静かに退場したいだけなんですけど!
ブラントシュタイン公爵の娘ロザリンデ(十四歳)は、運動神経があまりよろしくなかった。
だから乗馬はあまり得意ではなかったのだが、「この馬はおとなしいから」「天気もいいし」「最近ふさぎ込んでいるみたいだから気分転換に」という婚約者であるルシアン・エルンベルク第一王子の言葉を真に受けて、失敗した。
確かにルシアンが用意した馬はおとなしかった。きれいな雌馬だった。彼女は乗馬に慣れずぎこちないロザリンデに合わせてくれた……だから悪いのはロザリンデ自身である。
馬の動きについていけず、落馬した。
それは、ある晴れた秋の日の午後のことだった。
***
――ううーん、これがわたくし?
事故から三日後、ようやく意識がはっきりしてきたロザリンデはベッドから抜け出し、自室のドレッサーを覗き込みながら、ぺたぺたと自分の顔を触っていた。
鏡の中に、それはハッとするような美少女がいる。
緑色の瞳がロザリンデ自身を見返す。
赤い髪の毛はくるくるとうねり、腰よりも長い。なのにつややかで毛先まできれいだ。ちゃんと手入れされている。
白くてシミひとつない顔もそう。日焼けに注意し、保湿に気を遣っている。
そして手。ささくれもひびわれもない。苦労をしていない手。爪もきれいに整えられている。
それはそう、だってロザリンデはブラントシュタイン公爵の一人娘なのだから。
ロザリンデは自分のことがわかる。わかるのだけど、不思議なことに今の彼女にはもうひとつの記憶があった。
タナカ・リナ、二十六歳。会社員。
関東の片隅に育ち、東京の大学を出て都内で就職。
仕事は忙しくて、毎日夜遅くまで会社に残っていた。
最後のひとふんばりのために、残業中にエナジードリンクを飲むことが日課になっていた。その日もそう。
夜のオフィスでエナジードリンクを飲んで気持ち悪くなり、椅子から転落。右側頭部を床に打ち付けたところで記憶が終わっている。
――落馬して私が打った場所だわ。
たんこぶができた右側頭部をなでながら、頭を打ったことで記憶が蘇ったらしいと悟る。
だが、問題はここからだ。
タナカ・リナの記憶の中に、このキツイ顔の美少女があった。
推しイラストレーター、リュンヌ先生が描く、女性向け恋愛ファンタジー小説の挿絵の中で。
作品名、『白き聖女と蒼き運命』。五巻まで出ていて、好評続刊中。タナカ・リナが愛読していた作品のひとつだ。
ヒロインは平民出身の聖女アデル・ヘスター。
ヒーローは第一王子ルシアン。
そして闇落ちして聖女の命を狙う悪役が……ロザリンデ・ブラントシュタイン。
――待って待って待って。小説の世界に転生ですって?
そんなバカな!
それも、よりにもよって悪役令嬢に転生!?
――ま、まだここが白聖女(※『白き聖女と蒼き運命』の略称)の世界とは限らないわ!
「お嬢様、ルシアン殿下がいらっしゃいました」
その時、ドアがノックされ、執事の声が響く。
えっと思う間もなくドアが開いて部屋に入ってきたのは、すらりとした体躯に凛々しい顔立ち、藍色の髪と瞳を持った少年。きらびやかな王子様衣装が眩しい。
二つ年上の、ルシアン・エルンベルク第一王子だった。
「ロザリー、もう起きて大丈夫なのか?」
ルシアンの心配そうな声音に、ロザリンデの心臓が、ドキンと一回大きく跳ねた。
同時に、脳裏にリュンヌ先生の美麗イラストが走り抜ける。
あのイラストがリアルになっている。見間違えるわけがない。何度繰り返し眺めたことか。
タナカ・リナはリュンヌ先生の大ファンだった。
作家買いならぬイラストレーター買いをしていたほどである。
中でも白聖女はカラーピンナップつきだったし、ルシアンというキャラクターがどストライクだったこともあって、お気に入りだった。
イラスト集出してくれたらいいのに限定生産でも買う、と思っていたほどである。
――なんて美しいの……ッ!
興奮しすぎたせいで、ふうっと意識が遠のく。
ルシアンのあわてる声が聞こえた、気がした。
忘れていたが、ロザリンデの体はあまり丈夫ではないらしく、しょっちゅう熱を出してはルシアンの見舞いを受けていたため、王子様にもかかわらずルシアンは勝手知ったる我が家のようにロザリンデの部屋を訪れるのだった。
***
意識を取り戻したあと、ロザリンデはベッドの中でじっくりと考えた。
ここは間違いなく、白聖女の世界だ。
さっきまで部屋にいてロザリンデをなでまわしていた両親に記憶が混乱しているフリをして(いや、混乱しているのは事実だが)いろいろ聞いてみたところ、白聖女で出てきた設定がいっぱい出てきたからである。
他世界の空似、ではなさそうだ。
そうなると、当然ストーリーも白聖女通りに進むのだろう。
困ったことになった。
ロザリンデはヒーローとヒロインの純愛を邪魔する悪役である。
かわいいタイプの悪役令嬢ではない。
ヒロインの命を狙う本物の悪役だ。
古今東西、悪役に明るい未来が来たためしはない。
作中のロザリンデは、婚約者であるルシアンのことが好きだった。
一方のルシアンは、ブラントシュタイン公爵に後ろ盾になってもらう代わりに押し付けられたロザリンデのことを、疎ましく思っていた。
ルシアンの父はこの国の国王。そしてルシアンの母親はこの国でも力のある貴族の家の出身だったが、ルシアンが生まれて間もなく、政敵たる人物の画策で失脚し、ルシアンの母も赤ん坊のルシアンを残して急逝した。ルシアンは生後間もなく、母親と後ろ盾を失ってしまったのである。
そして政敵が後妻を送り込み、後妻が男児(テオドール第二王子)を出産したことから目に見えてルシアンを狙うようになった。ルシアンを心配した国王は有力貴族の一人、ブラントシュタイン公爵(ロザリンデの父)に後ろ盾を依頼し、後妻の一族が勢力を強めることに反対していたブラントシュタイン公爵も承諾。ルシアンの後ろ盾になる口実として、ルシアンとロザリンデは婚約した。
ルシアンが七歳、ロザリンデが五歳の時の話だ。
だからロザリンデはルシアンと幼い頃から親交がある。
作中のロザリンデは、ルシアンが自分に強く出られないことをいいことにわがまま放題の、高慢な人物として描かれていたものだ。
ルシアンが控えめだけれど芯が強くて頑張り屋の聖女アデルに心を奪われるのは、当然のことだった。
そしてルシアンの心が聖女アデルへと移るのを目の当たりにして、ロザリンデは闇落ちする。
人を雇ったり毒を使ったり、やりたい放題。
作品の途中で悪事がバレてロザリンデはルシアンから婚約破棄される。そのせいでさらに荒れる……という……。
つまりロザリンデは大変イタイ人物なのである。
この話、完結していないからロザリンデがどうなるのかはわかっていないが、ルシアンに悪事はバレているし相当怒りは買っているし、やっていることがえげつないので、絶対にルシアンから断罪される。逆にされなかったら読者が暴動を起こすというものだ。
正直に言おう。タナカ・リナはロザリンデのことがあまり好きではなかった。
悪役好きの読者には人気があったみたいだけど、考えが幼稚で行動が極端で。毎巻イライラしながら読んでいたのだ。
――なんでよりにもよってそんな人物に生まれ変わるのかなぁ……。
確かにこの作品の推しキャラはルシアンだった。
ロザリンデはルシアンの婚約者だから、ルシアンをもっとも間近に眺められる立ち位置ではあるけれど、その彼から憎まれ断罪される未来が待っている。嬉しくない。
でもいざロザリンデになってみると、怒るのも無理はないとは思う。
ロザリンデはルシアンのことが好きだし、彼女は正当な婚約者だ。
――いくら大人の都合で結ばれた関係とはいえ、先に不義理を働いたのはルシアン殿下だものね。
だからって、聖女を排除したところでルシアンとの関係がよくなることはないのだが。
闇落ち→悪役令嬢化してしまったら、破滅は免れられないわけだ。
破滅はいやだ。
ルシアンに憎まれるのもいや。推しに憎まれるなんて悲しすぎる。むしろ自分は一ファンとしてルシアンと聖女の恋を応援したいくらいなのに。
そのための解決策はひとつしかない。
「ルシアン殿下と距離をとろう(物理的に)」
実にシンプル。
舞台にいなければいいのだ。ヒーローとヒロインのそばにいなければ闇落ちも悪役化もしない。
留学しよう。できれば十年くらい。なんならそのまま帰ってこなくてもいい。
遠い外国で、おとなしく、穏やかに過ごすのだ。
物語から静かに退場すれば、破滅のシナリオは回避できるはず。
ところが。
***
「ロザリー」
本棚の陰から突然名前を呼ばれて、ロザリンデは飛び上がった。
学園の図書館。放課後。
留学先について調べていた彼女の前に現れたのは、腕組みをしてこちらを睨むルシアンだった。
家族以外でロザリンデを愛称で呼ぶのは彼だけである。
「ブラントシュタイン公爵から聞いたんだが。向こう十年、外国に留学したいそうだな?」
――お父様! なぜ全部話してしまうんですか!
ヒーローに退場計画を知られてしまうなんて。
静かに物語から退場する計画がすでにおじゃんである。
さっと青ざめたロザリンデを見てルシアンが提案する。
「ここで立ち話は目立つから、外で話そう」
というわけで中庭に移動させられたロザリンデは、なぜかルシアンに図書館の壁際に追い込まれていた。
「留学ですが、見識を広めようと……その……将来のために……」
「将来のために。つまり俺の妃になるために、という意味かな」
「ソ、ソウデスネェ……」
「なぜ棒読みなんだ。目も泳いでいる。ロザリーは本当に嘘が下手だなあ」
口元こそ笑っているが目が笑っていないルシアンが、一歩踏み出す。
後ずさりしたら、背中が壁にぴたりとくっついた。
逃げ場がない。
「百歩譲って見識を広めたいというのは俺も理解できる。だが、なぜ十年も必要なんだ?」
「ソレハァ……」
「王族に嫁ぐのが怖くなったのか?」
「イーエ、ソンナコトハァ……」
ルシアンは第一王子だが王太子ではない。
母親の身分も低くないし出身の家も王国きっての名門だから順当にいけば王太子に選ばれるはずだが、母親の一族が失脚しているため国王の後妻と第二王子が待ったをかけているのだ。汚れた血の人間を王座につけていいのか、と。
失礼極まりない言い草である。
母親の一族が冤罪であろうことは事件が起きた時から囁かれており、犯人が後妻の一族であることも噂されているが、何しろ力が強いので国王ですら意見できないのである。
ルシアンが罪人の一族として放逐されないでいられるのは、王家の親戚筋にあたるブラントシュタイン公爵家が彼の後ろ盾になっているからだ。
父はルシアンを王太子につけたい希望があるようだが、ルシアンはそのあたりに頓着していないようだ。
ロザリンデは父やルシアンの判断に従うのみだが、王宮で見かける後妻やテオドールはやたらに偉そうなので好きではなかった。
ルシアンがどうしたいのかは聞いていないが、今のままならロザリンデは王族に嫁ぐことになる。
つまり後妻やテオドールと家族になるということだ。
気分が乗らない。
しかし、避けたいのは彼らと家族になることではなく、闇落ちして悪役になること! なのだが、正直に言えるわけもない。
歯切れの悪いロザリンデにイラっとしたのか、ルシアンがドン、と彼女の横に手をつく。
――ギャッ!
これは伝説の「壁ドン」!
――さすが胸キュン度ナンバーワンを自称するセレスタ文庫の人気作!
現在は物語開始前で小説では語られていない部分なのに、胸キュンポイントを外さない! 違う! そうじゃない!
途端に、一枚のイラストが脳裏に閃く。
最新刊で執拗に聖女の命を狙うロザリンデに向かって、ルシアンが低く「許せない」と呟くシーンの挿絵だ。
リュンヌ先生の筆で描かれた、美しくて恐ろしい表情。
そんな未来はいやだ!
ルシアンに嫌われたくない!
ルシアンを傷つけたくない!
何より嫉妬に狂った見苦しい姿をルシアンに晒したくない!
「ここは物語の中で私は未来を知っているからです! 闇落ちして悪役化する未来を回避するためです!」
気が付いたらロザリンデは言うつもりのなかった言葉を口走っていた。
「は?」
ルシアンがぽかんとする。
それはそうだろう。
「未来? 何を言ってるんだ。寝ぼけているのか……って、はっ! もしかして落馬の後遺症か? 頭を打つとおかしくなることがあるって医者が言っていた……」
「おかしくなっていません! 本当に思い出しただけです。だから私は破滅回避のために物語から退場します。ルシアン殿下、短い間でしたがお世話になりました。聖女様と末永くお幸せに。では私はこれにて」
ロザリンデはぺこりと頭を下げ、そのままルシアンの脇をすり抜けようとしたのだが。
「妄言だけ残して逃げようとするな。俺にわかるように説明してくれ」
腕をつかまれて逃亡は失敗に終わった。
「でもきっと信じてくれないと思います! 私の話を聞いたところでどうせ理解できないのですから、この場で私を解放したほうがルシアン殿下のためですよ」
「理解できるかどうかは聞いてみないとわからないんだが?」
それはそうである。
「では、茶化さないで最後まで聞いてくださいますか?」
「わかった。茶化さない。だから君が十年も外国に行きたがる理由を教えてくれ」
「ところでルシアン殿下、私が十年不在にすると何か困るんですか?」
ルシアンにとってロザリンデとは保身のために引き受けた婚約者である。
ルシアンは礼儀として親しくしてくれているが、それだけの関係だという認識だが。
「突然十年も外国に行きたいと言われたら、俺に何か問題があると疑われて当然だろ! ブラントシュタイン公爵から質問攻めにされたけど心当たりがなさすぎて、昨夜は眠れなかったんだからな!」
なるほど、そういうことか。
父は一人娘のロザリンデを大変かわいがっている。
というわけで、ルシアンとベンチに並んで紅葉の中庭を眺めながら、ロザリンデは前世であるタナカ・リナのこと、この世界がタナカ・リナが読んでいた小説の中だということを語った。
ロザリンデ十八歳、ルシアン二十歳の春に、テオドール陣営が聖女を召喚する。
聖女は創世の女神の力を宿した稀有な存在で、彼女の体から生きたまま抜き取った心臓を食べれば女神の力を手に入れられると言われている。
「えぐい設定だな……」
口を挟まずおとなしく話を聞いていたルシアンが、その部分だけ嫌そうな反応を示した。
聖女の悪用を防ぐためにルシアンはテオドールが呼び出した聖女を横からさらい、二人の物語が始まる。二人の仲を知ったロザリンデは闇落ちし、そんなロザリンデにテオドールが近づくのだ。
「なるほど、君は異世界から転生してきた人間で。落馬事故で前世の記憶が蘇った、と。そしてここは君が前世で読んでいた小説の世界である、と。……にわかには信じがたいな」
茶化すことなく最後まで話を聞き終えたルシアンが、額を押さえながら聞き返す。
「ほら、やっぱり理解できていない!」
「理解はできた。信じられないだけだ。前世の部分はまだいい。輪廻転生の概念は俺にもわかる。信じられないのは、ここが小説の世界だということだよ」
「そういえば作者さんはあとがきで『どこかに本当にある物語を受信してつづっている感覚がある』と語っていたので、もしかしたらそういうことなのかも。これはいわゆる多重宇宙論?」
「うーん、頭が痛くなってきた」
ルシアンが本格的にこめかみを揉む。
「ただ、確かに事故後のロザリーは以前とは少し雰囲気が違うとは感じていた。少し大人っぽくなったというか。これは俺だけでなく、ブラントシュタイン公爵や夫人、君の屋敷の使用人も同じ意見だったよ」
ブラントシュタイン公爵を後ろ盾としているルシアンは、しょっちゅうブラントシュタイン公爵邸を訪れるので、両親や使用人たちとも仲がいいのだ。
「タナカ・リナの記憶のせいでしょう。彼女は一般人でしたから、元のロザリンデのようなわがまm……無邪気な振る舞いができないのです」
「なるほどな。とはいえ、ロザリーの言い分を鵜呑みにはできない。証明はできるか?」
「証明?」
「その『前世の記憶』とやらが本物だという証明だよ。ここがロザリーの前世が既読の物語の中なら、ロザリーはこれから起こることを予言できるんじゃないか。何かひとつでも、これから起きることを予言してみせてほしい。証明できなければ、これはただのロザリンデの妄想」
確かにその通りだが、そうは言われても。
「おおまかな流れは覚えているけど、詳しい部分ははっきりと覚えていないんです」
すでにどこまで詳しく思い出せるか挑戦している。
大まかな設定やあらすじは覚えているが、細かなエピソードや脇役については思い出せないのだ。ルシアンと聖女アデルの恋愛シーンばかり読み込んでいたツケである。
その好きだったシーンだって紗がかかったように、すべてをはっきりくっきり思い出せるわけではないのだ。
「さっき、俺に憎まれるシーンについては詳細に語っていたが?」
疑わしそうにルシアン殿下がロザリンデを睨みつける。
そういえばそうだ。話の流れで壁ドンされた瞬間に思い出したシーンについて事細かに語っていた。
「あれは、なぜかあのシーンだけ突然詳しく思い出せたんです」
「なぜ?」
「わかりません。ルシアン殿下にドン! ってやられた瞬間に急にその景色が見えて」
「……ふうん……?」
ルシアンが突然、手を伸ばしてロザリンデの頬に触れた。
大きな指が頬を撫で、スッと耳へ移動して、耳たぶから耳の輪郭をなぞり始める。
ドキッ。
心臓が跳ねた。背筋にゾクッと寒気が走る。そして、パッと脳裏に挿絵が浮かんだ。
「冬の初めに……火事が起きます。王都の東市場で、夜中に出た火が強風で広がって……甚大な被害が……火元は倉庫で……ルシアン殿下の回想シーンにあったわ……ルシアン殿下が十六歳の時です。この時、ルシアン殿下はこの国を守ろうと決意するの」
言ってしまってから、ロザリンデははっと息を呑んだ。
「俺が十六歳の、冬の初め、風の強い夜、か」
「……あの、ルシアン殿下? 今のはなんの実験ですか?」
「覚えておく。ありがとう、ロザリー」
***
そして約一ヶ月後、東市場で本当に火事が起きた。
ルシアンが事前に警戒を強化していたため、被害は七軒に留まり、死者はゼロ。
おかしい。作中では三日三晩燃え続け、王都の大火と呼ばれるほど甚大な被害が出たのに。
国王陛下が公式に殿下の先見の明を称え、このことは広く国民に知れわたった。
***
その三日後、ルシアンはロザリンデを学校の温室に呼び出してこう言った。
「信じる。だから留学は許可できない」
「どうして! 私はルシアン殿下の大切な人の命を狙うんですよ!? そんな面倒なキャラはいないほうがいいじゃないですか!」
「俺の大切な人ねえ……」
「そうですよ。ルシアン殿下の運命の女性です。その人を助けてあげてください。私はルシアン殿下と聖女を応援していますから……闇落ちなんて望んでないんです……」
「運命……闇落ち……」
ルシアンが呟き、思案顔になる。
「ロザリー、俺と取り引きしないか?」
しばらくして、ルシアンがこちらを向いて提案してきた。
「取り引き?」
「君の情報を俺に提供して、俺がテオドールの陰謀を先回りして潰す。見返りとして、君が悪役になる未来も潰す。どうだ?」
「……でも、必ず潰せるわけではないですよね……」
「そうだな。必ずできるとは言い切れない。もし運命が変えられそうにない場合は、希望通り君を速やかに外国に逃がす。それでどうだ?」
ルシアンいわく、調査の結果、先日の火事はテオドール陣営の何かしらの悪だくみの証拠隠滅に火を放たれたものであるらしいことがわかったのだという。
原作では王都を焼き尽くした大火だ。
乾燥した強い風にあおられれば火が広がることくらい、誰にでもわかる。それなのに証拠隠滅として火を放った彼らのやり方が気に入らない、とルシアンは語った。
「今までも何度も命を狙われた。追い詰められたら何をするかわからない。あいつらが何をするのか知っておけば俺も対策が立てられる。君は未来が見える。教えてほしいんだ。そのかわり必ずロザリーを助けるから」
そこまで言われたら強く拒否もできない。
そうだ、ルシアンは責任感がとても強い人なのだ。
だから押し付けられた婚約者であるロザリンデのことも、大事にしてくれる。
ロザリンデはそれが申し訳ないのだ。
「そういうことでしたら。もし運命が変えられそうにないのなら、私は予定通り、物語から退場します。その時は絶対に邪魔しないでください」
「しない。約束する。信用できないのなら署名入りの契約書を作ってもいい」
「王子様が軽々しく署名なんてしたらだめですよ。……でも私の記憶は曖昧で、詳細を思い出すタイミングもよくわからないんです」
転生者なのに、前世の記憶でチートできないのである。
なんのために生まれ変わったのだろうか。
「それに関してはひとつ仮説を立てているんだ」
そう言うなり、ルシアンはがばっとロザリンデを抱きしめ、耳にふうっと息を吹きかけてきた。
「ひゃあっ」
びっくりしてゾゾゾッとした瞬間、またしても挿絵が閃いた。
「廊下で聖女が転んで、ルシアン殿下が助け起こすシーンが……!」
「仮説通りだな」
ふふ、とルシアンがロザリンデを抱きしめたまま笑う。
「俺がロザリーをドキドキさせるのが鍵だ。この調子でどんどん予知してくれ。絶対に運命を変えてやるから」
ロザリンデはルシアンの腕の中で小さな胸をドキドキどころかバクバクさせながら、ルシアンの宣言を聞いていた。
こう見えてもルシアンは第一王子、ロザリンデは公爵令嬢。年齢が若いこともあり、二人とも節度ある距離を保ってきた。こんなふうに抱きしめられたことなど一度もない。
――これが記憶を呼び戻すトリガーなの!? 本当に!?
ルシアンはタナカ・リナの推しキャラである。しかもイラストレーターがこれまた推しまくっていたカリスマイラストレーター、リュンヌ先生だ。
リュンヌ先生の美麗なイラストそのままのルシアンにことあるごとに抱きしめられたら、心臓がもたないかもしれない。
こうしてロザリンデの退場作戦はあっけなく崩れ去り、ルシアンと運命を変えていくことになったのだった。
***
一年後。
「なぜだ……」
「申し訳ございません」
ルシアンの腕の中でロザリンデはすまなさそうに呟く。
この一年、抱き締められたり壁ドンされたり耳に息を吹きかけられたりした結果、ロザリンデはルシアンに何も感じなくなった。
当然、予知もできない。
「俺の努力不足か……? ちゃんと風呂にも入っているし着替えているし髭だって剃っている」
ロザリンデを解放して唸るルシアン。
そうなのだ、ロザリンデの記憶のふたを開くトリガーは「ドキドキ」なのだが、実験の結果、恐怖ではいけないことが明らかになっている。
ロザリンデがルシアンにときめかないといけないと気付いた彼は、ロザリンデから「ときめき男子に必要なもの」を聞き出して実践していた。
そんなことを聞かれたところでロザリンデもよくわからないので、とりあえずタナカ・リナ時代によく言われていた「男は清潔感が大事」を伝えたため、ルシアンは(元から身なりに関しては侍従が気を付けていたのだが)身だしなみに気を付ける男子に成長した。
清潔感のある美形男子。
しかも本物の王子様。
ときめかないほうがおかしいのだが、これが一年も続くと、正直にいって飽きる。
いや、ちゃんと理由はある。
ルシアンとの関係に未来がないためだ。
ときめきとは、恋の予感にほかならない。
ルシアンはロザリンデをときめかそうと必死だが、ルシアンの運命の人は自分ではないことがわかっているからときめくことができなくなった。
そもそもロザリンデの持つ未来の情報を手に入れたいのも、テオドールのたくらみに先手を打ちたいからである。
ロザリンデの闇落ちは聖女の召喚がきっかけになるのだから、テオドールの聖女召喚を阻止すればロザリンデの闇落ちは防げるわけだが、ルシアンの主目的はテオドール対策であってロザリンデの闇落ち回避はあくまでも副産物的なものだ。
別に、それでいいのに。そのはずなのに、なんだか嬉しくないのはなぜだろう。
――聖女が召喚されず、私が闇落ちしなかったら、ルシアン殿下は私と結婚することになるのだけど、それでいいのかしら。
ロザリンデは彼の運命の人ではない。
けれど、ルシアンのやりたいこと……この国の王になること……のために、ロザリンデは必要だ。正確にはロザリンデの父、ブラントシュタイン公爵が。
利用価値があると判断されているだけなのだ。
それは大事にされているというのとは少し違う気がする。嬉しくないと感じた理由はこれだ。
時間がたつほど自分の立ち位置を痛感するばかりで、むなしさが増した。
聖女が現れていない現時点ではまだ疎ましく思われていないが、聖女が現れたらどうだろう?
そう思うようになってから再び、「ここにこのままいてもいいの?」という気持ちがムクムクと湧き起こるようになった。
この世界において聖女は特別な存在だ。
彼女こそこの世界のヒロイン。
まわりの出来事をどんなにいじっても、聖女の召喚は決して避けられないものなのではないか?
そしてルシアンとアデルの恋もまた、避けられないものでは……?
二人が恋に落ちるのはかまわない。
二人の近くに自分がいるのがこわい。
白聖女でのロザリンデは嫉妬に狂ってテオドールの甘言にあっさりと乗ってしまう、見苦しいキャラだった。
彼女の苦しみはわからなくもない。けれどタナカ・リナは愚かなロザリンデが好きではなかった。
――私だって、そんな役回りは絶対にイヤよ。
前世は若くして死んでいるのに、生まれ変わってまで不幸になったらあまりにも自分がかわいそうだ。
何のためにこの世界に生まれ変わったのかと思ってしまう。
生まれ変わりの意味なんてひとつしかないのに。
だとしたら闇落ちからの悪役化は絶対に避けたい。
――やっぱり退場しかない!
「少し距離を置きましょう、ルシアン殿下」
気が付くとロザリンデはそう口走っていた。
ルシアンが驚いたようにロザリンデを見つめる。
口から出た言葉を取り消すことはできない。
「どうしたんだ、ロザリー。距離を置いたらドキドキするようになるのか?」
「わかりません。でも今は距離が近すぎるのだと思います。物語の開始まではまだ時間があります。それに」
「それに?」
言おうかためらって言葉を区切ったら、ルシアンに先を促された。
「……それに、物語ではルシアン殿下は私の情報提供なしに聖女召喚の情報をつかんでいました。私がいようがいまいが、ルシアン殿下はうまくやります。あなたには心強い仲間がたくさんいるもの」
だから、あなたに私は不要なのです。
この物語が、この世界が、そうできているから……。
とは、言えなかったが、言いたいことは伝わったらしい。
ルシアンが何か言おうとして口を開きかけ、口を閉じる。
それを何度か繰り返したのち、ルシアンは大きく深呼吸をしてからようやく話し出した。
「ロザリーの言う通りだな。情報を集めることに躍起になって、ロザリーの気持ちにまで考えが及ばなかった俺が悪かった。少し、距離を置こう」
その時、ルシアンが寂しそうに見えたことを不思議に思ったが、ロザリンデはすぐに忘れてしまった。
それからしばらくして、ルシアンは見識を広めるために外国へ留学していった。
***
ヒーローが不在のまま、三年が過ぎた。
ルシアン殿下が退場してからこっち、ロザリンデはせっせと「よい行い」に励んだ。
孤児院への慰問、災害地への救援物資集め、病が流行った地への薬代の寄付。
高慢な振る舞いもせず、弱者に寄り添い続けた。
白聖女に描かれていたロザリンデ像から遠ざかりたかったのだ。そうすれば闇落ちも悪役化もしないような気がして。
ルシアンが何を考えているのかロザリンデにはさっぱり見当もつかなかったが、ルシアンと交わした取引がストップしてしまった以上、これは契約不履行ということでロザリンデは当初の予定通り、留学に行こうとした。
だが、ルシアンに続いてロザリンデまで外国にやることはできない、ロザリンデは国内でしっかり花嫁修業をしろと父親に言われてしまってはどうすることもできない。
しかたなくロザリンデは、白聖女に描かれていたロザリンデ像から遠ざかることだけを考えて行動した結果、ロザリンデの評判はうなぎのぼりになり、国王から「そなたこそ天の女神が遣わした聖女!」とまで言われてしまった。
違います。本物は別にいます。
そして迎えた十八歳の春。
運命の日はもうすぐそこだ。
相変わらずヒーローは不在のままだ。
追い落とす政敵がいなければテオドールも聖女召喚なんてしないだろう。あれはあれでリスクのある術である。
ヒーロー不在のうえにヒロイン不在なら物語が始まらないので、ロザリンデは闇落ちしなくて済む。
――や、やったあ……!
これは運命に勝ったと言えるのでは?
いやいや、そんなにうまくいくはずがない。ルシアンは留守中だが、いなくなったわけではない。いつかは帰国する。それを見越していれば、テオドールはやはり聖女を召喚する気がする。
聖女アデルは孤児で、苦労人である。遠い国の辺境の地で、恵まれているとはいいがたいものの平和な暮らしを送っていた。自分に創世の女神の力が宿っていることも知らない。それがいきなり遠い異国に呼び出され、おまえは聖女だ、その心臓をよこせ、なんて言われるのである。
――……私、彼女を見殺しにできる?
ロザリンデはアデルが明るくて素直でけなげな女の子だと知っている。
アデルになんの罪もない。
見殺しにはできない……。
けれど、どうすれば?
――私がルシアン殿下の代わりに聖女をさらいに行く?
どうやって?
ルシアンは心強い仲間が何人もいるから聖女を連れ出すことができたのだ。
ルシアン自身の身体能力も高い。
ロザリンデには心強い仲間もいなければ、強靭な肉体もない。
***
なんの解決策も見いだせないまま時間が過ぎていく。
そして運命の日の数日前、突如ルシアンが帰国。
ルシアンの帰国の知らせと彼からの呼び出しは同時だった。
ロザリンデは爆発しそうなほどの混乱と不安を抱えたまま王宮へと向かった。
「久しぶりだね」
帰国したルシアンは、三年前とは別人のように大人の色気をまとった美青年に成長していた。
もともとはBLを描いていたリュンヌ先生が描く男性キャラクターは、大人になると色気がすごいことになるのだ。知っていたが、実物の破壊力はすさまじい。
懐かしい幼なじみに三年ぶりに再会できた喜びと、大人の色気を振りまくその姿に、ロザリンデの情緒は崩壊寸前だ。
「ところで、ロザリーの予知能力は健在か?」
「ルシアン殿下がいらっしゃらなかったので、よくわかりません」
「では試してみようか。都合よく二人きりだし」
ルシアンが両腕を広げる。
抱きつけ、ということだろうか。
婚約者同士ということで気をきかされたらしく、部屋には二人きり。助けてくれる人はいない。
動揺を隠しながら近づいていくと、ぎゅっと腕をひっぱられて抱きしめられた。
記憶の中にあるルシアンとは違う。大きな手、広い胸板、けれど変わらないルシアンがまとう香水のにおい。少し甘く、清涼感のあるにおいは懐かしくて、胸がぎゅっと締め付けられた。
「背が伸びたな、ロザリー。それに……」
「少しは大人っぽくなったでしょう?」
おどけて言うと、ロザリンデを抱きしめたままルシアンが頷いた。
「どうして急にいなくなったんですか。帰国も急だし……」
「いろいろあったんだよ」
「テオドール殿下絡みですか?」
「まあ、そんなところだ」
ルシアンはやはりテオドールを強く意識して行動しているらしい。
ロザリンデはルシアンのにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
ああ、なんて安心できるのだろう。
そこで自分は心細かったのだと気付いた。
思えば、前世の話はルシアンにしか打ち明けていない。不安を相談できるのはルシアンだけなのだ。
その途端、脳裏にルシアンと聖女アデルの邂逅シーンのイラストが閃く。
何度も眺めた、ピンナップのカラーイラストだ。
――そうよね。
ヒーローの帰還はつまり、そういうことだ。
「……聖女が、現れます。運命は変更できていないようです」
ルシアンがそっと体を離して、ロザリンデを覗き込む。
「未来が見えた。つまり、俺にときめいたということか」
「そうですね。三年ぶりですもの。でも、少しだけです」
「少しだけか」
ロザリンデは数歩下がって頭を下げた。
「ルシアン殿下、私は退場を望みます。運命が変更できていないのなら、私はあなたとあなたの大切な人を傷つけます。私はあなたに悲しい思いをさせたくない。聖女を傷つけたいとも思っていないし、テオドール殿下に利用されたくもない」
運命は変えられないのだ。
「ロザリー。君の話だと、君が闇落ちする理由は俺と聖女が恋仲になるのを許せなかったからだよな? それはつまり君は俺のことを好きでないと起こり得ないと思うんだが」
ルシアンが確認する。
「私は、ルシアン殿下のことが好きですよ。幼なじみとして、友人として」
そういう認識だったが、言い切った途端、胸の奥がズキンと痛んだ。
その痛みにロザリンデ自身、驚く。
どういうこと?
「……友人、か……」
ルシアンが心なしかがっかりした声音で呟く。
「だが、それなら闇落ちの心配などしなくてもいいのではないか? 俺が誰と結ばれようと君は嫉妬しないのだから」
「そうかもしれません。でもやはりなんらかのきっかけで闇落ちするかもしれません。闇落ちしなくても、ここにいるだけでテオドール殿下に利用される危険性はあります。とにかく、私がここにいてはいけないのです。もしものことがあったら、自分が許せないから」
「俺が阻止する」
「どうやって! 聖女の召喚までもう時間がない! もう止められないのよ、運命は動き出す」
きっぱり言い切ったルシアンに、ロザリンデは言い返した。
この人はどれだけ自分が不安に苛まれているのか知らないから、こんなことが言えるのだ。
「聖女の召喚は止めようと思えば止められた。ロザリーのおかげで聖女召喚に関しては早くから探りを入れていたからね。止めなかったのは、奴らは何があったって召喚の儀式を行うつもりだと確信を得たからだ。それなら君が予知した通りに行動したほうがいいと思った。必ず聖女奪還に成功するから。それは、俺が聖女に会いたいからではない」
ルシアンがそう言って一歩でロザリンデとの距離を詰め、手を伸ばして彼女のおとがいを持ち上げ、藍色の瞳をまっすぐ向けてきた。
「テオドールに聖女を利用されないためだ」
「小説の中でもルシアン殿下はそうおっしゃっていました」
「だが、小説とは明らかに違う点がひとつある。君は、ルシアンは高慢なロザリンデを押し付けられた花嫁として疎ましく思っていた、と言った。しかし、今の君はどうだ? 君は高慢か? 父上から聖女と称えられた噂は聞き及んでいる」
ルシアンのまっすぐな視線と真摯な口調に、ロザリンデはまばたきひとつできなかった。
「俺は君を嫌う理由がない。運命は変えられる。というより、おそらくもう変わり始めている。あとは俺の望む通りに持っていくだけだ」
「ルシアン殿下の望む未来とは、どんな未来ですか」
「君が俺の隣にいる未来だよ」
ルシアンの言葉に、息が止まるかと思った。
ロザリンデはこれ以上ないほど目を見開いてルシアンを見つめた。
藍色の瞳はまっすぐで、嘘をついているようには見えない。
「俺は聖女になんてこれっぽっちも興味がない」
そのままルシアンが顔を近づけ、唇が重なる。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは白聖女で使われたいくつもの挿絵だった。タナカ・リナがドキドキしながら追いかけていた、ルシアンとアデルの恋の行方だ。ロザリンデはめったに挿絵には登場しなかった。したとしても悪役らしいおそろしい表情のものばかりで、ルシアンに憎まれたあげく、婚約を破棄される。
その未来が怖くてたまらないのは、ルシアンのことが大切だからだ。
大切なのだ。
とても大切な人なのだ。
小さい頃、ロザリンデは体が弱くてよく熱を出していた。そのたびにルシアンは見舞いに訪れてはロザリンデを心配してくれた。
落ち込んでいる時は外に連れ出して、気分転換を計ってくれた。
勉強がわからない時はわかるまで根気よく教えてくれた。
乗馬の練習も、ダンスの練習も。
彼は多忙な王子様。婚約者とはいえ小娘に悠長に付き合っている時間などない。
それが後ろ盾となっている父への気遣いだと気付いたのはいつの頃だったか。
無理に自分に付き合わせたくなくて、ルシアンが困るような……怒り出すような、もう相手にしたくないと思うような……わがままぶりを発揮してみせたことがある。
ルシアンが怒って自分と距離をとってくれたらいい。父だって、王子様にわがまま娘の相手をしろとは言わないはずだ。
ロザリンデに関わる時間を自分のために使って、立派な大人になってほしかった。父の後ろ盾などなくてもやっていけるような。
ロザリンデの大事な大事な王子様。
彼への気持ちがどんな種類のものかなんて、実はとっくに気が付いている。でも気が付かないふりをしていた。タナカ・リナの記憶が戻ってからはさらに臆病になった。彼には運命の人がいる。
まだ踏みとどまれる。
ルシアンへの思いは、まだ幼なじみに対する友愛の範囲。
だから、心をかき乱さないでほしい。
唇はすぐに離れていった。
涙が一筋、こぼれ落ちる。
「なぜ泣く。俺のことがそんなに嫌いか」
「違っ……これは……!」
「もしかして、ほかにも何か見えたのか?」
その一言がロザリンデの心を一瞬で凍らせた。
そうか。
これはロザリンデに予知をさせるための演技。
試されたのだ、自分は。
ルシアンはまだロザリンデの予知を求めている。
「聖女が現れる以外のものは見えていません! 私は静かに退場します! これは決定事項です! もう私の邪魔をしないで!」
ロザリンデはルシアンを突き飛ばし、部屋を飛び出した。
室内に残されたルシアンがやるせない表情で立ち尽くしていたことなど、当然知る由もなく。
***
結論として、ロザリンデの退場計画はうまくいかなかった。
聖女が現れたからだ。
白聖女の物語通り、ルシアンが召喚現場に乗り込んで聖女を連れ出してきたのだ。
そして聖女は今、ブラントシュタイン公爵家の屋敷にいる。
王宮に連れ帰るとテオドールに狙われるからである。確かにブラントシュタイン公爵邸なら、テオドールも手を出せない。
「本物の聖女か?」
部屋の中にいる聖女をドアの隙間から覗きながら、ルシアンが確認する。
「本物です。イラスト通り、本当に髪の毛が白いんですね」
同じように隙間から見ながらロザリンデが答える。
白い髪だから「白き聖女」なのだ。
とはいえ、どういう絵面なのだろうか。王子と公爵令嬢がドアの隙間から覗きをしているなんて。
「彼女を見て、イライラするか?」
「全然」
「ロザリー、俺は君が好きだ」
ドアから体を離したかと思うと、ルシアンが突然、ロザリンデに向かって想いを告げた。
「……は?」
その唐突さにロザリンデは目が点になった。
「はっきり言っておく。俺は君が好きだ。君は、俺との関係は政略的なもので俺にはなんの感慨も抱いていないのかもしれないが、俺はブラントシュタイン公爵に君と引き合わされた日のことを、今でもはっきりと覚えている。こんなにかわいい女の子がこの世にはいるのかと思った。この子を幸せにできるよう、立派な大人にならないといけない、とも」
「な、なんなんですか、急に」
好き?
ルシアンが私を好き!?
「急か……まあ、そうかもな。聖女なんてものが現れなければ、時間をかけて君との距離を詰めていくつもりだったから。でも君は、落馬事故からこっち、なんというか、前世に振り回されすぎだ。あの事故は俺が乗馬に誘ったから起きたもので、俺も責任を感じてはいるが」
「それは……」
「そして実際に予知できているところが、前世やら転生やらの話に信憑性を与えているから、いいかげんにしろとも言えなかったし、あり得ないと笑い飛ばすこともできなかった。だが、運命は変えられる」
きっぱりと、ルシアンが言い切る。
「君は高慢な娘にならなかったし、俺は君を疎んじてはいない。君の言う通りこの世界は小説の世界なのかもしれないが、小説の筋書き通りになるとは限らない。だから運命は変えられるよ。俺が変える。必ず変える。だから、ロザリー。未来が変更できたら、俺を見て、少しは男として意識してくれ。俺も君に好きになってもらえるように努力するから」
「……どうして、そこまで」
必死の様子で言い募るルシアンの迫力に飲まれ、言い返せたのはその一言だけだった。ロザリンデはそれが精いっぱいだった。
「そんなの、君が好きだからに決まっているだろう? と、いうわけで、ロザリー、少しだけ俺に協力してくれ。聖女の面倒を見てやってほしい」
同じ口調で話題を転換されて、ロザリンデは目をぱちぱちさせた。
何が「と、いうわけ」なのか。
心も頭もついていかない。
「彼女は突然知らない場所に連れてこられて不安に駆られている。誰かがそばにいたほうがいい。俺はだめだ。彼女に気に入られたくはないからな。俺は絶対に聖女とは接触しない」
どうやらルシアンのほうが物語からの退場を試みるらしい。
「ロザリーを悪役から遠ざけたいのは、俺も同じなんだ」
そう言われたら頷く以外にない。
***
その夜、一人になったところでロザリンデは考えた。
どうやら私はルシアンに愛されているらしい。
これは予想していなかった展開だ。
ルシアンの運命の人は聖女だと思っていた。ルシアンがなんと言おうと聖女と恋に落ちるのだと。
けれどルシアンは聖女に近付かないつもりでいる。
ロザリンデの予知をもとに予防線を張っているのだ。
ロザリンデのために。
『ロザリーを悪役から遠ざけたいのは、俺も同じなんだ』
ルシアンの言葉が心に蘇る。
ルシアンはロザリンデのために行動している。たぶん、ずっと。
彼の行動を疑ってかかっていた自分が恥ずかしい。
そして彼の思いやりに胸が熱くなる。
――もう、ルシアン殿下が聖女と恋に落ちることはないと信じよう。
彼はそのつもりでいるのだから。
そんな彼に報いるためにも自分にできることはなんだろう?
――ルシアン殿下とともに運命を変えていくことだわ。
彼の望みは隣にロザリンデがいる未来。
ロザリンデもその未来がほしい。
そのために動こう。二人ならきっとできる。
物語はすでに白聖女のあらすじから外れている。
ここからは筋書きがない。
ここからの主人公は、私だ。
***
ルシアンからの指示はこう。
アデルを懐柔し、アデルの聖女としての能力を安定させること。
アデルの懐柔は難しくなかった。
親切にすればいいだけだから。
聖女の能力の安定も、難しくなかった。ロザリンデにはタナカ・リナの記憶があるからだ。どうすればアデルの力を安定させられるか、小説の中ではアデル自身が試行錯誤を繰り返して体得したものを情報として与えればいいだけである。
ロザリンデのヒントでアデルはみるみる力を安定させた。
小説では苦労していたのが嘘のようだ。
こういう予備知識があることが転生者の強みなのよね……と、しみじみと思った。
アデルは孤児ゆえに人の痛みに敏感で、人から感謝されることに喜びを見いだすタイプだ。心の安定のために、仲良くなったロザリンデとともにボランティア活動に励んでもらった。
人に感謝されたアデルは聖女の能力が飛躍的に伸びた。
アデルの能力は、癒しである。実に聖女らしい。
その力を隠さなかったので、あっという間に時の人だ。
居場所ができたことや、ルシアンが手を尽くして故郷と連絡がついたことで、アデルは帰りたいと言わなくなった。
アデルの故郷は貧しい地域なので、いずれは外に働きに行こうと考えていたためらしい。アデルからそう明かされたロザリンデは「よく決断してくれました」とアデルをねぎらったが、実は、知っていた。白聖女の中でも類似の話をしていたからである。
ルシアンとはこまめに情報を交換していた。
ルシアンは頑なにアデルと会おうとしなかったから、アデルの現状はロザリンデが伝えるしかなかったのだ。
でもこれはルシアンがロザリンデと会うための口実、だということは彼の様子からなんとなくわかった。
ロザリンデもルシアンからテオドール陣営の動きを聞かされていた。
それは外部に漏らしてはいけない機密情報に違いないのに、きちんと伝えてくれるルシアンの誠実さはロザリンデの胸を打った。
「おもしろいな」
ある日のこと。
アデルに絶大な信頼を寄せられているからか、自分は原作でのルシアンのポジションにいるようだという話をしたら、ルシアンがそう言って笑った。
「頼むからアデルと恋に落ちないでくれよ。俺が闇落ちする」
「同性に恋心は抱きませんよ、私は。百合は尊いと思いますが、私自身にはそういう性癖はないので。でも、私が男の子だったらイチコロでしょうね。本当にかわいいもの」
かわいい子に頼られたら誰だってイチコロだと思うのだ。
そう報告するロザリンデを見て、ルシアンがまた笑った。
ルシアンは以前のようにロザリンデに触れたり、抱き締めたりはしてこない。
ロザリンデに泣かれたことが心の傷になっているらしい。
それをほんの少しだけ寂しく思う。
ルシアンの気遣いを無駄にしたくないので、こちらから何も言うことはできない。
ルシアンの指示で動いていることもあって、彼とともに戦っている感じがする。
実際、そうなのだが、これは原作にはなかった展開だ。
原作のロザリンデも本当はこんなふうにルシアンに信頼されて、なんだったら思いを寄せてもらいたかったに違いない。
――ロザリンデだって好きで闇落ちしたわけじゃないものね。
既刊部分のロザリンデはルシアンとアデルに憎しみを向けており彼女の心の変化は特に書かれていなかったけれど、もしかしたら本当は、彼女は闇落ちした自分を誰かに止めてほしかったのかもしれない。この世界線は原作のロザリンデが望んだ理想の未来なのかもしれない。
ルシアンと共闘の時間を重ねるうちに、そんなことを思うようになった。
そしてそのルシアンからの指示で頃合いを見計らって国王陛下に謁見を求め、国王陛下から本物の聖女だというお墨付きをもらい、国王陛下の庇護を得た。
こうすれば誰も聖女に手を出せない。
聖女が現れたニュースは周辺諸国にも伝えられ、女神の加護がある国との争いは不利とこじれていた国際問題が解決に向かった。
この世界には聖女伝説があることは知っていたが、正直、聖女のありがたみをロザリンデは正しく認識していなかった。
聖女、すごい。
アデルの地位はますます確固たるものになり、アデルは国王より王宮に部屋を賜って、ブラントシュタイン公爵邸から引っ越していった。テオドールも王宮にいるので危険だと思ったが、ルシアンから「警護をつけるから大丈夫」と言い切られては何も言えない。
そしてなぜかロザリンデがアデルの後見人に指名された。アデルたっての望みらしい。
その一方で、ルシアンも着実に動いていた。
たくさんの証拠をつかみ、数々の不正を暴いてテオドールとその取り巻きを次々と失脚させていった。それはもう見事としか言いようがなかった。
「ロザリーが教えてくれたことが役に立った」
あとでルシアンがそう、教えてくれた。
聖女召喚から一年後。
聖女アデルの傍らには赤毛の青年が寄り添っている。
ルシアンの側近にしてアデルの護衛筆頭である騎士のヒースだ。
バラの咲き誇る王宮の庭を散策している仲のよさそうな二人を、ロザリンデはルシアンと並んで建物の二階の窓辺から眺めていた。
「ロザリンデの言った通りだ。あの子に笑いかけられるとイチコロだった。……ヒースが」
近づかなくてよかった、としみじみ呟くルシアンにロザリンデは振り向いた。
「わざとヒースを近づけたのですか? そのつもりで?」
「ヒロインにはヒーローが必要なんだろう? でも聖女のヒーローは俺じゃない。だから新しい相手を用意したんだ。ヒースはいい奴だ。聖女と護衛騎士。絵になるだろ?」
二人の様子を目を細めて見つめながらルシアンが言う。
なんと用意周到な王子様でしょう!
確かに絵になる。
ヒースもまた白聖女に登場するキャラで、ルシアンの側近かつ親友という役どころだった。それは現実でも変わらない。明るくてムードメーカーなヒースにも固定ファンがついており、一部に「ヒース×アデル」推しがいたことも知っている。
タナカ・リナはルシアン×アデル推しだったので、ヒスアデCPを積極的に探しに行きはしなかったが。
「聖女を危機に陥れる悪役は退治したし、聖女の心残りである故郷とも連絡がついた。そしてアデル自身、この国で聖女を続ける意向を示しているし、アデルが聖女である限りヒースも護衛騎士を続けるそうだ。聖女の身分はこの国が保証する。聖女は処女でないといけないわけでもないし、結婚してはいけないわけでもないしな。完璧なハッピーエンドだよ。聖女の恋と冒険の物語はこれで終わる」
ロザリンデから引き出した情報をもとに白聖女への理解を深めていたルシアンが、腕組みしながら満足そうに言う。
「本当に、驚くほどきれいな結末です。どうして、ルシアン殿下にはそんなことができたのでしょうか」
ここは小説『白き聖女と蒼き運命』の世界のはずだ。
他世界の空似とするには、設定も途中までの展開も似すぎている。
「さあ? ただ、前にも話したように、君の話と現状にはずれが生じていると気付いたから、君の語る未来は確定されたものではないと思っただけだ。変更された筋書きが元に戻される気配もなかった。君は謙虚なままだし、俺は別に君を嫌いにならなかったし」
「それはそうですけど……」
「俺自身はこの世界が誰かによって作られたものだということには懐疑的だが、そうするとロザリーの予知はなんなんだということになるからな。俺にとっては現実だし。まあ、この話はいったん置いておいて、物語を作ったのは作者だろうが、読者がどう受け止めるかは人それぞれだろう。まして君はこの物語の結末を知らなかった。外の世界から君が飛び込んできたことによって、この物語は変質したんだと思うよ。君に都合のいい未来に」
「私に都合のいい……」
確かにその通りだ。
考えてみればタナカ・リナはロザリンデの愚かさが気に入らなかった。
この物語はどうだろう?
ロザリンデは、少なくとも自ら首を締めていくような真似はしていない。前半はちょっと自信ないが、後半はしていない。
ルシアンはテオドールの陰謀を潰すだけでなく、ロザリンデやアデルもうまく利用して筋書きを変えた。彼の用意周到ぶりは原作と同じだ。
アデルは愛され聖女の立ち位置からブレていない。
確かにこれは自分が読みたかった物語かもしれない。
作者には怒られそうだが、登場人物の一人としては満足している。
報いを受けたのは悪だくみをしていた人たちだけだ。
「俺も君を利用して、自分に都合のいい展開に持っていったしな。俺はむしろ、君に前世の記憶があるのは都合よく筋書きを変更しろというお告げなのかと思ったくらいだが」
「そういえば、この世界は原作のロザリンデが望んだ展開なのかもしれない、と思ったことはあります。……でもそんなことができるのかしら?」
「ではここにいる俺は君の見ている幻覚か?」
ルシアン殿下が私の頬に手を伸ばし、ピタピタと指先で軽くはたく。
「いいえ。本物です。ルシアン殿下、あまりこすると指先が汚れますよ、化粧をしていますから」
「ロザリーも化粧をするようになったんだな。十九歳だものな」
「ルシアン殿下は二十一歳ですね」
「そうだな。さて、宣言通り、俺は運命を変えた。ロザリーを悪役にしなかった。もう、俺から逃げたい理由はどこにもないよな」
ルシアンの指がロザリンデの頬から唇に移る。
まっすぐな視線に心が射抜かれる。
ルシアンの言う通りだ。
もう逃げる理由はどこにもない。
「ルシアン殿下、汚れます。口紅をつけているの」
「いいよ、汚されても。むしろ汚してほしい。……俺は、この一年、我慢した。一年どころじゃないな、もう何年も我慢した。ロザリーがなんの憂いもなく俺を見てくれるようになるまで」
「そのわりには、そんな気配はありませんでしたが? 特にルシアン殿下が留学する前。私の予知にときめきが必要だとわかった時なんて、やる気があるのかと思うくらい」
「あれは、自分でもまずいと思ったからだよ。あの時のロザリーは十四歳とか、十五歳だろ。未成年にどこまでならやってもいいのかわからなくて、淫行だと思われないようにしたら、何かとても健全な感じになったんだ。君がブラントシュタイン公爵に言いつけでもしたら、ブラントシュタイン公爵に始末されてしまう」
この国の成人年齢は十八歳である。
どうやらルシアンはハラスメントにならないよう気を付けていたようだ。父に何か釘を刺されていたようでもある。
「気遣われたのね、私」
「嫌われたくないからな」
ゆるゆるとルシアンの指先が唇をたどる。
「嫌われたくない。でも、君に触れたい」
「……私の口紅は落ちにくいんですよ、ルシアン殿下。試してみますか?」
ロザリンデの提案にルシアンが驚いたように目を見開いたかと思うと、手をどけてそっと顔を近づけてきた。少しためらうようなそぶりをみせてから、ロザリンデの唇に唇を重ねる。
ルシアンは優しい。
ロザリンデに少しでも戸惑う気配があればすぐに身を引くだろう。
それがいやで、ロザリンデは自分からルシアンの唇をついばんだ。
ルシアンが応える。
お互いに唇を求めあっていたら、不意に深く唇を重ねられた。
ルシアンとはキスをしたことがある。タナカ・リナにもキスの経験はある。
でも、こんなふうに情熱的にむさぼられたことはなかった。
ロザリンデを抱きしめるルシアンの手がもどかしげに背中を這いまわる。彼の気持ちが痛いほど伝わる。
心臓がどうしようもないほどドキドキする。
呼吸があがる。体温があがる。
脳裏には何も閃かない。リュンヌ先生の美麗なイラストが出てこない。
ルシアンの体温と香水のにおいがロザリンデを包む。
懐かしくて安心できる、ロザリンデの大好きなにおいだ。
「……ふっ……」
呼吸が苦しくなってきて思わずあえいだ途端、ルシアンが唇を離してロザリンデを覗き込む。
「嫌ならはっきり言ってくれ、ロザリー。何度も言うけど、俺は君に嫌われたくない」
ルシアンの顔も上気して、目元がかすかにうるんでいる。
きっと自分も同じ顔をしているだろう。
ロザリンデはルシアンの濡れた唇にそっと手を伸ばした。
「口紅がついてしまいましたね」
「考えてみたらおかしな話だ。落ちにくいのにどうして俺に色がつくんだ」
「強く押し付けたら色落ちするに決まっています。落ちにくいキスマークは、こうやってつけるの」
ロザリンデはルシアンの腕をほどくと手首を引き寄せ、口づけた。強く吸い上げて唇を離すと、皮膚がかすかに赤くなる。
それを見たルシアンがすぐさまロザリンデの首筋に唇を落とす。
強く強く吸われる。
これは確実に痕が残る。
「んふ……っ」
ゾクゾクと快感が駆け抜ける。
ロザリンデの反応に気をよくしたのか、ルシアンが次々と首筋に口づけの雨を降らせる。
「あ……はっ……!」
ゾクゾクする。
ゾクゾクして、気持ちいい。
口づけの刺激を呼び水にして体の奥が疼き始める。
唇が首筋から喉元に、そしてドレスの胸元に落とされる。
「ル……ルシ、ア……あぁ……っ」
足に力が入らなくなってきて、ロザリンデはルシアンの体に腕をまわしてしがみついた。
「ロザリー、我慢できない」
ロザリンデの胸元に顔をうずめながらルシアンが囁く。
「ロザリー、俺は」
「私はルシアン殿下が好きです」
ルシアンがバッと顔を上げてロザリンデを覗き込む。
「……幼なじみとして……?」
「いいえ、一人の男性として」
「……」
「でなければこんなに闇落ちを恐れたりしないわ。あなたに嫌われたくなかったの」
ルシアンの切れ長の目が大きく見開かれる。その目がみるみるうるんできたが、すぐにロザリンデの胸に顔を埋めてしまったから真相はよくわからない。
ぎゅっと強く強く抱きしめられる。
その手が震えていた。
「愛してる、ロザリー」
声も、かすかに震えていた。
「私を救ってくれて感謝します、ルシアン殿下。私もね……本当は、小さい頃からずっと、ルシアン殿下のことが、大好きでした。前世の記憶が戻って、ルシアン殿下が聖女と恋に落ちるのが怖くてたまらなかった。ルシアン殿下が私から前世の記憶を引き出すたびに、あなたが聖女に近付いていくようで、私が悪役に近付いていくようで、こわくて、こわくて」
「ああ」
「だから嬉しいの。ルシアン殿下が聖女より私のことを考えてくれて」
「当たり前だろう」
「あなたの隣は誰にも譲らない。ここは私の居場所です。そうですよね?」
万感の思いをこめて呟けば、
「俺の隣にいていいのは、君だけだよ」
ロザリンデを抱きしめたまま、ルシアンが頷いた。
***
その後のことはどんなにルシアンにドキドキしても予知することはできなかった。
当たり前だ、ストーリーはまったく違うものになってしまったのだから。
そしてそのうち、タナカ・リナの記憶も、白聖女の記憶も薄れていっていることに気が付いた。
この物語はとっくに別物になっている、ということなのだろう。
ここから先は、誰も知らない物語。
「どうかしたのか?」
ロザリンデに見つめられていることに気が付いたルシアンが不思議そうに聞き返す。
「いいえ」
ロザリンデは微笑んだ。
「なんでもありません」
あれから何度目かの春が過ぎ、ルシアンは国王に、ロザリンデは王妃に、そして二人は親になった。
「明日はいい天気だといいですね」
「そうだな。久しぶりに二人だけで外出するものな」
ロザリンデの言葉にルシアンが頷く。
「明日も晴れるといいな」




