第二章 二十年前
霧が濃い森の中、紫がかった青い髪をした彼は眠りについていた。少し癖のあるその髪は首元まで伸び、鼻の辺りまである前髪の隙間から覗く目は眠っていてもわかるほど切れ長で男らしいものだった。
年中季節など関係なく、常温で曇りのこの世界。しかし、この日は珍しくいつもとは違う風が流れた。
前髪がその風で揺れて、彼を起こした。
「何だ?」
起き上がると、地面に散らばっていた落ち葉が彼の体にくっついて落ちる。そんなこと気にする様子はなく、彼はそのまま立ち上がった。見るからに普通の人間に見える彼だが、髪の間から覗くのは黒い毛に覆われた獣のような耳。
「この世界の空気が変わった」
彼は二十年以上前の紫。
気付けば、ここにいた。
ズキズキする頭を押さえて、彼は起き上がる。そこには見たこともない森が目の前に広がっていた。カラスの鳴き声がすごく耳障りで、雲が空に広がり、暗いのも含めてすっきりしない所だった。
しかし、彼は逆にテンションを上げていた。
「何だ、ここ!やべー、すげー!」
何がすごいのかわからないが、彼は目を輝かせてその場所を見渡した。
彼は学校で行われるハロウィンパーティに向かう途中、外国製の街灯を見つけて、それに触れたことによりこの世界に訪れた。気絶して気がつけば見たこともない場所。
それは不思議現象が好きな彼には堪らないくらい興味深いことだった。
「まさかここが伝説の異世界!」
拳を作って熱く語る。一体何処で伝説になったのか、おそらくそれは彼にしかわからない。
彼はまず真っ先に目に入った森へ入ってみようと足を動かした。本当にここが自分の世界とは異なっていることに気付いているのか定かではないが、その足取りに迷いは感じられない。森へ足を踏み込もうとした瞬間、彼の足は不意に止まった。
視界には霧に包まれた森だけでなく、見たこともない大きな建物、つまり城が見えた。
「城っ!マジで?そんなもんあるのか、この世界は!やっべー、見ちゃったから探検しないとっ!!」
一体どういう理屈で動いているのか、彼は更にテンションを上げて森の中へ突き進んだ。
薄暗い森の中には見たこともない生物の死骸が転がっている。流石の彼もそれには無言で見つめることしかできなかった。いや、何かを口にしようとしても、言葉が出てこないのかもしれない。
はわぁ、本当に俺異世界に来たんだ。
こんなに早くそんな実感ができるようなもの見ちまったぜ☆
ある意味で言葉が出なかったようだ。とにかく彼は怯えることは一切なく、順調に足を進めていた。次第に霧は濃くなり、死骸の数も減ってきた頃、彼の身体に異変が起きる。
急に足の力がなくなり、膝が折れた。
「何だ?」
先ほどまでは全然元気だった身体は、いつの間にか体力の限界を感じ始めていた。息は上がり、全身に寒気が走る。明らかに身体に異常が起きていた。
「何だ、これ」
一体何が原因なのか彼は知らない。酷い風邪をひいたような悪寒は消える気配は全くなくて、逆にだんだんと酷くなっていく。眩暈まで起きてきた瞬間、周囲から異様な叫び声が聞こえた。素早く視線をそちらに向ければ肉が溶けたような皮膚をした化け物がそこに佇んでいた。ひしゃげた口からよだれを垂らしてじっと彼を見つめている。そのギョロギョロした目に初めて彼は恐怖を覚えた。
「…………、こいつ」
何だ?
初めて見る生物に身体が動かない。徐々に距離を縮めてきていることは理解できるが、身体が本調子でないことと、恐怖が重なって彼から動きを奪ってしまっていた。
『魂…………、人間………』
「?」
苦しそうに呟いたその内容に眉をひそめて、彼はやっと足を動かした。しかし、歩いていく方向は化け物の所。肩を上下させながら妖怪を見やる。
「俺の魂が欲しいのか?」
『人間、魂、旨い』
「そうか。なら、やるよ」
そっと手を出して彼は微笑む。普通なら逃げ出してしまうほど恐ろしい姿をした相手に、素性も知らない相手に、自分の魂を差し出した。
しかし、その瞬間目の前にいる化け物が一瞬にして青い炎に包まれた。びっくりしてそのまま尻餅をついたが、かなり近くにいた彼の所には何も熱さなど感じなかった。
「お前、馬鹿か?何いきなり妖怪に自分の魂投げ出してんだよ」
「!?」
背後から聞こえた新たな声に反応して彼は振り返る。そこには先ほどの炎と同じ色をした髪を風に揺らした青年が立っていた。瞳は何も映さない漆黒。しかし、それを向けられているのは間違いなく彼だった。
「あんた、誰?」
「………俺は紫。この世界の住人、妖怪だ」
「あんた、人じゃないのかっ!?」
驚いているが、やはり彼の手は拳を作ってガッツポーズだ。紫は少し眉を寄せておかしな反応をする彼を凝視した。
「俺、柳龍一。よろしく!」
陽気に差し出された手を握ることはなく、紫は視線を動かさないまま呟いた。
「お前がナイトメア?それにしては全く力を感じないな」
「?」
言われていることが理解できず、龍一は首を傾げる。紫はさらさら説明する気などないらしく、無視してその場の状況を把握する。
「お前、今体力なくなってるな」
「あ、うん。何?この現象はやっぱりこの世界に関係あるのか?人間ではこの世界生きられないとか!俺の心はこの世界に合わないとか?ってか、ここって何の世界?妖怪とか言ってたから、妖界?あれ、すげー安易な名前だっ!」
息つく暇も無いくらいのマシンガントークに紫は口を引きつらせた。人間とは皆こうなのかと、間違った認識を後一歩でされそうだ。黒い髪を揺らして楽しそうな顔を向ける龍一が紫は不思議でならなかった。
「この世界のことを知っても、意味のないことだ」
どうせ、お前はすぐに死ぬからな。
この森に長くいることなどできない。いつか、妖怪に喰われて死ぬだけだから。龍一は一瞬遠い目をしたが、すぐに気を取り直してにっこりと無邪気な顔を作る。
吸い込まれそうなほど綺麗な黒い瞳を見て、一瞬紫はやはりこの世界の住人とは違うことを悟る。
「なぁ、この先に城あるだろ?そこ行ってみたいんだけど」
「何しに?」
「そんなの決まってんだろ!探検さ!探検!」
いつまでもお気楽な考えの持つ彼に苛つきを覚えながらも、紫は目を細めて思案する。妖怪に追い込まれても力を使えなかった彼はおそらく思ったよりも強い力を持っているわけではない。それならば、力尽きるのもそんなに遅くないだろう、と考える。
「別に案内してやってもいいけど」
「マジで?よし、行こう行こう!」
紫を急かして彼は城に向かって歩き出す。ただの遊び心でしかこの世界を見ていない龍一に紫は失笑する。
だけど、真実が見れていなかったのは龍一ではなくて…。
「あいつは最初から怖いもの知らずで何事にも動じなく、逆に興味を持って自分から突き進んでいた」
屋根の上で紫は静かに語る。微風を感じながら悠真はその話に耳を傾ける。
柳龍一とは学校の伝説でしか聞いたことのない人物だから、実際にどんなことをしていたのかは初めて聞くことになる。想像以上に不思議なものが好きだったんだな、と苦笑交じりで聞く。
「一緒にいる間、ずっと馬鹿な奴だと思った」
森の霧が人間の身体に害になることは当時紫にも把握していなかった情報。しかし、人が魔界にいる時点で既に命がないことに等しい。そんなことも知らないで龍一ははしゃぎ、楽しんでいた。それが紫には愚かなことにしか見えなかった。
悠真は曇った空に視線を向けて目を細める。その下には霧に包まれた暗い森。龍一と紫が始めて出会った思い出の地。
「俺さ、何か会長は…何も知らなかったんじゃなくて、何も気にしなかったんじゃないかと思うんだけど」
その場の状況など何も知らない悠真。今、紫から話を聞いただけの悠真。だけど何故か彼は核心に近い答えを導き出す。紫は目を見開いて悠真を見つめる。その反応の意味を掴めなかったのか、悠真は首を傾げた。
「やっぱり、何処かお前等似てるな」
「え?そう?俺、あんなにこの世界にはしゃがなかったぜ!」
そう、あいつは気付いていなかったじゃなくて────。
「なぁ、紫ちゃんって生きてるの?」
「…………」
いきなりちゃん付けで呼ばれていることに紫は顔をしかめた。しかも軽いノリのところが更に質が悪い。ぎっと鋭い睨みを彼に向けるが、龍一は気にする様子もなく懲りずにもう一度言った。
「ねぇ、紫ちゃん!」
「ちゃん付けするなっ!ここにいる者は皆死んでる」
「あ、やっぱり?じゃぁ、ここは魔界とか言う所?」
「そうだ」
うーん、じゃぁここにいるのは皆悪い人?っと、ぼんやりと呟く様を見て、頭が悪いわけではないと少し思い直した。チラリと隣りを盗み見れば彼の顔は少し青くなり始めていた。
魂がこの世界に合っていないのか?いや、そんなはずないよな。
ナイトメア、それは魂の波長がこの魔界に合っている者のこと。魔界との相性が悪くて具合が悪くなることはない。
「なぁ、紫ちゃん」
「───…っ」
「何か聞こえないか?」
未だにちゃん付けする龍一に怒ろうと口を開けたが、その後に発せられた言葉にはっとする。気がつけばそこには既に数体の妖怪がいた。かなりの奥まで入っていたので妖怪の状態は見れたものではなかった。形状などわからないくらいどろどろとなり、異臭を発している彼等はそれでも何かを必死に求めて龍一に近づく。
紫は舌打ちをして龍一を抱えて思い切り地を蹴った。あっという間に今の妖怪は見えなくなり、更に城からも離れていった。
「凄い凄い!はえー!紫ちゃんて人間じゃないとしたら動物?その耳からじゃ何も思いつかないけど、俺的に猫ならいいな」
「はぁ?俺は黒ヒョウの化身だ」
「じゃぁ、似たようなもんだね」
容易な考えに調子を崩しながら、紫はそのまま森から抜ける。あまり妖怪が近寄らないとされているある湖の脇にある大木で龍一を降ろし、一息ついた。
「へぇ、魔界にもこんな綺麗な場所があるんだね」
「そうだな。だからここにはあまり妖怪は近寄らない」
透き通った水を眺めながら龍一は笑う。紫は森の中にある妖怪達の気配を探りながら、少し難しい顔をした。人間の魂は妖怪達にとって極上のおやつ。それを追い求めて魔界中の妖怪達が暴走を起こしている。
このままじゃ…。
「…………魔界が危ない?」
いきなり言われた内容に紫の思考は停止した。湖を見ていた龍一はゆっくりと紫の方へ顔を向けた。何も知らない好奇心旺盛な彼。そう思っていた彼の顔は何もよりも強く、全てを見透かしたような瞳をしていた。
「紫が俺を助けたのは、俺の魂が欲しかったからだろ?」
一気に話が進みました!柳龍一さんです!あれ、一話で終わらなかった(汗)まぁ、いーや。
次はちょっとだけいい話?になります。ってか哀しい話?どっちでしょう?
まぁ、いーや。楽しみにしててくださいね!