神道における教義と戒律
たまに「神道には世界の他の諸宗教とは違って教義や戒律や教祖や教典がない」と言われることがあります。そしてこの点が神道の特殊な点であるとか、だから神道は宗教ではないとか言われることがあります。そして、教義はなくても古来からの日本人の価値観が生きているとか、大事なのは自然で、自然と共に生きていくことが神道の理念だとかも言われます。
しかし、私はこの言説について疑問に思っています。なぜならこうした言説は、特にそうした教義や戒律などを明文化して持っている創唱宗教(開祖によって始められた宗教。キリスト教、イスラム教、仏教など)と対比させてそう言っているように思われるからです。
しかしこれらを明文化して持っていなければ宗教ではないと言うなら、創唱宗教より前に世界各地に存在していた、また今も存在している自然宗教(開祖のいない宗教)もまた、神道と同じく特殊であり、宗教ではないということになるでしょう。
教祖や教典についてはさておくとして、そもそも教義や戒律とは何でしょうか?私が思うに、教義とは神や世界についての教えであり、戒律とは義務や禁忌、つまりしなければならないこととしてはならないことの総称だと思います。
例えばキリスト教について言えば、教義には、神は三位一体であり、キリストは神性と人性とを併せ持っているということ、また世界は神が創造したものであり、最後の審判や死者の復活があり、人々はその行いに応じて良い報いや悪い報いを受けるということなどがあります。また戒律には、義務としては正統な信仰を保ち告白し、洗礼や聖餐などの儀礼を受けること、禁忌としては複数の神への信仰があってはならぬ、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、などがあります。実際に守られているか否かはともかく、こうしたことが教義や戒律であると言っていいでしょう。
ではこうした教義や戒律は、神道やその他の自然宗教には存在しないのかと言えば、そんなことはないと思います。
J・G・フレイザーの「サイキス・タスク」という本がありますが、その中では世界各地の自然宗教にも、独自の教義とそれに基づく厳しい禁忌があるということが述べられています。(例えば姦通や近親相姦は農作物の凶作とかその他の災いを引き起こすので、死刑をもって罰せられる、など)もっとも、フレイザーの記述は文献によるもので、本人のフィールドワークに基づいていないので、不正確な記述が見られることが指摘されていますが、自然宗教にも独自の教義や戒律があることはその他の資料からもわかります。
神道にも(というより、後に神道と総称された諸信仰にも)こうした教義や戒律がある、またはかつてあったことを資料から見出すことができます。例えば古事記、日本書紀だけを見ても(これらは教典というよりは歴史書なのですが)そうです。
例えば古事記、日本書紀には世界の始まりについても断片的に述べられていますし、少なくとも日本の始まりについては詳しく述べられています。つまり、イザナギとイザナミが天神の命を受けてオノゴロ島を引き上げ、そこに降り立って日本の土地を生み出し、木や草や山や火などを生み出し、最後にはイザナギが生を与え、イザナミが死を与えるものになったのだということが述べられています。
また君主権の由来についても(記紀の場合はむしろこちらがメインのようですが)述べられています。つまり天照大神と高皇産霊が天皇に君主権を授け、彼らを皇祖神として、大国主命やニギハヤヒの国譲りを受けて天皇の地位が確立したのだとされています。また神々の性質についても、ある者は木の神、ある者は山の神、ある者は火の神であり、天児屋根命と太玉命は神事を司るものであるとか、これこれの神はこれこれの氏族の祖神であるとか言われていますし、それら神々の間の関係についても述べられています。
また各地の神社でも、それぞれの祭神がどのような由来を持ち、どのような神徳を持っているのか、どんなご利益があるのかといったことが述べられていますが、こうしたことは教義といって良いものだと思います。
次に戒律についても、神道にも義務や禁忌がある、またはかつてあったことが見いだせます。例えば日本書紀では、イザナギの黄泉下りの段で、イザナギがイザナミの「私を見てはならない」との言葉を聞かずに櫛の歯を抜いて火をともした時にイザナミの腐乱した姿を見てしまった(そして追われることになった)ことを述べた後で、「これが、今の世の人が夜に一つ火を灯すことを忌み、夜に投げ櫛することを忌む由縁である」と述べられています。
またスサノオが天界で乱暴狼藉を働いて天界を追放された時、地上に下ってゆく途中で傘簑を負って神々に宿を乞うたが断られた、ということを述べた後で、「これが、世の人が傘簑を負って人に宿を乞うのを忌む由縁である。そしてこうした決まりを破った場合には必ず祓えを科す。これは太古の遺法である」と述べられています。
また天孫降臨の段では、天稚彦の葬儀が天上で行われた際、アジスキタカヒコネが死者と間違えられて大いに怒った、ということを述べた後で、「これが、世の人が生きている者を死んだ者と間違えることを忌む由縁である」と述べられています。
こうした記述からは、日本書紀が書かれた当時こうした禁忌が存在しており、その禁忌の由来を説明するためにこうした話が語られていることが伺えます。そしてこうした禁忌は独自の信条に基づいて課せられているのであり、それは他の諸宗教でそれぞれの信条に基づいて禁忌が課せられているのと同じです。例えばイスラム教と仏教では酒は理性を弱らせるとか争いを引き起こすとかいう理由で禁じられ、イスラム教では豚肉が「汚れている」という理由で禁じられています。
また人代に入ってもこうした記述があります。同じく日本書紀の仲哀天皇紀と神功皇后紀には、仲哀天皇がある神から新羅を攻めとるようにお告げを受けたのにそれを信じず従わなかったために神罰で早死にした、それで後を継いだ神功皇后がお告げを告げた神の名を聞き取り、それぞれの望むところで祀らせ、また新羅を含む三韓を征伐した、ということが述べられています。
また垂仁天皇紀には、かつて貴人が死ぬとその従者を殉死させていたが、この時に埴輪を作って人に代えるようになり殉死が行われなくなった、と述べられています。殉死が行われたということは「魏志倭人伝」にも述べられています。また魏志倭人伝や後漢書倭伝には死人が出ると十余日喪に服し、葬ったあと沐浴すること、骨を焼いて吉凶を占うこと、航海をする際には一人の人を選んで、その髪をくしけずらず、沐浴せず、肉を食わず、婦人を近づけず、喪中のごとくにして、これを「持斎」と言い、航海が無事に終わればこの者に褒美を与えるが、途中で災いに遭うと「持斎が慎まなかったからだ」と言って殺そうとする、ということなども述べられています。
また履中天皇紀には、神の祟りで皇妃が死んだためにその原因を探らせ、車持君の悪事が発覚したために罰を科して祓えをさせたこと、飼部の目元の入れ墨の傷が癒えていなかったために神がその血の臭気を忌み、そのために飼部の入れ墨を廃止したことが述べられています。
また雄略天皇紀には、香賜という人物を采女と共に胸方神を祭らせに遣わしたが、神域で神事が始まろうという時に香賜が采女を姧したために、雄略天皇が「神を祭り福を祈るには身を慎まなければならぬ」と言って香賜を誅殺したとの記述があります。また雄略天皇自身も、山から神の化身と思しき蛇を連れてきた時に斎戒をしておらず、蛇が目を光らせ雷鳴を鳴らした時にこれを畏れて、目を覆ってこれを見ず、殿中に退いたとの記述があります。
また孝徳天皇紀には、孝徳天皇の詔として再び殉死が禁じられており、また当時の人々の行いとして「川で溺れ死んだ者に出会うと『なぜ私を溺死人に会わせたのか』と言って、溺死者の仲間に強いて祓えをさせる。また路上で人が病気で死ぬと、その傍らの家の者が『なぜ私の家の前で人を死なせたのか』と言って、死んだ者の仲間に強いて祓えをさせる。また路上で炊飯をするとその傍らの家の者が『なぜ勝手に私の家の前で炊飯するのか』と言って祓えをさせる……」といったことを述べた後、こうしたことは愚かなことであり、今後は禁止する、と述べられています。
こうした習俗からは「死」に触れることを忌む思想がかいま見えますが、このような思想は後の時代になっても生きていたことが伺えます。というのは、鎌倉時代に書かれた「十訓抄」に、ある寺で鐘つき人が急死したために、寺の者たちはその汚れに触れるのを恐れて扉を閉め切っていた、との記述があるからです。このような死を忌む思想は本来仏教のものではないと思われるので、これは日本の民間の習俗、つまり神道のものだと思います。また同じ十訓抄には、無実の罪を着せられた宮女が無罪を訴えて菅原道真の神社に籠もっていた時に、誤って神水をこぼしてしまい、彼女を見張っていた検非違使が「これ以上の過ちはあるまい、早く帰りなされ」と言うシーンもあります。
また平安時代の「梁塵秘抄」にはこのような歌があります。
“鈴は亮振る藤太巫女 目より上にぞ鈴は振る ゆらゆらと振り上げて 目より下にて鈴振れば 懈怠なりとて 忌々し 神腹立ちたまふ”
現代でも、神道には見てはならない神宝や禁足地や、決まった参拝の作法などがあります。天皇の三種の神器は見ることができませんが、これが古くからの禁忌であることは、「平家物語」のラスト近くでの神器を見る描写や、「太平記」での陽成天皇が剣を抜いてみた時の描写などからわかります。
また、すでに仏教と儒教が伝わっていた時代の記録ではありますが、隋の煬帝の時代(西暦600年頃)の中国から当時の日本(倭国)を訪れた人の見聞録が「隋書倭国伝」にあります。そこにはこんな記述があります。
「その(倭の)習俗は、人を殺し、強盗及び姦する者は皆死刑とし、盗む者は盗んだものを計って弁償させ、それだけの財産がない者は身を落として奴隷とする。その他はことの軽重により、あるいは流刑としあるいは打ち叩く刑に処す。訴訟を問いただす時に罪を認めない者があれば……小石を煮え立った湯の中に置き、競い合う者らにそれを探らせ、云う『よこしまな者は手がただれるであろう』と。あるいは蛇を甕の中に入れてこれを取らせ、云う『よこしまな者は手を咬まれるであろう』と」
熱湯の中の小石を探らせる云々の記述は、日本書紀にある「盟神探湯」の記述とも通じます。日本書紀の允恭天皇紀では、この頃自分の氏姓を偽る者が多く、偽って皇族を名乗ったり天孫を名乗る者たちがいたので、人々に沐浴斎戒させてから熱湯の中に手を入れさせた。そうすると本当のことを言っている者たちは無事だったが、偽りを述べていた者たちは火傷を負ったので、これ以降は氏姓が定まった、とされています。
こうした点からすれば、神道にも教義とそれに基づいた義務や禁忌がある、と言ってよいと思います。というのは、もし本当に教義も戒律もないとしたら、こうしたことを何一つはばかることはないはずだからです。
神に対しては不敬な行いをしないようにする、という行動は、「神はそのような行いを憎むものだ」という信条に(あるいはそれと似たような信条に)基づいているわけであって、それはたとえそれが「自然な」ことだとか、「自然に」身につけた振る舞いだとか言われていたとしても、事実上一つの「教義」と言ってよいものだと思います。というのは、世の中には「神などいない。だから不敬な行いをしても一向に構わない」という信条もあり得るからです。