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傾く陽光の下で  作者: 八重崎
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・天宙楼(1)  

 ――此処ではない何処か。


『清華』と呼ばれる島国があった。


 周囲を海に囲まれた小国ながらも、高い文化と経済力を誇るその国の中央に位置する都『星京』には、天高くそびえ建つ『天宙楼』と呼ばれる楼閣がある。黒い瘴気と供に出現し人間を喰らう妖魔との攻防を役目とする『破妖省』の拠点にして、その筆頭である『霊帝』の住処だ。


 

 ある日、黄昏の陽光が都を彩る頃。


 限られた者しか立ち入ることが許されていない天宙楼最上階の外部通路に、黒衣をまとった細身の青年が佇んでいた。穏やかな風に、艶のある黒い長髪を弄ばせたまま、朱塗りの華やかな欄干から眼下に広がる絶景を無表情に見つめている。透き通るように白い面の左頬には、禍々しいまでに紅い紋様。一見、人間らしい生気を感じさせない硬質さを持つ青年だった。


「赤陽」


 名を呼ばれた青年がゆっくりと視線を向けた先に、鈴を幾重にも下げた錫杖を持ち、翡翠色の長衣を纏った男が立っていた。精悍で端正な風貌に均整の取れた長躯。王の如き風格を持つ彼の口元は、笑みの形に綻んでいる。


 長躯の男は笑みを浮かべたまま、赤陽の傍に歩み寄ってくる。


「お前が此処に来るのは久しぶりだな、赤陽」

 

 己よりも一つ頭ほど高い身の丈である宗啓を見上げる赤陽の瞳は、黄金に似た明るい黄土で、切れ長のうえ僅かに吊り上がっている様は、何者にも囚われない気高い猛禽を思わせる。

  

「……ああ。霊廟へ参るつもりだったのだがな。宗啓、御主の術式が見たくなった」


 低過ぎず、女の様に高くまろやかでもない声。抑揚がなく愛想の欠片もない老成した口調だが、冷たさはない。


「そうか。ならば暫し我の勤めに付き合ってくれ。後でゆっくり話もしたいのだが、良いか?」 

「構わぬよ。特に急ぐ用は無いでな」


 赤陽の返答に宗啓は青銀色の瞳を細めて頷き、錫杖で床をひと突きして鈴を鳴らした。


「始めるとするか」


 通路から屋内へと通じる扉を押し開けば、眼前には床一面に広がる巨大な陣。ひとつの円の内側に、呪術的な意味合いを含む紋と、幾つかの図形によって精密に構成されたそれは、まるで芸術品であるかの如き独特の美しさだった。

 

 錫上の鈴を鳴らし続けながら、宗啓はためらいなく陣を踏みしめて歩んでいく。やがて中央まで辿り着くと立ち止まり、ゆるやかに瞑目し軽く息を吸い込んだ後、朗々と謡い始めた。

 

東大路あずまおおちに昇る陽通し……」


 豊かな声量をもってして謡うのは、都の結界を強め、邪気を浄化する術式の唄。聴力を失った者でさえも感じ取れる、濃密な霊力を含んだ波動。


 真っ直ぐに背筋を伸ばし、水平に両腕を上げた姿勢を保ちながら、八方に錫杖を振るって舞う度、常人を遥かに超える力が陣を伝い、楼閣の中を螺旋状に下っていく。


「……南海向かいて水風みなかぜ招き」


 ――『八方奉霊』というこの術式は、尋常でない膨大な霊気を必要とするが故に、並の者ならば命を失うとされ、それを行える事こそが都を守護する者の頂点に立つ『帝』たる証だ。


 堂々とした霊帝の姿を、陣の際で静かに見守っていた赤陽が、不意に白い指先で印を結んだかと思うと、同じ唄を謡い始めた。


北岳ほくがく鎮座すいわおを禊ぐ」


 赤陽の良く通る滑らかな声音と、宗啓の深みのある低音が響き合い、陣の中で渦巻く霊気が微かに密度を増した。楼全体を共鳴の器とし増幅された霊気は、やがて飽和状態を迎えて楼閣頂上から外界へと溢れ出し、淡い光を放つ美麗な波状の模様を空に描きながら、都全体を覆っていく。

 

 神掛かった美しい術式は、この国に住まう者にとって、我が身に注がれる惜しみなき庇護の証であり、雲上の存在と言える霊帝を身近に感じられる日常の一部でもあるのだ。


「ふぅ……っ」


 八方奉霊を謡い終えた宗啓は、細く長く息を吐き出した。時間をかけて呼吸を整えながら上げていた腕を下ろし、赤陽の傍らへと戻ってきた彼の額には玉の様な汗がびっしりと浮かんでいた。


「――まさかお前が、奉霊を謡うとはな」


 驚きを含んだ宗啓の言葉に、赤陽は黄土の瞳を細めて微笑した。すると、血肉を感じさせない無機質な風貌が、はっとするほど強く人を魅了するものになる。


「なに、たまには御主一人でなくともと、思ってな。あまり足しにはなっていないだろうが、こうして誰かと共に謡うのは……、悪くないであろう?」


 その答えに、宗啓は精悍な顔を泣き笑いの様な表情で歪めさせた。


「――ああ、悪くはない。楽しいくらいだ」


 並外れた力を持つが故に幼い頃から天宙楼に封じられ、守護の象徴たる霊帝として相応しく在るべく養育されて成長した身ではあるが、霊帝とて人の子。ただ独り過酷な術式を続ける事に、苦しみが伴わない訳ではない。

 

「さして負担にはならんでな。御主の気が解れたのならば何よりだ」

 

 言葉の通り、確かに赤陽の白面には疲労の色は浮かんではいなかった。

 

「とても嬉しかった。ありがとう赤陽。だが……、これきりにしてくれ。お前が如何に術に優れ霊力が強かろうとも、人のそれとは違う身体だ。壊れでもしたら我は悔やんでも悔やみきれない。なにより、翔麒様に申し訳が立たぬではないか」


 はっきりと言い放ちはしたものの、宗啓の表情は威厳ある霊帝としてのそれはなく、身内を気遣う若者のそれだった。


「うむ……。本当に負担にならん程度なのだが……。すまぬ」


 しおらしく切れ長の吊りあがった目を伏せて、気落ちした様子を見せる赤陽に、宗啓は思わず苦笑させられた。


「先代は、お前のそういう心根の優しさに救われたのだろうな」

「救われたのは私の方だ。翔麒は異形の私を庇い、更には親代わりになってくれた」


 言いながら赤陽は、自らの左頬にある紅い紋様に触れる。


「御主にも、良くして貰っておるしな」

 

 頬から手を下ろし、宗啓へと向けられた真っ直ぐな視線には、感謝の色が滲んでいた。


「お互い様だ。さて、一息入れたら翔麒様の処へ参ろうか」


 労わるように赤陽の肩を軽く叩いて、楼の下層へ通じる出入り口へと促す。素直にコクリと頷いた彼を伴い、宗啓は陣を後にした。


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