大阪府貝塚における日常的風景
根拠のない自信とはいつの世も愚昧極まりない行いを産むもので、禁断の果実もまたそのような味がしたのやもしれません。
中には禁断の果実とはいかにも無縁に見える、純真無垢でありながら汚濁に塗れた悪意を振り撒く人物も存在致します。
あな恐ろしとお思いになるかもしれませんが、なかなかどうして自意識とは不安定なものでありまして、誰もが自らを過大評価して生きているものでございます。
胡乱な瞳で狂人を見つめていると思いきや、ことの外に鏡を見つめていたということも屡々。
気散じ恙無く生きているつもりが、いつの間にやらどん底であると。
なれば聖父にも釈迦にもお救いになられぬ罪が生じても致し方なし。
これはそんな十字架を背負った業人のお話にございます。
ある日Hがいつものように教室で机に突っ伏していると、どうやら数人の女子が何某かを話題に出して大盛り上がりのようでした。
暫く聞き耳を立てていると、なにやら"S"という人物についての誹謗が話の中心らしい。
Hは自分のイニシャルが"S"でないことにほっとすると同時に、一体"S"とは誰なのだろうと考えました。
考えてみたところで思いつかないどころか、Hは"S"の名を冠する全ての同級生を憎んでいることに気付き、話の内容から誹謗を受けている人物を予想することにしました。
何よりこのH、常日頃からどんな人でも悪口を言われるのが大事であり、互いに悪いところを見つけて言うべきだと思っている唐変木でございます。
それでいて自分への批判は許さない傲岸不遜に矛盾を重ねる無能ぶり。これで嫌われぬわけがないとお思いになるかもしれませんが、本人には知る由もありません。
「やっぱり人を見下すような態度がムカつくよねー」
「わかる。あとなんか下品っていうかさ」
「確かに汚らしい!」
堰を切ったようにぞめき始める女子のなんと恐ろしきかなと思いつつ、Hは内心ほくそ笑んでおりました。
はてさて一体誰のことやら。ところで女同士で行われる陰口というのは、往々にして同性に対するものだと決まっております。
『こりゃ白鳥麗香のことに違いない。あまりに綺麗過ぎるからこうやって貶めているんだ』
Hの頭の中に真っ先に浮かんだのは、現役でモデルをしている白鳥R香でございました。
この白鳥R香はまさしく大和撫子と呼ぶに相応しく、ざっかけない女子の目の敵にされているようで、時折謂れのない非難を受けているところが目撃されているらしい。
何を隠そうこのHもまた白鳥R香に思いを馳せる一人にございます。
『このことを伝えてお近づきになるのもありだで……』
などと考えていると、女子の誹謗はより激しなものへと発展していくではありませんか。
「あと常に引きつった薄ら笑いなのもムカつくよね」
「馬鹿にされてる気分になるっていうかさ」
「なんか女々しいしキモいわ」
ん? こりゃ白鳥R香のことじゃないぞ。
はてさて一体誰のことやら。ところで商売人というのは、得てして常に笑みを浮かべているような気がいたします。
『こりゃ岩崎サトシのことに違いない。あいつは常に薄ら笑いを浮かべて、ことあるごとに本やらCDやらを売りつけようとしてくる。きっとそれが鬱陶しいと思われているんだ。確かに薄ら笑いは見下されているように感じるだで』
Hの頭に次いで浮かんできたのは、ウォンツと揶揄されているI崎サトシでございました。
このウォンツとは欲求を表し、あるものを求める精神的な感情を言うものなのですが、I崎サトシという 詐欺師は、巧みにウォンツを探り出してある製品を売りつけようとする胡散な人物にごございます。
何を隠そうHもまたI崎サトシに金を騙し取られた一人であるとか。
『このことを伝えて奪われた金を取り返す足がかりにするのもありだで……』
などと考えていると、姦しい罵詈雑言の羅列はより深淵へと嵌ってゆきます。
「ていうかあいつ一々小さいことでぐちぐち言っててほんとムカつく」
「たまに無理に明るく振舞ってるけど陰湿な感じが隠せてないわ」
「あいつこの前勃起しててほんと気持ち悪かった」
ん? これはI崎サトシのことでもないぞ。
はてさて一体誰のことやら。ところで格闘家というのは大衆の前で別の自分を演じなければならないらしいではありませんか。
『こりゃS藤光のことに違いない。あいつならば下品な笑顔を浮かべながらよく陰湿に嫌味を言っているし、全ての条件に当てはまる』
このS藤光はレスリング部に所属しており、粗暴な態度と執拗な剣突で多くの生徒に嫌われているようでございます。
何を隠そうHもまたS藤光に被害を蒙った一人であるとか。
『これは本人に話しかけるのも嫌だし、なんの話の種にもならんで……』
などと考えていると、いよいよ女の群れに話しかける男が一人。
姦しい群れに男が加わり嫐るための体制がいよいよもって完成を迎えようとしているようで。
これだけの群れの標的になってしまう哀れな人物のことを思うと涙を禁じ得ません。
「よう、なんの話してんだ?」
「あっシバターじゃん」
「今Sの話してんのー」
ん? シバターとはS藤光のあだ名ではありませんか。
『おや、自分が謗りを受けているとも気付かず、ぬけぬけと顔を出してきたのか。なんとも間抜けなことこの上ない』
おやおやHの思考はゴールへ到達してしまったようで、心の底でS藤光をあざ笑っております。
「頭も悪い」
「女にがっつく」
「礼儀作法がなってない」
などの言葉が誰に対してのものなのかも知らず、S藤光は女子たちと歓談に耽っているようで。
Hはまるで我関せずとでもいう風に、未だ頭を突っ伏したまま陰湿で下品な薄ら笑いを浮かべているようです。
さてさていよいよ以ってして、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴りました。
急ぎ足で自席へ戻る生徒たちの足音がどたどたと響き、Hも自らの面を上げます。
あなや稚拙で浅ましき貌。
果たせるかな陰口とはまこと恐ろしきものにございます。
自分は大丈夫、と思っている人物にこそ矛先が向かっているのやもしれません。
半ちくな理解力よりも絶無な理解力である方が、当人にとっては幸せということもあるでしょう。
矛を持たずとも他者を傷つけることはできますし、盾を持たずとも自分が傷つかずに済む術は如何様にもございます。
根拠のない自信とはいつの世も無自覚の幸福を産むもので、三業もまたそのような意味を持つのやもしれません。
中には業とはいかにも無縁に見える、悪逆無道でありながら慈愛に塗れた善意を振り撒く人物も存在致します。
あな恐ろしは悪意に依る悪行でなく、善意に依る悪行でございましょう。
胡乱な瞳で狂人を見つめているとき、狂人がこちらを覗いているということも屡々。
地底であれど、気散じ恙無く生きる土竜が一匹。
なれば聖父も釈迦も必要なし。
これは無知の至福に酔える業人のお話にございました。
彼の未来は文豪か菓子職人か。
何れにしても大物になるに違いありませんが、はてさて。