四話 ワクチン
橋本が口を再び開きかけたその時。ソレは唐突に窓から飛び込んできて、その先にいた佐藤恵理の頭を水風船でも割るように、飛ばした。そしてそのまま、佐藤恵理の体を飛び越えて、トトッ、と教室の床に着地した。
なにが起きたのかわからない俺は、廊下側の壁に当たって跳ね返ってきた佐藤恵理の半壊した頭が、自分の足にコツンとぶつかるのを感じた。口が半開きの、目立った表情のない彼女のパーツ。人の脳みそを初めて見た。いや、それ以外も。彼女の内側にあったほとんどが、俺の視界に飛び出してきていた。
「尾けられた! そいつらが連れてきたんだ! うわああっ」
後ろからのでぶの雄たけびに押されるように、俺は窓から飛び込んできたソレを見る。奇妙な、人間らしいのだが、そうではないような形をしている。
太ももからスネにかけて、腐敗した上半身の一般的な体系と、まるで釣り合っていない。直接空気入れでも差し込んで、限界まで膨らませたような感じだ。バスケットボール並の太さで、いくつもの青色の、それこそ赤ちゃんの腕の太さの血管が浮き彫りになっていた。それに合わせるように足が長くなっているので、身の丈は二mを軽く超えていえる。雷のような唸り声を上げるソレと、血しぶきを上げながら椅子から転げ落ちる佐藤恵理の亡骸に全員が圧倒されていた。
「変異体だ!」
橋本の一声と共に、金髪はすぐさまドアから出ようと駆けた。めざとく気づいた変異体が、金髪の方を向いてひざを曲げる。途端に、今まで青かったはずの血管が、紫に変色した。直感でわかる。こいつの足の筋肉は異常だ。地上から10mはあるこの三階の一角に、ジャンプだけでたどり着き、尚且つ人ひとりの頭を吹き飛ばす余裕まであるやつなのだ。
「うおおおおっ」
橋本の雄たけびとともに、AKは連射された。それに呼応するかのように、凄まじい高周波が耳をつんざいた。出所は、変異体のふくらはぎだ。ぱっくりとくるぶし辺りまで縦に割れた肉の奥から、なぜこのような音が出るのか考える暇もなく、思わず耳をふさぐ俺だったが、その際に訪れた心音の世界に、声が木霊した。
佐藤恵理は死んだ。悲しくないの?
ああ、悲しいとも。だって、今まで一緒に生き残って来たから。
俺は答える。耳を塞いだだけでは防ぎきれない銃声、叫び、足音。俺はぼんやりと、音のする方に顔を向けている。
残念だけど、俺にはそう見えない。君が佐藤恵理の頭を見下ろした時の表情、どんなだったか覚えてるかい。
いや。
無表情だよ。淡々と彼女を見ていた。いや、彼女というより、人の頭の作りを――
違う。俺は、彼女を見ていた。そして悲しんだ。付き合っていたし――
そう。ちょうど、君が自分の親に襲われる前日に、君は彼女に直接告白した。
そうとも。結婚なんて言葉もでかかったくらいだ。結局言わなかったが、それほど好きだった。いや、愛していた。だから悲しまないはずがない。
いや、悲しんでいないね。俺は君の心だもの。なんだってわかるさ。そういうふりをしていただけ。なぜなら、そうしていた方が、彼女とヤる時の口実になるから。君は彼女とそうしたいがためだけに、自分を偽ったんだ。人を愛したことなんかないくせに。
違う。違う違う違う。
合っているよ。君は嘘の塊だ。彼女は、君に騙された。だから、こんな状況になってまでも、君を愛し続けた。そして死んだよ。あっけなくね。
やめてくれ。
君、親のことを殺した時、泣いたっけ?
「もう死んでた!!」
俺は叫び、いつの間にか閉じていた瞼を開いた。橋本が汗まみれの顔で俺の腕をつかみ、不思議そうにこちらを見ている。辺りを見渡すと、そこは一階の階段で、下駄箱が見えた。俺と橋本の他には、金髪がいただけだった。
橋本は意識を取り戻した俺を見て、ほっとしているようだ。
「やつは殺した」
聞いてもいないのに橋本は言った。
「でぶは」
俺は無意識に会話を続けようとした。そうしないと、またあいつがやってくるような気がした。
「逃げた」
俺は開け放たれた昇降口を見る。
「もう時間がない。あいつが叫んでくれたおかげで、ゾンビがうじゃうじゃ寄ってくる。ワクチンの回収に向かう」
何を言っているのかわからないところがあったが、放っておいた。
「てめぇ足手まといなんだよ。死ねよ」
階段に腰掛けていた金髪が突然言った。俺が見ると、眉毛を釣り上げて、日焼けしたこぶしを握りしめている。
「あ?何見てんだよ。かかってこいよ」
どうでもいい。
「ワクチンは絶対にここにあるのか」
強制された自問自答にショックを隠しきれない俺は、会話をすることで気を紛らわそうとした。
「ワクチン処理場」
橋本は言いながら階段を降り切った。昇降口に行くかと思ったが、廊下の真ん中で左右を警戒しただけだった。
「全国、いや、全世界に、そう呼ばれる施設があった」
俺も階段を降りた。
「この世界規模のバイオハザードは、人為的なものである、というのが上の出した結論だ。それを決定づけたのが、極秘裏に手に入れられたワクチン処理場のリスト。噂じゃ数千にも及ぶって話だが、具体的な数は知らされていない。この一か所だけを除いてな」
話す声がピリピリと張り詰めている。何を緊張しているんだ?
「すぐにわかる。とにかく、それらの処理場をしらみつぶしにして、わずかでもいい、ワクチンの欠片を見つけるというのが、俺達に課せられた任務だ」
黙って聞いていると、疑問が湧いてくる。
「人為的なものっていうけど、それじゃ世の中をめちゃくちゃにした野郎がいるってことか?」
「そうだ。正体はいまだ不明だが、組織であることは間違いない。そいつらがワクチン候補を全滅させたところで、準備は整ったらしい。そのリストが見つかったのも、すでにウィルスが出回った後だった」
変な話だな。大体ワクチンって、元となるウィルスがないと作れないだろ。そいつらがわざわざワクチンを作って、それからまた処理したっていうのか?
「ワクチン、というより、免疫というべきか。免疫だったら、お前も、俺も、ここにいる全員が持っている。空気感染しないだろ。これまでの調査で、空気感染しない人間、する人間の割合は、3:7くらいだそうだ。結構生き残る。だが、俺達も感染者との物理的接触には敵わない」
俺は黙った。なんだかんだで、今俺は、この世で一番必要とされている情報を聞かされているのかもしれない。
そして今の解説を聞いて、なにかいやな結論にぶち当たったような気がした。……俺の読みが外れることはなかった。
「その物理的接触にも耐えることのできる先天的免疫者のことを、国、いや世界がワクチンと呼んでいる。ワクチン処理場は、そいつらの抹殺が行われていた場所だと容易に推測できる」
ワクチンが人間そのものだと言える根拠は?
「確定できる証拠はない。なんせ免疫者の爪の垢も見つかっていないからな。かなり徹底的にやられている。あるとすれば、適当な処理場が調査された時に見つかった、電気―――」
一階の教室のドアが一斉に開かれ、言葉はそれに呑み込まれた。すぐ目の前をアフリカの動物たちが駆けていったような、何が起きたか分からないという雰囲気が三人の間に浮遊していると、それぞれのドアから、なにか細長いものが一本ずつ漂ってきた。
「校長室へ行く。そこが入口だ」
橋本はやっと聞こえるほどの声で呟いた。俺は後方から金髪の息をのむ声を聞き、細長いうちの一本を凝視した。
それは、どぶ色に変色した、とてつもなく長く、細い、人の腕だった。
読んでいただきありがとうございました。
ワクチン云々に関してはwikiを流し読み(というより最初だけよんだ)しただけの浅い知識で書いております。
また、それ以外の発想も多分めちゃくちゃなんだろうなと思いますが、そこはフィクションとして許してくれたらと思います。
そいではっ