第27エンド 俺のヒーロー(後)
『引退したアスリートなんて、言っちゃ悪いけど僕らからしたら、そこまで珍しいものじゃないじゃない?』
そう、例えば長嶋とか、王とかイチローみたいな。
羽生善治とか、武豊みたいな。
そのジャンルの教科書に載るような、絶対的な選手なら、理解出来る。
世界王者といえど、格闘技のジャンルも増えた今となっては、そこに入るかはいささか疑問だ。
『....そりゃあ、剛士は良いリアクションを取るからね!』
まあねぇ、確かに、彼のリアクション芸は、そんじょそこらの芸人では太刀打ちできないだろうさ。
話術やコントと言った別の手段、悪く言えば逃げ道がある人達と違って、剛士くんには、これしか無い。
そう、育てたのだから。
だからこそ。
『今はそうだけど、最初なんて酷いもんだったじゃない。藤原くん、面白くない人間はすぐ切っちゃうのに』
オーディションで、部屋に入ってきた時の顔を見ただけで、ネタを観る前にボツにした。
そんなの、珍しくもない。
別番組で使ってみても、やはりイマイチだった。
笑いに対して、そんな獣のような嗅覚を持つ男が、使い続けた。
『....んん、まぁほら....剛士の階級の日本人のチャンピオンは、まだ少ないからさ』
いつも立板に水の如く話す藤原の、歯切れの悪い返答。
───防音のために密閉された編集室に、換気のためのファンの音が、単調に鳴り響く。
キラキラと、切れかけの蛍光灯に照らされた埃が、静かに舞っていた。
『....篠山さん、あんた格闘技は好きかい?』
藤原の声のトーンが、一段、低くなる。
『いいやぁ?観ないねぇ』
運動だって、苦手なのだ。
家で観るのはもっぱらナショナルジオグラフィックか、世界ふしぎ発見!位だ。
あと、たまにガイアの夜明けとか。
『だよなぁ....俺もだよ。剛士以外は、知らん』
俺はバラエティばっかりで、格闘技なんか全く知らん。
畠中ぐらいじゃないかい?好きなのはさ。
『ふぅん、じゃあ、なんでまた剛士くんだけ?』
────ウォーン......
編集用のパソコンが、ケースに溜まった熱を吐き出す。
それを受けて、部屋の温度が、ほのかに温められた。
藤原の額に、じわりと、汗が浮かんだ。
『────あいつは....桐原剛士は、俺のヒーローなんだよ』
ぽつり、ぽつりと、彼は話し始めた。
『何年くらい前だったかなぁ、10年とか、もうちょっと前とかだったかな....。
その時はもうテレビはネットに押されててさ、コンプラとかで俺のやり方も通用しないし、何より、飽きられてた。それで腐ってたんだよ』
小さな小さな、ヤニ臭い編集室で、遠くを見るように、過去に遡るように、ぼんやりと視線を宙に向けた。
同年代のテレビマン達が、誰もが直面したであろう、時代の流れ。
それはこの、才能にあふれた、平成の視聴率男も、例外ではなかった。
『会場を埋めたいから来てくれって頼まれてさ、まぁ世話になってる人だったから、興味もないけど行ったわけよ。
その時の剛士の相手がスペインの.....なんとかって言う、すかした色男でさ。
こいつが、またすばしっこかったんだ。闘牛士みたいに、ヒラヒラ躱しやがるんだよ』
肩をすくめて、へへっと、軽く笑う。
『最初はさ、こんだけ人がいたら視聴率は何%だろうなぁ、とか、ぼんやりみてたんだけどよ。
剛士のやつ、タコ殴りになりながら、ずぅっと前に出てるんだよ』
アーロンチェアにどっかりと腰掛けていた体が、いつの間にか、前のめりになってきている。
『段々、じっとしてらんなくなっちゃってさ、気が付いたら、いけぇ!そこだぁ!バカぁ!!なんて、野次飛ばしてたよ』
彼はもう、この小さなヤニ臭い、窓際の象徴の虎ノ門の編集室にはいない。
まるで、あの時の観客席にいるかのように。
あの時の熱狂を、思い出すかのように。
『俺も、他の奴らも、もう負けたって思ったよ。スペイン野郎なんてもう、勝ったってツラしてやがったんだ。
でもさ、この時にさ、剛士だけは、諦めてなかったんだよ!』
グッと拳が握られ、その目には、試合の熱気が、一人のボクサーの戦いに心を動かされた、あの時の熱が、浮かんでいた。
『もう、どんどん前に出てさ、何度か良いのを入れたりしちゃってさ!
そしたらやっこさん焦ってきたんだろなぁ、大振りなパンチになってきたんだ!
───そしたら、だよ?
さっきまで殴られっぱなしだった剛士のストレートがさ!
ガーン!!って、やつの顎にめり込んだんだよ!!
あの、ほら!明日のジョーみたいに!クロスカウンターってやつ!!』
ブンブンと、拳を振る。
まるで、その時の試合を、再現するかのように。
如何にその試合が凄かったかを、言葉では語りきれずに、思わず動いてしまったかのように。
『........だからよ、篠山さん。
黙ってられるかい?
じっとしてられるかい?
俺のヒーローが、桐原剛士が、忘れられちまうなんて』
......一転、熱狂の過去から、非情な、冷たい現実へ。
腐っていた、燻っていた自分の心に、もう一度火を点けてくれたヒーローが、世間から忘れ去られてしまう恐怖、哀しみ、悔しさ。
いつも見てきた相棒の、初めて見る顔。
初めて聞いた、心の内。
「平成の視聴率男」ではなく、「藤原義久」の。
ふぅっと息を吐いた。
『.....じゃあ、頑張らないといけないねぇ。
剛士くんが、もう1回チャンピオンになる所、カメラに収めないと、行けないもの』
「全く、最初から素直にそう言えば良いのにさぁ。
本当に、不器用な奴だよ」
目がチカチカするのは、きっと、この狭い部屋の埃のせいだね。
きっと、そうさ。
目薬でも、ささなきゃね。
カチャリ、と。
眼鏡をズラす音が、静かに響いた。




