空き教室
誰もいない教室の中は、しんと静まり返っていた。
創立百年を迎えるというこの小学校の、今はもう使われていない木造旧校舎。老朽化が進み危険だからという理由で、生徒たちがいない夏休みの間にと、近日中にも取り壊しが始まってしまう。
スカートで登校してきたことを少しだけ後悔しながら、それでも躊躇せずに、入り口に張られた黄色と黒のロープを跨いだ。
既に一般の生徒が立ち入り禁止になっているこの場所は、必要なものはとっくの昔に運び出され、教職員でさえも近付くことはない。そんな物好きは、恐らく私くらいなものだろう。
長い年月の間に降り積もった埃で、残された古い机も椅子も床さえも、その全てが灰色にくすんでいた。けれど私の記憶の中では、今も色鮮やかなまま。あのころこの場所にいたクラスメイトたちの表情までも、鮮明に覚えている。
今も残されたままになっている、ダイヤル式の年代もののテレビにも、容赦なく埃が層を作っている。デジタル化云々以前に既に壊れて使い物にならないであろうことは、確認するまでもない。
クラス担任が休んだときにだけ教室にやって来た教務主任の先生は、なぜか「自習」と称して、この教室でテレビアニメのVTRを見せてくれた。
学校一厳しいと有名な先生だったが、実は授業をするのが面倒なだけだったのかもしれない。必要以上に騒いだりしない限りは、私語や読書や居眠りなど勝手なことをしていても、決して怒られなかったのだから。
当時の推定年齢五十歳のあの先生も、既に定年退職で教職を離れている。先生の事を覚えているクラスメイトが何人いるのかは分からないが、恐らくかなり少ないだろうことは確かだった。
一つ一つ、机を見て歩く。幾重にも積み重なった埃が、元の天板を完全に覆い尽くしてしまっていた。それでもあきらめず、電気などとうに通っていないため薄暗くなっている中、目を凝らして目的のものを探す。
ようやく半数を見終わり、それでも見つからない。やはり無理なんだろうか、と溜息を一つ零した。
その時、がたん、と私のものではない物音が校舎内に響いた。私以外には誰もここに近付くことすらないと思っていたから、口から心臓が飛び出すくらいに驚いた。
そういえば昔この校舎には、幽霊が出るという噂があったことを思い出す。もちろん子供心にも、そんなことを信じてなんかいなかったけれど。
自分自身の鼓動が、うるさいくらいに耳に響く。ごくりと生唾を飲み込んで耳を澄ませて、辺りを窺う。
規則正しい音が近づいてくる。まるで足音のようなその音は、確実に近くなってきていた。足があるんだから幽霊じゃないだろう。幽霊に足がないなんて、そんな何の根拠もないようなことを考えて、心を落ち着かせようと努力してみた。
やがてその足音がぴたりと止まる。すぐ近くだ。
ひょっこり。開けっ放しの戸口から、誰かの頭が覗いた。私は、思わず上げそうになった悲鳴を懸命に飲み込む。外からの光が逆光になり、顔を確認することができない。そのことがさらに私の恐怖心を煽っている。人間なのかどうかすらも確認する気にはなれず、私はただその場所に固まってしまっていた。
「ああ、やっぱりいた」
聞き覚えのあるその声に、ほっと緊張の糸が緩む。
「こ、三笠先生?」
「さっきむこうの廊下から、渡辺先生がここに入っていくのが見えたから、追いかけてきたんだけどさ」
入ってきたのは、この学校の教員をしている三笠浩平。私の同僚であり、小学四年生から六年生までの三年間クラスメイトだった。
「おお。懐かしいな、この教室」
先ほどまで私を震え上がらせていたことも知らずに、能天気にも嬉しそうに室内を見回している。その後姿があまりにも憎らしくて、私よりも上の位置にある後頭部を思わず叩いてしまった。
「いてっ。 なにすんだよ、いきなり」
けれど振り向いた浩平は、特に怒った様子もない。私のこういった突然の行動には昔から慣れている、とその顔に書いてある。
「えーっと。ああ、これだこれ。ほら、見てみろよ」
浩平が指差す場所を見てみると、そこには私が探していた机が確かにあった。
さっきからあれだけ探していても見つからなかったのに、こいつにかかるとどうしてこうも簡単に見つかるのか。そういえば浩平が昔から要領だけは人一倍よかったことを思い出し、なんだかむっとしてしまった。
私が勝手な理由で怒っている間にも浩平は、ポケットティッシュで机の天板のごく一部の埃を拭い取っている。その行動に、私は内心の焦りを隠せない。
まさか、浩平はあのことを知っているのだろうか。
「あ。あった、あった」
嬉しそうに指差す先を見てみると、確かにそこに、目的のものがあった。
呆然と机を見下ろし、次いで浩平の顔を見上げる。
「お前もこれ、探してたんじゃないのか?」
「知ってたの?」
浩平はもちろんのこと、誰も知らないと思っていた。誰にも気付かれていないと思っていた。卒業式の前日、こっそりここに忍び込んでシャープペンシルの先で刻み込んだ、こんないたずら書きになんて。そう思っていたのに。
「あったりまえ。あの時俺、最後の日だったし、同じクラスの連中とサッカーしてたからさ。たまたまお前がここから出て行くのを見て、何をしてたのかに気なって確かめに来たんだ。で、これを見付けた」
にやりと口角を上げて楽しげに笑う浩平を前に私は、かあっと顔に血が上るのを自覚した。
「なん、で。だって浩平、何も言わなかったじゃない」
必死で平静を保とうとしているのに、その努力も空しく声が震えてしまう。
「そりゃ、やっぱりお前の口から聞きたいじゃん、こういうのってさ」
「って、だってあんた、中学は私立に行っちゃったし、高校も大学も全然別で、私との接点なんてなかったじゃない」
「だーかーらー。卒業式の日に何か言って来るかと思って、期待してたんだよ。で、思いっきり後悔した」
「は?」
「お前が言わないんなら、俺のほうから言えばよかったんじゃないかって」
静かに近づいてくる浩平の顔を、私は信じられない思いで見つめる。
「ここに赴任してきたとき、佐紀子が一緒で心底驚いた。で、無茶苦茶嬉しかったんだよな」
「ど、うし、て」
まさか。もしかして、そうなんだろうか。
「いやほら。やっぱ初恋の相手って忘れられるもんじゃないってーか、まあ、そういうこと」
「えええええっ?」
思わず耳を疑う。なに? 今目の前のこいつは何て言った? 初恋?
「じゃあなに、あんたと私って、もしかして両想いだったわけ? 可愛らしく悩んでいた私って、ばかみたいじゃない!」
脱力しそうになりながらも、床に降り積もった埃を見てなんとか足を踏ん張った。こんな所にしゃがみこんでしまったら、とんでもないことになる。
「んー。俺もさ、せっかく同じ職場になったんだから、とか思ったけど」
「けど?」
「さすがにいまだに十四年も前の初恋にこだわってんのは俺だけかもしれない、お前はとっくに忘れているかも、って思うとだな」
照れているのか、次第に浩平の目線が私から逸れていく。そして私はというと、体の奥から湧き上がる感情に戸惑いながら、そんな浩平を信じられない思いで見つめていた。
「初恋を忘れられなかったのは、あんただけじゃないわ」
私の言葉に、浩平が弾かれたように視線を戻す。
「だから、この校舎が壊される前に、これを探しに来たんだもの」
机の表面を、伸ばした指先で撫でる。少しくらい汚れたってかまわない。石鹸で洗えば落ちるのだから平気だ。
「えーっと、それはつまり」
「私もあの頃と同じ気持ちだってことよ」
まさに放心状態の浩平に、少しずつ近づく。浩平は一歩も動かない。
「え。マジで?」
「マジよ。大マジ。そういうあんたは、どうなのよ」
顔から火が出るくらいに熱い。きっと真っ赤になっているだろうと思いながら、同じように赤い浩平の顔を見上げた。
「俺も。やっぱお前のこと、好きだ」
照れて笑う浩平の姿が、小学六年生の頃の姿とだぶって見えて、やたらと可愛く感じられるのがおかしくて。そして何よりも十四年越しの想いがかなったことが嬉しくて、私は目の前の浩平の首元に、背伸びして飛びついた。
「う、うわあっ」
突然のことに二人分の体重を支えきれずに転倒してしまい、二人して体中髪の毛まで見事に埃で真っ白になってしまったけれど。
十四年前のあの日に机に刻んだ、幼い初恋。そこには、相合傘の下に並んだ浩平と私の名前が、今も変わらず並んでいた。
ここはもうすぐなくなってしまうけれど。この机も廃棄されてしまうだろうけれど。二人のこの想いは、たぶん一生消えないだろう。