第一章 二話「かまどと飢え」
第2話「かまどと飢え」
台所は、想像以上に熱かった。
声がした奥へ進むと、そこには大きなかまどがあった。いや「かまど」という言葉すら、リアルに見るのは初めてかもしれない。教科書の挿絵でしか知らないはずの道具が、目の前でゴウゴウと火を吹いている。
「お前、かまどの火を見張れ。薪が足りなくなったら足す。ご飯が焦げたら終わりだ。分かったな」
声の主は、若い男だった。20代後半か、30代前半か。背は高く、顔には傷がある。眉が太い。兵士のような雰囲気だ。
「あ、はい…」
僕は首を縦に振った。火を見張る。簡単そうに聞こえる。でも、目の前のかまどは、本当に大きい。そして熱い。
「そこに野菜がある。葉っぱを取って、茎を切る。まな板を使え」
男が指を指した。籠に入った野菜がある。何の野菜かもよく分からない。形は大根に似ているような、でも違うような。
「分かりました」
僕は近づいた。かまどの横には、粗い木製のまな板があった。刃物は…あった。でも、これは現代のナイフではない。何か違う形で、重そうで、切り方も違いそうだ。
(どうやって…)
心の中で呟いたが、男は教えてくれない。既に別の仕事に移っている。
仕方なく、僕は野菜を手に取った。表面は土がついている。水で洗う?でも、水はどこに…
かまどの横に樽があった。井戸の水だろうか。僕は野菜を樽の水に浸した。
(うわ、冷たい)
現代のように温かいお湯なんてない。井戸水は、本当に冷たい。そして、その冷たさが、今の僕にはとても実感を伴っていた。これは本当に起きていることなんだ。
野菜を何度か漬けて、土を落とした。その後、まな板の上に置いた。刃物を握る。重い。バランスが悪い。
とにかく、切ってみた。
「ああっ」
男の声がした。僕は驚いて刃物を落とした。
「何してんだ。葉っぱを取ってから切れ」
「あ、あ、すみません」
僕は拾い上げた。葉っぱを取るということは、まず上の部分を削ぐのか。試しに、上の葉をかき取った。野菜の芯が見える。その部分を刃物で切ろうとした。
「そっちじゃなくて、その緑の部分。食べるのはそこじゃなくて、下の白いところだ」
(あ、そっか…)
理屈では分かったが、体が覚えていない。現代で野菜を切った経験はある。でも、買ってきた野菜は既に加工されていた。根を取られ、葉を取られ、きれいに整理された状態だ。
この、ほぼ畑から引き抜いたままの状態で、どう扱うかなんて、知らない。
何度も間違いながら、ようやく白い部分が露出した。それをぶつぶつと不格好に切っていく。
「遅い」
男が言った。
「分かりました」
僕は速度を上げた。不格好だが、とにかく切る。指を切らないか、ずっと気になっていた。
その時、かまどの中から、異臭がした。
「あ、薪!」
男が叫んだ。僕は振り返った。かまどの火が、小さくなっている。
「早く入れろ!」
僕は野菜を投げ出した。いや、置いた。近くに積み上げられた薪がある。握って、かまどに突っ込もうとした。
(熱い…)
火が近い。顔が焼けるような感覚だ。とにかく薪を入れた。複数本。すると、火が大きくなった。
「もう少し注意しろ。火が消えたら大事だ」
男は厳しく言った。
「分かりました…」
その後、僕は同時に二つのことをしなければならないことに気づいた。かまどの火を見張りながら、野菜を切る。注意力を二分する必要がある。片方に集中すると、もう片方が疎かになる。
火に注意すると、野菜は遅くなる。野菜に注意すると、火が小さくなる。
(これ、どうやってやるんですか…)
呟く時間もなく、僕は両方をこなす必要があった。
時間がどれだけ経ったか分からない。太陽の位置が変わった。かまどの熱で、僕の顔は熱くなり、汗をかいている。現代の空調の中での生活が、どれだけ快適だったかを、痛感していた。
「お前、飯を持ってこい」
別の声がした。女性だ。さっきの若い男とは別の女性で、より年配に見える。
「はい」
僕は刃物を置いた。その女性は、僕に大きな桶を渡した。
「あそこの台に置け」
指された場所には、木製の台がある。そこに桶を置く。女性は竹の棒のようなもので、かまどの中をかき回した。すると、米のようなものが見える。それを竹製の器にすくって、桶に入れた。
(あ、これが…飯?)
色は灰色だった。米というより、雑穀だ。粟か、ひえか、そういった何かだろう。白米ではない。そこに、先ほど僕が切った野菜の一部が混ぜられた。
「これを外へ運べ」
「はい」
桶は重い。でも、現代の感覚で言えば、それほど重くはない。ただし、熱い。かまどの熱で温められたご飯は、直に手に伝わってくる。
外に出た。昼間だ。裏の土の庭で、十人ほどの人間が集まっている。男が多い。年は様々で、年寄りもいれば、少年もいる。
みんなが僕を見た。
「遅いぞ」
年寄りが言った。
「すみません」
僕は桶を地面に置いた。木製の碗がいくつも積み重ねてある。人々は次々と碗を手に取り、中身をすくった。
(ああ、これが…食事時間か)
僕は初めて、ここが「食事をする場所」だと認識した。ただし、椅子もない。テーブルもない。皆、立ったまま、あるいは地べたに座ったまま食べている。
一人の少年が、僕に気づいた。年は15か16だろうか。顔立ちは、このあたりの人間にしては柔らかく見える。
「お前、新しい奉公人か」
「あ、はい…」
「俺は太郎だ。いや、違う。こっちの太郎じゃなくて、若い方の太郎。この家には太郎が二人いるんだ」
少年は笑った。その笑顔は、この日、僕が初めて見た、優しい表情だった。
「名前は?」
「悠…悠斗です」
「悠斗。変わった名前だ。どこから来たんだ?」
その質問に、僕は言葉を失った。本当のことは言えない。時間が移ろぶ、どこかから来たなんて。
「…村から」
適当に答えた。少年太郎は、それ以上は聞かなかった。
「そっか。まあ、最初は大変だと思うが、頑張れよ。ここの主人は怖いが、悪い人ではないから」
(そう…なのか)
少年は食べ終わると、碗を返して去っていった。
その時、初めて気づいた。
僕は、まだ何も食べていない。
かまどの中から、女性が出てきた。
「お前は、食べたら片付けろ。あそこに水がある。碗をきれいにして、並べておけ」
「あ、あのー」
僕は声を出した。
「何だ」
「食べる時間は…」
「食べたけりゃ、他の者が終わった後だ。それまで、かまどを見ろ」
(え…)
他の人間は、既に食べている。そして終わり始めている。女性の言葉は、僕が食べるのは後だということだ。
つまり、今はまだ僕の食事の時間ではない。
「分かりました」
僕は答えた。その時、初めて腹の底から、空腹感が押し寄せてきた。
朝から何も食べていない。いや、昨日も、その前も、食べた記憶がない。この体は、何日も飢えているのかもしれない。
だが、待つしかない。
碗が返されると、僕はそれを水で洗った。現代のように温かいお湯ではなく、冷たい井戸水だ。汚れが落ちているのか、確信が持てない。でも、とにかく洗う。並べる。
そうしていると、少年太郎が戻ってきた。何か握っている。
「これ」
少年は、僕に握り飯を渡した。小さい。握られた形のまま、握り飯という形をしている。中身は、さっきのご飯と同じ雑穀だ。
「え…」
「さっき食べるなって言われたから。これ、俺の分の余りだ。食べろ」
「大丈夫ですか…」
「いいから。お前、痩せすぎだ。このままだと仕事もできねえ」
少年は笑った。その笑顔は、優しかった。
僕は、その握り飯を受け取った。
口に入れた。
(…)
言葉が出ない。
それは、飯ではなかった。というより、飯ではあるが、現代人の感覚で言えば、飯ではない。硬い。ぱさぱさしている。塩辛い。そして、何か、虫が入っているような気がする。
でも、僕の体は、それを求めていた。自動的に噛み砕き、飲み込もうとしている。
三口で食べ終わった。小さい握り飯だった。三口だ。
(足りない…)
心の底から、そう思った。
お腹は、空いたままだ。むしろ、少し食べたことで、より強く空腹を感じるようになった。
「ありがとうございます」
僕は少年に言った。
「礼なんて。また今度、困ったことがあったら言えよ。手伝えることがあればな」
少年は去っていった。
やがて、女性が戻ってきた。
「かまどの火、見たか」
「はい、見てました」
「嘘つくな。さっき火が小さくなってた」
(あ…)
実際、少年と話しているときに、ちょっと気を抜いていた。
「すみません」
「次、気を抜いたら、お前のせいで誰かが飯にありつけなくなるんだ。分かるか。ここじゃ、飯を逃すことは死ぬのと同じだ」
女性の言葉は、脅しではなく、事実のように聞こえた。
「分かりました」
僕は答えた。
その後、僕は夕方まで、かまどの火を見張り、野菜を切った。腹は、ずっと空いていた。
夜になると、再び食事の時間が来た。今度は、僕にも碗が渡された。中身は、朝と同じ雑穀の粥だ。ただし、今度は野菜も少し入っている。
スプーンはない。箸もない。竹の棒のようなもので、すくって食べる。
その粥は、塩辛く、そして、何か腐りかけたような匂いがした。でも、現代の食感覚で言えば、それは我慢できる範囲だった。むしろ、現代で食べる食べ物よりは、確実に栄養価は低そうだ。
でも、お腹に入ったことで、少しだけ落ち着いた。
一杯の粥。それが、僕の夜の食事だった。
(朝、昼、晩で…粥が…3杯?)
計算した。それが、一日の食事の全部ということか。
(足りない…足りなすぎる…)
心の中で呟いた。だが、ここでは、それ以外に食べるものはない。
夜の暗さの中で、僕は仲間たちが寝ていく様子を見た。みんな、雑穀の粥を飲み込んだら、もう起きない。疲れているのか、それとも、食べ物が少ないから、さっさと寝て、エネルギー消費を最小限にするのか。
僕も、寝た。
朝が来た。
もう、昨日と同じ日がやってくるのだ。
(明日も…明日も…この毎日が続くのか…)
その日、僕は初めて、本当の意味で、自分がここにいることを理解した。
ご飯食べるだけの回です。




