・霊帝翔麒(2)
清華の守護者である霊帝が住まう天宙楼最上部は、一般人が立ち入る事は許されていない。
国における生命線と言っても過言ではない人物が居るこの場所に足を踏み入れられるのは、霊帝の身の回りを世話をする傍仕えを除けば、直属である八霊衆と一握りの政府関係者といったわずかな人数に限られている。
そんな天宙楼最上部にある扉の前に今、秀慧は立っていた。
「いつも通り、八方奉霊の前には迎えに来る」
傍らにいた朱明が、事務的に告げて足早に別のフロアへと姿を消す。
その姿を見送る事なく重厚な木製の扉を数度叩くと、音もなくひとりでに扉が開いていく。扉の向こうには、暮れ行く美しい空を背にして立つ青年の姿があった。
「久しぶりだ。秀、息災そうでなによりだ」
霊帝の徴である翡翠の衣で長躯を包んだ青年は、秀慧を見るなり顔を綻ばせて駆け寄り、部屋へと迎え入れる。二人して大きく設えられた窓際にまで歩めば、清華の都を彼方まで一望する事ができた。
「翔、お前こそ元気そうだ。変わりはないか?」
霊帝である青年、翔麒に向けて秀慧は柔らかな言葉と微笑を向ける。
「ああ、いつも通りだ。刺激のない小奇麗な毎日だ。うんざりするくらいにな」
窓際にある仕立ての良い椅子にゆったりと身を預けた霊帝翔麒は、神聖視すらされる守護者らしからぬ皮肉めいた物言いでニヤリと笑みを返す。
「秀、仕事はどうだ?八霊課に配属されてからもう、三ヶ月になるが」
「大分、慣れた」
勧められる事もないまま向かいの椅子に腰を下ろし、用意されてあった茶を口に含んでから、秀慧は夕暮れを眺めた。
「お前の対の澪李は、なかかな良い武術師だろう?」
「……腕は立つし、何より随分と元気付けられる事が多い。向こう見ずで怪我ばかりするから気が気ではないがな」
視線を翔麒に戻し、お前に呼ばれる直前もその事で口論になったばかりだと言葉を続けながら、秀慧は小さくため息をつく。
その様子に翔麒は意外そうに眉根を上げた後、肩を震わせて笑い始めた。
「お前、まるで女房だな。うまくやってるってことか」
「私が女房か? 女はあちらだというのに」
秀慧が足を組んで背もたれに身を預けた。
「くくっ、例えだ。よくある例えだろう? お前が女々しいって意味じゃない」
辛うじて笑いを収めながら、翔麒は友の端正な白面をじっと見る。
「前よりも表情が豊かになったな。彼女をお前の対に決めたのは、正解だった」
感情を表に出す事が不得手な上に、幼い頃に両親を失った事で孤独を多く味わってきた秀慧は今、少しずつ変わりつつある。
「澪李は向こう見ずで気性が荒い。お前とは衝突する事もあるだろうが、お互いに良い刺激になっているだろうお前は彼女の事を憎からず想っている様だしな」
まるで目の前で澪李と秀慧のやり取りを見ていたかの様な翔麒の言葉に、秀慧は不思議そうに目を瞬いたが、すぐに薄く笑みを浮かべて頷く。
「……ん、そうだな。このまま澪李と供に、ずっと都を守って生きていくのも悪くない」
秀慧の満ち足りた穏やかな声に、翔麒は優しく微笑む。
芳しい茶の香りと、下界の喧騒から隔絶された静けさに包まれた室内で、二人は暫し他愛のない会話を楽しむ。穏やかな心地の良い時間だけが静かに流れていく。
「翔麒様」
一時間も過ぎた頃に、静かに開いた扉の向こうから朱明が現れた。
「ああ、もうそんな時間になったか……」
声に応じた翔麒の顔からは、共を前にしての気安い笑みは消え去っていた。
「近いうちにまた会おう。そう時間は取れないがな」
威厳と諦観を漂わせた表情と冷めた声音で、秀慧に別れを告げる。
「うむ」
どちらからとも無く手を握り合って挨拶を交わし、二人は応接室を後にした。