三話 生存者
両脇に広がる揺らめくカーテンは視界から消え、俺たちは開け放たれた昇降口に入った。錆びついた小さな下駄箱が左の隅に置かれているだけの、質素な作りだった。しかし、どこぞの不良どもが残したスプレーによる落書きが随所に散りばめられ、缶などのごみも散乱しているため、少しばかり目を引きつけるだけの効果はあった。夏の暑さにも負けない冷えたアスファルトの床が、コツコツと俺たちの足音を反響させる。やがてそれはギシギシという音に変わった。廊下は木造だ。
「どうする……おい、痛いからもうちょっとゆるめろ」
がちがちに俺に張り付いていた佐藤恵理が、俺の顔を見て、自分の掴んでいる腕を見て、ぱっと手を離した。そのあと、俺の手を遠慮がちに握った。こんなに震えて、周囲を必要以上に見回す彼女を見るのはあの時以来だ。
「ここ……すごく、やだ……」
彼女の冷や汗の伝うのを見た後で、俺は考えた。避難所に指定されているはずの、静寂に包まれた廃校。一階からはなんの物音も聞こえず、廊下の窓から差し込む無機質な光が、なによりも俺たちの孤独を知らせていた。誰かいないかと叫んでみようにも、どこも開いていない教室のドアの向こう側に、確かに人ならざるものの気配を感じ、それはやめておいた。
正面には二階へ続く階段があった。俺は彼女を引っ張ってそこを上った。
「誰かいるかもしれない。できるだけ調べよう――」
階段を上がりきって彼女に話しかけた瞬間、俺の左ほおは衝撃を受け、吹っ飛んで後頭部と背中を壁に強打した。
「アッ」
彼女の叫びと、ライフルが俺に照準をつける際に生じた音は同時だった。ぼやける視界のなかに、迷彩色が霞んでいる……。
目が覚めた瞬間、俺は反射的に起き上がっていた。視界がぼやけたままなので、さして意味はなかった。次いで頭に痛みを感じ、後頭部をそっとさすった。たんこぶ程度ですんでいるようだ。周りの状況が知りたいと、俺は一心不乱に目をこすり、あたりを警戒した。
「そう騒ぐな、川島ユウ」
落ち着いた低い声が聞こえた。その方向に目をやると、はっきりしてきた視界に、AKを手に迷彩服を着込んだ男が映っていた。俺は歯をくいしばって立ち上がり、先ほどの襲撃者に敵意を向ける。
「蹴って悪かったな。ゾンビと間違えたんだ。そう怒るな」
俺は男に注意を向けたまま、辺りを見回した。どうやら教室のひとつらしい。朽ちた机やイスがいくつか転がっている。窓際にそのひとつに腰かけている佐藤恵理がいた。知らない金髪の男が、夏らしい格好(アロハシャツにゆるい半ズボン)で黒板に寄りかかってこちらを見ている(睨んでいる?)。
「状況を説明しよう」
勝手に話し始めた男を、俺は遮った。まるで俺が今までの会議に参加していたような口調で話しだすので、遮るのも少し遅れた。
「おまえは誰だ。ここは避難所じゃないのか」
「俺は自衛隊の橋本信明だ。他の肩書きはどうでもいい。ここは三階で、お前が三十分ほど寝ている間に、俺たちはお前の連れから事情を聞いた。ここは避難所じゃない。少なくとも俺はそんなこと知らなかった。だが、他の――」
不意打ち自衛隊員の説明に、金髪が口を挟んだ。
「おれとそこのでぶは、その放送を聞いた」
俺に喧嘩を売ってるような目つきで話した金髪は、ぶっきらぼうに俺の後ろを指差した。振り向くと、汗でべとべとのTシャツと、夏だというのにぴちぴちのジーパンを履いた眼鏡の男が、びくっと俺から目をそらした。
「……」
なにかぶつぶつ言ってるのが聞こえる。両手に美少女フィギュアを赤子をあやすように抱いているのが見えたところで、俺は振り返った。妙なのが集まっている。教室の中央にいた俺は、金髪の挑むような眼光を受けながら、俺のそばでしゃがみこんでいる自衛隊員橋本の話を聞いた。
「ああ。チャラ男が斉藤で、後ろのオタクは菊池だ。紹介遅れてすまん」
橋本は誰に言うともなく謝った。とってつけたような紹介に、俺はそいつらはどうでもいいから他を説明しろと切り捨てた。
「……要点だけ話そう。数日前、ある任を受けていた俺たちのヘリは、襲撃された。校舎の裏側に煙が上がっていただろ。屋上に着陸しようとして、墜落したんだ。『変異体』によってな。見たことあるか?」
俺は首を横に振った。変異体?
「ゾンビのことか」
「違う。本当に知らないのか。まあいい。
それで、昨日ようやく本部と連絡が取れた。もうあと1時間もすれば救助が来る。俺にある手土産を期待してな。今はそれを俺は持っていないから、嘘をついた。向こうも余裕がない。持っていないと答えれば救助は来なかったろう」
弁解がましく言う橋本に、俺が目つきだけでその手土産とやらの詳細を尋ねると、
「ワクチンだ」
単調な声で橋本は答えて、仲間は全員墜落で死に、救助すべき民間人に協力を乞うことを謝った上で、知っている限りの事件の詳細を話そうとした。
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