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第一章 三話「体は覚えている」

第3話「体は覚えている」


3日目の朝、僕の体は悲鳴を上げていた。

腕が痛い。背中が痛い。足が痛い。特に、かまどの前に立っていた時間が長かったせいで、腰がおかしい。立ち上がるのに、数秒かかった。


(こんなんで、仕事できるか…)

心の中で呟いたが、選択肢はない。起きるしかない。

外に出ると、既に何人かが動いていた。朝は早い。太陽が完全に昇る前から、仕事は始まっている。

「おい、新入り。今日はお前に仕事を変える」


見張っていた若い男が言った。あの傷のある男だ。名前は聞いていない。というより、誰の名前も聞いていない。ここでは、「若い男」「女性」「少年」という区別で十分だ。

「かまどから野菜係に変わるということですか」

「違う。馬だ」

(馬?)

僕は顔を上げた。


「馬の世話だ。水をやって、餌をやって、糞を掃除する。やったことあるか」

「いや、ないです」

「そっか。まあ、馬も人間も変わらんよ。優しくしてやれば、向こうも応じる。乱暴に扱えば、咬まれるか蹴られる。分かったな」


若い男は、僕を馬小屋へ連れていった。

馬小屋は、家の奥にあった。木造の粗末な小屋で、中は暗い。そこに、馬が二頭いた。


一頭は、黒い毛並みの、どことなく優雅な馬だ。目が大きく、表情がある。もう一頭は、茶色で、より小ぶりだ。こちらは、何か神経質そうに見える。

「黒いのが『くろ』。茶色いのが『ちゃあ』。そのままだ。くろの方が温厚だが、ちゃあはくせがある。気をつけろ」


「分かりました」

若い男は、僕に道具を渡した。バケツのようなもの。竹でできた、粗い籠だ。

「まず、飲み水をやる。井戸で水を汲んできて、この木のむすいに入れてやれ」

木のむすい?初め、何を言っているのか分からなかった。でも、見ると、木製の樽のような容器があった。多分、それだ。

「分かりました」


井戸へ向かった。バケツを井戸に落とす。水を汲み上げる。その単純な作業で、腕が痛い。昨日までの労働で、筋肉が疲労しているのだ。

馬小屋に戻った。木製の容器に水を注ぐ。くろは、すぐに顔を寄せて、水を飲み始めた。


(あ…)

その光景は、想像より自然だった。馬が水を飲む。普通のことだ。でも、同時に、現実だった。ここにいるのは、本当だ。

ちゃあの方にも、水を注いだ。こちらの馬は、少し警戒気味に、でも飲んだ。

「次は餌だ」

若い男が指した。小屋の隅に、干し草が積まれていた。

「その干し草を、夜明け時と、昼間と、夜に三回に分けてやる。量は、こいつらが食べきる量。多すぎると腐る。少なすぎると、もう一頭の方が喧嘩を売る。バランスを見極めろ」

(バランス…)


またしても、加減が必要なのか。現代社会では、大抵のことは「マニュアル化」されている。でも、ここでは、全てが「感覚」だ。

若い男は、手で示した。一握りくらいの量を、馬の前に置いた。くろは、すぐに食べ始めた。

ちゃあの方にも、同じくらい置く。こちらも食べた。

「これくらいな。毎回、この分量でいい。分かったか」

「はい」


若い男は去っていった。

そこから、僕は初めて、馬の世話の方法を学ぶことになった。

干し草を運ぶ。それだけで、腕は痛い。運び終わると、小屋の掃除だ。馬の糞が落ちている。それを掻き集める。臭い。本当に臭い。

現代では、動物の糞など、見たことがない。あっても、嗅いだことがない。でも、ここでは、それが日常だ。


竹製の箒のようなもので、ぶつぶつと掃き出す。

その作業をしていると、くろが近づいてきた。


(あ…)

馬の顔が、僕の顔に近い。鼻息が感じられる。目が、じっと僕を見ている。

(噛まれるかな…)

不安になった。でも、くろは噛まなかった。ただ、じっと見つめている。

「何してるんですか…」

僕は呟いた。


くろは、首を傾げた。その仕草は、愛らしかった。

「こっちは、大丈夫なんですね」

僕は、ゆっくり手を伸ばした。くろの首に触れた。毛並みは、思ったより硬かった。でも、温かかった。

(生きてるんだ…)


そのことが、急に現実になった。ここには、馬がいる。生きた馬だ。昨日は、かまどの前で、飯を作っていた。今日は、馬を世話している。

そして、明日も、何かをする。その繰り返しが、ずっと続く。

掃除を終えたとき、若い男が戻ってきた。

「どうだ」

「あ、終わりました」

「そっか。良くやった。昼間になったら、また来て、餌をやれ。ちゃあの方は、けっこう気難しいから、触るときは注意しろ。いきなり触ると、蹴られるぞ」

「分かりました」


若い男は去っていった。

その後、僕は台所へ向かった。今日も、かまどの前に立つのかと思った。だが、女性は違う指示をした。

「お前、今日は畑だ。そこで、野菜を引き抜く。若い男に言われたはずだ」

「え、かまどじゃなくて…」

「そう。かまどは別の者にやらせる。お前は、今日から畑な」


畑。僕は、現代では畑で野菜を作ったことはない。あるのは、学校の授業で習った知識だけだ。種を埋める。水をやる。成長する。そんな程度の知識。

畑へ向かった。そこには、少年太郎がいた。

「あ、お前。今日から手伝うのか」

「はい、そう言われました」

「よろしくな。今日はな、この野菜を全部引き抜く。そっちの籠に入れていくんだ」

少年が指した方向には、大きな籠が複数ある。


畑に植わっているのは、昨日まさに僕が切っていた野菜だ。白い茎で、上に緑の葉がある。

「こうやってな」

少年は、一本の野菜を握った。そして、思い切り引っ張った。

「ぶちっ」

音がして、野菜が抜けた。根が付いている。土がついている。

「根を少しきれいにして、籠に入れる。繰り返し。分かったか」

「はい」


僕は、野菜を握った。引っ張る。

(あ…)

力が入らない。腕が痛い。手の筋肉が、昨日の労働で疲れているのだ。

「何してんだ。引っ張れよ」


少年は、もう次の野菜を引き抜いていた。スピードが違う。

僕は、もう一度、野菜を握った。力を入れた。痛い。でも、引っ張った。

抜けた。

(あ、出来た…)

根をこすりつけて、土を落とす。籠に入れる。次の野菜へ。

同じことの繰り返しだ。引く。落とす。入れる。


昼間、太陽は強い。現代でも、野外で仕事をすることはない。エアコンの中で、スマホを見ているのが日常だった。それが、今は太陽の下で、野菜を引き抜いている。

汗が出ている。喉が渇いている。水を飲みたい。でも、水はない。

少年が、何かを飲んでいた。竹製の容器から、液体を飲んでいる。

「何を…」

「塩辛い水だ。うちの女性が作ってくれたやつ。身体に良いらしい。飲むか」

少年は、容器を僕に渡した。


(塩辛い?)

試しに飲んだ。本当に塩辛い。でも、不思議なことに、それが飲みやすかった。ただの水より、この塩辛い液体の方が、渇きを癒す感じがする。

「良いですね、これ」

「だろ。毎日、この塩辛い水をもらってるんだ。最初は気持ち悪いけど、慣れたら最高だ」

少年は笑った。


午後、僕の体は完全に限界に近づいていた。腕が動かない。腰が砕けるような感覚だ。でも、野菜は全部抜けていない。籠は、まだ半分しか埋まっていない。

「あと半分。頑張れよ」

少年が言った。


僕は、それ以上を動かせなかった。腕が上がらない。でも、野菜は抜かなければならない。

その時、僕は何か奇妙なことに気づいた。

最初の1時間は、苦しかった。でも、その後、何か変わった。体が、自動的に動くようになったのだ。

考えずに、手が動く。

引く。落とす。入れる。


その繰り返しが、脳を無にした。痛みは、まだある。でも、その痛みさえも、単なる「感覚」として受け入れられるようになった。


(あ…これ…)

心の中で気づいた。

これは、現代で味わったことのない感覚だ。スマホの通知音に反応する脳。効率を気にする脳。そういった、常に刺激を求めている脳から、今、僕は逃げ出していた。

ただ、体を動かす。ただ、作業をする。

それだけ。


太陽が西に傾いたとき、野菜は全部抜けていた。

「お疲れ」

少年が言った。

「ありがとうございました」

僕は、そう答えるしかできなかった。


夜の食事は、また粥だった。昨日と同じ。でも、今日は、その粥がもっと美味しく感じられた。体が、栄養を求めているのだ。

食べ終わると、僕は寝た。深く。

朝が来た。


4日目だ。

馬の世話から始まった。くろは、僕を覚えていたのか、すぐに顔を寄せてきた。

その日、僕は初めて、「ここで生きる」ことの実感を持つようになった。

それは、絶望ではなく、むしろ、静かな受け入れだった。

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