零・罰
水無月も下旬、雨の季節が過ぎ去り、初夏を迎える頃合いであった。
森の中。
さも凪ぐように、そいつは少女の身体を吹っ飛ばした。
「――ッ!」
上げかけた悲鳴が喉につっかえ、呼気となって漏れた。遅れて背中に激痛。どうやら樹木にぶつかったようであったが、そんなことを判断する余裕はもう少女には残されていなかった。
苦痛に顔を歪めながら開いた目にはまず、紅の地に二、三の大きな花菱を散らした自らの着物が映った。いつも着ている、質素で古びた骨董品のような着物である。
少女は徐々に顔を上げ、視線を上へとずらしていく。最初は薄ぼんやりしていた視界もだんだんはっきりとしてきた。雑草を点々と生やした固い地面、痩せこけたように細々と林立した木の幹、そしてそれらの間からこちらを覗く、血のような緋の瞳――
「!!」
そこにいたのは、夜闇のような黒をした、見紛うことなき悪鬼であった。体長は九尺弱ほどの巨体、高い位置にある頭から突き出す二本の角。
何も考えずに、少女はその姿をぼんやりと眺めていた。もしかしたら、頭を強く打ったのかもしれない。危機感は、まるで感じなかった。
その瞬間までは。
不意に、太い腕が伸びてきた。逃れる間もなく闇色のその腕は少女の首をひっ掴み、ぶらりとそのまま持ち上げる。
「ッ、くっ……!」 無意識に喉から声が漏れ、同じく無意識に手が動いた。両手を使って悪鬼の手を引き剥がそうとするが、相手の力が強いのかこちらの力が弱いのか(多分両方だ)、一向にそれが叶う様子は見られなかった。
悪鬼は、意地の悪い瞳で微笑んでいた。にたりと口端を吊り上げつつ、何かを呟く。
丁度いいところに――
そんな感じの言葉が確かに聞き取れた。さも掲げるように腕をまっすぐ伸ばして、血の瞳でこちらを見つめる。
(何、が起こって……)
身長の差か、少女の足が地を踏むようなことはなかった。ただ、十歳すぎくらいの身体が空中にぶらつきバタついている。カランと音がして、右の足から下駄が脱げたのが解った。
悪鬼は少女を手に持ったまま、くるりと回れ右をした。そして前方に少女を突き出す。
不意に、悪鬼は高らかに笑い始めた。森中に響くような大声で。地の底から這い上がるような低い声で。
「見たか! 我は人質を得たぞ!」
そのまま、発狂するように声を張り上げる。
「人質の命が惜しければ、我のことは諦めるがよい!」
そして再び、こらえもせずに大声で笑い始めた。狂ったように。
――何が起こったのか、全く理解ができない。
それが、素直な考えであった。相手が為そうとしていることも解らなければ、何故それに自分が巻き込まれたのかも解らない。ただ解るのは、
自分は何かに巻き込まれた。しかも、人質とか言う最悪な状態で。――その一点。
狂った笑い声は、とどまるところを知らなかった。時間が経つのに比例して、悪鬼の腕の力も強くなる。ギリギリと、文字通り頭が締め付けられ、痛みに喉から声が漏れた。
(何故、こんなことに……?)
浮かんだ感情は、恐怖でも何でもなく、ただ哀しみだった。自分は何故こんな目に遭っているのだろう。ただ、それだけが哀しく感じられた。
(これ、は……、もしかしたら)
一瞬、閃くようにそれは浮かんだ。
(もしかしたらこれは、罰なのかもしれません……)
そう。――罰。
これはもしかしたら、何に対しても到らない自分への罰なのかも、と。
(それは……、当然、ですね)
腕がぶらり、と下げられた。それが故意なのか無意識なのか、もう少女本人にも解らない。
(でも、残念です、……ね)
そして、微笑む。左足の下駄までが脱げてしまいそうなのが解った。
瞼が、重い。それに逆らいもせずに、静かに少女は目を閉じた。
(わたしはどうやら……、最期まで、バカなようです……)
完全に脱力。意識が徐々に、しかし確実に遠のく。少女は指一本動かさない。――いや、動かせないのか。
(今の今になって人の役に立ちたいと思うなんて、わたしはなんて……、愚か、なのでしょう……)
そこまで考えたところで、意識は完全に、
閉じた。