。

 

 母親は一通り怒ると、台所に歩いていった。

 僕はそれを追いかけるようにして、リビングに行く。テーブルに着くなり、「それより、聞いてよ。今日面白い子に会ったんだよ」と父や妹、そして母に聞こえるように言った。

 会ったと言っても、跳び箱の中だから、目しか見てないけど。

「その子、僕と同じ十歳なんだけど、学校を知らないんだ」

「学校を知らない? まさか不良じゃないでしょうね」

 母親が言いながらリビングへやってきた。肉じゃがの載った小皿を置くと、ご飯を盛った茶碗と味噌汁の入ったお椀を僕の前に置き、席に着いた。

「不良じゃないよ……たぶん」

 僕は一応不良ってことを否定しておいた。本当のところはスムルが不良ではないかと疑っているのだが。


「どこで会ったの?」

 小学三年の妹が味噌汁をすすりながら訊いた。

「どこでって……」

 僕は返答に困った。体育館に忍び込んで、跳び箱の中に隠れている最中に会ったなんて言ったら、母親にこっぴどく叱られるだろう。嘘をつかなくちゃ。僕は脳をフル回転させた。

「……道でさ」

「道って、どこの道で?」

 妹がしつこく訊いてくる。

「学校の門の前さ」

 僕は想像を巡らした。頭の中では姿のはっきりわからないスムルに出会った図が浮かんでいる。スムルは目だけが光っていて、後は影だけの人間だ。とにかく黒い姿をしている。それしか想像できなかった。


「その子、家出でもしてるんじゃないの?」

 母親が険しい顔で訊いてくる。

「僕もそう思うんだ」

「じゃあ、家に帰るように言わなきゃ駄目じゃない。哲也と同じ歳なんでしょう。家の人が心配してるはずよ」

 僕は母親の当然の意見に納得する。スムルは家の人は心配しないなんていっていたけど、やはり、親だから心配しているだろうと思う。明日、家に帰るように言ってやろうか。


「それより、哲也。勉強しなさいよ。そうしないと、その子みたいに家出少年になっちゃうわよ」

「わかってるよ」

 うるさいな。僕はそう思いながらも、家出少年にはなりたくないと思った。だからと言って、勉強したら家出少年にならないのかと言うと、それも疑問だった。母親のただのこじつけだろうと思った。

「勉強しないと私立に行けないんだから。私立に行けばね、お母さんたちも楽だし、哲也も楽なのよ」

「もう、わかってるって」

 口うるさい母親に嫌悪感が募ってくる。ふと、スムルの提案したことを頭に浮かべた。僕の代わりに僕の家に帰り、代わりに勉強してくれると言ったスムルの提案。お願いしてみようかと思い始めた。変わってもらえば、母親のうるさい言葉も聞かなくて済む。そうだ、そうしよう。明日、スムルのところに行ってお願いすることにしよう。


      五


 次の日、授業の合間の休み時間に、僕は友達の重人と翔太にスムルと会ったことを話した。彼らから、スムルに会ってみたいという言葉が聞かれた。


「いつ行っても、スムルって奴はいるのか?」

 重人が好奇心をあらわに訊いてくる。

「ああ、いるよ。そう言ってた」

「じゃあ、昼休みに会いに行こうぜ、なあ」

 重人は翔太の顔を見た。

 翔太は好奇心を滲ませた目をして頷いた。

「じゃあ、決まり。飯食ったら体育館にすぐ行こうぜ」

 重人は指を鳴らした。




 給食を食べ終えると、重人が逸る気持ちを抑えられないのか、鼻を膨らませながら僕の肩を叩いた。

「おい、早く行くぞ」

「わかった」

 僕たちはすぐさま体育館に向かった。

「どこだ? どの跳び箱だよ」

 重人が跳び箱に駆け寄り、声を上げる。

「この跳び箱だよ」

 僕は三つ並んだうち向かって左の跳び箱を指差した。

「どれどれ」翔太が跳び箱の隙間から中を覗き込む。「スムル、スムル」

 重人も跳び箱の隙間から中を覗き込んだ。「スムル、どこにいるんだ。おい、俺と友達になろうぜ」

 跳び箱の中はうんともすんとも言わない。


「おい、いないじゃないかよ。おまえ嘘言っただろう」

 重人が僕の肩を押した。

「嘘なんて言ってないよ。本当にスムルはいたんだよ」

「大体よ。スムルって名前がうさん臭いよな。おまえの作り話だろう? なあ」

 重人は僕の顔に自分の顔を近づけた。

 翔太も睨むような目で僕を見てきた。

「いや、嘘じゃないって。本当にスムルはいるんだよ」僕は慌てて跳び箱を叩いた。そして跳び箱の隙間に向かって「スムル、いるんだろうスムル。意地悪しないで出てきてよ」と声をかけた。

 

 返事はない。

「おい、どうしたんだよスムル。昨日は話をしてくれたじゃないか」

「ちょっと待て、中見てみようぜ」

 重人が跳び箱の一段目に手をかける。

僕は開けていいものかどうかと一瞬思った。なぜそう思ったのかはわからない。なんとなく。そう、なんとなくだが、スムルの実体を見ることはいけないような気がした。僕は慌てて「それはやめた方がいいよ」と言って、重人の手を止めた。

「なんでだよ」

 重人が口を尖らせる。

「どけてみれば、いるかどうかはっきりするじゃないか」

 翔太も口を尖らせた。


「そうか……そうだね」僕はためらう自分を鼓舞した。「どけていいよ」

「なんでおまえに指示されなきゃならないんだよ」

 別に友達関係の中で、誰が上と言うことはないが、僕が言ったことが命令に聞こえたのだろう、重人は不満げな顔をしていた。

「指示なんて別に……」

「まあいいや。とにかく一段目をどければはっきりする」

 重人は一段目の跳び箱をどけた。

 翔太が真っ先に跳び箱の中を覗き込む。「あれ、いないぞ」

「え、いないって」

 重人が跳び箱の内部を覗き込む。

 僕も慌てて覗き込んだ。

 いない。どうしてだろう。昨日はいたのに。僕と話したのに。どうして? 家に帰ったのだろうか。


「やっぱり嘘か」

 重人が軽蔑の眼差しで僕を見た。

「嘘じゃないって」僕は慌てて弁解する。「昨日は本当にいたんだってば。いろいろな話をしたんだから」

「でも、いないじゃないか。嘘なんだろう。謝ればいいじゃないか。友達なんだし。謝れば許してあげるよ」

 翔太がにっこりと笑った。翔太は心が広いようだ。だが、重人は終始不満げな顔をしていた。僕に嘘をつかれたことがショックだったのかもしれない。


「俺たち友達だよな。なのにどうして嘘つくんだよ」

 重人が僕の頭を小突いた。

「だから嘘じゃないんだって。本当に昨日はいたんだよ」

「もういいや。つまんねえの」

 重人は鼻を鳴らし体育館を出て行った。翔太もその後についていった。

 おかしいな。僕は首を傾げた。確かに、昨日はスムルという十歳の男の子がいたのだ。目しか見てないけど。

 僕は仕方なく教室に戻ることにした。だが、どうにも納得がいかず、また家に帰った後体育館に行こうと決意した。


      六


 僕は一人で学校に行き、掃除の時に開けておいた扉から体育館に入った。すぐさま跳び箱に駆け寄り、スムルの名前を呼ぶ。

「スムルいるんだろう」

 返答がない。

 どうしていないんだろう。そうか、これからここに遊びに来るんだな。今は家にいるんだ、きっと。ならば、ここで待っていよう。そうしたら、スムルが来るに違いない。なんの根拠もなかったが、僕はスムルがくるのを跳び箱の中に入って待つことにした。


 跳び箱に入ってしばらくすると、昨日と同じように、どこからともなく声がした。忘れもしないスムルの声だった。

「おい、おい」

 右の跳び箱を見ると、二つの目が隙間から見えた。

「あれ、いつの間に来たんだい?」

 不思議だった。スムルの姿を見た覚えはなかった。どこから来たのだろう。物音ひとつしなかったが。

「さっきからずっといたよ。哲也が気づかなかっただけだろう」

「そうか。ごめんごめん」僕は跳び箱の中で頭を下げた。ゴツリと跳び箱に頭をぶつけてしまった。「あ、そういえば、今日の昼、ここに来たんだけど、いなかったね」

「いたさ」

「えっ、いたの? でも名前を呼んでも返答がなかったよ。それに、跳び箱開けてみたけど、いなかったよ」

 あの時、どこにもスムルはいなかった。跳び箱の中は空っぽだった。


「でも、いたんだよ。俺はちゃんと。おまえたちを見てたんだから」

 スムルの目が少しだけ大きくなった。相変わらず濁った目をしていた。

「見てたんだ」

「ああ、ずっと見てたよ」

「だったら出て来てくれれば良かったのに。みんなスムルに会いたがっていたんだよ。それで、僕が体育館に呼んだのに」

「俺に会いたかったら、友達は連れてくるな。おまえ一人で来い」 

スムルはしゃがれた声で言った。声質が急に変わったような気がした。少しだけ怖かった。


「何で? 僕の友達はいい奴たちだよ。会ってあげてよ」

 僕も会ったといってもスムルの姿を見たことはないけどさ。

「俺に会いたかったら、必ず一人で来い。いいな。これは男と男の約束だ」

 スムルの声はいっそうしゃがれていた。怒っているのかもしれない。怒るとしゃがれた声になるのかもしれない。

「わかったよ」

 恥ずかしがり屋なんだなと僕は思った。だから、僕一人じゃないと声をかけられないんだ。まあ、そういうことなら仕方がない。一人で来るとしよう。


「それから、俺に会いに来たときは、必ず跳び箱の中に入れよ、わかったな?」

 僕は首を傾げた。なぜ、跳び箱に入らなければならないのだろう。

「なんで?」

「理由は訊くな!」

 スムルの声にはもの凄い険があった。

 僕は渋々応じることにした。跳び箱の中に入らないと、スムルと話せないと言うことは、いつまで経っても僕はスムルの姿を見ることができないと言うことなのだ。まるでスマートフォンやコンピューターでメールのやり取りをしているみたいだ。

 スムルはこちらをじっと見ている。心なしか睨んでいるようにも見える。白目も充血している。


「それよりさ。僕スムルに頼みたいことがあるんだよ」

 僕は笑顔を作って言った。

「なんだ、頼みたいことって?」

 スムルの声がしゃがれ声ではなくなった。怒りはおさまったらしい。

「昨日言ってたじゃないか。僕の代わりに僕の家に帰ってくれて、勉強もしてくれるって」

「ああ、言ったけど」スムルの目が優しくなった。「実際にやってみるかい?」

「うん、そのつもりで今日は来たんだ。お母さん口うるさくってさ。もうやんなっちゃうよ。何かって言えば勉強勉強だもんね。耳が痛くなるよ」

「そうかそうか。哲也のお母さん相当口うるさいんだな」

 スムルが笑った。しゃくり上げるような笑いだった。


「だから、僕の代わりになってよ」

「ああ、わかったよ。哲也の代わりになってやる」

「でも大丈夫かな。僕じゃないってバレないかな」

「大丈夫バレないって。もしバレたら俺が怒られてやるから」

「本当に?」

「俺たち友達だろう」

 スムルは笑顔だった。いや、顔の表情は見えないから、本当のところはどうかわからない。だが、目はにっこりとしていた。

 僕はすぐにでもスムルと握手をしたい衝動に駆られた。しかし、跳び箱に入っている状態では握手はできない。僕は頭の中で、スムルと握手をする情景を思い浮かべるしかなかった。


「哲也、俺と入れ替わるってことは、ここで夜を明かすことになるけど、それでもいいんだね」

「ああ、いいよ」

「じゃあ、決まりだ」

「でも、一日だけだからね」

 僕は一瞬不安になりながら言った。なぜ不安なのかはわからなかった。

「ああ、わかってる。じゃあ、俺は哲也の家に帰るから。じゃあね」

 そう言うとスムルの目が一瞬にして消えた。跳び箱を開けたわけではないのに、スムルの気配がなくなった。

 僕の家の場所がわかるのだろうか。行ったこともないのに。そう思ったが、なぜかスムルが僕の家を知っているような気がした。いや、僕のことなら何でも知っているという気がした。何しろ初対面の時、僕の名前も知っていたのだから。




 僕はその日の夜、トイレに行きたくなった。警備のおじさんが一度見回りに来たが、それをやり過ごした後、トイレに行こうと、立ち上がった。だが、跳び箱の一段目が上に上がることはなかった。

 どんなに手で押し上げても跳び箱の一段目は外れなかった。

 どうなってるんだよ。嫌だよ。僕はこのままここから出られないのだろうかと、不安になった。でも、スムルが戻って来れば大丈夫さと自分に言い聞かせつつ、結局小便を跳び箱の中でしてしまった。


      七


 僕はスムルと入れ替わった。これは間違いなかった。一日経ってもスムルは戻らなかった。跳び箱から出られない僕は跳び箱の中でじっとしているしかなかった。跳び箱の中は狭くそして息苦しかった。でも跳び箱から出ることはできなかった。


      八


 次の日、騒がしい声で目が覚めた。跳び箱の隙間から外を覗くと、体操着を着た男女がマット運動をしていた。

「あ!」

 僕と同じクラスの生徒たちだった。重人や翔太もいた。

 その中に目だけを白く光らせている、怪しい黒い影のような人物がいた。スムルだろう。姿を見たことはなかったが、その影がスムルであると僕は確信していた。


 スムルはクラスにとけ込んでいた。みんな、なんの疑いもなく楽しそうにスルムと話をしている。先生も何も気がついていないらしい。どうしてだろう。あんな陰のように黒い体をした人間がいたら、普通は驚くはずだ。なのに、クラスの誰も驚いている様子はない。しかも、みんなスムルのことを僕の名前で呼んでいる。哲也と……。


 確かに、僕はスムルと入れ替わった。スムルが僕になり代わっているということにはなっているが、姿は僕とは全くの別人だ。なのに、みんなはなぜ、彼を僕だと認めているのだろうか。どうなっているんだ?

「そいつは僕じゃないよ。僕が僕なんだよ。僕はここにいるんだよ。気づいてくれよ。重人、翔太。僕はここだよ。先生気づいてよ」

 僕は叫びながら、何度も跳び箱を叩いた。そして揺らした。だが、跳び箱はピクリとも動かなかった。上に被さっている跳び箱の一段目を上に押し上げようとするが、びくともしない。


 僕は跳び箱の隙間から、スムルを睨み付けた。

 スムルはこちらに目を向け、狡猾そうに笑った。

 僕はこの世に存在しなくなった。いや、スムルには僕がわかっている。存在が完全になくなった訳じゃない。ただ、何か不明の生き物としてだけ、僕は存在することになったのだ。なぜだ? なぜこんなことに? 僕は何も悪いことはしていないぞ。ただ、勉強を少しさぼっただけじゃないか。スムルと友達になろうと思っただけじゃないか。なのにどうして?


「おい、スムル。そこは僕の居場所だぞ。僕がいるべき場所なんだ。返せ。僕の居場所を返せ」

 僕の声は、ただただ狭くてむさ苦しい跳び箱の中に空しく響き渡るだけだった。

 跳び箱の中に閉じこめられたまま、僕は色々考えた。スムルが幼稚園のことや学校のことについて何も知らなかったのは、この跳び箱の中が彼のいるべき場所だったからなのだと。学校にも行ってないというのは本当だったのだ。

彼は、もともと家などもなく、跳び箱の中にだけ存在する謎の生き物だったのだ。僕は今になってそれに気がついた。もう遅い。スムルはもうこの跳び箱には近づかないに違いない。一日だけという約束も破っているし。


 僕とは二度と入れ替わろうとしないだろう。僕は一生この跳び箱の中で暮らさなければならなくなった。僕の居場所は乗っ取られた。僕の居場所は唯一ここだけになってしまった。

悲しかった。これは夢だ。夢に決まっている。あり得ないことはほとんどが夢なのだ。うなされて目を覚ますと朝の光が僕の顔を照らしていて……。


 自分が果たして以前、杉野哲也という名前を持っていたことも疑わしくなった。自分が人間だったのかさえも。もしかしたら、人間になった夢を見ていたのは僕だったのかもしれないとも思った。記憶が曖昧になってきていた。スムルと入れ替わったことで、今まで経験してきた記憶が消え去ろうとしているのかもしれない。僕は本当に人間ではなくスムルがそうであったように、跳び箱の中で暗躍する正体不明の生き物になってしまうことを悟った。跳び箱の中でひっそりと暮らす謎の生物。僕は今、それでしかなくなった。


      九


 私は、杉野哲也のおかげで、この世に存在する人間になることができた。今は、スムルではなく杉野哲也として、彼の家で生活をしている。小学校、中学校、高校、大学を卒業し、小学校の教師になったばかりだ。

 道のりは険しいものだった。哲也の母親は教育ママといわれる勉強に凄く厳しい人だったので、勉強などしたことのない私には、初めのうちは苦痛以外のなにものでもなかった。

 でも、勉強のおもしろさがわかるようになると、学校でのテストの点が良くなり、母親にも褒められるようになった。大学までストレートで進める私立中学にも入学できた。

跳び箱の中では知ることのできなかった世界に、幾度となく戸惑ったこともあったが、とりあえず毎日楽しく過ごしてこられた。

 

 私は社会人になるまで、本当の杉野哲也のことを考えたことは一度もなかった。でも、社会人になって、ふと昔を懐かしく思い、彼のことを思い出すことが多くなった。

 彼は今でも、私の勤めるこの小学校の跳び箱の中にいるのだと思う。

 体育館に行って、跳び箱の中を確かめる気はない。下手をしたら、跳び箱の中に舞い戻ることになるかもしれないからだ。

 

 彼を気の毒に思う。跳び箱に入ったおかげで、この世での存在を私に取られてしまったのだから。

 人間の存在なんて、ちょっとしたことでなくなってしまうのだ。

 私は、人間の世界に存在してから、暗いところや狭いところに、入らないように気をつけている。万が一入ってしまっても、姿のはっきりしない物の問いかけには、耳を貸さないようにしようと心に決めている。

 私は人間世界に存在していたいのだ。

 跳び箱の中にいるであろう杉野哲也には悪いが、今は私が本当の杉野哲也なのだ。家族も友人も、会社の人間たちもそう認めている。つまり、私は人間世界に存在している。それは揺るぎない事実だ。

 

 ある生徒が、私のところに来て、跳び箱から声がする、気味が悪い、と言ったことがあった。私はその生徒に、自分の人生が嫌になったらその声と話すといいよ、と教えてやった。ただ、その時は一人で跳び箱に近づくようにとの注意も伝えた。

 それから、もうひとつ助言をしてやった。跳び箱から聞こえる声と話すのは別に構わないけど、後々後悔しないよう、今の人生を楽しんでおきなさいと。

 その生徒は、はい、と元気よく返事をして、職員室を出て行った。

 それからしばらくして、その生徒が極めて奇怪な姿になったことに私は気づいた。これは私が元々跳び箱の中にいた生き物だったから気づけたのだろう。だが、私はその奇怪な姿に変貌した生徒を普段通り受け入れた。

 その生徒が以前の杉野哲也だったからと言うわけではない。その生徒は杉野哲也ではない、別の異形の生き物に変わっていたのは間違いがないのだ。ひょっとすると、跳び箱の中に入ると、一個の人間の命が洗われ、別の生き物に生まれ変わるのかもしれない。だから、私も杉野哲也になっているというのに、いまだに別の生き物のように体が影のごとく黒いままなのだろう。

 

 私も跳び箱の中に入る前は、杉野哲也と同じ、元は人間だったのかもしれないが、その時の記憶はまったくない。なぜ跳び箱の中にいたのか、どうして跳び箱の中に入った杉野哲也と話したのかも、今や思い出せなくなっている。それでも、三つほど気がついたことがある。それは……。

 知らない奴とは話さないこと。

 知らない奴とは友達にはならないこと。

 小さな幸せを感じられないからと言って、跳び箱の中の生き物と人生の交換などしてはいけないということだ。それが、たとえ一時的だったとしても。


 私はふと気づくと夢遊病者のように跳び箱の前に一人で立っていることがある。一度は、跳び箱の一段目をどけたこともあったが、なんとか思いとどまった。

 大人になると、人生を投げ出したくなることが多々ある。そんなとき私は、つい跳び箱の中の生き物と人生を交換したくなってしまうのだ。

 以前の杉野哲也が大人は大変だと言っていたが、それが身に染みてわかる年に自分もなったのだと感慨にふけりながら、私は今、教師を続けている。


                                    (了)



読んでいただき、誠にありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 誰もいない体育館に潜り込んで、そのスリルと征服感を味わいたいという導入部分がすごく共感できて引き込まれていきました。 何が起きるのだろうというワクワク感もあり、面白かったです。 個人的に…
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